物事の「良し悪し」は思い込みに過ぎない(13:37)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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昔の寓話に 馬を失った農民の話があります 隣人がやって来て言います 「ああ 残念だったね」 すると農民は言います 「良いか悪いかは分からない」 数日が経って その馬が 7頭の野生の馬を連れて戻ってきます 隣人がやって来て言います 「良かったじゃないか!」 農民は肩をすくめて言います 「良いか悪いかは分からない」 翌日 農民の息子が 野生の馬に乗って出かけると 馬から落ちて 脚を折ってしまいます 隣人がやって来て言います 「ああ 運が悪かったね」 すると農民は言います 「良いか悪いかは分からない」 やがて 役人がやって来て 家々を回り 軍隊に招集できる若者を 探して回ります 農民の息子の脚が折れているのを見て 役人は通り過ぎていきます 隣人がやって来て言います 「運が良かったなあ!」 すると農民は言います 「良いか悪いかは分からない」
この話を初めて聞いたのは 20年前のことです それ以来 100回は 自分に言い聞かせてきました 望んだ仕事に就けなかった時も 「良いか悪いかは分からない」 望んだ仕事に就けた時も 「良いか悪いかは分からない」 このお話は 物事の良い側面を見よう という話でもなければ 事態を静観しよう という話でもありません 教訓は 往々にして 状況に勝手な判断でレッテルを貼り 具体的な意味を 持たせてしまいがちだということです でも現実は ずっと流動的です 物事の良し悪しは しばしば 思い込みに過ぎないのです この寓話が私に 警告してくれたのは 物事の良し悪しに しがみついてしまうと 状況を真に見極められなくなるということ しがみつく手を緩めて進めば もっと多くを学べますし 開かれた考えで好奇心を持って 進むことができます
でも 7年前 初めての子供を授かった時 私はこの教訓を すっかり忘れていました 何が良いことかを知っていると 心から信じ切っていました 子供を持つことに関しては 「スーパー赤ちゃん」を産むのが 良いことだと思っていました 欠点がひとつもない 超健康優良児が マントをまとって ヒーローみたいに 将来へ飛んでいくイメージです 我が子の身体機能が素晴らしく 超賢い赤ちゃんになるように DHAのサプリを飲んだり オーガニック食品ばかりを食べ 分娩時に薬が要らないように 運動をしたり 他にも色々なことをしました そうすれば 単なる「良い」赤ちゃんどころか 「最高の」赤ちゃんを 産めると思ったのです
娘のフィオナが生まれた時 体重は 4ポンド12オンス つまり 2,150グラムでした 小児科医の先生によると これほどに小さい理由は 2つ考えられるということでした 医師はこう言ったのです 「種が悪かったか 土が悪かったかですね」 出産直後で疲れていても 医師の論理は分かりました 私の新生児は その医師によると 「悪い苗」だと言うのです 最終的に 娘が非常にまれな 染色体異常を患っていると知りました ウォルフ・ヒルシュホーン症候群です 娘の4番染色体には 欠失があるのです それでも 娘の健康状態は良く― 生きていましたし 新生児のきれいな肌をして くるくる動く宝石のような 黒い瞳をしていました 一方で この症候群の患者には 大幅な発達の遅れと 障がいがあることも分かりました 歩いたり話したりできない人もいます
あのお話の農民のような落ち着きは 私にはありませんでした 状況は間違いなく 「悪い」ように思えました でも ここでこそ あの寓話が生きるのです 娘が診断を受けてから何週間も 私は失意の底に沈んでおり すべてが悲劇的だという 考えに閉じこもっていました ありがたいことに 現実はずっと流動的です 学ぶことはもっとあったのです この不可思議な我が子を よりよく知るにつれて 固く閉ざされた悲劇の物語は 開き始めました 実は娘はレゲエ音楽が好きで 夫が娘の小さな身体を リズムに合わせて揺らすと にっこり笑うのです 宝石のような黒い瞳は タホ湖のような美しく深い青色になり その瞳で他の人の目を じっと見つめたがりました 5か月でも他の赤ちゃんのように 首は据わりませんでしたが じっと深くアイコンタクトを とることはできました ある友人は「こんなに注意深い 赤ちゃんを見たことない」と言いました
