1994年に国立国際医療研究センターにいらしたのですね。
当時、筑波大学の心臓血管外科教室の教授は堀原一先生で、副学長も兼任しておられました。1994年も明け、博士論文の口頭試問や本審査も終了した時期であったと思います。自分も行動を起こさなくてはという思いが募った時期でもあり、妻に大学院終了後は国際保健の道に進みたい旨を相談したところ、心からサポートすると言ってもらいました。ただ、堀先生にどのように話すか、非常に迷いながらも、ある日、副学長室を訪れました。先生は「4月からはどうするんだ。私としては大学に残ってほしい」と言われたのですが、その前日に、再度「ハゲワシと少女」の写真を見ていたこともあり、「優秀な心臓外科医はいっぱいいるが、このような子どもを救おうとする医師は少ないのが現状です。経験は全くないですが、国際保健の仕事をしたいです」と答えたんです。それで、堀先生に止められるかと思いきや、「面白い。それもいいね!」と言われました(笑)。それで、「でも具体的な計画が全くないので、これから勉強してみます」と言ってみますと、「僕の同級生が国立国際医療研究センターで国際医療協力局という組織を作ったから、電話してみるよ」とその場で電話をしてくださったんです。そして「明日、面接に行ってこい」と言われました。
早い展開でしたね。
私は多くの良き指導者に恵まれましたね。堀先生は理論外科出身の先生で、私は先生執刀の手術に参加したことはなかったのですが、医学を科学として見る目は厳しく、国際的に広い人脈もあり、また何より真の人格者でいらっしゃいました。また、一人の学生・一人の患者さんも犠牲にしない「百年一遇の新しい大学」という観点から、医学教育にもとても熱心でした。私のような変わり者の無計画な考えに否定されることもなく、受け入れてくださったし、国際保健へのスタートでもお世話になりました。そのときは国立国際医療研究センターについて全く知りませんでしたが、とりあえず面接に行ってみました。
どなたとお会いになったのですか。
国際医療協力局を作った我妻堯先生です。堀先生とは東大の同級生でいらっしゃいました。私としては、公衆衛生的な知見がほとんどなく、語学力にも自信がなかったので、1年間は英語の能力を上げ、まずはアメリカの公衆衛生大学院に留学するべきではと漠然と考えていたのですが、国立国際医療研究センターでいきなり実践していくことになりました。我妻先生は産婦人科医で、医療に基づいた国際保健をしていきたいというビジョンをお持ちでした。当時はまだ黎明期でしたし、どちらかと言うと医療を「施す」イメージに近かったです。でも、世界では医療にたどり着く前に亡くなる命が多いことに気づき、政治や保健システム、また栄養や衛生環境の改善など、根本的なことをしなくてはいけないという気持ちを抱くようになりました。国立国際医療研究センターでは色々なミッションがあり、インド、エジプト、ジンバブエなどでJICAを通じた技術的な指導をすることが多かったのですが、初めて長く滞在したのがボリビアです。
国際保健の仕事を始める
ボリビアではどのような仕事をなさったのですか。
当時、ボリビアでは新生児や子どもたちの多くが病院に行き着く前に亡くなっていました。また、たとえ病院にたどり着いても、ほとんど手遅れの状態で、なかなか命を助けられない状況でした。私の仕事は病院での技術指導に特化したもので、日本が建てた病院で新生児医療の技術指導を担いました。実は私は心臓に異常がある新生児はよく知っていましたが、心臓に異常のない病的な新生児・低体重児は初期研修1年目の茨城子ども病院での3カ月間の経験しかなく、最初は不安でした。しかし、ボリビアで求められたことは完全に医療の支援ですから、医師としての技量が試されました。例えば、夜の小児・新生児集中治療病棟には医師はほとんどいることがなく、看護師も数が限られ、集中治療病棟でさえ、重症な子どもたちは家族が看ているような状況でした。翌朝回診すると、その子どもたちが亡くなり、すでに病棟にいなかったことも多々ありました。そのため、はじめは拙いスペイン語で会話をしながら、新生児の家族と長い時間を一緒に過ごし、まずは現状を理解しようと努めました。子どもと家族のそばにいることで、より病状が理解できるようになったため、適切なアドバイスができるようになり、医師・看護師、そして何より家族からの信頼を得ていったように思います。
