薬でうつ病やPTSDを予防することは可能か?(18:23)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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ここは結核病棟です この写真が撮影された 1800年代後半には 全人口の7人に1人が 結核で亡くなっていました 原因はまったく不明でした 仮説はありましたが この病気にかかるのは 体質のせい というものでした また 結核は美化された病でした 「労咳」とも呼ばれ 詩人や芸術家や知識人の 病とされました 結核が感受性を高め 創造力を与えると 本気で考える人もいたほどです。
1950年代には 結核が感染力の高い 細菌による感染症と判明し ロマンチックな面は 薄れましたが そのおかげで 治療薬を開発できる 可能性が出てきました その後 新薬イプロニアジドが 発見されました 医師たちが 治療に 大きな期待を持って この薬を投与すると 患者が陽気になりました 患者は より社交的で 活発になったのです ある報告書には 患者が 「廊下で踊っていた」と書いてあります ただ 残念なことに それは必ずしも回復の兆しではなく 多くの人が亡くなっていきました 別の報告書では 患者の「不自然な 多幸感」を報告しています こうして世界初の 抗うつ薬が発見されたのです。
科学の世界では 偶然の発見は珍しくありませんが それには単なる幸運を 超えるものが必要です 発見するには 対象を 認識できなければなりません。
これからする話は 私が神経学者として 実際に経験したことです その経験には「思いがけない幸運」の 正反対である 「必然的な幸運」が伴いました その前に もう少し背景を 説明しましょう。
1950年代以降 幸いなことに 別の薬品が開発されて 結核治療が実現しました 他の国はともかく 少なくともアメリカでは 結核療養所は閉鎖され 今では 結核を恐れる人など ほとんどいないでしょう 一方 1900年代初頭の 感染症の状況と ほぼ同じことが 現在の精神疾患をめぐる 状況にも当てはまります。
私たちの周りに まん延しているのは うつ病や 心的外傷後ストレス障害 PTSDといった気分障害です アメリカでは 成人の4人に1人が 精神疾患を患っているので 仮に自分自身や身内は 患者でなかったとしても 知り合いの中に 公言はしていないけれど 経験がある人がいる 可能性が高いのです 現在うつ病は 世界中で HIV・エイズやマラリア 糖尿病や戦争を超える 障害の主な原因になっています また 1950年代の結核と同様 まだ原因はわかっていません 一度 発症すると慢性化し 生涯 続く上に 治療法も見つかっていません。
2番目に発見された抗うつ薬も 1950年代に偶然見つかったもので 抗ヒスタミン薬として開発され 人を躁状態にする作用がある薬 — イミプラミンです 結核病棟の例でも 抗ヒスタミン薬の例でも ある効果を期待して 設計された薬 例えば 結核治療とか アレルギー反応を抑制する薬が うつ病の治療のような まったく違うことに使えると 認識することが不可欠でした そして このような薬の転用は 実際は かなり難しいのです 医師たちは イプロニアジドが持つ 気分を高揚させる効果を 最初目にした時 そういう風には まったく認識していませんでした 医師はこの薬を 結核治療薬として捉えることに 慣れすぎていたため その効果を単なる副作用 それも有害な副作用として 記載しただけでした。
ご覧の通り 1954年に記録された患者の多くが 過度の多幸感を経験しています そして 医師たちは この多幸感が結核からの回復を 妨げるのではないかという 懸念を抱きました だからイプロニアジドの使用は 患者が重症で 感情が安定している場合にのみ 推奨されたのです もちろん これは抗うつ薬として 使う場合とは正反対です 医師は結核という1つの病気の視点から 薬を見ることに慣れすぎて 他の病気に対する より大きな可能性を見逃していました。
