古閑比佐志先生と佐々木治一郎先生のお二人は、熊本大学大学院で研究に打ち込んでいました。
基礎研究の大切さをよく知るお二人は「基礎の勉強をすると科学的なものの見方やロジカルな
考え方ができ、それが臨床に効いてくる」と、若手医師に基礎研究に身をおくことを勧めておられました。
また、社会問題になりつつある先端医療と医療経済の問題についても、それぞれの立場から意見を交換されました。
第1回
北里大学病院の
がん研究と診療への取り組み
大学院の仲間
- 古閑
- 先生、今日はどうもありがとうございます。いつも通り、佐々木くんと呼ばせてもらっていいかしらね。
- 佐々木
- はい。宜しくお願いします。
- 古閑
- 僕たちは熊本大学の佐谷先生(※1)のもとで一緒にやっていた。佐々木くんは僕が行く前から行っていて、僕はあとから行った。
- 佐々木
- 1994年ですね。私は1994年から98年まで佐谷ラボにいて、2000年に留学したんです。あの頃は楽しかったですね。
- 古閑
- 面白かったね。
― 佐谷ラボとはどういう研究室だったのですか。
- 古閑
- 当時は特にがん研究では遺伝子変異などを研究するのがとても大切で、佐谷秀行先生の研究室はそのはしりでした。あの頃は腫瘍医学という名前自体もなかった。
- 佐々木
- 国立大学には腫瘍に特化した基礎研究室はなかったんですよ。そのはしりでしたね。あの研究室はもともと寄生虫の教室でした。
- 古閑
- そうだったね。
- 佐々木
- 佐谷先生が30代で教授として熊本に赴任されるときに、僕らが寄生虫のホルマリン漬けみたいなのを全部片付けて、ラボを整備したのを覚えています。
1981年に神戸大学医学部卒業後、神戸大学医学部附属病院で脳神経外科の研修医となる。1987年に神戸大学大学院を修了後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校脳腫瘍研究センターでポスドクを経て、1988年にテキサス大学 M.D.アンダーソンがんセンター神経腫瘍部門助教授に就任。
1994年に熊本大学医学部腫瘍医学講座教授に就任。2003年に組織変更により、熊本大学大学院医学薬学研究部腫瘍医学分野教授に就任する。2007年に慶應義塾大学医学部先端医科学研究所遺伝子制御研究部門教授に就任。
― 佐々木先生はもともと熊本大学の第一内科にいらしたんですよね。
- 佐々木
- そうです。第一内科にいました。当時の第一内科は呼吸器、神経、消化器を専門にしていて、私が入局したときの呼吸器グループ長は助教授(准教授)の安藤正幸先生で、アレルギーがご専門でした。研究として教室内で肺がんをやっているグループはほとんどありませんでした。私が医学生のときに母が肺がんで亡くなり、解剖にまで入ったんです。これは治らないなあと思いましたね。やはり基礎的なことを調べない限り、肺がんには太刀打ちできないと痛感しました。第一内科のそれまでの先輩方は皆さん、国立がんセンターに行っていたんです。第一内科の一つ上の後藤功一先生も国立がんセンターに行きました。後藤先生は遺伝子診断ネットワークのLC-SCRUM-Japanで有名ですね。肺がんの遺伝子変異を調べ、患者さんを治験に振り分けていくシステムを作った人です。私もこのまま臨床でやっていってもブレークスルーは難しいのではないかと思い、最初は東大の医科研に行きたいと安藤先生に言っていたんです。そうしたら、そういう教授が熊本大学に来るからと言われ、いらっしゃったのが佐谷先生。本当にラッキーでしたね。
- 古閑
- 当時、熊大で腫瘍をやりたいという、やる気のある人が皆、佐谷研に来ていたもんね。
- 佐々木
- そうですね。基礎の研究室だったけど、ほとんど臨床出身の人が集まっていました。
― 佐谷先生も臨床出身の方なのですか。
- 佐々木
- そうです。佐谷先生は神戸大学の脳神経外科医だったんです。それで、古閑先生がご存じだった。
- 古閑
- そうそう。佐々木くんたちは熊大で佐谷先生と知り合ったけど、僕は脳神経外科医として、佐谷先生を知っていた。佐谷先生はM.D.アンダーソンがんセンターにいらしたので、そこに留学したいと思って、手紙を書いたんだ。そうしたら、「熊大の教授に決まったから、熊本に来ないか」と言われて、では熊本に行こうかと。留学したかったわけではなく、佐谷先生のところに行きたかった。
- 佐々木
- それはよく分かります。古閑先生は琉球大学からいらっしゃいましたね。
