北朝鮮からの脱出(12:15)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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まだ小さかったとき、自分の国は地球上で最高だと信じていました。「われらに羨むものなど何もない」という歌を歌って育ちました。とても誇らしい気分でした。学校では多くの時間を割いて金日成の功績を学習しましたが、国外について学ぶ機会は殆どなく、単に、米国・韓国・日本は我々の敵だと教えられました。しばしば外の世界を想像しましたが、この国に一生住むと思っていました。しかし、ある日を境に全てが変わりました。
7歳のとき、初めて公開処刑を目撃しました。それでも私の生活は普通だと思っていました。当時私の家族は貧しくなく、私自身は飢餓を経験していません。
1995年のある日、母が手紙を持ち帰りました。同僚の妹からの手紙でした。書いてあったのは―― “この手紙が届くころ我々家族5人はこの世にはいないことでしょう。最後に食べたのは2週間前でした。今は皆、床でただじっと横になり、衰弱しきって死を待つだけです”
本当にショックでした。初めて知ったのです。飢餓に苦しむ人が私の国にいるなんて。その後すぐ、ある駅を通りました。痛ましい姿を見ました。今でも記憶から拭い去れません。それは息絶えた一人の女性でした。痩せ細った子供がその腕に抱かれたまま、なす術もなく母親の顔を覗きこんでいました。誰も助けようとはしませんでした。自分と家族を守るのに精一杯なのです。
90年代半ば、深刻な飢饉が北朝鮮を襲いました。最終的には百万人以上が死亡し、生き残った人の多くは飢えをしのぐため草や虫、木の皮を口にしました。停電も頻繁に起きるようになり、夜は真っ暗闇に包まれました。中国側の煌々とした灯りが見えました 私の家の川向こうは中国でした なぜ向こう側は明るいのに こちら側は暗いのか常に不思議でした これは 夜の北朝鮮をとらえた衛星写真です 隣国と比較して見ることができます
この川は鴨緑江(アムノッカン)です 北朝鮮と中国の 国境線になっています ご覧の通り川幅が狭い地点が数か所あり 北朝鮮の人々が密かに越境しようとします しかし多くは命を落とします 死体が流れていくのを何度か見ました 私が北朝鮮を脱出した経過を 詳しくは話せません とにかく何年も飢饉が続いた時期に 私は中国に住む遠戚の元に送られたのです 家族と離れて暮らすのは ほんの短い間だけだと思っていました まさか家族と再会するのに 14年も要するとは想像しませんでした
家族から離れた子供が中国で 暮らすのは過酷なことでした どんな生活が脱北者を待ち受けているか 全く見当がつきませんでした しかし すぐ気づきました 生活は極めて過酷で なおかつ非常に危険なものでした なぜならば中国では脱北者は 不法移民として扱われるからです 常に恐怖と隣り合わせの生活でした 自分の身元が明らかになると 北朝鮮に送還されて恐ろしい運命が 待っているのでした
そんなある日 最も恐れていたことが 起こりました 私は中国の警察に捕えられ 尋問のため警察署に連行されたのです 私が北朝鮮人だと通報を受けた警察は 私の中国語能力をテストしました 膨大な質問を浴びせられ あまりの恐怖に 心臓が破裂しそうでした もし少しでも疑いがあれば拘束され 強制送還されたことでしょう もう おしまいだと思いました それでも全ての感情を何とか押さえて 質問に回答しました そして全ての質問が終了すると 係官の一人が言ったのです “この通報は誤りだ 彼女は北朝鮮人ではない” その結果 私は解放されました 奇跡でした
中国内の脱北者が亡命を求めて 外国の大使館に駆け込もうとします 多くは中国警察に拘束され 強制送還されます この写真の少女達は大変幸運でした 一旦 拘束されたものの 最終的には解放されました 国際社会の圧力が効いたのです この人々は運がありませんでした 毎年 中国では無数の北朝鮮人が拘束され 強制送還されています 送還後には拷問 投獄 さらには 公開処刑もありえます
出国できた私は本当に幸運でしたが 運に恵まれない人々も大勢います 悲しいことに北朝鮮人の身元をひた隠しながら 生き延びるだけで精一杯なのです 新しい言葉を覚え 仕事を得たとしても 一瞬にして全てが暗転しかねない人生です そこで身元を隠す生活を10年続けた果てに リスクを冒して韓国へ行く決心をしました またしても新しい生活を始めました
