バーニング・マンでアートが芽吹く理由(10:22)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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それは夢のようです 想像してください 何もない砂漠で 骸骨が並んだ巨大な輪に出くわします 根元には重いロープが何本かあり それを引くようにと声をかけられます 人が集まっている所に加わって 全身の力を込めて 交互にロープを引きます やがて 輪が回転してうなり始め 光の点滅が始まり 観衆から歓声が上がります こうして ピーター・ハドソンの 『ケアロン』という 世界最大級のゾエトロープに あなたが命を与えたのです これは市場で扱われるアートからは 最もかけ離れたものです
(笑)
巨大です 危険です 動かすには12人ほどの力が必要で ソファーの用意もありません
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とても美しく作られていますが まったく実用性はありません そして素敵なものです
『ケアロン』のような作品が 業界誌の見出しを飾ることはないでしょう 最近では 作品の売買の話題が 作品そのものよりも注目を集めます 昨年 ジャン=ミシェル・バスキアの作品に 1.1億ドルという アメリカの芸術家の作品として 最も高い値段が付きました レオナルド・ダビンチの絵は 4.5億ドルで売れて オークションの最高入札額を更新しました もちろん 彼らは偉大で重要な芸術家です それでも これらの作品を見たり そんな見出しを目にしたら 自分に問い直さなければなりません その作品を気にするのは 自分の心が動かされるからなのか それとも それが高価だから 心を動かされて然るべきと思うからなのか 今の世の中では この2つを分けることは困難です でも 試したらどうでしょう アートの価値を再定義して 値札ではなく 芸術家と観衆との間に生じる 感情のつながりや 社会にもたらすメリットや 芸術家本人が得る充足感で 評価したらどうでしょう
ここは ネバダ州のブラックロック砂漠 ニューヨークやロンドンや香港の画廊とは 遥かにかけ離れた場所です 30年間ほどに渡り ここで催されるバーニング・マンを 作り上げてきた活動が まさにそういう試みです 当初の無秩序な時期を経て バーニング・マンは成熟しました こんにちでは 集団で夢を見る場とでも いうべきものになりました 年間を通じたコミュニティで 毎年8月になると 1週間の間 7万人がハイテク機器の電源を切って 砂漠への巡礼に出ます 日常生活の枠を外れて 消費社会とは異なる社会を作るのです 厳しい条件が待ち受けています 赤の他人にハグをされるし 毎年のように 去年の方がよかったと 悪態をつくでしょう とはいえ バカバカしくて 解放的で 活気にあふれた場です ここで盛んに芽吹くものの一つが アートなのです
写真は 昨年砂漠を訪れた 兄と私です ご覧のように 仕事に没頭中です
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私はここ何年か バーニング・マンのアートを調査して スミソニアンのレンウィック・ギャラリーで 行う展覧会の準備をしてきました いちばん魅力を感じた点は 作品の質ではなく― それも かなりのものですが― どうして 人々が何度も繰り返し 砂漠に出かけて ますますデジタル化が進む この時代に 手を汚して作品を作るのかということです どうやら 人として不可欠な何かに つながっているようなのです バーニング・マンの会場全体を 巨大でインタラクティブな 一つのアート作品と考えることもできます それぞれの参加者が 作品を動かしているのです
この作品を 商業アートの世界と 隔てるものの一つは 作品を作った人は 誰でも見せることができる点です 最近では300点ほどのアート作品と 無数のアート活動が プラヤに集まります 作品は どれひとつとして そこでは売られていません その週が終わったら 作品は燃やしてしまうか 芸術家が曳いて帰って 保管しなければなりません 愛情による多大な労力です
確かにバーニング・マンの美学があり ケイト・ローデンブッシュや マイケル・クリスチャンのような先駆者が 作り上げたものですが これらの作品を際立たせる特徴の大半は 砂漠そのものに端を発しています 作品が成り立つには 現地まで運べる可搬性があること 風雨や参加者に耐えられる 十分に頑丈なものであること 日中でも 闇の中でも目立つこと そして 解釈抜きで 人を惹きつける力が必要です 巨大かつ心の琴線に触れる作品との 出会いは まるで夢のようです 人の目は大きさに欺かれがちです 芸術家のスタジオでは巨大に見えても プラヤでは目立たないこともあります 空間には ほぼ制約がないので 芸術家は 作れる限り最大の物を 構想することができます 気が遠くなりそうなほど 優雅な作品もあれば ここまで持ち込んだという大胆な試みに 圧倒される作品もあります
