2012年10月に東北大学の教授に就任され、診療科も外科から総合診療科に変わられました。
震災から1年が経って、私は外科に戻り、普通に手術もしていました。ある日、昼食をとっていたら、「消化器内科の下瀬川徹教授からお電話です」と言われたんです。下瀬川教授とは面識がないし、消化器内科がご専門だけに、私が手術で失敗したか、何かを見逃したのかと青ざめながら電話に出たら、「大学で新設のポジションを考えている。応募してみないか」と言われました。「今、東北大学がマネジメントしている宮城県内の被災地が傷ついているから、それを立て直すのを手伝ってほしい」とのことで、驚きました。しかも立場は正規の教授ということで、さらに驚きました。
そこまで驚かれたのですね。
そもそも私の唯一の自慢は大学で一度も給料をもらったことがなく、無給医局員のままで大学を出たということだったんです(笑)。私は雑草育ちで苦労しているのだということを売りにもしていたし、大学に対する反発がなかったわけでもなく、大学は実家ではありますが、敷居の高い実家というイメージでした。それで石巻赤十字病院の金田巌院長に相談に行きました。
金田先生は何とおっしゃいましたか。
提供元:石井正
「やめろ」と言われました(笑)。でも、あとから「お前を手放したくなかった」とお聞きし、手前味噌ながら嬉しくなりました。それで東北大学病院の病院長であり、第二外科の親分である里見進教授に相談に行くと申し上げると、「応募してみたら」と送り出してくれました。それで大学に相談に行きました。里見先生ともう1人の第二外科の大内憲明教授のお2人にお会いしてご相談したところ、お2人とも「いい話じゃないか。チャレンジしてみたらいいんじゃないか」と言われたので、教授がそうおっしゃるならということで、お受けすることにしたんです。
それで教授選となったのですね。
正式に公募された教授選に応募しました。教授選の前に教授選考委員の前で今後の地域医療についてプレゼンをしました。ある教授から「教授になる覚悟はあるのか。教授職は大変なんだよ」と言われ、「もし教授になったら頑張ります」と煮え切らない返事をしたことは覚えています。その後、教授選において2/3以上の得票を得て、教授に選任されました。
教授としての毎日はいかがですか。
私は総合診療の専門家でもないし、研究業績があるわけでもないのに、正規の教授として受け入れるというのは東北大学医学部の歴史で後にも先にもないことでしょう。ある意味、何百年に一度の震災があって、それを契機に教授になったような感じなので、大学で「お前なんか教授として認めない」と一部の人に言われるのではないかと覚悟していました。でも皆さんからよくしていただいています。先日、片桐秀樹教授のところに新型コロナウイルスだったか、災害医療のことだったかで相談に行ったときに、片桐教授から「大学に戻ってきて良かったですか」と真顔で聞かれたので、「遣り甲斐のある仕事を与えてもらって、感謝しています」と答えたんです。片桐教授は糖代謝やエネルギー代謝の恒常性を維持するメカニズムとして、神経系を介した臓器間ネットワークを世界で初めて発見した東北大学のエースであり、研究のトップランナーです。そんなノーベル賞候補の先生から「私たちは先生に来てもらって、本当に良かったと思っている」と言われ、とても嬉しかったですし、少しは役に立っているんだなと実感しました。その意味では大学にいる以上は基礎研究、臨床研究もきちんとやっていこうと思っています。新型コロナウイルス感染症でもドライブスルー外来で15000人以上を診てきましたし、軽症者療養施設のオンコールを担当してますので、入所者データを活用し、倫理委員会を通したうえでさまざまな臨床研究をしています。私自身も興味がありますし、知的好奇心を持って、アカデミックなことへの知的探究を深めていきたいですね。教授になるまで、私は英語の論文はあまり多くなかったんです。今は170本以上ありますし、私どもの教室では年間30本ほどの英論文を発表しています。
お子様方についても、お聞かせください。
長女は歯科医師になりました。長男は医師となり、初期研修をしています。長女が研修病院を受験するときに、私が志望理由書を3時間ぐらいかけて添削したら合格したので、それを見ていた長男からも添削を頼まれました。私は英語は苦手ですが、読書が好きなせいか日本語でロジックを組み立てた文章を書くのは得意なんです。私とは反対に、末っ子は英語が得意で、関西の大学で英語を専攻しています。TOEICも高スコアですし、翻訳のアルバイトを頼んだりしています。
メッセージ
先生はもともとコーチングに興味がおありだったわけではないんですよね。
全然なかったですよ。2006年に国立がん研究センター中央病院に研修に行ったのがきっかけで、がんセンターのような仕組みを石巻赤十字病院でも作れと言われたから「はい、分かりました」と言っただけで、積極的にマネジメントをしたかったわけではありません。私は受け身の人生なんです(笑)。自分で「やりたい」と言うのではなく、「はい、分かりました」とやってみたら、そういうことに向いていたのかなと震災のときから思っていました。今回の新型コロナウイルスにしても、研究なら研究室単位、病院なら診療科単位となるところですが、それを横断するような対応が求められるんですね。そういう対応はやはり総合地域医療教育支援部の仕事なのではないかと、私どもの教室員は考えているので、皆が一生懸命に取り組んでいます。
それでは若い先生方にメッセージをお願いします。
提供元:石井正
石巻は震災で粉々になりました。震災当時、私は普段の忙しさにかまけて医師になったときの初心を忘れていました。それは「人の役に立ってなんぼ」というものです。医師はその気になれば、人の役に立ちやすい職種なんです。当時はボランティアの人たちも来ていて、その中には医師でない人たちも大勢いました。そういう人たちは来たのはいいのですが、「私たちは何をして役に立てばいいのか分からない」と言っていましたし、働き場所を見つけるのにも苦労していました。しかし医師は被災地に来ればすぐに役に立ちますし、「よく来てくれた」と言われます。その気になれば、役に立てる。そのような仕事ということは知っていてほしいと、学生にはよく言っています。それから医師とは身分ではなく、職業であり、立場であり、役割です。身分だと思えば選民意識に繋がりかねません。それは危険だし、良くないことです。そういう感覚で患者さんと接していてもいいことはないし、いつかしっぺ返しを食らいますよ。ほかの職業の方々へのリスペクトは大切です。さらに、生涯学習だということですね。医学はずっと進歩していくものです。私も学生の頃は分厚い教科書を一冊、丸暗記したら一丁上がりで、あとは「スター・ウォーズ」のジェダイ・マスターのようになれるのかなと勘違いしていました(笑)。しかし、医学は違います。医学の進歩は早いので、マラソンのように勉強し続けないと置いていかれます。そこで、医学部の1年生には「そういう覚悟を持って頑張ってください」と講義でお伝えしていますし、ここでもお伝えしたいと思います。