― お二人の出会いの頃の印象をお聞かせください。
- 佐々木
- よく喋る人だなあと思いました(笑)。皆、そう思っていましたよ。僕も結構、喋るんですけど、古閑先生のテンションは違っていました。学年が少し上でいらっしゃったのですが、バイタリティが半端なかったです。熊本でパラグライダーをやったり。大学時代はウィンドサーフィンをしていらしたんですよね。
- 古閑
- うん。今だったら、夜中に仕事をするのはブラック企業だとか言われるけれど、あの当時は夜中までやっていた。
- 佐々木
- 三交代制でしたね。日勤、準夜勤、夜勤とか言っていました。
- 古閑
- 皆、好きでやっていたしね。
- 佐々木
- 好きでやっていましたねえ。本当に楽しかったです。今は結果主義と言いますか、学位を取るために大学院に進学するという感じですが、僕らが佐谷先生と一緒にやっていたのはこの人についていきたい、佐谷先生は神輿の上のボスだという気持ちからでした。この人についていけるなら、別に論文が出なくてもいいやみたいな雰囲気でした。10年後ぐらいにこの教室から『Cell』に論文が出て、佐谷先生はその頃には40代だから東大か京大の教授になっていただけるように頑張ろうと、皆で熊本城のビアガーデンで「かんぱーい」とか言っていたんです(笑)。それはまだ古閑先生がいらっしゃる前でしたが。
― お二人は熊本でどのぐらいご一緒だったのですか。
- 佐々木
- 2年ぐらいですね。
- 古閑
- そうそう。僕が熊本に行ったのは佐々木くんたちが部屋を綺麗にしてくれたあとだった。あの頃はインターネットもできたばかりで、今みたいにWi-Fiではないから、配線がないといけない。佐々木くんたちはそれもやってくれていた。
- 佐々木
- それは脳神経外科の連中がやりました。僕はペンキ塗りをしました(笑)。
- 古閑
- そうだったね。
- 佐々木
- 床に防水シートを貼って。
- 古閑
- ものすごく古い建物だったもんね。
- 佐々木
- 今はもうなくなりましたよ。大学病院と産業道路を挟んで向かい側の建物でした。
- 古閑
- ああいう何もない環境でやったというのはどこでもやれるという、僕たちの根底の力強さになったね。
- 佐々木
- 立ち上げが好きになりましたよね。その後、熊本大学にできたがん診療センターの初代センター長をやれと言われたときも熊本のがん診療のシステムを作るというのが楽しかったし、北里に移っても同じです。北里では新病院の立ち上げを経験しました。立ち上げマニアのようになりましたよ(笑)。
― 古閑先生も岩井整形外科内科病院で立ち上げをなさいましたね。
- 古閑
- 最近、岩井整形外科内科病院でPELDセンターを立ち上げた。僕のところの病院は小さな病院だけど、特殊な治療法をやっているよ。今日は佐々木くんに色々と聞きたい。まずは新世紀医療開発センターとはどういうものなの?
北里大学医学部附属新世紀医療開発センター
- 佐々木
- 僕はこのネーミングをすごく気に入っています。実はこの新世紀医療開発センターができた経緯に北里研究所が100周年だったことがありました。北里大学の悲願はノーベル賞を取ることでした。北里柴三郎先生が逃したノーベル賞を取るような研究をして、しかも北里先生は実学主義で、患者さんの役に立つような研究でないといけないという教えがあったので、それを臨床の中でやっていこうと。北里の若手の中に内視鏡がスペシャルにうまい人とか、薬物療法に詳しい人とか、緩和ケアのスペシャリストとか、そういう人たちがいるのですが、そういう人たちをあえて教授や准教授にして、新病院の中で新しい治療開発の研究をやっていこうということでできたんです。「新世紀」というのは「次の100年」という意味なんですよ。
- 古閑
- そうなんだ。
- 佐々木
- 20世紀や21世紀ではなく、「100周年のあとの次の100年」にそういうことをやっていこうと。新病院のための人材を医学部としても確保するという作戦や戦略も多分あるのだと思います。20人の教授の枠があり、今15、16人埋まっていますが、小児麻酔のような特殊な領域の先生も入っています。残念ながら一人教授ですから、スタッフはいないんですが、そういうポジションだからこそ発言できることもあるので、気に入っています。
- 古閑
- 特殊な能力を持っている若い人たちにオポチュニティを与えるという構想を作った人はどなたなの?
