新型コロナウイルスの眼科への影響
2020年4月現在、新型コロナウイルスの感染が拡大していますが、眼科診療にはどのような影響がありますか。
大きな影響を受けていますね。新型コロナウイルスは未知のウイルスだということに加え、眼科の場合は眼からも感染することが問題です。ウイルス性の結膜炎も同様ですが、眼科は患者さんと近づいて診察しますので、エアロゾル感染が起こってはいけないと思っています。密接して診察する以上は三密となるのは仕方ないので、待合室では三密とならないよう、患者さんの人数制限を行っています。それからドアをできるだけ開け、換気を管理することもしています。不要不急の外出を避けろと言われていますが、病院に来るということに「不要」はありません。しかし、「不急」の疾患に関してはお待ちいただいています。日本眼科学会などから色々な勧告やガイドラインが出ていますので、それらをもとに、手術のスケジュールもかなり減らしている状況です。
先生ご自身はどのような対策をとっていらっしゃいますか。
機械にシールドをつけたり、フェイスガードをしたりですね。もちろんマスクをしていますし、とにかく手洗いを徹底しています。
先生が医療支援をされてきたネパールはどのような現状ですか。
ネパールの感染者数はまだ少ないのですが、正確な人数は分かっていません。3月24日にロックダウンを始め、4月下旬まで続けるという情報は入っています。ネパールでの眼科の医師からも「ロックダウンで、家にいる」というメールが来ました。病院はロックダウン前にクローズしたようで、不急の患者さんはお断りしているでしょう。ある程度、急を要する患者さんに関しては電話対応などを行っているはずですが、どのようなシステムになっているのかは不明です。
モザンビークについてはいかがですか。
モザンビークは感染者も少なく、4月22日現在、死者もいません。実は6月にモザンビークで医療活動をする予定だったのですが、とても無理ですし、年内でも難しそうだという話を現地の担当者とメールし合っているところです。今年の初めに、300人分の白内障手術ができる医療物資をモザンビークに送っておいたのですが、私たちが行けないので、どうしようかという話し合いをしています。モザンビークは公衆衛生の状況が非常に脆弱なのです。発展途上国では感染者が増え始めると、その勢いは強いかもしれません。今後、どのように感染者が増えていくのか、とても心配しています。
医師を目指す
先生が医師を目指した動機をお聞かせください。
高校生の頃は自分がどのような職業に適しているのか、色々と迷うものですが、私は理科系の人間ですし、振り返ってみると、小さい頃には天文学者や数学者に憧れていたこともありました。中学、高校時代は星を見ることが好きで、高校では写真部にも入っていたんです。そこで、科学者になりたいという思いと、技術を究めて職人的な仕事をしてみたいという思いが融合し、医師を目指しました。科学者であり、職人であり、人のためになるという職業は素晴らしいのではと考えました。
地元の徳島大学に進学されたのですね。
私は徳島が大好きなんです。徳島から外に出たこともあまりないですね(笑)。東京や大阪のような大都会は人が多くて苦手なところがあります。大学ではオーケストラ部に入りました。中学生のときにもオーケストラ部に入っていて、音楽が好きだったんですね。大学入学後は医学部の軽音楽クラブのジャズバンド、全学のオーケストラ部に入りましたが、ジャズとクラシックを掛け持ちして両立させるのは大変ですし、オーケストラ一本に絞りました。
楽器は何だったのですか。
コントラバスです。中学生の頃は自己流で弾いていましたが、私は凝り性なところがあるので、大学に入ってからは大阪に師匠を見つけて、弟子入りしたんです。うまくなりたいのであれば、誰かに習うことが大事です。私はうまくなりたいという思いが強かったんですね。
眼科を専攻しようと決めたのはいつですか。
大学のときです。小さい頃からカメラが好きで、星を見ることも好きだったので、光学系に興味がありました。眼の構造はカメラの構造に似ていますし、何となく惹かれました。そして、快適な生活を送るためには眼は非常に大事な器官だと勉強したことで、眼科を選びました。しかも眼科というところは外科系なのです。内科的な治療もしますが、手術などの外科系の治療の方がどちらかというと多いです。私は職人的な技術を持つことに憧れていましたし、手術に興味があったのも大きな理由ですね。
1年目は大学病院で研修されたのですね。
当時の眼科の教授は三井幸彦先生で、トラコーマの治療法で世界的にも有名な先生でした。三井教授には基礎を熱心に教えていただきました。先輩方も私が早く一人前になって独り立ちできるように、厳しくも温かく教えてくださいました。
2年目に行かれた高知県の市中病院はいかがでしたか。
南国市の総合病院でみっちり教えていただきました。市中病院で多くの患者さんを診て、色々なご指導をいただいた経験はその後、大きく役に立っています。
ネパールに行くことになる
ネパールへいらっしゃることはどのようにして決まったのですか。
卒後3年目に大学に帰ってきたのですが、その1年後に上司である講師の先生が「ネパールに行ってみないか」と冗談半分で言ってこられたのです。私は「じゃあ、行きます」と即答しました。それより何年か前、ネパールのトリブバン大学の眼科の教授が三井教授のところに勉強にいらしたことがあったんです。感染症を専門にしていらっしゃる教授でしたから、三井教授のところに来られたのでしょう。その滞在は短期間でしたし、訪問的なものでしたが、徳島大学のことを覚えていらっしゃったんですね。それで徳島大学に手紙を出されました。トリブバン大学はネパールの国立大学です。1983年にそのトリブバン大学に日本のODAでネパール初の医学部付属病院が首都カトマンズの北方のマハラジガンジにできたのですが、そこに眼科を立ち上げる手伝いをしてほしいとの手紙だったのです。講師の先生は「ネパールから手紙が来て、こういう話があるんだけど」とおっしゃいましたが、「どうせ行かないだろう」と期待していなかったようです(笑)。しかし、私には惹かれるものがあり、「行きます」と答えたんです。
なぜ即答なさったのですか。
もともと海外留学をしたかったからです。それで、医師になったときに英会話を始め、アメリカなどへの留学を希望していました。アメリカにはそののちに留学しましたが、そこでネパールに行くことを決心したのは途上国には多くの課題があるはずだから、医師になったばかりの私でも力になれるかもしれないとの思いからです。私は医師になったときに、これから何を続けていくのかを決めたのです。とりあえず英語を勉強すること、それから体力を失わないようにスポーツ、中でもマラソンを始めました。音楽についてはずっと続けたいと考えていたので、今も続けています。