静かに注意を払う才能があると 私が思う一方で フィオナのために うちに通うセラピストには 神経学的に鈍感な子供に 見えたようです このセラピストは フィオナがまだ寝返りを打てないことに 特にがっかりしていました 神経を起こしてやらないと いけないと言われました ある日 彼女は 娘の身体の上にかがんで 小さな両肩を持って 「起きて!起きて!」 と揺らしました 1歳になるまで 何人かのセラピストを呼びましたが どの人も娘の何が「悪い」かに 注目していました フィオナが右手で ぶら下がった羊のぬいぐるみを パンチし始めたのを見て 私は喜びましたが セラピストは左手を 心配していました フィオナは左手を あまり使わない傾向にあり 指を重ね合わせていました セラピストは 「ハンドスプリントが必要だ 左手の指の動きを 阻害することになったとしても 少なくとも普通に 見えるようになるはずだ」と言いました
この1年間で いくつかのことに気づきました その1「昔の寓話はさておき 悪いセラピストに当たってしまった」
(笑)
その2「私には選択肢がある」 『マトリックス』で赤の錠剤か 青の錠剤かを選べるように 娘が普通と違うことを 「悪い」と考えることもできました 「まだ分からない」とセラピストに 言ってもらうことも目指せたでしょう セラピストは子供について こう言えると安心します 「『発達遅れ』なのか『自閉症』か 『普通と違う』のか まだ分からない」 できるだけ多くの違いを 打ち消してしまうような道こそが 「良い」道だと 信じることもできました もちろん これは 破滅的な道かもしれません 細胞レベルで言うと娘は 非常にまれな設計図を持っています 他の人とは違うように できているのです まれな人生を送ることに なるのでしょう そこで別の選択として 神経学的な違いや 発達の遅れや障がいを 「悪い」ものだとする考えを手放して 五体満足な生活の方がいいという考えも 手放すことにしました 人生の良し悪しを決めるものについての 文化的な偏見を捨てて 娘の人生が進んでいくのを 開かれた考えと好奇心を持って ただ見守るのです
ある午後 娘は仰向けになって カーペットの上で 背中を反らせて 口の端から舌を突き出して 身体をよじって 腹ばいになることができました それから 身体を傾けて 仰向けになると もう一度 同じ動きを繰り返しました コーヒーテーブルの下で 5キロの身体を転がしたのです 最初 娘が挟まって 動けないのかと思いましたが 娘がずっと何かを見ていて それに手を伸ばしているのに気づきました 黒い電気コードでした この時 娘は1歳でした 同じ歳の他の赤ちゃんは 立ち始めたり よちよち歩きの子もいるでしょう うちの娘の状況が 「悪い」と思う人もいるでしょう 寝返りしか打てない1歳児だと そんなのは構いません うちの子は覚えたばかりの 動きを楽しんでいるのです 私は嬉しくなりました とはいっても 赤ちゃんが 電気コードを引っ張っているのですから お分かりでしょうが 良いか悪いかは分かりませんね
(笑)
08:04 人生の良し悪しを 決めるものについて しがみついていた考えを捨てると 娘の人生が進んでいくのを あるがままに眺めることができました それは美しく 複雑で 喜ばしく 困難で つまり 人間の経験の ひとつの形であったのです最終的に 私たち家族は アメリカの別の州に移り もっと良いセラピストに 巡り会えました 彼らはうちの子の 悪いところばかりに注目せず 普通と違うことを直すべき問題だとは 捉えませんでした 娘の限界を認識はしましたが 娘の長所も見てくれました あるがままの娘を 認めてくれたのです 彼らの目標はフィオナを できるだけ「普通」に近づけることではなく できるだけ自立できるように 手助けすることでした それがなんであろうと 娘が能力を伸ばせるように