- 佐々木
- 新病院プロジェクトを進めた北里大学病院長をはじめとする病院執行部と、医学部長をはじめとする医学部教授会、および理事会の総意であったようです。たぶん、新病院を作るにあたってはこれが必要だと、病院側と医学部側が協力して理事会の承認を得たのだと思います。いわゆる論文のような業績ではなく、診療技術やノウハウが重要視されています。もちろんある程度の業績は必要ですが、そういう意味では私にとっては有り難いです。
- 古閑
- でも人の評価って、難しいじゃない? 論文だけで評価するのは雑誌もあるし、本数もあるから簡単だけど。
- 佐々木
- 面接でも分からないですよね。僕も入試のときに受験生の面接を担当していますが、皆、いい子に見えるし、難しいです。
熊本大学から北里大学へ
― 佐々木先生はどういうご縁で北里大学に移られたのですか。
- 佐々木
- West Japan Oncology Group、WJOGという西日本の臨床試験グループに入っていたんです。私は留学から帰ってきて、臨床試験に積極的に症例を入れたり、毎月1回は大阪に行っていました。そこでお会いしていた益田典幸先生が北里大学の呼吸器内科の教授でした。益田先生も大学院は基礎で、鹿児島大学にいらっしゃったんです。微生物で学位を取得されたのち、羽曳野病院で肺癌診療に従事され、抗癌剤として有名なイリノテカンの開発に携わられた方です。自分では気づきませんでしたが、僕がしている仕事をご存じだったんですね。僕も月に1回、大阪に行くたびにだんだん疲れていったんですよ(笑)。それを見ておられて、「辛そうだから、こっちに来ない?」と誘っていただきました。
- 古閑
- すごいね。
- 佐々木
- 最初は子どもも小さかったのでお断りしていたのですが、3年ほど経ったときに、一番下の子どもが小学4年生になったので、「お父さん、北里に呼ばれているんだけど」と言ったら、「東京なら住んでいい」と。本当は神奈川県なんですけど(笑)。
- 古閑
- 北里大学(病院)は神奈川県だよね(笑)。
- 佐々木
- 仕方ないので、町田に住んでいます(笑)。町田市は東京都ですから。それで家族、皆で来ました。
- 古閑
- そうなんだ。
- 佐々木
- 北里の人たちは珍しいとびっくりしていました。呼ばれて行っても、大体は単身赴任ですし、九州からの人は少ないですしね。
- 古閑
- 北里大学は慶應の人が多いの?
- 佐々木
- 北里柴三郎先生が慶應の医学部の初代学部長だったこともあり、もともとは慶應の人が多かったのですが、今は随分、東大など国立大学出身も増えています。
- 古閑
- でも、新世紀医療開発センターは色々なところから来ているんでしょう。
- 佐々木
- そうですね。北里の人も外からの人もいます。
- 古閑
- この対談のテーマの一つは若い人たちのオポチュニティをエンカレッジすることなんだけれど、北里はそういうところだね。
- 佐々木
- 北里大学に医学部ができて、来年50年になります。ちょうど学園闘争の頃にできたんです。だからか、医局制ではないことにびっくりしました。3、4年目の医師の部屋は今もタコ部屋ですし、僕も教授ですが、2人制の相部屋なんです(笑)。主任教授だけが一人部屋で、それ以外の教授や講師は一つの部屋にいます。それがすごくいいんです。
- 古閑
- 横断的な会話ができるもんね。
- 佐々木
- 普通の中核病院の医局みたいな感じで、隣の循環器の医師に、困った症例の相談ができるんです。その伝統は崩さないようにしようということで、新しくできた臨床研究教育棟も結局、タコ部屋になりました。一部の主任教授からは講座制での医局単位の部屋を作ってほしいとの要望があったと聞いていますが、結局「タコ部屋」の伝統を守るべくそうなりました。すごく楽しいらしんですよ。
- 古閑
- 大学は肩書がたくさんあるよね。新世紀医療開発センターは医学部の中の組織だから、教育という立場なんでしょう?
