石巻赤十字病院で勤務されるようになった経緯をお聞かせください。
岩手県立遠野病院に行くときは1年と聞いていたのですが、結局3年が経ち、4年目になるときに、第二外科の医局長から「そろそろ動かす」と言われたんです。それで「どこですか」と聞いたら、「岩手県立北上病院か石巻赤十字病院を考えている」と言われたので、「選べるのなら、石巻にします」と言うと、その通りになりました。
石巻赤十字病院に着任されてみて、いかがでしたか。
石巻市は仙台近郊の街ですし、石巻赤十字病院は最先端の医療レベルの病院でした。腹腔鏡下の手術や大動脈瘤などの大手術が毎日のように行われていたのです。診断のための読影にしても、遠野病院ではCT画像フィルムを昔ながらのシャウカステンにかざして見ていたのですが、石巻では最新の端末でパラパラ漫画のようにコマ送りで見ていました。私の知識や技術は古びていたんですね。完全に浦島太郎状態で、そのギャップにとても苦労しましたし、病院を辞めたいとまで思いました。そして、その気持ちに追い打ちをかけてきたのが上司の金田巖先生でした。
金田先生からどのようなご指導があったのですか。
提供元:石井正
「お前は駄目だ」と2年ぐらい言われていましたよ。金田先生は誰に対しても「お前の手術を見ていると、目が腐る」とか言う人なんです。今だとパワハラですが、途中で臨床研修制度が始まり、初期研修医には妙に優しくなられたのを見て、皆が「何だよ」と思っていましたね(笑)。金田先生が退官されるときの記念パーティーに弟子が集まったのですが、皆が「金田先生にこんなことを言われた」とスピーチし、爆笑に次ぐ爆笑で、ものすごく盛り上がりました。上司には「俺にとって得なことをする」人と「正しいからする」人の2通りがあると思います。これは私の人物評価の判断基準になっていることでもありますが、金田先生にしろ、東北大学病院の冨永悌二病院長にしろ、「正しいからする」人なんですね。だから金田先生には酷いことを言われても、弟子がついていくんです。金田先生は甲状腺手術の天才で、いまだに金田先生よりうまい人を見たことがありません。
オーダリングシステムを改造する
2005年に国立がん研究センターにいらしたのはどういう経緯ですか。
金田先生に外来化学療法を勉強してこいと言われたからです。がんセンターで「がん外来化学療法研修」が開催されていたので、内地留学のような形で3カ月の修行に出ることになりました。2005年はがんの化学療法が入院から外来へと変わっていく頃で、その仕組みを学んでくるのが目的でした。がんセンターで見た最新の化学療法は標準治療に基づくオーダリングプロトコルで、薬剤の量や期間、サイクルがプログラム化されていました。電子カルテ経由でないと予約もできませんので、ミスも起きません。このオーダリングシステムを石巻赤十字病院で実現したいと、石巻に帰ってから1年をかけて電子カルテシステム改造していったんです。
どのようなシステムになったのですか。
ベースは電子カルテに組み込まれていたクリニカルパスソフトです。普通のオーダリング画面からは抗がん剤をオーダーできないようにしたり、体表面積あたりの量が自動的に入るようにしたり、自己流の投薬をすることを禁じるシステムにしました。SEさんとはページの遷移や右クリックの仕様まで決めていきました。東北大学では数千万円をかけたということでしたが、石巻ではわずか150万円で実現したんです。これで金田先生の私への評価は大きく変わりましたね(笑)。それまでは「お前は補欠だ」みたいな扱いだったので、外科医を辞めようと何度も思っていたのですが、「お前はマネジメントやシステム作りは得意なんだな」という評価になったようです。金田先生はこのシステム構築やコストダウンだけでなく、私が外科医仲間や看護師、SEの中に入っていって、現場で対話をしながら仕事を進めていった姿勢を評価してくださったのですが、私自身もテニス部で練習メニューを決めるのが得意だったという理由で副キャプテンに任命されたことを思い出しました。このあたりから、私の業務はドラスティックに変わっていきました。
「現場で状況を見極めながら指揮を取って、組織を動かす」というお仕事が始まっていったんですね。
金田先生から「病院が赤字で、俺は明日から病院の経営にあたるから、お前が外科をみろ」と言われました。手術の予定や主治医を決めたり、チーム制をどうするかといった、外科診療の指揮ですね。それから金田先生は外来でのCTや採血検査の見逃しがないように、ダブルチェックをお一人でなさっていたんです。そんな先生、いらっしゃらないですよね。「それもやれ。でもお前一人では大変だから、石橋と初貝と3人でシェアしろ」と言われたので、ダブルチェックに関しては今の院長である石橋悟先生と後輩の初貝和明先生(現 南三陸病院長)と一緒に行い、外科の取りまとめを私が担うことになりました。
医療社会事業部長になる
2007年に医療社会事業部長に就任されました。
