現代社会を縛る「でぶ恐怖症」への挑戦状(12:20)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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今日私は 小さくも強大な威力を持つ ある言葉についてお話ししたいと思います。そうなることを誰もが 何が何でも避けようとする言葉です。この恐怖のおかげで栄える、何十億ドル規模の産業が幾つもあり この言葉に 紛れもなく 当てはまる人々は、それを取り巻く 容赦ない荒波を 乗り越えていくしかありません。
お気づきの方がいるかわかりませんが 私は「でぶ」です。こっそり陰口を言われるような 小太りさんではなく、ポッチャリ 丸っこいなど 無害そうな言葉や、豊満・ムッチリといったもっと艶のある表現さえ当てはまりません。
オブラートに包むのはやめましょうか。私はマジックで太く濃く 書いたような「でぶ」です。私はまさに「部屋の中のゾウ(皆が避けて通る話)」なのです。私がステージに出てきたとき こんなことを思っていた方いませんか。「これは爆笑モノのトークになるぞ。太った人は面白いって 相場が決まってるからな」
(笑)
「この人の自信はどこから出てくるの?」 と思った方もいるでしょう。太ってて自信のある女性なんて まず ありえないですからね。会場の中のオシャレさんたちは 私の着ているワンピが 本当によく似合って素敵だわって 思っているかもしれません。
(歓声)
ありがとう! 逆に こんなことを 考えている人もいるかも 「うーん 黒の方がずっと 着やせしただろうになぁ」
(笑)
次のような疑問を無意識にでも 持ったかもしれません。糖尿病持ちじゃないか、恋人はいるのか、7時以降に糖質を摂ったりするのか。
(笑)
自分も昨晩7時過ぎてから 糖質を食べちゃったなぁとか ジム通いを再開しなきゃと 思った人もいるかも。
こういった偏見は 目に見えない脅威となります。個人や集団に 向けられたりもすれば 自分自身に向けられることもあります。このような考え方は 「でぶ恐怖症」として知られています。
社会的抑圧なら何でもそうですが、でぶ恐怖症というものは 資本主義・家父長制・人種差別などの 複雑な構造に深く根ざしているので、それに対して疑問を呈することはおろか 存在に気づくことさえ難しいものです。現代社会には 太っていることが 人格否定につながる文化が根付いています。怠慢で、強欲で、不健康で、無責任で、倫理的にいかがわしい人間だと見られます。一方 痩せていることは 普遍的に良いものと見なされやすく、責任感が強い、成功している、食欲や体や生活の 自己管理ができているなどです。こういった考え方は何度も何度も メディアや 公衆衛生制度や 病院や 毎日の会話や 私たち自身の態度に表れます。太っている人が差別されるのは 本人が悪いのだとさえ思われます。嫌なら痩せればいいだけだろう というわけです。簡単だろうってね。この「アンチでぶ」な偏見が 自分自身や他人に対する価値観に あまりにもガッチリと組み込まれ 浸透してしまっているため サイズの大きな人々を なぜ そこまで軽蔑するのかとか この蔑みの気持ちはどこから来るのか 疑問に思うことがまずありません。
でも 疑問視されるべきです。この極端な外見重視志向は 例外なく誰にでも 影響するものだからです。何をもって「可」とするかについて 誰かが適当に決めた基準に沿わなければ 基本的な人間性が否定される社会って 生きにくいじゃないですか。
さて、私が6歳のとき 家のガレージで姉が小さい子を対象に バレエを教えていました。私はほとんどの子よりも 頭ひとつ背が高く、ひと回り太っていました。初めての発表会をやるとなったとき、私は可愛いピンクの チュチュが着れると大興奮でした。舞台の上で輝くつもり満々でした。ストレッチ素材とチュールで作った衣装に 他の子はすんなり入る中で 私の入るチュチュは 1つもありませんでした。発表会から外されるなんて 絶対に嫌だと思った私は、みんなに聞こえる声で 母に向かって こう言いました。「私にチュチュ(2−2)は要らない 『4−4』が欲しいの!」
(笑)
お母さん ありがとう。
(拍手)
当時 自覚はしていませんでしたが、「4−4」を誇らしく身につけて自分の居場所を主張することが、急進的な「でぶ活動家」としての 第一歩だったのです。
「自分の体を愛そう」という闘いが 始まったこの日から、自己受容へと向かう輝かしい道のりを 軽やかにスキップで進んできたかというと そうとは言いません。全く程遠いものでした。大多数がノーマルだと考える基準を 外れて生きていくのは 歯がゆく孤独な道になりえるのだと 間もなく学びました。この20年、こうしたメッセージを解きほぐすために努めてきましたが かなり波乱万丈な20年でした。みんなの前で笑われたり、通りすがりの車から暴言が飛んできたり、妄想性障害だと 言われたこともありました。知らない人が私を見て 微笑むこともあります。私のような人が 上機嫌で意気揚々と歩くのは どれだけに大変か 分かっているのでしょう。
(歓声)
ありがとうございます。この間ずっと、負けん気な6歳の頃の私が残っていてくれて、おかげで 決して悪びれない 太った人間として ここに立つことができました。自分が持つ この体で 世界をどう渡り歩くべきか 世間一般の見方に 迎合することを拒否する人間です。
(拍手)
