ドリー・パートンがくれたひらめき(13:03)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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私がジャーナリストとしての 目的を追求する中で ドリー・パートンのおかげで 見つけられたことをお話しします
私は約20年間 最初はラジオで 次にポッドキャストで オーディオストーリーを 語ってきました 2002年 私が『Radiolab』という ラジオ番組を始めた時 典型的な番組進行はこうでした ゲストをお呼びします
(音声)(スティーブン・ストロガッツ) 自然の中で 我を忘れるような 心をつかんで離さない光景です ここで思い出してほしいのですが 物音ひとつしないんです
(ジャド・アブムラド)数学者の スティーブのような人が 詳しく説明してくれます
(スティーブン) 想像してください タイの奥地の密林に土手があります あなたはカヌーに乗り 滑るように川を下っています すべてが静まり返り 時折 極彩色の熱帯の鳥か何かの 鳴き声がします
(ジャド)スティーブと 想像上のカヌーに乗っていると 周囲には 至るところに 無数の蛍が飛んでいます 蛍の光がチラチラしていて 夜空に星が 瞬いているような印象を与えます こんなのを期待しますよね でも スティーブに言わせると この場所に限っては なぜだか 科学者では説明しきれない ことがあるというのです
(スティーブ)ウップ ウップ ウップ 無数の光が一斉に点いたり 消えたりします
(音楽と電子音)
(ジャド)このタイミングで 私は通常 先程のように 綺麗な音楽を流すのですが リスナーは温かい気持ちになります 私たちが科学を通じて理解し 頭と胸に何となく残っている感情が 体中を駆け巡ります それが 驚嘆です
2002~2010年まで 私は何百回も このような話を配信しました 科学の話、神経科学の話 難解な話といった 常に驚嘆の念を もたらしてくれる話です 私は驚嘆の瞬間に 人々をいざなうことが 自分の仕事だと 考えるようになりました 驚嘆の声はこんな感じです
(様々な声)「はぁ!」「わぉ!」 「わぉ!」 「素晴らしい」 「わあ!」「わぉ!」
(ジャド)でも 私はこのような話に やや飽きてきました 繰り返しがそうさせたのもあります パソコンの前に座り ニューロンの音を作った日のことを 私は覚えています
(パチパチする音)
ホワイトノイズを使って 編集すれば いとも簡単に音が作れます こんな風に思っていました 「この音をもう25回も作った」と でも それだけではないのです このような話が よくたどる道がありました 科学が作った真実の道をたどると 驚嘆に行き着くのです
私は科学好きなので 誤解しないでください 両親は戦火にまみれた祖国から アメリカに移住しました 両親にとって 科学とは何ものにも代え難い アイデンティティのようなものであり 私もそれを受け継ぎました でも 科学が驚嘆へ変わる シンプルな動きに 何というんでしょうか 違和感を感じるようになりました 「それしか語る道はないのか?」と
2012年頃 私は「何か違う」と思う 様々な話に出くわしました 特に ラオスの山中で 自分や村人に対して 化学兵器が使用されたと語る男性に 取材した話は 後味の悪いものでした 欧米の科学者が現地へ行って 化学兵器を測定しましたが 検出されませんでした この件で 男性を取材しました 「科学者の間違いだ」と言うので 「検査した」と反論すると 「関係ない 実際にあったんだ」と言いました 押し問答の末 手短に言うと 最後には泣かれてしまいました 私は― 最悪の気分でした 苦しんでいる人に 科学的真実を突き付けても 何の癒しにもなりませんでした 真実を探すのに 科学に頼りすぎたのかもしれません その時 強く感じたのです たくさんの真実があるのに そのうち1つしか 見ていないことを 「この点を改善せねば」と 思いました
そして 次の8年間 私は相反する真実の話を することに決めました 合意の政治についての配信では 生存者と加害者の見解を聞くと 意見がぶつかりました 人種の話で取り上げたのは 組織的に黒人が 陪審から外されているが その再発を防ぐべく 制定された法律は 事態を悪化させただけだったことです テロ対策の話や グアンタナモの抑留者の話は 論争の的となり つじつま合わせに みんな四苦八苦するのみです この四苦八苦することが ポイントなのです 「それが私の仕事なのかも」と 思いはじめました 四苦八苦する瞬間に いざなうことです こういう声が聞こえてきます
