先生が宮城県災害医療コーディネーターを委嘱された1カ月後の2011年3月11日に東日本大震災が起きました。先生は手術中だったそうですね。
転移している肝臓がんの手術がちょうど終わり、出血がないかどうか確認するドレーンを入れているところでした。手術後に出血すると良くないのでドレーンを入れておき、出血がなければ、翌日抜くのです。そこで揺れが来たので、それ以降の処置を助手に任せ、マニュアル通りに災害対応に突入しました。
大きな地震だというのはすぐに分かったのですか。
分かりました。感じたこともないような大きな縦揺れが2分ぐらい続きました。後にも先にもあのような揺れ方は体験したことがありません。
災害対応に入られた直後はどのような感じでしたか。
提供元:石井正
職員の皆さんはマニュアル通り、訓練通りに動いていました。訓練は年に1回しかしていないのですが、「宮城県沖地震は30年以内に99%の確率で来ると仙台市のホームページに書いてあるよ」と繰り返し言っていたので、あとで聞いたところ、職員の皆さんは「何でこんな地震が来たんだ」とは誰も思わず、「今日がこの日なんだ」「今日が本番なんだ」と思って粛々と行動したらしいです。単純な話ですが、第一の作業としてはBCP(Business Continuity Plan)の考え方と同じで、各部署が被害状況や安全を確認して、本部に報告することです。第二に外からやってくる傷病者にどう対応するかということで、トリアージエリアを立てましょうということですね。これを地震発生から57分ほどで立ち上げたことをあとから「すごい」と言われたのですが、訓練では40分ぐらいでやっていたので、いつも通りやっただけという感じでした。その日に搬送された急患数は99人に過ぎなかったのですが、翌日は水が引けたと同時に、全国から応援の救急車や自衛隊車両が投入されたこともあり、779人の急患数がありました。
トリアージエリアをどのように設置されたのですか。
マニュアル・訓練どおりに赤エリア(最優先治療群)を救急外来に、黄エリア(待機的治療群)を玄関入ってすぐの赤十字プラザというロビーに設置しました。緑エリア(保留群)はマニュアルでは建物外にテントを設置し、そこに展開することになっていたのですが、寒かったのでこれも赤十字プラザに設置することにしました。赤十字プラザは総合受付や外来患者さんのための待合室があるところですが、ロビーの椅子を片付け、そこに簡易ベッドを運び込んで、トリアージの緑色と黄色のビニールシートを床に敷きました。緊急用の簡易ベッドは20台、点滴用のスタンドも用意し、スタッフはビブスを着用しました。ビブスはトリアージの色や職種で色分けされており、自分の役割も書いてあります。私は災害対策本部の青のビブスでした。そしてトリアージエリアが設置されると、外来診療が中止になりました。
石巻圏合同救護チームを立ち上げる
石巻赤十字病院には全国から支援部隊が訪れ、先生はそれを束ねられたんですよね。
そうです。12日午前2時半に八戸赤十字病院、1時間後に長岡赤十字病院、早朝5時半に足利赤十字病院の救護チームが到着しました。長岡赤十字病院の内藤万砂文先生は災害救護のエキスパートで、それ以降、長く支えていただきました。その日は17チームが到着しました。
避難所の情報はどのようにして分かったのですか。
発災当日には伝聞情報で津波が来ていることは分かっていました。13日になると、石巻医療圏内の情報が少しずつ明らかになりました。雄勝町、東松島市、石巻市の南浜地区が大きな打撃を受けていることが分かり、15日には北上町、牡鹿町、女川町が壊滅しているという情報も入りました。16日に石巻市役所周辺の道路の水が引き始めたので、内藤先生と日本赤十字社医療センターの林宗博先生が市役所に偵察に行き、石巻医療圏内の避難所リストのコピーを入手してくださったんです。そのリストによると、避難所はおよそ300カ所、約5万人が避難していることが分かりましたが、避難所名と避難者数しか分からず、食糧事情やライフライン状況、傷病者数や傷病の内訳も分かりませんでした。300カ所と5万人という数字のみではどの避難所にどのような医療ニーズがあるのか、分かりません。でも、このままですと、避難所で助かるはずの生命が助からなくなります。そこから「避難所アセスメント」に繋げていきました。
DMATについてはいかがでしたか。
DMATもすぐ来ましたが、当時はDMATの最大活動時間は72時間というルールがあったので、早く帰ってしまいました。このルールは今は撤廃されています。それで発災から1週間の時点で石巻赤十字病院に残っていたのは日赤救護班の16チームという状況でした。このようなオペレーションは指揮命令系統のもとで動くので、窓口を一本化することが効果的です。インターネットも落ちていましたので、情報も簡単には手に入りません。石巻市内は壊滅しており、車が積み上がっていたり、映画で見たような光景が広がっていました。何がどうなっているのか分からないときに、本気で来ている救護班がたまたま目についた学校などの避難所にわあっと入ってきて、「手伝いましょうか」と始められても効率的ではありません。だから戦略を立てて、どういう形で救護するのかを決めましょうと、派遣元の赤十字病院、医師会、薬剤師会、東北大学などにアプローチしました。その結果、石巻市に入る救護チームは必ず石巻赤十字病院で登録していただくことになりました。そして、石巻圏を14のエリアに分け、長期滞在できる救護チームを各エリアの幹事に指名し、避難所の医療や管理を任せました。一方で、石巻赤十字病院では救急患者さんを救命救急センターが担当し、軽症や中等症の患者さんは支援に入ってくれた救護チームに担当していただくことにしました。
救護チームを束ねていく際、気をつけておられたことはどのようなことですか。
提供元:石井正
救護チームは寄せ集めチームなので、1つの班は3日ぐらいしたら地元に帰るわけです。そこで「石巻は良くなかった」と悪く言われてしまうと、気仙沼などのほかの活動エリアに行ってしまい、石巻への第2班が来なくなります。本来なら救護チームは自己完結が基本で、食料や寝るところを全て自分たちで用意してくるのがこの業界のルールなのですが、必ずしもそうでないチームもありました。「どこに泊まったらいいんですか」「ご飯は出るんですか」と言われて、もしも「自己完結だろ」と無視すると、「何だよ」と言われるのを恐れました。そこで寝泊まりするところを手配したりして、石橋悟医師(現 石巻赤十字病院院長)とおもてなしに徹し、「旅館の女将」と自称していました(笑)。ときには私自身がごみを片づけたこともありました。でも、こちらが「お世話をする」というスタンスだと、彼らは達成感や満足感を持って地元に帰りますし、「石巻は活動しやすいから、また行こうよ」とリピーターになってもらえるのです。色々な要望が出ましたが、なるべく要望に応えるようにしました。中には避難所に炊飯器を寄こせという要望もありましたね。ある避難所では水と電気と米はあるけれど、炊飯器がないというわけです。そこで医局のものをお貸しすることにしました。医局にいた研修医たちに「これを渡すけど、文句ある人は」と聞くと、「いいですよ」と言うので、「持っていけ」と渡しました。誰も文句は言わなかったですね。