ギャングの娘からスター教師へ(8:03)
講演内容の日本語対訳テキストです。
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私は治安の悪い イーストロサンジェルスで育ちました。自分の家が貧乏だってことすら 知らずにです。
私の父親はギャングの有力メンバーで、近所を仕切っていて皆私の事を知っていたので、自分は特別で 大切にされてると思っていました。
父は 私の子供時代のほとんどは 刑務所入りを繰り返していましたが、母親はとてもしっかりした人でした。
母は近くの高校で 校長室の秘書として働いていました。そのため、母は 何らかの理由で 授業から追い出され、校長室に呼び出された生徒を 沢山 見てきました。いや~ 母のオフィスは こういった生徒でいっぱいでしたよ。
私達のような貧しく 治安が悪い場所で育った子供は、家庭に いろいろな問題があり、家に帰っても すぐに勉強に取り組めるわけじゃないんです。でも、だからと言って出来ないんじゃない、他の子よりも時間と努力が必要なだけです。
例えば、私が覚えてるのは、ある日 私の父が 身体をガタガタ震わせ 口から泡を出してました。オーバードーズで バスルームに倒れてたんです。
ホントに そんな夜に宿題をやることが なによりも大切なことだと思いますか? まさか。
私は、自分のこういった状況の中で 私自身が犠牲者に なってしまわないように 周囲で助けてくれる人達が すごく必要でした。これ以上 出来ないと思っている時に がんばれと背中を押してくれる 人間が必要でした。授業中に「あなたなら もっと出来るはず」と 毎日言ってくれる先生が必要でした。
でも、残念ながら地元の中学には そういう先生はいませんでした。
ギャングが幅をきかせ、教員の入れ替わりも激しかったんです。それで母が「バスに毎日 一時間半乗って 離れた学校に通うしかないわね」と決め、それからの2年間 私はバスで通学しました。スクールバスに乗って、お金持ちが住む地域まで行きました。色々な生徒が混ざった学校に 通う事になりました。
ギャングに関わってる人もいたし、私と同じく 高校に入るために 一生懸命頑張ってる 生徒達もいました。
悪いことに関わらないように するのは避けられないことでした。生き残るため、時には やりたくない事も やらなきゃダメだったんです。
先生の中では「この子はダメだな、教員と うまくいかないし この先も 何をやってもダメだろう」、私に打つ手はないと 見捨てた先生も何人かいました。だから、私が高校を卒業した時 こういった先生達はすごく驚いてました。ペッパーダイン大学に入学し、卒業後 特殊教育のアシスタントになる為に 自分が通った中学校に戻りました。そこで 教員達に「私は教師になりたいんだ」と言いました。そしたら、皆の反応は 「え?なんで?」「なんで教師になりたいの?」でした。
私の教師としてのキャリアは、こうして 自分が通った中学校で始まりました。
自分のような生徒を沢山 すごく助けたかったんです。毎年、私は自分が中学生だった時の 話を生徒にします。なぜなら、誰にでも何かしらの経験があり、苦しい経験もある。苦しみを乗り越える上で 人の助けが必要なんだ。そして、そういう時には 私が彼らのそばにいると知ってもらいたいからです。新米の教師の時からそうしたわけです。
ある日 一人の生徒が 私の教室に入って来ました。前の晩 ナイフで刺されたのにもかかわらずに「病院に行った方がいいわよ。」 「保健室でもいい、とにかく何処かに 行った方がいいわよ」と告げると、彼は「先生 僕 行きませんよ。卒業したいから 授業をサボれないんです」 って言ったんです。
この生徒は、自分のこういった 不運な状況の中で 犠牲者になってしまうことを 私が許さないって知ってたんです。
そこで止めてしまわず、前進し続けるしかなかったんです。
私は 生徒達に 安全な場所を作り、彼らの状況を細かく把握し、家族とも関係を築けたらいいなと 思っていました。でも、1600人もの生徒を相手に、それも、毎年教員の入れ替わりが 激しい学校でやるのは無理でした。
そんな中でどうやって 生徒と教師の親しい関係を築けますか? そこで新しい学校を 設立する事にしました。マルチメディアに力を入れる サンフェルナンド高校を設立しました。
資金や支援をきちんと受けられるよう、今までの学区に属するよう設置しましたが、こうすることによって もっと自由な方法が取れたからです。例えば学校の目的に合う先生を雇うとか、カリキュラムを作る自由です。決まった教科書の決まったページを 教えなくても良いんです。
そして、学校の予算を 自由にコントロールでき、お金を最も必要な事に使える。単に学区や州の 言いなりになる必要はないのです。こういった自由が欲しかったんです。でも、やり方をすっかり変えるのは 簡単ではありませんし、まだ完成すらしていません。でも やるしかなかったんです。私たちのコミュニティには 新しい物のやり方があるべきだったんです。ロスアンジェルスの 統一学区内の学校の中で、初めてさまざまな新しい方法を取り入れて 試験的に作られた中学として。
もちろん 私たちに反対する人もいました。それは恐れから来たものです。この人達の計画が間違ってたらどうする? といった恐れからです。
でも ホントに 私たちが完全に 間違ってたらどうしよう? でも もし正しかったら? だから やりました。これには教員も反対しましたが、教員の雇用契約期間は 1年としました。教えるのが下手だったり やる気がない先生は 私の学校で教える 資格はありませんから(拍手)
創立3年目で どのような成果があったか? そうですね、毎日来る価値のある学校にしました。生徒達みんなは 私たちにとって 大切なんだと気づかせました。学校の教科課程を厳しくし、生徒達に適したものにしました。そして、パソコンやタブレットといった 彼らが使い慣れてるテクノロジー、これらは全て学校に用意しました。アニメーションのソフト、映画作成のソフト、これらも全て用意しました。そして、生徒たちがやってる事に結びつけ――例えば、生徒たちはこれらのソフトを使って ガン協会のCMを作ったのです。このCMは地元のトローリー電車内で 流れたんです。説得要素を彼らに教えるのに これ以上 相応しいものはありません。
州レベルの学力テストの点数は、私たちの学校が独立してから 80点以上もあがりました。これは、この学校の成功に 興味を持つ全ての人達――一年任期で雇われている、校長を含めた全ての教員が共に無報酬で残業までして力を合わせてがんばったお蔭なのです。そして「いくつかの規則を守れば、他は 自分達の好きなようにできる 自由があるんですよ」と言ってくれる教育委員会のお蔭でもあります。そして、生徒の親たちのグループが活発に 毎日 学校に出入りするだけでなく、学校の人間の一人となって 子供たちの為に こうした方が良い、ああした方が良いと考えてくれたお陰です。
なぜ 私たちの生徒が わざわざ 自分の家から遠く離れた 学校に行かなきゃならないんですか? 質の良い学校が彼らの家のそばに あっていい筈なんです。あの学校に行ったと誇りを持って 言える学校です。そして、コミュニティーも 誇りに持てる学校です。
そのために 毎日頑張って指導に当たり、生徒達の状況に流されないように 力を貸してくれる先生達が必要なんです。
なぜなら、私みたいな子供が 例外じゃなく 普通になる時が 来たからです。
ありがとうございました (拍手)
刑務所入りを繰り返すギャングの親を持つパール・アレドンドは、治安の悪いイーストロサンジェルスで育ちました。教員のいう事が聞けず沢山の教師に見捨てられましたが、後に自分自身が教師になり、新しく学校を築きました。生徒達に自分が彼らと同じくらいの年齢だった時の話をし、学校の宿題が出来ない状況の時もある、それはそれでいいんだと教えます。