村上雅彦教授
1955年に | 東京都で生まれる。 |
1981年に | 昭和大学を卒業する。 |
1998年に | 昭和大学消化器・一般外科講師に就任する。 |
2002年に | 昭和大学消化器・一般外科准教授に就任する。 |
2009年に | 昭和大学消化器・一般外科教授に就任する。 |
- JCOG胸腔鏡下食道手術認定医
臨床研修指導医
日本腹部救急医学会評議員・暫定教育医
日本外科代謝栄養学会評議員
日本外科系連合学会評議員・フェロー
日本消化器内視鏡学会指導医・評議員
日本外科学会専門医・指導医・代議員
日本臨床外科学会評議員・雑誌編集委員
日本消化器内視鏡学会評議員・指導医
日本消化器内視鏡学会関東地方会評議員
日本内視鏡外科学会評議員・食道悪性部門技術認定医
日本消化器外科学会指導医
消化器がん外科治療認定医
日本食道学会評議員・食道科認定医
日本大腸肛門病学会指導医
日本肝胆膵外科学会評議員・肝胆膵外科高度技能指導医
日本消化器病学会指導医
食道外科の未来について
第1回
外科医を志す
―― どのような幼少期を過ごされましたか。
村上 小さい頃は動物や昆虫が好きな自然っ子でした。
―― 今も動物を飼っていらっしゃるのですか。
村上 妻が動物の死ぬところを見たくないという気持ちがあるので、今は飼っていません。小学生、中学生の頃は昆虫から爬虫類、犬、猫まで何十種類も飼っていました。その中で「生きる、死ぬ」という感覚を理解していったように思います。
―― 高校時代はいかがでしたか。
村上 都立上野高校に通っていました。上野高校は東大を目指す人が多かったのですが、大学と同じような自由な授業体制でした。私も皆も好きな事をやり、受験勉強をせず、一浪して勉強して大学に行くみたいな感じでしたね。
―― なぜ医学部に入学しようと思われたのですか。
村上 そういう高校で学んでいましたから、「会社員にはなりたくない、自分の好きなことをしたい」と思っており、獣医師になるつもりで獣医学部を希望しました。ところが、親に「動物を診る医師になる前に人を診ることができればいいのでは」と言われ、騙されたように医学部も受けました(笑)。浪人して獣医学部と医学部を受けたのですが、医学部にたまたま受かったので、医学部に進学することになりました。
―― 医学部に入学されて、改めて医師もいいなと思われましたか。
村上 そうですね。入学して、勉強していくうちに何となくそう思えてきました。でも今でも行けるのなら獣医師になってみたい気持ちもあります。ただ、いわゆる趣味と仕事という面からだと、私の場合は獣医師は趣味になってしまいますから、仕事と考えると医師の方がいいですね。
―― 医学部での6年間はいかがでしたか。
村上 空手部に入っていましたが、4年生の頃にわけあって辞めました。もともと運動は好きで、高校のときは水泳部とスキー部に入っていました。
―― 医学部の学生は部活動に熱心ですよね。
村上 今は昔とは変わってきましたね。今の学生は自分の世界を大事にしているので、運動部よりもサークルの方に人気があるようです。
―― 消化器外科に行こうと思われたのはいつですか。
村上 昔は外科は全て一緒の大教室制で、外科の中に脳神経外科や心臓血管外科、呼吸器外科、小児外科がありました。私としては自分で何かの手術をしたいなと思って、とりあえず外科に入りました。
―― 内科か外科かは早く決められていたのですか。
村上 医学部に入ったときから将来は外科だと決めていました。動物が好きだったので、悪いところがあれば手術すればいいのかなと思う部分があったのでしょうね。
―― 大学の卒業と同時に入局した時代ですよね。
村上 国家試験の発表があった翌日から自分の希望の科に行くという時代です。今の制度とどちらがいいのかは分からないですね。今は2年間の初期研修でローテートする診療科の良いところも悪いところもしっかり見て、じっくり決められるのが良いのかもしれませんが、その代わりに悩むこともあります。私たちの頃はファーストインプレッションで「ここ」と決めて入局する感じでした。当時は「医師=外科」でしたから、外科には毎年12人以上、入局していました。労働条件は今と比べて非常に悪かったのに、社会の中では医師の花形は外科だと考えられていました。
―― 当時の方々は診療科を変えることはできなかったのですか。
村上 いえ、入って1年ぐらいで「やっぱり向いていないな」と辞める人はいました。その後は自由にほかの科に行けたのです。でも途中で科を変える人はほとんどいなかったですね。
―― 外科に入局後はどのように研修なさったのですか。
村上 当時は全ての外科をローテートしたうえで、最終的に専門を選ぶという時代でしたので、今とは全く異なります。その中で消化器外科を選んだのはがんの患者さんを診たかったからです。脳神経外科だと脳動脈瘤だったり、心臓血管外科だと狭心症・動脈瘤だったりする中で、私はがんの患者さんを診ようと考え、消化器外科を選びました。
肝臓から食道へ
―― 同期の皆さんで切磋琢磨されたのですね。
村上 そうですね。私の両親は医師ではないのですが、同期の8割は実家が開業医でした。そのため、ある程度の学年になると7割ぐらいが辞めていきました。ところが、今の学生に聞くと、実家が開業医という人は半分ほどになっています。その人たちは行く場所がなくて、大学に残らないといけないので、大学に残る人が増えています。これも今と昔で大きく違うことですね。
―― 消化器外科の中で最初は何を専門にされたのですか。
村上 最初は肝臓を専門にしていました。主任教授が肝臓専門だったからです。その頃の肝臓や心臓の手術は難しく、半分ぐらいの患者さんが手術で亡くなっており、それを何とかできればと思っていました。医師になって37年ですから、3分の1以上は肝臓をしていたことになります。食道を始めたのは1996年です。だから、食道を始めてまだ22、3年なのです。
―― 肝臓から食道に代わられたのはどうしてですか。
村上 教授をはじめ、上の先生方の肝臓の手術にアシストで入っていたのですが、下の人たちが育ってきたこともあり、言い方は良くないですが、もう肝臓をしなくてもいいのかなと思ったんです。私が入局した当時、食道がんは「胸部外科」が手術しており、年間5例から10例程度の開胸、開腹手術が行われていました。ところが草野満夫教授が新教授になられたときに「消化器・一般外科」に診療が移行したのです。食道では1994年ぐらいから胸腔鏡手術が出てきて、それが面白いし、私がそれまで見た中では一番難しいと感じたので、食道に行くことにしました。
―― 難しい方に行かれたのですね。
村上 そうです。以前の食道がんは予後が悪く、開胸手術後の反回神経麻痺発生率は25%以上あり、術後1週間ほどの調節呼吸管理も必要で、致命的手術合併症も多いことで、難しいとされていました。しかし、語弊がありますが、私には一番面白く思えました。まだ胸腔鏡手術を誰も始めていなかったですからね。