卓球が人生について教えてくれたこと(12:43)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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日本で私は一晩おきに アパートを出て 15分 坂を登り 地元のヘルスクラブに行きます そこの1室に卓球台が3台あります 場所が限られているので どの台でも フォアハンドを練習するペアと バックハンドを練習するペアとがいて 時々ボールが空中でぶつかっては 皆が「ワァ!」と言います それから組み分けをしてパートナーを決め ダブルスをします でも正直言って 誰が勝ったかなんて分かりません 5分ごとにパートナーを 変えるからです 誰もが点を入れようと 必死になりますが 誰もゲームのスコアを 記録していません 1時間かそこらの 熱い戦いの後には 誰が勝ったのか 分からないことが 最高の勝利のように 感じられるのです
日本人は競争なしに 競争心を養ってきたと言われています
皆さんご存知のように 地政学を知るには卓球を見るのが一番です
(笑)
世界で最も強力な二大国は 恐るべき敵同士でしたが それは1972年に アメリカの卓球チームが 共産主義中国への訪問を 許されるまでのことでした 以前の敵同士が 小さな緑色の 卓球台の周りに集まると それぞれが勝利を 宣言することができ 世界は少し安心して 息をつけるようになりました 中国の毛沢東主席は 卓球の指南書を作り上げ この競技を「精神的核兵器」と 呼びました アメリカ卓球協会で唯一の 生涯名誉会員だとされるのは 卓球を通じた「ピンポン外交」によって このWIN-WIN関係を 作るのに一役買った リチャード・ニクソン大統領です しかし それよりずっと前に 現代世界の歴史は 弾む白い球を通して 最もよく語られていたのです
「ピンポン」の発音は 「シング・ソング」の響きに似ていて 何か東洋的な感じがしますが 実際は ヴィクトリア朝時代の英国の 上流階級が始めたと考えられています 夕食後 本の壁を挟んで ワインのコルク栓を打ち合ったそうです
(笑)
私は脚色していませんよ
(笑)
第一次世界大戦の終わりまでには この競技はオーストリア=ハンガリー帝国の 選手たちの独擅場となっていました 世界選手権の最初の9回中8回は ハンガリーの選手が優勝しました そして東欧の人々は 打ち込まれるものをすべて 打ち返すことに非常に長けてしまい 競技自体が膠着状態になりました 1936年の世界選手権プラハ大会の ある試合では 最初の得点が入るまでに 2時間12分かかったそうです 最初の1点にですよ! 『マッドマックス』の映画よりも長い 選手の一人によると 審判は 点が入るよりも前に首が痛くなって 退場せざるを得なかったとか
(笑)
その選手はラケットを左手に持ち替え さらには打ち返す間に チェスをし始めたそうです
(笑)
観客の多くはもちろん 会場から去り始めてしまいました その1点が入るまでに 1万2千回も打ち合ったのですから 国際卓球連盟はやむなく その場で緊急会議を開くこととなり すぐにルールが変更されました 1ゲームの上限時間が 20分になったんです
(笑)
16年後 ここに日本が登場します 当時無名の時計職人 佐藤博治が 1952年の世界卓球選手権ボンベイ大会に 出場しました 佐藤は小柄で 目立った成績も無く 眼鏡を掛けていました でも 彼は他の選手と違って ブツブツのラバーでなく 分厚いスポンジラバーを貼った ラケットを使いました そしてこの消音効果のある 秘密兵器のお陰で 無名の佐藤は金メダルを獲得しました 彼が帰国すると 百万人が東京の大通りに出て 彼の凱旋を祝い その時 日本の戦後の復興が 真に始まったのです
私が 日本での普段の対戦を 通して学んだのは 心の中の世界征服のスポーツ とでもいうべきもの— 人生についてでした 私たちのクラブでは シングルスは行いません ダブルスだけです そして私たちは5分ごとに パートナーを変えるので 負けたとしても その6分後には 勝っているということが 多いのです また2セットマッチで行うので そもそも敗者が出ないことも よくあります 「ピンポン外交」です
英国で育った私は 勝負の意義は勝つことにあると 教わってきました でも日本で教えられたのは できるだけ多くの周りの人に 勝者だと感じさせることが 重要だということでした ここでは1人での 浮き沈みはなく 安定した合唱団の 一員なのです 私たちのクラブの 最もうまい選手は スキルを駆使して 9-1で勝っている試合を 誰もが真剣に参加する 9-9の試合に持っていくのです 背の低い相手がよろめいて 逃してしまうような 高いロブをよく上げる友人は たくさん得点しても 皆に負け犬だと思われます 日本の卓球は 愛することに似ています 相手と戦うことよりも いかに共にプレーするかを 学んでいるのです
