アメリカに留学する
1988年にアメリカに留学なさったのですね。
以前からアメリカに留学したいと考えていたのですが、国費留学の申請の書類を目にしたので申請したところ、留学できることになりました。これは良かったと思いましたね。留学先はカリフォルニア大学サンフランシスコ校の眼科研究所で、希望通りのところに決まりました。
『内藤教授が語る
海外での眼科医療ボランティア』
第3回
以前からアメリカに留学したいと考えていたのですが、国費留学の申請の書類を目にしたので申請したところ、留学できることになりました。これは良かったと思いましたね。留学先はカリフォルニア大学サンフランシスコ校の眼科研究所で、希望通りのところに決まりました。
実際に留学先を決める前に現地に下見に行ったのです。ロサンゼルスとサンフランシスコの眼科研究所を見学に行ったのですが、サンフランシスコでは感染症や免疫疾患の研究に力を入れていたので、私の研究には合っていると思い、サンフランシスコを選びました。
素晴らしい環境で、研究に熱中することができました。私はもともとヘルペスのウイルスを研究していたので、留学先でもその研究を続けました。
広く世界を見ることは大切だと思います。特に自分が研究していることを世界的な研究者のもとで研究できるのはとても有意義なことです。海外では日本とは異なり、雑用が少なく、研究に専念できるのもいいことですね(笑)。
1989年にアメリカから帰国し、また大学病院に勤務していたのですが、2000年頃に再びネパールに行くことになりました。1997年に日本テレビの24時間テレビチャリティ委員会がネパールのゴール地区にゴール眼科病院を設立したのですが、私に現地での技術指導と病院の経営独立化への道筋を立ててほしいという依頼があったのです。ゴール地区はインドとの国境にあり、ネパールでも貧しい地域の一つです。その何もないところに病院を作り、軌道に乗せて黒字にすることが私に課せられた任務でしたが、5、6年後にそれを果たしたときに手を引きました。黒字になったあとも年に1回ぐらいは現地を訪ねていますが、ネパールの人たちだけで独立採算の運営ができています。
眼科専門の病院で、多くの白内障手術を行っています。私が最初にネパールに行ったときはそのあたりでアイキャンプをしていたのです。しかし、やはりアイキャンプよりもきちんとした病院を建てて、病院で診療する方が医療レベルが上がります。白内障手術でも、アイキャンプだと仮設の手術室ということもあり、件数が限られてしまいますが、病院だと多い年には1万件ほどの手術が可能です。ゴール地区はインド国境にあり、少し歩けばインドなんです。しかし、その地区の医療レベルは非常に厳しい状況にあります。それで、インドからの患者さんも少なくありません。恐らく患者さんのうちの7割から8割がインドの方でしょう。インドにも病院がないわけではないのですが、医療レベルはゴール眼科病院の方が高いですね。今はインドからの患者さんが貸し切りバスでやって来るようになりました。
色々と助言はしましたが、ネパールの方々が頑張り、外来の患者さんの数や手術件数を上げていった成果です。ネパールの方々が頑張らないと、ここまでにはならなかったと思います。
皆と話し合い、当時の日本でも珍しかったことをしました。それは外部からの評価者を入れるということです。そして経営コンサルタントからの助言をいただくこと、外部からの評価者の中で「この人はできる」という人を引き抜いて、病院の事務長に据えるということもしました。今でこそ、日本では国立大学法人の病院でも第三者評価を受けることが当たり前になっていますが、それを当時のネパールで実現したことの意味は大きいですね。
私は彼らに夢を語ってもらいました。職員一人一人に「病院を良くするための夢は何ですか」と聞くと、最初は「夢って、何ですか」と返ってくるのです。これはショックでした。確かに彼らの日常生活は非常に貧しく、苦しいです。しかし、その中で「病院を良くするための夢」が出てくるようになりました。皆で酒を飲みながらの会話でしたが、私が寝たあとでも夜中まで彼らが熱い会話を交わしていたと聞いたことは印象に残っています。
彼らから「患者さんへの接遇も気をつけなくてはいけない」という意見まで出てきたときには驚きました。今の日本の病院では接遇委員会などの委員会がありますが、2000年代に入ったばかりのネパールで接遇に着目できるスタッフがいたのです。100床という規模ですが、大きく、素晴らしい病院になりました。スタッフの宿舎もできましたし、何もなかった原っぱのような場所に病院が開設されたことで、病院の周囲に飲食店や眼鏡店などのお店がオープンし、一つの街ができていきました。以前は馬車だったのに、今はタクシーも停まっています。そうした仕事に携わる人々の雇用も生み出しましたね。
ネパールは眼科の医師数が圧倒的に少ないので、眼科助手というコメディカルスタッフがいます。ネパールは眼科医が少ないゆえに、ネパールの眼科助手は難しい医療行為はできませんが、ある程度の医療行為が許されています。日本の眼科助手とは業務の範囲が違うのです。ネパールの眼科助手は患者さんが来院してから医師に引き継ぐまでに全ての所見を取り、「この方はDr.○○へ」といった振り分けをします。結膜炎でも難しいものでしたら医師に引き継ぎますが、ちょっとばい菌が入ったり、目が赤くなっている程度でしたら、看護助手が「では抗菌薬の目薬を出しましょう」となります。眼鏡合わせなども眼科助手が行います。私はそうした眼科助手の技術指導を行っていました。
看護師はまた別にいます。ネパールは看護師も眼科助手もとても働き者です。ネパールは一般の方々も誠実で勤勉な方が多いですね。
私が行っている間にネパール共産党毛沢東主義派と政府軍による内戦があったので、私は一般的な旅行保険ではなく、戦争保険に加入していました。若い医師と遠方に一緒に行ったときに、私だけが先にカトマンズに戻り、彼はそこに残って手術をしていたことがありました。その間に道路封鎖があり、地雷が埋められたということで、彼がカトマンズに戻ってこられなくなったんです。そのときはヘリコプターをチャーターして、彼を救出しました。今となっては思い出ですが、当時はひやひやしましたね。その後、革命が起き、王政が廃止されました。
著者プロフィール
徳島大学国際センター国際協力部門 特任教授
日本眼科学会指導医・専門医、日本網膜硝子体学会PDT認定医など。American Academy of Ophthalmology(AAO)Association for Research in Vision and Ophthalmology(ARVO)、日本眼科手術学会、日本糖尿病眼学会、日本眼感染症学会、日本眼炎症学会、日本角膜学会、日本弱視斜視学会、日本眼内レンズ屈折手術学会、抗ウイルス療法研究会にも所属する。