私がカミングアウトすべき理由(9:59)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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世界によって自分らしさを曲げられてしまうことがありますが、心の中では自分をよく知っているので、胸の中である問いがくすぶっているものです。「どうしたら自分らしくなれるのだろうか?」と。
私はこの点においては少し変わっているかもしれません。でも私は独りではありません。独りではないのです。
私は、ファッションモデルになったとき、小さい子供だった頃からずっと夢であったことが叶ったと思いました。外側の私がついに内面と―内面の私と一致したのです。後で説明しますが、いくつもの複雑な理由から、この写真を見たとき私は「ジーナ、ついにやったわね。やり遂げた、ここまで来たのね」と思いました。でも、この10月になって、まだまだこれからなのだと気づきました。
私たちは皆、型にはめられています。家族によって、宗教によって、社会によって、生まれた時代によって、そして、自分の身体によって。
中には、それを打ち破る勇気を持つ人もいます。肌の色や周りの人々の考えによって押しつけられる制限を受け入れない人々です。彼らは常に、現状に対する脅威なのです。容認されていることに対する脅威です。
私の場合、ここ9年の間、近所の人々や友人、同僚、事務所までもが私の過去を知りませんでした。ミステリーでは、これは謎解きというのでしょうか。私の謎解きはこうです。
私は生まれたとき、生殖器の外見によって男の子だとされました。今でも覚えているのは、5歳の時、フィリピンで家の中を歩きまわっているとき、いつも頭にTシャツをのせていたことです。母は私に向かって「どうしていつもTシャツを頭にのせてるの?」と聞きました。私は「お母さん、これ髪の毛なの。私女の子なんだよ」と言いました。当時私は、自分の個性を表現する方法を知っていたのです。
ジェンダーは、常に変えることのできない事実だと考えられてきましたが、現代の私たちは、ジェンダーはより流動的で複雑で神秘的なものだと理解しています。手にした成功ゆえに、私は自分の物語を共有する勇気がありませんでした。それは自分が間違っていると思っていたからではなく、自由になりたいと願っている私たちを、世界がどう扱うか知っていたからです。毎日、私は自分が女性であることに心から感謝しています。私をありのままに受け止めてくれる母や父、家族がいます。このように恵まれていない人々が沢山います。
アジアの文化には、流動的なジェンダーという神秘を祝福する長い伝統があります。仏教には慈悲の女神がいます。ヒンドゥー教にはトランスジェンダーのヒジュラの女神がいます。8歳の時、私はこうした神秘を祝福するフィリピンのお祭りに出掛けました。私が舞台の前にいると、今でも覚えています―目の前にこの美しい女性が現れました。この瞬間、何かが心を打ったのです。私はこんな女の人になりたいんだ、と。そしてまだ男の子の格好をしていた15歳の時、T.L.という女性に出会いました。
彼女はトランスジェンダーの美人コンテストのマネージャーでした。その夜、彼女は私に「どうして美人コンテストに参加しないの?」と聞いたのです。私が参加すれば参加費と衣装の世話をしてくれるという彼女に説得されると、その晩、私は水着部門とロングドレス部門で優勝し、40人以上いた候補者の中で第2位に入ったのです。その瞬間、私の人生が変わりました。突然私は、美人コンテストの世界に足を踏み入れたのです。初仕事がトランスジェンダーの女性の美人コンテストの女王だと言える女性は少ないでしょうが、私はそう言うことにします。
15歳から17歳まで私は、一流の美人コンテストから、文字通りトラックの荷台で行われるコンテストまで色々参加してきました。時には、田んぼのすぐ横の道端で行われ、雨が降ると―フィリピンでは雨がよく降るんです―運営側が会場を誰かの家の中に移したこともありました。私は見知らぬ人の優しさも経験しました。特に、フィリピンの人里離れた田舎を旅しているときなどです。ですが、最も重要なことは、コミュニティの中で親友に出会ったことです。
2001年に、サンフランシスコに移住していた私の母が電話をかけてきて、私の永住ビザの申請が通ったから、アメリカに移ることができると教えてくれました。私は抵抗しました。私は母に「お母さん、この生活が楽しいの。友達もいるし、旅回りも、美人コンテストの女王でいるのも好きなの」と言いました。