(様々な声)「でも 私の意見は― なんか―」
「あー 私は」(ため息)
「だから そのー」
「つまり 私は―」
「あのー あー」(ため息)
(ジャド)ため息の声 私は 配信するすべての話で その声を聞きたかったのです 今この瞬間の声のようなもの なのですから 単に収集するべき一連の事実だけが 真実ではない― そんな世界にいます 真実とは過程であり 名詞から動詞に変化しています でも 話の結末をどうするのか? 例えば 起こったことを ありのままに語り 2つの争点に沿って 展開して 終わりに近づくと あたかも― いや そうだな どう締めくくれば? ああ あなたなら どういう結末にしますか? ハッピーエンドだと 現実味がありません そうは言っても 聞き手をその場に 置き去りにしたままでは 「これを聞いて何になった?」 となります 別の手立てがあるはずと 思えました 困難を乗り越える方法が あるはずです
そして ここで ドリーの話になるんです 南部では 聖ドリーと好んで呼ばれます 去年 ぼんやりとした啓示を受け 『ドリー・パートンのアメリカ』という 全9回のシリーズを作ったことを お話しします 私には少し新しい試みでしたが ドリーが どういう 結末にすればいいのか 教えてくれると直感していました
その理由はこうです ドリーのコンサートでは トラッカーキャップを被った男性が 女装の男性の隣に立ち 民主党支持者が 共和党支持者の隣に立ち 女性どうし手をつなぎ いろんなタイプの人々が 一緒に集まっています 互いに毛嫌いしあっているはずと 思われている人々が そこで一緒に歌っています ともかく ドリーはアメリカに この類まれな場所を作り上げ 私は その秘訣を 知りたかったのです
私は 12回にわたるドリーへの取材で 北米・南米の両大陸に行きました ドリーは毎回こんな風に応じました
(音声)(ドリー・パートン) なんでも聞いて 私が言いたいことを お話しするわ
(笑)
(ジャド)ドリーには紛れもなく 計り知れない力があります でも 問題にぶち当たりました ひょんな事から このシリーズを 作ることを選びましたが これについては 心の葛藤があったのです ドリーは南部のことを 多く歌っています ドリーのディスコグラフィには テネシーに関する歌が たくさんあります
(音楽)(ドリー)(様々な曲を歌う) テネシー テネシー テネシーが恋しくなる テネシーへの郷愁を誘う ブルースが頭の中を駆け巡る テネシー
(ジャド)「テネシーの山にある家」 「テネシーの山の思い出」 さて 私はテネシーで育ちましたが この地には何ら 望郷の念を抱いていません 私はガリガリに痩せこけた アラブ人の子どもで 自爆テロを生み出した国から やって来ました 私は 多くの時間を 自室で過ごしました ナッシュビルを去る日が来た時は ただ旅立ちました
ドリーウッドで覚えているのは テネシーの山にあるドリーの生家の レプリカの前に立ったときのことです 周りの人は泣いていました これは セットなのに なぜ泣いているんだろう? 自分の南部との関わり合いからは なぜ そこまで感情的になのか 分かりませんでした 私は正直なところ パニック発作を起こしかけていました 「私はこのプロジェクトに 適任でないのでは?」と
でも その時 運命のいたずらで ブライアン・シーバーに会いました 彼はドリーの甥でボディーガードです 思い付きで ブライアンはプロデューサーの シマ・オリエと私を乗せて ドリーウッドを出ました 車で 山の裏側にまわり 20分かけて山道を走って 狭くて舗装されてない道を下り 『ゲーム・オブ・スローンズ』に 出てきそうな巨大な木の門をくぐり 実際の生家に行きました 本物です まさにヴァルハラ宮殿 テネシーの山にある本物の生家です
このパートはワーグナーの曲で お送りします 知っておいてほしいのですが テネシーの伝承では テネシーの山にあるこの家は 聖地のような存在だからです
そんなわけで 私はそこに ピジョン川のほとりの草の上に 立っていたのを覚えています 蝶が空中を弧を描いて 飛びまわっていました 私にとっての驚嘆の瞬間が訪れました テネシーの山にあるドリーの生家は まるでレバノンの山にある 私の父の家のようです