私だけじゃありません。私のような考え方をする人は 国を問わず たくさん存在します。自分が太っていることは 今も今後も変わらないという事実を ただ消極的に受け入れるのではなく、今現在の肉体のままで 活躍することを自ら選ぶ人々、自分の強みに対する自尊心を持ち、一見 制約であるように思えることも 否定せず 活用できる人々。時代遅れなBMI数値よりも もっとずっと総合的な価値観で 健康を測る人々。健全な心や 自尊心や 自分の肉体の中でどう感じるかなどを 自身の総合的な幸せに欠かせない 大事な側面であると考える人々。太った体で生きていくことが 何かの障壁になるなどとは 絶対に信じようとしない人々です。
医者や 学者や ブロガーが、この複雑なトピックの様々な面について書いたものは数え切れないほどあります。自分の体や美を取り戻した ファッショニスタならぬ「太っちょニスタ」は、「でぶキニ」や ヘソ出しトップスを着て 太った人なら誰もが隠すように言われる 肉体を露わにしています。マラソンに出たり、ヨガを教えたり、キックボクシングをやる「でぶアスリート」も 全員が 現状に対して中指を 思い切り立てながら活動しているのです。そんな人々から学んだのは、急進的なボディ・ポリティックスは 体を蔑む文化への「解毒剤」だということです。
ただ 断っておきますが、自分の体を変えたい人に 変えるなとは言いません。自分を取り戻すことは 自己愛の中でも 最も美しい行為で、限りなく多様な形で見られます。髪型、タトゥー、体型改造、ホルモン、外科手術。もちろん ダイエットだってその1つです。単純な話です。自分の体をどうするのが最適かは 自分で決めればいい。
私の社会運動のやり方は、私たち太っちょには似合わないような ありとあらゆる活動をすることですが、種類は たくさんあります。私は他の人たちを誘って アートを作っています。ほとんどの活動に共通するのは 大きな体の人々は存在しないと 思われがちな場所で居場所を主張することです。ファッションショーに クラブでのダンスショーケースに 公営スイミングプールに 一流のダンス公演まで様々です。自分たちの居場所を 集団で主張することは 力強い芸術的メッセージであるだけでなく 社会を構築する方法としても 急進的なものです。格好の例が「アクアポルコ」です。
(笑)
シドニーで友達数人を集めて作った— 太った女性のシンクロチームです。強気な太った女性の集団が 花柄の水泳キャップと水着をまとい 水の上に伸び伸びと足を放り出す姿を 見せることの威力は 過小評価するべきではありません。
(笑)
私はこれまでの道のりで 太った体には 政治性が染み付いているのだと学びました。悪びれない太った体は 人々の常識を覆し得るのです。Force Majeureという一流ダンスカンパニーの演出家、ケイト・チャンピオンに、太ったダンサーだけを集めた作品の 芸術協力を頼まれたときは もう文字通り 飛びつきました。文字通りに、ですよ。この作品『Nothing to Lose』に 参加した巨体のダンサーたちは、自分たちの人生経験を元に 私たちの現実を反映する 多彩でリアルな作品を生み出しました。これ以上ないってくらいに バレエからかけ離れた作品でした。
ここまで名のあるダンスカンパニーが 太った人のダンス作品を作ること自体が、無難な言い方をしても 物議の種でした。メインストリームのダンス界では 世界中どこを見ても 前例のないことだったからです。
世間は懐疑的でした。「『太ったダンサー』って 一体どういうこと? Mサイズとか Lサイズ的な 太さのことを言っているの? どこでダンスを習ったというのだろう? 公演を踊り切るだけの 体力はあるわけ?」
しかし 世間の否定的な意見に反し シドニー・フェスティバルでは 満員御礼の大ヒットとなりました。熱烈なレビューをいただいたり、ツアー公演をしたり 受賞したり 27以上の言語で 論評が書かれたりもしました。こうした目を見張るようなキャストの写真が 世界の人々の目に触れました。あらゆる体型の人々から もう数え切れないくらいの声が届きました。この舞台を観て人生が変わったとか、自分や他人の体に対する意識を 見直すきっかけになったとか、自分自身の偏見に向き合う気に させられたなどの声です。
しかし 人の神経を逆なでするような作品に 誹謗中傷はつきものです。肥満を過大に称えていると評されたり、悪質な殺人予告や中傷を 受けたこともありました。太った人々の体や人生を中心に据えて、話を聞く価値のある立派な人間として 扱う作品を作ったがためにです。「肥満という社会問題にとってのISIS」 とまで言われたこともあります。
(笑)
笑ってしまうほど バカげたコメントですが 同時に世間の狼狽が表れています。肥満への恐怖心が引き起こし得る 極度の恐怖です。ダイエット業界はまさに この恐怖を食い物にしていて、だから ここまでたくさんの人々が 自分の体と折り合いをつけられないのです。ビフォーアフターの変身後の姿になるまで 自分の人生を真に生きられないのです。真の「部屋の中のゾウ」は「でぶ恐怖症」なのですから。でぶ活動家はこの恐怖心に 屈服することを拒否する手段として、強固な意志と 全ての人間への 敬意を持とうと訴えています。私たちなら なかなか多様性を 歓迎できない社会から 肉体の在り方には無数のパターンがあることを 肯定できる社会に変えていけるはずです。
ありがとうございました。
(拍手)
過剰なまでの痩せ志向に支配され、太ることへの恐怖心が顕著である現代社会で、ケリー・ジーン・ドリンクウォーターはアートを介した急進的なボディ・ポリティックスに携わっています。ファッションショーからシドニー・フェスティバルまで、それまでは「でぶ」な人が立ち入ることは考えられもしなかったような場に敢えて太った体を登場させることで、世間の認識に真っ向から挑むというものです。「悪びれない太った体は、人々の常識を覆し得るのです」という言葉どおり、このトークは、私たち一人一人が自らが持つ偏見と向き合い、考え方を変えるきっかけとなるかもしれません。