ただ公平に言えば 医師だけのせいとは言えません 「機能的固着」がバイアスとして 影響を与えるのです これは ある物を 習慣的な使用法や機能からしか 捉えられない傾向を指します もう1つの問題は メンタルセットです これは私たちが あらかじめ持っている 問題解決に向けての 構想のようなものです そして これが転用を とても難しくします だからこそ 何でも転用できる 能力を持った人間が テレビドラマの主人公になったんです。
観衆:(笑) [マクガイバー]
イプロニアジドもイミプラミンも その効果は極めて強力で 躁状態になったり 廊下で踊ったりするほどでした これでは 目につくのも当然ですが 何か見落としてきたのでは という疑問が湧いてきます イプロニアジドとイミプラミンは 単なる転用の一例というだけでなく とても重要な 2つの共通点があるのです 1つ目は どちらにも 重大な副作用があります それには肝毒性 20kgを超える体重増加 自殺念慮が挙げられます 2つ目に どちらも セロトニンの量を増やします セロトニンとは 脳の一種の化学信号すなわち 神経伝達物質です この どちらか一方であれば それほど重大では なかったかもしれませんが 2つ揃うと より安全な薬の 開発が必要になりました そしてセロトニンが 有力な手がかりに見えたのです。
そこで セロトニン神経系に より直接 働きかける薬 「選択的セロトニン再取り込み阻害薬」 略して SSRI が開発され 中でも有名なのがプロザックです これは30年前のことですが それ以来 研究の中心は 薬の最適化だけでした SSRI はそれ以前の薬に 比べるとましですが それでも副作用が多く 体重増加や不眠や 自殺念慮があります しかも効き目が現れるまで かなり時間がかかり 4~6週間くらいかかる 患者も多いのです それも効き目がある時の話で こういう薬が効かない患者も たくさんいます。
つまり 2016年現在 まだ どんな気分障害にも有効な 治療法はなく 症状を抑える薬しかありません これは 感染症に対して 抗生物質の代わりに 鎮痛剤を使うようなものです 痛み止めを使うと 症状は良くなりますが 原因である病気の治療には まったく役立ちません 私たちの思考が柔軟になったおかげで イプロニアジドとイミプラミンが このように転用できると 認識することができ それが セロトニン仮説に つながりましたが 皮肉にも 今度はその仮説に 固執するようになったのです これはSSRIの CMで描かれた 脳の信号 セロトニンです 一応 お伝えしますが これはイメージです 科学ではバイアスを取り除くために 二重盲検法による試験を行い 結果について統計的な先入観が 入らないようにします ところがバイアスは 研究対象や研究方法の中に ひそかに紛れ込んできます。
私たちはこれまで30年に渡って セロトニンに注目し 他のものを しばしば無視してきました まだ治療法はありませんが もし うつ病がセロトニンだけの 問題ではなかったら? それが主な要因ですらなかったら? そうなると どれだけ時間や お金や努力を注ぎ込もうとも 治療法にはたどり着かないでしょう。
ここ数年で医師たちが発見したのは 恐らくSSRI以来 初の 本当に新しい抗うつ薬 — カリプソルです この薬は即効性があり 数時間とか1日で効き目が現れ セロトニンには作用しません 別の神経伝達物質である グルタミン酸に作用します しかも これも転用されたものです 元々は外科手術の麻酔薬として 使用されていました ただ 他の薬では すぐに効果が認識されたのに カリプソルが抗うつ薬だと 判明するまでに 20年かかりました 抗うつ薬として この薬は おそらく他の薬より 優れているにも関わらずです たぶんカリプソルが 抗うつ剤として あまりに優れすぎて わかりにくかったのでしょう 効果の兆しである 躁状態が見られなかったのです。
2013年にコロンビア大学で 私は同僚の クリスティン・アン・デニー博士と 抗うつ薬としてのカリプソルの効果を マウスで研究していました カリプソルは半減期が非常に短く 数時間で体内から排出されます まだパイロット試験段階だったので マウスに注射して 1週間経ってから 別の実験をすることで 経費を節約していました。