しかし 世の中の文化は障がいに対し これほど開かれた考えを持ってはいません 生まれつきの違いを 「先天性欠陥」と言い まるで人間を工場のラインで 作られた製品のように呼びます 同僚の赤ちゃんが ダウン症だと分かると 哀れむような目で見ます 自殺を図る車椅子使用者を描いた 人気映画を褒めそやします 実際の車椅子使用者が ステレオタイプは不適切で 誹謗中傷だと言っているにも かかわらずです 時には 医療施設が生きるに値しない命を 決めることもあります アミリア・リヴェラのケースが まさにそうです 娘と同じ症候群を患っていました 2012年にアメリカの 有名な小児病院が 当初 アミリアの救命のための 腎臓移植を拒否しました というのも その病院の書類によると 彼女は「知的障がい者」だからだそうです 障がいは悪いものだとする考えは こういう形で 社会に表れます
でも驚くほどに有害な 反対の言説もあります 知的障がい者は 「善」だとする物語です 私たちに何か素晴らしいことを 教えてくれるし 天使のように可憐で 常に優しいからと言うのです 健常者による障がい者差別の 物語を聞いたことがあるでしょう ダウン症の男の子が 「神様の特別な子供」だとか 歩行器と発声器を使う女の子を 小さな天使と呼ぶようなものです こういった物語が 娘の生活に入ってくるのは 特にクリスマスの時季です 中には 出し物のために 娘に天使の羽根と 光輪をつけてはどうかと考えて 喜ぶ人がいるのです この物語は障がい者が 人間として複雑な経験をしないものと 思い込んで語られています 確かに 特に赤ちゃんの時は 娘が天使のように可憐に 見えることもありましたが 娘は他の子がするような いたずらをする子供に成長しました 例えば4歳の時には 2歳の妹を押したこともあります うちの娘も他の子と同じように 人をうんざりさせたっていいのです
人に「悲劇的」だとか 「天使のよう」だとか 良し悪しのレッテルを貼ることは 人間性を奪うことです 人間であることの苦労や 複雑さのみならず 権利や尊厳をも奪うのです 娘は私や皆さんに 何かを教えてくれるために 存在するのではありません でも私は確かに教わりました その1「10キロの子供が 1日あたりに食べられる― モッツァレラチーズスティックの量」 お知らせしておくと 5本でした その2「人生の良し悪しを決めるものが 何であるかという 私の文化的な思い込みに 疑問を付するという贈り物」
もしも6年前に 娘がiPadのアプリで 意思疎通するようになると聞かされたら 残念だと思ったかもしれません でも 初めてフィオナにiPadを 渡した日のことを今も覚えています 1,000語の単語が 小さなアイコンで示されている アプリを搭載したものです 私は大胆な気持ちで 希望に溢れていました セラピストの中には 私の目標が高すぎる― そんなに小さなボタンは押せないと 言う人もいたのですが 娘がだんだんと使い方を覚えて 小さな親指を曲げて 好きな言葉のボタンを押す様子を 驚きと共に見ていました 「レゲエ」とか「チーズ」といった言葉や まだ発音できない言葉も たくさん気に入ったようでした また それほど面白くはないですが 前置詞も教えました 「of(の)」や「on(上で)」や 「in(中の)」などです 数週間かけて取り組みました それから思い出すのは 多くの親戚と 食卓を囲んでいると 何の脈絡もなく フィオナがiPadアプリを使って 言ったのです 「トイレの中のウンチ」
(笑)
良いか悪いかは分かりません
(笑)
うちの子は人間だというだけです それは大きな意味のあることです
ありがとうございました
(拍手)
ヘザー・ラニエの娘フィオナは、ウォルフ・ヒルシュホーン症候群という遺伝子異常による先天性疾患を患っているため、発達に遅れがあります。でも彼女は、悲劇のヒロインだとか、天使のように可憐だとか、似たような状況の子供たちに向けられるステレオタイプには当てはまりません。まれな症状の女の子を育てるという美しくも複雑で、喜びに溢れていながらも困難な道のりを語るこのトークで、ラニエは人生にとって何が「良い」もので、何が「悪い」ものかという私たちの思い込みに疑問を呈します。普通ではないと思われる状況を克服することに囚われるのではなく、あるがままの人生をそのまま受け入れるべきだ、と彼女は呼びかけます。