トップドクター対談、今回は金平永二先生と稲木紀幸先生です。
ドイツで最先端の内視鏡外科手術を学んだ金平先生の手術を見て衝撃を受けた
医学生時代の稲木紀幸先生は、金平先生の後輩として大学病院に入局。
金平先生が大学を去った後も、インターネット上のネットワークラボ「ELK」で
同じ志を共有する仲間たちと交流を続けてきました。
内視鏡外科手術の未来を信じ、今も固い絆で結ばれている二人のトップドクターによる師弟対談、開演です!

第1回

逆風の中出会った
二人の内視鏡外科医

『お前はいい目をしている』

金平永二先生と稲木紀幸先生

― お二人がお会いになるのは久しぶりですか。

金平
仕事では結構、会っていますよ。昨日は自宅に呼んで、手料理でもてなしましたが、そういうことをしたのは初めてです(笑)。
稲木
フルコースをご馳走になりました。
金平
料理は好きで、暇さえあれば作るんです。私がほとんど作って、妻はラビオリだけを担当しました(笑)。でもパスタから手打ちしていましたよ。
稲木
先生、いつでも転職できる腕前ですよ(笑)。
金平
いえいえ。
稲木
金平先生との出会いは学会などでもよくお話しすることなんですが、私が大学5年生のときです。5年生で実習が始まり、最初の診療科が第一外科だったんです。第一外科には若くて、頑張っていらっしゃる先生方が揃っている中で、金平先生はドイツ帰りで、内視鏡手術を日本に広めておられるところでした。私は実習中にある先生に用事があり、研究室を訪ねたところ、金平先生がおられたんです。金平先生に「実習で回っている稲木です。○○先生はいらっしゃいますか」と尋ねたら、「○○はいないな。席を外している。お前の名前は何だ」と言われました。「稲木です」ともう一度言うと、いきなり「お前はいい目をしている」と言われたんです。それで、なぜか惹き込まれましたね。
金平
どういう言葉をかけたのかは覚えていないけど、すごく印象に残りました。何が印象に残ったのかというと、第一印象がすごい。目力が強かったのと、顔がアラートでしたね。パワフルな感じと同時に、清々しい、爽やかな感じもあって、サムライっぽかったんです。こいつは若侍だなあと思ったので、素直にそういう言葉が出てきたんでしょうね。将来、外科に入ってほしかったから、少しサービスも入っていたかもしれないけれど、第一印象は鮮烈でした。振り返ってみても、あの第一印象は全く間違っていないという確信があります。
稲木
それから国家試験に受かるまではなかなかお会いできませんでしたね。今は初期研修がありますが、当時は6年生のうちに診療科を決めて、直接、入局する時代でした。私は学生のときから第一外科がナンバーワン候補で、迷った診療科もなくはなかったですが、初心貫徹で第一外科に決めました。

金平永二先生と稲木紀幸先生

― 決め手はどんなことだったんですか。

稲木
学生時代から日本内視鏡外科学会の『JSES』という雑誌を定期的に買って、読んでいたんです。それで、将来的に手術をするなら内視鏡外科をしたいと思っていたので、それが決め手ですね。もちろん、実習のときに金平先生がドイツから持ち帰ったTEM(経肛門的内視鏡下マイクロサージェリー)を見て、鮮烈な印象があったことも理由です。

― 実習で見た金平先生の手術はいかがでしたか。

稲木
その頃の僕らには手術というと、お腹をガバッと切ってするものしか頭になかったので、「何だ、これは」という印象を受けました。あんな機械を使った手術は夢にも思わなかった時代でしたから、何も知らない僕らには強烈でしたね。新しいものに対する、ドキドキわくわくという気持ちもあり、これをしたいと思ったんです。何より、金平先生は僕よりもはるかにサムライでしたね(笑)。
金平
ロン毛だったんです(笑)。肩甲骨ぐらいまで、髪を伸ばしていました。今のような頭になるのを分かっていたわけではないんですけど、何か反抗したかったんですね。32歳から35歳までの間のおそーい反抗期でした。ただ、不潔にしていてはいけませんから、キムタクみたいに後ろでぎゅっと結んで、ポニーテールのようにしていました。「俺はキムタクだ」と言っていたら、皆からは「志村けんだ」と言い返されていましたね。教授に見つかったらまずいので、教授とすれ違うときは後ろを見せないように「おはようございます」と言っていました(笑)。今から25年前ですから、若かったですね。稲木先生とはちょうど一回りの年齢差です。
稲木
僕が97年に医師になって、2002年ぐらいまでご一緒しましたか。
金平
そうだね。僕はドイツから帰って、10年間は医局にいたのかな。
稲木
僕が医局に入って6、7年目まではいらっしゃいましたね。そのあとはフリーターになって、東京に行かれたんです。僕がちょうど大学にいるときが先生がフリーターになるというタイミングでした。

師匠がフリーターに

― フリーターになると告げられたときのことを覚えていらっしゃいますか。

稲木
金平先生は当然、大学にいて、我々を導いてくれる先輩だと思っていましたから、先生から「こうしようと思うんだ」と告げられたときは喪失感というか、焦燥感というか、「金平先生が出られたら、僕たちはどうするんだろう」という気持ちがありましたね。ただ、そのときに用意されていたのがネットワークラボのELKなんです。ELKがあれば、どこにいようがネットワークで繋がれていると知り、一瞬は焦燥感がありましたが、心の繋がりが絶対にあるというのは安心でした。