次にインドネシアに行かれたのですね。
インドネシアでは地域の保健局、州・県病院や保健センターの質を改善するためのJICA地域保健強化プロジェクトの立ち上げから実施までをチーフアドバイザーとして関わりました。ただ、私はPublic health(いわゆる公衆衛生分野)の経験も行政での経験も全くなかったので、まずは保健センターで働く若い医師や各村に配属された卒業したての助産師たちの話を聞きながら、保健センターレベルでの改善活動をはじめました。その中で、県の衛生部長の能力と情熱のなさが改善を邪魔する大きな原因の一つとなっていることなども分かりました。その解決策として、勤務をしながら、週末のグループのケース研究だけで公衆衛生修士を習得できるコースを地元の大学と共同で設置しました。修士号保持は昇進にも有利であることもあり、20人以上の県衛生部長が進んで参加してくれ、データに基づいた事業計画策定・評価を自ら率先してリードするようになり、私にとって大きな喜びとともに、多くの学びの機会にもなりました。
そしてキルギスなどの中央アジアやHIV/AIDSにも分野を広げられたのですか。
中央アジアは旧ソ連国の細かい専門分野の治療優先の保健システムから効率的な保健システムへの根本改革がテーマで、これも全く経験がなかったのですが、新しい分野を学ぶことが好きなので、結果のことはあまり気にせず、積極的に受けていました。また、1995年頃、当時はHIV・AIDSが世界的な関心の中心であり、感染者数が急増していた中国の理解もあり、AIDS予防財団の支援を受けた、日本の中国への調査団に参加する機会を得ました。当時の中国は「HIV・AIDSは主に少数民族の問題である」との立場をとっており、簡単に現地調査やデータを入手できるような状況でありませでした。そのため、現地視察と信頼できるデータの収集を重要視しました。調査先は最も症例数が報告されていた雲南省昆明市とミャンマー国境の瑞麗市で、中国保健省の若い担当官が北京から同行しました。彼は当初、非協力的で、途中で激論を交わすことも多々ありました。しかし、普通は許されない薬物濫用で強制隔離されている青少年施設などをともに体当たりで調査したり、安全ではない性サービスを提供している非合法の施設の実態を知る中で、お互いの理解と信頼が高まり、調査の終了時には共同で提言をできるようになりました。現在のパンデミックの現状から振り返ると、私が国際保健に関わっている短い間でさえ、人類はエイズ、SARS、新型インフルエンザ、エボラと「パニック、忘れる、パニック、忘れる」を繰り返していると思い知らされます。
若いうちに色々なことをしておこうと思われたのですか。
自分の知らない・経験していない分野、文化、人たちに多いに興味があったということが大きいです。言葉で言うのは難しいですし、外からみると落ち着いていないと思われるかもしれませんが、志や自分の成し遂げるべき目標は変わっておらず、違ったことをしている感覚はありませんし、自分の中では一貫性があります。東京に赴任後、国際協力や国際機関を目指す人たちを対象とした就職説明会で話をする機会が増えました。参加者からはどのようなキヤリアパスが一番近道かと聞かれることが多いのですが、私はキャリアには人それぞれの道があり、また、後ろを見たときにできているものであると思います。人生の決断で、道の選択に迷ったときには一見まっすぐで、なだらかに見える道よりも茨の道の方がかえって近道であったこともよく経験したと話しています。結局、何かに行き当たったとしても、失敗よりも必ずより多くの学びと有意義な面がありました。「どうしたら効率よく、より多くの結果を困難なく得るか」ということは常に重要な戦略であるとは思いますが、当たっても砕けない柔軟性と立ち直る力も不確実性が高い現在の社会だからこそ重要です。実際、リンカーン大統領、本田宗一郎、オリバーゴールドスミスなど、過去の偉人たちも言葉を変えながらも、同様な考えを残しています。