それから2週間後に、母は電話でこう言ったのです。「アメリカに移住すれば、名前も性別も変えられるって知ってる?」と。
それだけ聞けば私は十分でした。母は名前の綴りのEを2つにしたらいいよと言ってくれました。母は、私が手術を受けたときにも来てくれました。19歳のとき、タイでのことです。面白いことに、タイの片田舎の中には、最も名高く、安全で最新の手術を行っているところがあるんです。当時アメリカでは、名前や性別を変える前に手術をしておかなければならなかったのです。
2001年に私はサンフランシスコに移り、カリフォルニアの運転免許証を見たときのことを覚えています。ジーナという名前で、性別がFと書かれていました。とてもパワフルな瞬間でした。ある人々にとって、身分証とは運転するためやお酒を飲むためのものですが、私にとっては生きるための証明―尊厳を感じるための証明でした。突如として私の恐怖が最小化されたのです。
私は夢を追いかけてニューヨークへ移り、モデルになれると思いました。
このように恵まれていない人々が沢山います。アイラ・ネトルズという女性のことを思い出します。
彼女はニューヨーク出身の若い女性で、勇気を持って本当の自分を生きようとしていましたが、憎しみによって命を絶ちました。私が属するコミュニティの多くの人々にとって、これが私たちが生きる現実なのです。私たちの自殺率は、他の人々と比べて9倍も高いのです。
毎年11月20日はトランスジェンダー追悼の日で、国際記念日として運動が行われます。私がこのステージに立てるのは、不公平に対して立ち上がり、闘った人々の長い歴史のおかげです。マーシャ P. ジョンソンとシルヴィア・リヴェラです。今日まさにこの瞬間が、私の本当のカミングアウトです。私はもう、自分の真実を私のためだけに生きることはできません。私は、他の人々が不名誉や恐怖を感じることなく真実を生きることができるよう、できるだけのことをしたいです。私はここで皆さんの目にさらされています。そうすることで、11月20日の追悼が二度と必要とされない日を迎えるためです。
私の奥底にある真実が、ありのままの自分を受け入れさせてくれたのです。
皆さんも受け入れてくれますか?
どうもありがとうございました。(拍手)
ありがとう ありがとう ありがとう (拍手)
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キャスリン・シュルツ: ジーナ、ひとつだけ質問させて下さい。あなたなら何と言いますか―特に親御さんに対して、あるいはより広い意味で、友人や家族など、自分に割り当てられた性別について葛藤し、居心地の悪い思いをしている子供や大人に出会った人たちに―あなたなら、その人の家族に何と声をかけますか。思いやりがある優しい家族として接することができるようになるには?
ロセロ:ええ、そうですね―まず本当に私は恵まれています。サポート体制ですね。特に母、そして家族がいるだけでとても心強いものでした。若いトランスジェンダーの女性をコーチングする度に、彼女たちの指導をしているのですが、時には彼女たちが電話をしてきて、ご両親が受け入れてくれないと言うことがあります。私はその電話を受けて母にこう言うこともあります「お母さん、この女性と話してくれる?」上手くいくときもいかないときもありますね。それでも、性同一性というのは、私たちの在り方の核になるものですよね? つまり、誰もが生まれたときに性別を与えられますが、私がやろうとしているのは、割り当てられた性別が一致しない場合に対話を持つこと―そして、人々が自ら個性を表現できるようなゆとりを設けることです。このような対話を、親や同僚たちと持つべきなのです。トランスジェンダーの運動は、ゲイの運動の始まり方と比較するとまさに始まったばかりです。取り組むべき問題がまだ沢山あります。理解が必要ですし、興味を持ってもらい質問ができるようなゆとりが必要です。皆さんが私の味方になってくれることを願っています(拍手)
ファッションモデルのジーナ・ロセロは自分がビキニをまとったプロの写真を初めて見たとき、有頂天で喜びました。「ついにここまで来た!と思いました」と、誇らしげに言います。これはよくある話ではないかもしれませんが、とロセロは切り出します。というのも、彼女が生まれたときの性別は「男の子」だったからです。感動的で個人的なトークで、ロセロはトランスジェンダーの運動が彼女に全く新しい誇りと目的を与えてくれると語ります。