私がやっていた実験に マウスにストレスを与え うつ病のモデルとして 使うものがありました 最初は まったく効き目が ないようでした だから そこで やめていたかもしれません ただ何年も このうつ病モデルの 実験を続けたところ データが何かおかしいのです どうも腑に落ちませんでした そこで遡って カリプソルを1週間前に 注射されていたかどうかという点から データを再分析しました すると結果は こうなりました 一番左を見てください マウスを新しい環境である この箱に入れると 興奮して 歩き回ったり 周囲を探ったりします ピンクの線は実際にマウスが歩いた 距離を表しています さらに 鉛筆立てに もう1匹マウスを入れて 2匹が交流できるようにします 念のため これもイメージです 普通のマウスなら周囲を探ります 交流もします どうなるか 見てみましょう うつ病モデルとして マウスにストレスを与えると 中央の箱が そうですが 交流はなく 周囲も探りません だいたい後ろの隅 カップの後ろに隠れています ところがカリプソルを 1回注射された右のマウスは 周囲を探り 交流しました まるでストレスなど 与えられなかったように見えますが それは ありえません。
さて ここでやめてもよかったのですが クリスティンも 以前から カリプソルを麻酔として使っていて 数年前から気づいていました この薬には 細胞や ある行動に対して 奇妙な効果があって しかも投与から数週間 程度 効果が続くらしいのです 私たちは ありえない話ではないとは 思いましたが かなり疑っていました。
そこで確証がない時に 科学者がすること つまり 再実験したのです 覚えているのは 私が動物実験室で ネズミを箱から箱へと移しながら 実験し クリスティンは 膝の上にパソコンを置いて ネズミの視界に入らないように 床に座りながら リアルタイムでデータを 分析していた様子です それから 実験室で 本当はダメなんですが 2人で叫んだのを覚えています 実験がうまくいったのです 対象のネズミは — 言い方は色々あるでしょうが ストレスから守られているというか 不自然な多幸感を示していて 私たちはとても興奮しました。
ただ うまくいき過ぎに思えて 疑念がわいてきたので 再実験したのです その後 PTSDモデルで実験し ストレス・ホルモンを投与する 生理学的モデルでも試しました 授業でも学生に実験させ 地球の裏側 フランスの協力者にも 実験してもらいました そして実験の度に 同じ結果が確認できたのです どうもカリプソルを1度注射すると 何週間もストレスから 守られるようでした。
結果を公表したのは つい1年前ですが それ以降 色々な研究施設が それぞれ効果を確認しています さて うつ病の原因は不明ですが わかっているのは 症例の80%が ストレスがきっかけで 発症していることです うつ病とPTSDは別の病気ですが 両者に共通するのは この点です 激しい戦闘や自然災害 地域社会での暴力や性的暴行といった 心的外傷性ストレスは PTSDの原因になりますが ストレスに晒された人が全員 気分障害を発症するとは限りません ストレスを経験しても 立ち直って回復し うつ病やPTSDを発症しない力を 「ストレス耐性」と呼びますが これには個人差があります ストレス耐性とは 受動的特性のようなもので 気分障害の感受性因子や 危険因子が欠如した状態だと 私たちは考えてきましたが もしも身に付けられる ものだとしたら? おそらく鎧をつけるように ストレス耐性を 強化できるかもしれません。
私たちが偶然発見したのは ストレス耐性を強める 初の薬でした 先ほど お話しした通り この薬を少し与えるだけで 効果は何週間も 持続しますが これは抗うつ薬には 見られないことです。