英語を極める
先生はボリビアに赴任された頃から英語が流暢だったのですか。
いえ、全くそうではありません。そもそもボリビアでは誰も英語を話しませんしね(笑)。そこで私もスペイン語をゼロから始めましたが、2カ月も経つと、病院の中ではかなり話せるようになりました。ボリビアからの帰りに、経由地のニューヨークに寄ったときは、ホテルでスペイン語でチェックインなどもした記憶があります。実は病院の中で使うスペイン語はほとんど現在形でいいんです。ただしボリビアの街なかで話すときは過去形と未来形など、生きた言語が必要なので、きちんと勉強しないとやはり難しいと感じました。
国際保健に興味はあるけれども、言葉の壁が気になる方は多そうです。
私は幼稚園から大学院まで全て日本語環境の教育で育っています。英語はいわゆるlearning by doing (実地での訓練)だけです。英語力に関してはやはり欧米の大学・大学院で学ぶ方が論理的思考や発言・文章力の醸成と、何より国際的なネットワーク構築には有利です。その意味で、国際保健に興味のある方は英語で考える環境に一度は身を置かれると良いと思います。こういう仕事では一つの国の中でも言語や宗教、民族などのバックグラウンドが異なる人たちが共存する、多様性の高い環境で働ける必要があります。そうした多様性を学ぶ意味でも、海外の教育機関や研究機関で学ぶことは有利です。ただし、今はリモートなどでも学べる機会も増えているので、留学だけにこだわるのではなく、様々な可能性を追求してもらいたいと思います。
日本人は論理力が弱いと言われます。
単に英語が話せる、英語で書けるということだけでは十分ではありません。私自身にもまだまだ課題が残ります。コミュニケートするということは決して一方的なものでなく、伝え、そして必ず相手に伝わらなくてはなりません。また、人によって、どのように伝えれば一番伝わるのが異なります。その意味で、様々な場面で誰を主な対象にしているのか、そしてどのような聴衆・読者なのかを事前によく承知しておくことも重要です。単純なモデルで説明すれば、例えば、結論をまず伝えてほしい聴衆相手に長々と背景を説明したり、方法論と様々なデータを互いに解析や納得しながら結論に持っていくことが必要な聴衆に十分に説明できない場合など、悲惨な結論もあり得ます。ただ、多くの場合は色々な聴衆がミックスされていることが多いですね。私は幼稚園児・小学校低学年のグループとそのお母様、そして75歳以上のシニアの方々が半々くらいの講演会で話をしなくてはならないこともありました。
ライティングの上達のコツをお聞かせください。
確かにオーラルは大丈夫という人でも、ライティングに苦戦する人はいます。私も例外ではありません。国際機関で働くにあたって、ライティングスキルは必須です。私もかなり大変でした。私は頼る人がいなかったので、組織の中で保管されている様々なベストプラクティスを集めてきて、どういうふうに書かれていると高い評価を受けるのかということを学びつつ、それを自分の強みであるデータ解析を戦略的に使いながらやっていった感じです。ただし、提出前にチームの中でのインプットを求め、さらにドナーレポートなどでは、提出したあとで相手からフィードバックを受けることで、自分がいかに相手の期待に応えることができたかどうかをでき得る限り知るようにしていました。私がUNICEFのアフガニスタン事務所に移った頃は、週末はいつも2つから3つのドナーレポート書きに時間を費やしていました。実際、治安の関係で、事務所と宿舎以外は外出できなかったということもありますが(笑)。