バーニング・マンの不遜なユーモアは レベッカ・ウェイツの 『チャーチ・トラップ』によく表れています 田舎の小さな教会を ネズミ捕りよろしく木材の梁の上に組み立て 参加者が信仰を求めて 中に入るように誘いかける作品です 2013年に制作されて 燃やされました またクリストファー・シャートの 『ファーマメント』は 荘厳さを追求したものです クラシック音楽に合わせて 光が踊る天蓋の下で 参加者は 大音響の熱狂的なビートや 周囲の混沌からひととき 逃れるのです
夜には たくさんの奇抜な乗り物が 街を駆け回ります プラヤを走行できるのは こんな車両だけなのです 「必要は発明の母」にならえば ここでは「バカバカしさが発明の父」です
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作品から作品へと 縦横無尽に走る車両は 光と音とで脈拍を打って動く 奇妙で気まぐれな 公共交通システムのようです 芸術家が批評家や収集家を 気にかけるのを止めて 自分のために作品を作り始めると こんな 驚くべきおもちゃが 生まれるのです
驚いたことに 大概の人は 最初にバーニング・マンに来た時には こういう物の作り方は 知らないのです 作品を実現させているのは 活発で協働精神あふれる制作コミュニティです ファイブ・トン・クレーンなどの集団が スキルを共有して 一人でなら試みもしないような 複雑な企画が立ち上がります 今にも飛び立ちそうな ゴシック風の宇宙船もあれば 童話に登場するような 巨大なブーツの形をした家もあります この家の本棚には 芸術家が作った本が並び オーブンの中には ブラックバードのパイ― よじ登れる豆の木もあります
技術が高い人も そうでない人もみんな歓迎されます 実際のところ ここでの作品に 魅力や新規性があるのは 制作者の多くが 芸術家ではないからです 科学者や技術者や 溶接工やゴミ収集人だからこそ 生まれる作品なのです 彼らの作品は 分野の境界を飛び越えます ゲルのデザインから作り出された オリガミキノコの森もあれば まわりに集まる人の声や周囲のバイオリズムに 反応する樹木もあります この樹の葉には17万5千個ものLEDが 埋め込まれています
美術館で 一般の訪問者が ひとつの作品に費やす時間は30秒未満です よく目にするのは 情報を求めて 解説文から解説文へとさまよう人たち― 芸術作品にまつわる背景が全て 80語の文章に収まるとでも 思っているのでしょうか しかし 砂漠には 監視人はいません 作品を説明する表示板もなく ありのままの好奇心だけが あるのです 地平のかなたに作品を見つけたら 乗り物でそこを目指すのです 到着したら 周りを歩き回って 実際に触れて 試します 登れるぐらい頑丈だろうか 身体に刺さりはしないだろうか
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アートはインタラクションが 拡張される場となり その展示自体は 限られた期間しか存在しなくても その体験はずっと心に残ります
バーニング・マンの中でも それを体現しているのは『テンプル』です 2000年に デビッド・ベストと ジャック・ヘイは最初のテンプルを建てました イベント直前にチームの一員が 事故で亡くなるという悲劇に見舞われたので その建物は 急ごしらえの記念碑となりました それ自体が 崇高な建築作品ですが そのシェル構造は やがて圧倒的な厚みのあるメッセージに 埋もれて姿を消していきます 「あなたがいなくて寂しい」 「どうか私を許して」 「折れたクレヨンだってまだ描ける」 深遠な言葉で綴られるのは 人間の最も普遍的な経験― 死別の経験です この場所で人々が感じる思いは 圧倒的で 言葉にできないものです やがてイベントの最終日の夜に 建物には火が放たれます
毎年 何かに突き動かされて さまざまな職業の人が 世界中から集まり 砂漠に出かけて アートを作ります そこにはお金は関係しません 作品は洗練されたものばかりではなく 実現しない作品もあります 良いものばかりでもありませんが これほど真正で 楽観性のあるものは 他の場所ではなかなか目にしません この皮肉に満ちた時代にあっても まだ想像力をここまで拡げられるのだと 知ると力づけられます つながりを求めたいときには 一緒になって 塵の中に教会を建てるのだと知ると 心が安らぎます
値段のことは忘れましょう 巨匠のことは忘れましょう これがアートでないなら 現代のアートは 何のためにあるというのでしょう?
ありがとうございました
(拍手)
工芸キュレーターのノラ・アトキンソンは、ネバダ州のブラック・ロック砂漠に我々をいざない、往々にして美術館に欠けている好奇心と没頭とが、バーニング・マンの美しいデザインの参加型アートの中に、いかに見出だされるかを明らかにします。「これがアートでないとしたら、現代におけるアートは何のためにあるというのでしょうか?」と、彼女は問いかけます。