一方 これは免疫ワクチンの効果に 少し似ています 免疫ワクチンでは 注射を打ってから 何週間、何か月、何年も経って 実際に細菌に晒された時 体を守るのはワクチンではありません 自分の免疫システムが 抵抗力や耐性を高め 細菌を撃退するので 感染しなくなるのです これは 普通の治療法とは だいぶ違うでしょう? 普通の治療法では 細菌に晒され 感染し 病気になると 治療するために 例えば抗生物質を飲みますが そういう薬は実際に細菌を 殺す働きがあります また 先ほど話した 苦痛緩和剤のような 症状を抑えるものを 飲むことになりますが その薬は 原因である 感染症は治療せず 気分が良いのは 薬が効いている間だけなので 飲み続ける必要があります うつ病やPTSDの場合 ストレスに晒され 起きるのですが 苦痛緩和ケアだけが 唯一の治療法です 抗うつ薬は症状を抑えるだけで 病気が続く限り 基本的にはその薬を 飲み続ける必要があり その期間は一生に及ぶ 場合も多いのです。
私たちは この耐性強化薬 カリプソルを 「パラワクチン」つまり ワクチンに似たものと呼んでいます なぜなら これは ストレスから身を守ってくれる 可能性があるように見え マウスが うつ病やPTSDを 発症するのを 防いでくれている かもしれないからです また 抗うつ薬が全部 パラワクチンになるわけではありません プロザックも試しましたが 効果は見られませんでした。
もし実験結果が人間にも 当てはまるとすれば ストレスが原因となる うつ病やPTSDといった疾患の リスクがある人々を 守れるかもしれません 緊急救急隊員や消防士 難民、受刑者と看守、兵士など あらゆる人々です。
こういった病気が どのくらい広がっているかというと 2010年の世界の疾病負荷は 推定2.5兆ドルでしたが これらは慢性の病気なので コストは積み重なり わずか15年後には 6兆ドルにも上ると 予想されています。
先程お話した通り 私たちにバイアスがあるせいで 薬の転用が難しい場合があります 実は カリプソルは別名 ケタミンといいます さらに もう1つの名前は スペシャルK — クラブドラッグで麻薬です また 今でも世界中で麻酔薬として 子供にも戦場でも使われています 多くの新興国で この薬が使われているのは 呼吸を抑制しないという 利点があるからです 世界保健機関の必須医薬品リストにも 掲載されています
最初からパラワクチンとして ケタミンを発見していたら 開発は容易だったでしょうが 凝り固まった従来の思考法から 逃れる必要があるのが現状です 幸い これは私たちが発見した 予防的でパラワクチンの効果を持つ 唯一の化合物というわけでは ありませんが 発見した他の薬 あるいは化合物は 新たに発見されたものばかりで 人に投与できるようになるとしても それ以前に FDAの認可プロセスを 一通り経なければなりません 完了までには数年かかるでしょう もっと早く手に入れたければ 既にFDAの認可を得た ケタミンがあります ジェネリック医薬品があって 広く利用可能です つまり わずかな経費と時間で 製造できます。
ただ 実際には 機能的固着や メンタルセット以上に 薬の転用を妨げている ものがあります 政策です 薬の特許が切れて ジェネリックになり独占できなくなると そういう薬を製造する 積極的な動機は薄れます 儲からないからです これはケタミンに限らず どの薬にも当てはまります それでも 薬を使って精神疾患を 治療するのではなく 予防するという考え方自体は 精神医学では まったく新しいものです。
この先 20年後、50年後、100年後には 現在のうつ病やPTSDにまつわる状況を 私たちが結核療養所を振り返るように 過去の遺物として 振り返れるようになるでしょう これは蔓延する精神障害を なくせる兆しかもしれません。
ただ 科学に詳しい ある偉大な人は こう言いました 「確実と思うのは愚者 — 推測し続けるのが賢者」 [マクガイバー]
ありがとう。
観衆:(拍手)
より優れた医薬品の開発は、偶然でありながら、革新的な発見によって道が切り開かれてきました。科学がどう進歩するかを巧みに語りながら、神経学者レベッカ・ブラックマンが、広がりつつあるうつ病やPTSDといった精神疾患を解決する可能性を持つ、偶然発見された革新的な治療法について話します。さらに、その予想を超えた、物議をかもす展開をお聞きください。