ドリーの家は 捨て去りし父の実家のようでした このような些細な気持ちが積み重なり これまでなかったような 父との会話のきっかけができ 話してくれたのは 父が祖国を離れるときの苦悩や ドリーの曲から どんな風にそれを感じるかです そして 私がドリーと話したところ そこで彼女は自分の作品を 移民の音楽と表現しました あの往年の名曲である 「My Tennessee Mountain Home」でさえも 耳を澄ませれば―
「ある夏の午後 ポーチの椅子に腰かけ 椅子を傾け 後脚だけで 壁に寄りかかっている」
過ぎ去りし瞬間を 捉えようとしています でも 生き生きと 言葉で表現できるなら 樹脂のようなもので固めて その場にとどめておける 過去と現在の間に 捕えておけるかもしれません それが 移民の体験です
その単純な考えが 沢山の会話に結びつきました 私は カントリーミュージック全般を 音楽学者と話すようになりました このジャンルは私の出身国など 無関係と常々思っていましたが 実のところ 中東より直接伝来した 楽器と音楽スタイルから成るものです 実際 現在のレバノンから 東テネシーの山間部を 直接つなぐ交易路がありました
正直に言うと そこに立って ドリーの家を眺めると 初めて 私は自分が テネシー人だと感じました それは 紛れもない真実です
これは一度だけではなく 何度も何度も感じたことです ドリーは 私が作った 単純な世界の分類を 強制的に超えさせました ドリーと7年間ユニットを組んだ ポーター・ワゴナーについて 話したことを覚えています 1967年 カントリーミュージック界の レジェンドであるポーターのバンドに 無名だったドリーが バックアップシンガーとして入り すぐさま ドリーは頭角を現します ポーターは嫉妬し ドリーが脱退しようとすると 3百万ドルの賠償を求めて 訴訟を起こしました ここでポーター・ワゴナーの人物像を ドリーにしがみつこうとした 古風で家父長主義的な嫌な奴だと 考えるのは簡単です でも 私がこれをドリーに言うたびに にべもなく一蹴されました
(音声)この男ですが ビデオで確認できますね あなたの肩を抱いて 権力に物を言わせる様子が 見てとれます
(ドリー)そんな単純なものではないの ちょっと考えてみて 彼の番組は長いこと続いていて 人気番組だったから 私など必要なかった 私の実力に期待もしていなかった 私が実力のある芸能人だということも 知らなかったし 私がどれだけ夢を持っていたか 知りもしないの
(ジャド)ドリーは何度も言いました 「私のことを話すときに あなたのバカげた主観はいらない 事実はそうじゃないから 確かに権力はあったけれど それがすべてではなかった 一言では言い表せっこない」
では ズームアウトしましょう 私はどう判断したか? ここに 前進するための 手がかりがありました ジャーナリストとして 相違点に執着するのは 大好きですが この複雑な世界では 相違点をつなぐ架け橋となる 必要性が増しています あなたなら どうしますか?
今となっては 私にとっては答えは簡単です 相違点について質問し できるだけ長く 相違点について考えるのです 例えば テネシーの山で起こったように 何かが起こり 自ずと明らかになるまでです 話の結末は 相違点ではなく 新たな事実で終わる必要があります
そして その山に行った帰りに このアイデアの名前の由来になった本を 友人がくれました 心理療法で この考えは 「第3のもの」と呼ばれ 基本的に こういうことを言います 通常は 私たちは自分たちを 自立した個人として考えます 私があなたに影響を与え あなたが私に影響を与えます この理論によると 2人の人間が協力して 認知の相互行為において お互いを理解することに専心すると 意外と何か新しいものを 作り出せるのです 2人の関係が新しい存在になります ドリーのコンサートを文化的な 第3の場所として考えてください ドリーが観客の違う部分を どう見るのか 観客からどう見られるのか それらが その空間の 精神的な構造を作ります
今は それが私の使命だと思います ジャーナリストとして 語り手として 一人のアメリカ人として 持ちこたえようと 奮闘している国に暮らす者として 私が伝える話では第3のものを 見いださねばならないと思います 私たちが違った感じ方をする物事が 何か新しいものに変化する場を 見いだすのです
ありがとうございました
話の結末をどうするのか?「ラジオラボ」のホストであるジャド・アブムラドは、この質問の答えを探すうちに、テネシーの山間の家に導かれたと言います。そこで、識者のドリー・パートンと出会いました。