韓国の生活に慣れることは想像以上に 困難でした 韓国では英語が大変重要なので 3つ目の言語を学ぶことになりました 同時に大きなギャップの 存在にも気づきました 北と南のギャップです 同じ朝鮮民族なのに内面は 全く変わってしまいました 67年に及ぶ分断のせいです 私自身のアイデンティティに悩みました 韓国の人間なのか? 北朝鮮の人間なのか? どこの出身なのか? 自分は一体誰なのか? 突如として私には 誇るべき母国が消えてしまったのです
韓国での生活に 順応するのは大変でしたが 計画を立てました 大学受験のため勉強を始めたのです
新生活に慣れ始めたのも つかの間 衝撃的な電話がありました 北朝鮮当局が 私が家族宛にした送金を 突き止めたのです 私の家族は戒めに 自宅から人里離れた場所へ 連行されそうになりました もはや脱走しかありません 私は脱出プランを練り始めました
北朝鮮の人々が 自由に辿り着くには 果てしなく長い旅を しなければなりません 韓国との国境を超えるのは 殆ど不可能です そこで皮肉にも私は中国へ戻り そこから北朝鮮との 国境へ向かいました 私の家族は中国語を話せないので 私の助けが必要でした 中国では3千キロ以上の距離を移動し やがて東南アジアに入りました バスの移動は1週間かかり 途中 何度も拘束されかけました 一度バスが止められて 中国の警察官が乗車してきました 全員の身分証明書を取り上げて 尋問を始めました 私の家族は中国語が話せないので 逮捕されてしまう と思いました 私の家族の番になったとき 私は咄嗟に立ち上がって言いました “この人たちは耳が不自由です 自分は付き添い人です” 警察官は疑わしげに私を見ましたが 幸運にも私の話を信じてくれました
やっとラオス国境まで 辿りついたのですが ラオスの国境警備兵に賄賂として 所持金のほぼ全てを払いました それなのに国境を通過したら 私の家族は逮捕され拘留されました 違法に国境を越えた というのです 罰金とさらに賄賂を払って 1ヶ月後にようやく解放されました ところが すぐに再拘留されました ラオスの首都でのことです
私の人生で最悪の瞬間でした 私は家族の自由のために あらゆることをしたのに あとほんの 少しというところで 拘留されてしまったのです 韓国大使館までは目と鼻の先でした 私は移民局と警察署の間を 何度も往復して 家族を釈放するために懸命でした しかし罰金や賄賂を払うための お金は底をついていました 全ての望みが絶たれました
そのとき男性が声を掛けてきました “どうかしましたか?”
とにかく驚きました 見ず知らずの人が わざわざ声を かけてくれたのです 私が たどたどしい英語と辞書を片手に 状況を説明すると男性はすかさず ATMに行って 私の家族と他に2人の北朝鮮人分の 保釈金を全て払ってくれたのです
私は心の底からお礼しながら尋ねました “どうして私を助けてくれるのですか?”
男性は答えました “あなたを助けるわけじゃない 北朝鮮の人々を助けているのです”
私の人生で象徴的な瞬間でした この見知らぬ親切な男性は 新たな希望の象徴です それこそ私たち北朝鮮人が 今最も欲していることです この男性が示した 差し伸べられる思いやり そして国際社会の支援 これらこそ 北朝鮮の人々が必要とする 希望の光なのです
長い道のりを経て私たち家族は 韓国で再び集うことが叶いました 自由を得ても私達の戦いは続きます 北朝鮮では多くの家族が離れ離れになり たとえ新たな国にたどり着いても 生活を始めるお金は殆ど あるいは全くありません 国際社会からの支援はとても有益で 教育や英語の習得 職業訓練などに役立ちます 私たちは北朝鮮内の人々と 外の世界を結ぶ 橋渡し役を担えます 私たちは北朝鮮にいる 家族と連絡を取り続けており 情報や資金を提供して 北朝鮮が内側から変革する 活動をしています
私は本当に幸運でした たくさんの支援と 励ましを頂きました 今度は私自身が北朝鮮の同胞を 国際社会の支援を受けながら 励まし続けたいと思います さらに多くの北朝鮮の人々が 世界中で活躍することを 私は確信しています きっとこのTEDの舞台でも。
御清聴ありがとうございました
北朝鮮での幼少時代、『ここは地球上最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱き始める。14歳で脱北、その後中国で素性を隠しながらの生活が始まる。 これは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々とその先に見えた希望の物語。そして、北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされ続ける同朋達への力強いメッセージが込められている。