ELKウェブサイト 画像出典:ELKウェブサイト

金平
ELKは大学を辞めるのと同時に準備しました。大学を辞めて、フリーランスになった経緯は色々なメディアに出ていますが、その前の話があります。内視鏡外科手術はまだ黎明期で、「将来的にはこの手術は消えてしまう」、「一時的な流行りに過ぎない」、「話題性はあるが、ものにはならないだろう」などと言われていたんです。もっとネガティブなところでは「これまで100年、200年と続いてきた外科への冒涜だ」と言う人までいました。内視鏡外科手術は保険収載されていなかったので、全国の病院が一斉に開腹手術として請求していたのですが、それが虚偽申請だということで、返還の命令を出されたりと、暗黒期でもあったんです。黎明期かつ暗黒期ですね。そのような先が見えない中で、それに引き込むことを必ずしもいいと思っていない人も大学の中にいました。それで水面下っぽい感じで、稲木より先に今、国立がんセンターにいる木下(木下敬弘先生/国立がんセンター東病院)を引き込んで、2人で勉強し始めたんです。もう1人、2人欲しいなというときに真っ先に稲木だと。素晴らしい若手だから、将来ずっと一緒に走っていきたいなと思い、頻繁にコンタクトを取って、仲間に引き入れました。それでフリーターになるときも一生懸命やる身近な仲間を募って、ずっと仲間でいようというコンセプトのネットワークラボのELKを作ったんです。
稲木
僕もよく覚えています。今でこそ言えますが、金平先生が医局を去られた頃、医局のような組織ですと、出た者は疎まれる雰囲気がありました。僕は金平先生を師匠としていましたが、弟子が組織にいて、師匠が外に出ているとなると、医局の中では「金平の弟子だろ」といった感じで見られることもありました。でも正しいこと、将来の患者さんにとっていいことをしていることには間違いないので、金平先生がどこにいようが、僕が思うことをやればいいのかなと思ったりしていました。
金平
あの頃、内視鏡外科手術を信じて展開していた人は皆、それなりに辛い思いをしたでしょうね。今から思えば、逆風だったゆえに育ったのかもしれません。病院にはコンサバティブな面がありますし、巨大な規模の病院だと開腹手術で名を馳せた先生方がいらっしゃるので、新しいものにはなかなか飛びつけないし、時間がかかったんです。がんの患者さんが次から次へと来ますから、症例数をこなさないといけない中で、それまでの倍の時間をかけてということはなかなかできません。彼らは必ずしも興味がなかったわけではないのでしょうが、現実的に手を出しにくかったのは確かです。いずれにしても、僕は外に出てしまって、僕が影響を与えた木下、稲木、石田(石田善敬先生/藤田保健衛生大学病院)、前田(前田一也先生/福井県立病院)という若者は大学に残りました。稲木も言ったように、僕の影響を受けたということで辛い思いをしているだろうというのは分かっていましたので、余計に愛おしいんですよ。手術を一緒にという機会はなかなかありませんでしたが、学会に一緒に行って、一緒に勉強したり、国際学会にも行ったりしました。ヨーロッパの色々な国を回ったね。
稲木
そうでしたね。
金平
ドイツ、オランダ、スペイン、ポルトガルとか。そういう旅をして、世界の内視鏡外科のトップスターたちと交わりながら、2人とも育っていったんです。その中で、僕が一番影響を受けたドイツの師匠(Gerhard Buess教授)のところに、稲木にもどうしても行ってほしいと思っていました。

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  • プロフィール
    金平 永二
    (かねひら えいじ)

    メディカルトピア草加病院 病院長
    AMG内視鏡外科アカデミー 代表

【略歴】
京都府出身。1985年に金沢大学を卒業し、金沢大学医学部附属病院や関連病院で外科の研修をする。1991年から1992年までドイツTuebingen大学医学部外科 Gerhard Buess教授の指導のもと、内視鏡外科手術を学ぶ。2002年4月からフリーランス外科医として、患者や病院からの依頼を受け、内視鏡外科手術を行った。依頼手術を行った病院は全国60カ所以上にのぼる。2008年12月に上尾中央医科グループでAMG内視鏡外科アカデミーを発足させる。2012年1月に同グループが新たに建設したメディカルトピア草加病院に院長として着任。また、内視鏡外科道場「アミーサ」を主宰し、若手医師を育てている。

【資格】
日本外科学会専門医
日本消化器外科学会指導医
日本消化器内視鏡学会指導医
日本内視鏡外科学会技術認定医 など。

  • プロフィール
    稲木 紀幸
    (いなき のりゆき)

    石川県立中央病院消化器外科診療部長
    金沢大学先進総合外科臨床准教授
    金沢医科大学一般・消化器外科非常勤講師

【略歴】
1971年福井県生まれ。1997年に金沢大学を卒業し、第一外科(現 先進総合外科)に入局し、金沢大学医学部附属病院で研修医となる。 2004年6月にドイツTuebingen大学医学部外科最小侵襲外科部門 のGerhard Buess教授の指導を受けるほか、、新しい内視鏡手術機器の開発など、様々な活動を展開。 2006年の帰国後は金沢大学大学院医学研究科地域医療学講座助手を経て、2007年に石川県立中央病院消化器外科診療部長に就任。
また、金沢医科大学一般・消化器外科非常勤講師と、2017年からは金沢大学先進総合外科臨床准教授を併任している。

【資格】
日本消化器外科学会がん外科治療認定医・専門医・指導医
日本消化器内視鏡学会専門医・指導医・学術評議員
日本がん治療認定医機構認定医・暫定教育医・暫定胃腸科指導医
日本消化器病学会専門医
日本内視鏡外科学会技術認定医・評議員 など多数。

内視鏡道場 AMESA(アミーサ)

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