正直に言うと 最初は こんなやり方では ゲームが全くつまらない気がしていました 最強の相手にすごい逆転勝ちをしても 歓喜することもできません 6分後には別のパートナーと組んで また負けているのですから 一方で私は 一度も 落胆を味わいませんでした 日本を離れて 再びイギリス人の宿敵と シングルスをやり始めたとき 負けるたびに自分が 心底がっかりしていることに気付きました でも勝利をしたときも よく眠れません その後にあるのは 下り坂だけだと 分かっていたからです
私が日本で商売を しようとしていたなら 延々と不満を感じる羽目に なっていたでしょう 日本で独特なのは 試合開始から4時間経っても 同点のままだと 野球は引き分けで 終わることで リーグ成績は勝率に 基づいているため 引き分けの多いチームが 勝ちの多いチームより 上位になることがあります
アメリカ人として 日本のプロ野球チームの 監督になった先駆けは 1995年の ボビー・バレンタインですが 本当に取り柄のなかった チームを率いて 驚くべき準優勝へと導いた後 即座にクビになりました なぜでしょうか? 「それは―」球団の広報担当は言いました 「彼が勝つことに こだわっていたからです」
(笑)
表向きの日本というのは あの 2時間12分かけて1点入った 試合のように感じられ 負けないようにプレーすることは あらゆる想像力や大胆さ 興奮を 奪いかねません
その一方で 日本で卓球をしていると 合唱団がソロで歌うよりも 楽しい理由が 思い出されます 合唱団では 自分の小さなパートを 完璧にこなし 感情を込めて自分の音を出して 美しいハーモニーを 協力して生み出すことで 部分の和よりも 遙かに素晴らしいものができるのです もちろん合唱団にも 指揮者が必要ですが 合唱団は 子供っぽい「二つに一つ」という 単純な感覚から解放してくれると思います 「勝ち」の反対は「負け」ではなく 「全体像に気づけないこと」 なのだと悟るのです
生きていく中で 何事も ずっと後にならないと 適切に評価できないものだと 心から驚きを感じます 私は一度 全財産を 何もかも 山火事で失いました ですが やがて その喪失と思われたことから 地上で より優しく 生きるよう促され メモなしに執筆するようになり 日本へ移り住み 卓球台という心のヘルスクラブへと 導かれたのです その逆に 以前 完璧な仕事に就いたときは 一見 幸せと思われたことが 惨めなこと以上に 真の喜びへの道を 阻みうるのが分かりました
日本でダブルスをプレーするとき 私はあらゆる不安から開放され その晩の終わりには 誰もが 大体 同じくらいの喜びを 感じながら 帰っていきます 私は毎晩 思い起こさせられます 人を追い越さないことは 後れを取ることと同じではないのだと 快活でないのが 死んでいるのと同じではないように そして私は合点がいったのです なぜ 中国の大学では 卓球で学位が取れるのか そしてなぜ 卓球をすると 軽度の精神疾患や 自閉症さえ和らげられるという 研究結果が出ているのか 2020年に 私は 東京オリンピックを観戦しながら 誰が勝者で 誰が敗者かは 長い間分からないものだと 強く意識していることでしょう
先程お話した 2時間12分かかった 得点のことを覚えていますか? 6年後 選手の一人は アウシュヴィッツとダッハウの 強制収容所に収監されましたが 生きて出て来ることができました なぜでしょう? それはガス室の警備員が 卓球選手だった彼に 気づいたからです 彼は歴史に残る試合の 勝者だったでしょうか? それは問題ではありません 多くの人は最初の1点が入る前に 会場を去ってしまったのですから 彼の命を救ったのは 彼がただ参加していたという 事実でした
一晩おきに日本は教えてくれます どんなゲームにも勝つための 最善の方法は 決して得点を意識しないことなのだと
ありがとうございました
(拍手)
英国で育ったピコ・アイヤーは、「勝負の意義は勝つことにある」と教えられてきました。それから約半世紀が経ち彼が気づいたのは、競い合うことは愛することに似ているということでした。このチャーミングで、さりげなく深いトークでアイヤーは、日本で普段近所で嗜んでいる卓球を通して「勝つこと」の不可思議さを教えられたこと―そして誰が勝ったかも分からないことが最高の勝利のように感じられる理由について語ります。