- 佐々木
- そうです。それと研究です。
北里大学病院集学的がん診療センター
- 古閑
- そうだよね。佐々木くんのもう一つの立場として、集学的がん診療センター長があるけど、これは病院サイドってことだよね。
- 佐々木
- そうなんです。がん診療連携拠点病院には腫瘍センターが必要なのですが、今までの北里にはそういう機能がなかったんです。当初は集学的がん治療センターということで計画されていたのですが、がん登録とか、がん相談支援などをマネジメントするところが必要なので、「診療に変えてください」と言って、そういう機能を与えてもらいました。
- 古閑
- そちらの仕事もあるから、スタッフもいるよね。
- 佐々木
- スタッフは医師が一人、消化器内科から来てくれて、主に通院治療をしています。僕はほとんどマネジメントで、がん相談支援、がん登録、レジメン(治療計画)管理をやっています。レジメン管理には優秀ながん専門の薬剤師さんがいます。また、北里大学病院は日本で断トツにがん専門看護師が多く、16人います。がん専門看護師の一期生である近藤まゆみさんはまた熊本繋がりなんですけど、彼女ががん相談支援をリードし、僕は何かあったときに責任を取ればいいという立場ですので、すごくやりやすいです。がん登録に関しては北里の診療情報管理室が非常に優秀で、がん登録専門のスタッフを2人つけてくれていますので、安心です。今日もクリニカルインディケーターの会に行ってきて、臨床指標を色々なベンチマークでやりましょうという話を聞いたのですが、そういう場所に顔を出すのも仕事の役に立ちますね。
― 外来もなさっているのですか。
- 佐々木
- 肺がんの専門家ですので、呼吸器内科の外来を担当しています。呼吸器内科に協力する医師として、「呼吸器内科の佐々木治一郎」でやっています。もう一つが「麻酔科の佐々木治一郎」で、こちらでは緩和ケアの専門外来を行っています。
- 古閑
- 緩和ケアは麻酔科だよね。
- 佐々木
- 当院の場合は、「緩和ケア専門外来」麻酔科で標榜することになっているんですよね。標榜がないと看板を上げられないですから、難しいです。どこで会計をするのかという問題があります。
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プロフィール
古閑 比佐志
(こが ひさし)
岩井整形外科内科病院
副院長/教育研修部長
【略歴】
1962年千葉県船橋市生まれ。1988年に琉球大学を卒業し、琉球大学医学部附属病院で研修。
国内の複数の病院で脳神経外科医として勤務ののち、1998年にHeinrich-Pette-Institut fur Experimentelle Virologie und Immunologie an der Dept. of Tumorvirologyに留学。2000年に帰国後は、臨床と研究を進め、2005年にかずさDNA研究所地域結集型プロジェクト研究チームリーダーを経てかずさDNA研究所ゲノム医学研究室室長。
2009年より岩井整形外科内科病院 脊椎内視鏡医長として勤務、2015年より現職。
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プロフィール
佐々木 治一郎
(ささき じいちろう)
北里大学医学部附属新世紀医療開発センター教授
北里大学病院集学的がん診療センター長
【略歴】
1964年熊本県生まれ。1991年に熊本大学を卒業し、1998年に熊本大学大学院を修了。
2000年から3年間、米国MDアンダーソンがんセンターで肺がん基礎研究に従事する。2004年に熊本大学医学部附属病院に勤務する。
2007年に熊本大学医学部附属病院がん診療センター長に就任し、肺がんの診療に加え、がん診療地域連携やがんサロンの普及活動に従事。2011年4月に北里大学医学部に准教授として着任。2014年2月に北里大学医学部附属新世紀医療開発センター教授に就任し、北里大学病院集学的がん診療センター長を兼任している。
CONTENTS(全5回)
- 第1回 北里大学病院のがん研究と診療への取り組み
- 第2回 若い人こそ一度は! 臨床にも活きる基礎研究のススメ
- 第3回 最先端のがん遺伝子検査による個別化治療
- 第4回 先進医療と医療経済について考えてみよう
- 第5回 病院を存続させて若い世代に繋いでいくために
トップドクター対談 バックナンバー
- 第4回
基礎研究を経験したトップドクター対談
Dr.古閑比佐志×Dr.佐々木治一郎 - 第3回
内視鏡外科トップドクター 師弟対談
Dr.金平永二×Dr.稲木紀幸 - 第2回
内視鏡外科・総合内科トップドクター対談
Dr.古閑比佐志×Dr.徳田安春 - 第1回
内視鏡外科トップドクター 同級生対談
Dr.福永哲×Dr.古閑比佐志