地方の病院あるあるなのですが、乳腺外科が外科から独立することになったんです。喧嘩別れではなく、新たな診療科として立ち上げることになり、私の2学年上の古田昭彦先生が乳腺外科専門でしたので、その立ち上げを担当されることになったんです。それまでは古田先生が医療社会事業部長を務めていらしたのですが、金田先生から「古田は忙しくなったから、お前やれ」と言われました。そのときは「また俺かよ」と渋々という気持ちでしたね(笑)。でも上から言われたことは「はい、分かりました」と言えというタテ社会の教育を受けていますので、お引き受けしました。ただし、外科業務はこれまで通り自分が引き続き担当することになりました。古田先生は国際救援の資格もお持ちで、ハイチなどで活動してきた先生です。私は留守番をしていた側の人間でしたし、赤十字病院に勤務したのも初めてでしたが、災害救護のような業務を行うのが赤十字病院の役割なので、引き受けるからにはベストを尽くそうと思いました。2007年は外科のマネジメントに加え、災害救護の業務も加わった年でした。
それからマニュアルを作っていかれたのですね。
近藤久禎先生がいらっしゃる災害医療センターのDMAT研修時にいただいた同センターのマニュアルを1ページずつ、石巻赤十字病院用にアレンジしていきました。こういう組織では責任の所在と権限の明確化が重要なのですが、これは災害医療センターのDMAT研修で教わったことです。そこで、マニュアルには「トリアージの赤部門は○○先生」というふうに、実名を書き込みました。担当者が1人だと「学会出張でいません」という事態もありえるので、2人置くことにしました。そうすると、担当者はマニュアルを読みますし、読めば何をするべきなのかが何となく頭に入るという作戦です。これはその後、東北大学病院のマニュアル作成でも踏襲しました。ただ大学病院には1000人以上の医師がいて、転出入も頻繁なので、医師の実名を入れることは避け、「副院長がこれをする」といった役職名を入れたマニュアルにしました。
石巻赤十字病院ではどのようなメンバーでマニュアルを作られたのですか。
これは講演でもよく話すことなのですが、一番まずいパターンは「災害に興味のあるスタッフ有志が勤務後に集まって作りました」というマニュアルです。そんな勝手に作ったものを読む人はいないし、上層部が取り入れる保証もないので機能しません。これを講演で話すと嫌な顔をされますね(笑)。そこで、私は金田先生にお願いし、院内にマニュアル小委員会を作って、そこに看護師、薬剤師、事務方などの多職種に病院業務として集まってもらい、災害医療センターのマニュアルを1ページずつプロジェクターに映して、ここをどうする、ああすると話し合うことにしました。長い時間にだらだらと話し合うと疲れるので、「必ず1時間で終わる。その代わり2週間に1回は必ず集まる」というルールも作りました。2週間に1回だとインターバルがありますので、それぞれの部署に持ち帰って議論ができます。こうしてマニュアルを作っていくと、各部署の意見を取り入れた、業務として作成したマニュアルですので、院内コンセンサスを得やすいのです。1年をかけて、マニュアルを完成させました。
訓練はどのように進めていかれたのですか。
提供元:石井正
マニュアルはツールや手段であって、マニュアル作成が目的なのではありません。このマニュアルがきちんと機能するのかどうかを検証するために、年に1回の訓練をすることにしました。その訓練も市町村の訓練のような、発言の原稿まで決まっているものではなく、ハーフブラインド型の訓練です。ブラインド型の訓練は訓練開始日時を事前には公表しないのですが、ハーフブラインド型の訓練には私たち運営スタッフが作ったシナリオがあり、訓練開始日時だけは事前にお知らせするものです。ただし、そのシナリオの内容はプレイヤーには教えません。シナリオには何時何分に自衛隊機が来る、何時何分に模擬患者を導入するといった細かい時間設定をしておきます。そしてプレイヤーとなる参加者を募り、実施日と集合時間だけを伝えます。集合時間になると、病院長が「はい、今、地震が起きました。どうしますか」と挨拶して訓練を始めるのですが、大体ぐだぐだになるんですね。訓練後にそのぐだぐだになった原因を検証し、それをマニュアルに取り込んでブラッシュアップしていくことを繰り返しました。
ほかに取り組まれたことはありますか。
医療社会事業部長に就任以降、色々な会議に出るようになり、「宮城県沖地震が30年以内に起こる確率は99%、その場合、石巻を直撃する確率は80%」と聞く機会が増えました。もし宮城県沖地震が発生すれば、その当日に石巻赤十字病院に来院する患者数は3000人と予想されていました。これに対応するには近隣病院、医師会、行政、警察、消防、自衛隊との連携が不可欠になりますので、石巻赤十字病院が幹事役となって、これらの組織の災害担当者で構成する石巻災害医療実務担当者ネットワーク協議会を立ち上げました。さらにはNTTドコモショップ石巻店や積水ハウス仙台支店といった民間企業とも災害時の支援協定を結びました。
2011年2月に宮城県災害医療コーディネーターを委嘱されました。
石巻市医師会から「先生、推薦しておいたから」と言われたのですが、これはそれまでの活動が認められたからだと思います。宮城県では6人目で、私は沿岸地域の担当になりました。私は最悪の事態を想定しつつ、ハードやライフラインの保全、初動体制の確立、関係機関との連携強化などの準備、リアルなマニュアルの整備、リアルな訓練を実施していきました。