2003年にUNICEFに入られたのですね。
今から考えてみても通常ではない経緯ですが、2002年の秋頃、外務省の国連機関人事センターから、突然家に電話がありました。UNICEFアフガニスタン事務所で働いてみないか、もし興味があるなら丁度UNICEFアフガニスタン事務所の代表が東京にいるので、面接を受けないかと言われたのです。当時は日本による国連機関などを通じたアフガニスタン支援、いわゆる「緒方イニシアティブ」というものがありました。これは国連難民高等弁務官を退任された緒方貞子さんがタリバン政権陥落後にアフガニスタンを再訪問し、難民や避難民の現状視察などを踏まえて、日本政府や国際社会に提案した内容を具体化する、地域総合開発支援のことです。私に電話が来た時点は、緒方イニシアチブフェーズ2と言われる継続案件が計画中で、医療・保健衛生分野にも支援対象が広がった頃だと思います。おそらくUNICEFとしても、アフガニスタンで働く日本人を増やそうという機運が高まり、日本政府に対し、保健医療分野で働ける専門家を探す要請をしていたのではと推察しています。その電話には戸惑いながらも興味があると伝えると、「明日、面接に来ないか」と言うのです。次の日、面接が行われると言われた、青山の国連大学に行ったところ、アフガニスタン事務所代表は医師なのに超ヘビースモーカーで、国連大学内では煙草が吸えないからという理由で、青山通りの片隅で立ってタバコを吸いながら面接を行いました(笑)。彼自身もインドで医学部を出て、予防接種事業でUNICEFでのキャリアをスタートしたらしいのですが、私の目には医師というよりは野心旺盛な政治家のようなタイプの人物に見え、常軌を逸した目標を突きつけられることも多々ありました。ただ、後になって振り返ってみると、部下としては大変ではありましたが、非常にビジョナリーな人物でした。
それから17年も在籍していらっしゃるんですものね。
うっかりというか、偶然UNICEFに入って、あっという間の17年間という感じです。今の事務所で、私より長くUNICEFで勤務している国際スタッフは数人だけで、この前、国連事務総長から15年以上勤務の永年勤続表彰も受けました(笑)。
UNICEFでの最初の仕事はアフガニスタンでしたか。
そうです。ただし、着任早々、先程の事務所代表からは、UNICEFの仕事はしなくていいから、再編成されたばかりの保健省で、Grant Contract Management Unit(GCMU)という新しく設置されたチームにアドバイスをしろと言われました。世界銀行から当時として150億円規模の無償資金がアフガニスタン保健省に交付され、その資金を使って、アフガニシスタンの保健システムを短期間に再構築するというプロジェクトです。GCMUはBasic Package of Health Services (BPHS)と言われる、全ての国民に必要な基礎的な保健サービスを定義し、そのサービスを提供できる国際・国内NGOを、州ごとに公募・選定・交渉・契約・監査するというのが主な仕事でした。このような資金規模の公募を世界中を対象に行うのはアフガニスタン保健省にとっても、もちろん私にとっても全く経験のない仕事で、世銀の調達マニュアルを一行一行読みながら、電気もインターネットの接続も不安定な保健省で、若いアフガニスタン人の保健省職員3人と一歩ずつ、高度な透明性が要求される競争入札・開札を含む様々な問題や課題を解決することに奮闘しました。3人の同僚は10代の頃からアフガニスタン難民として、パキスタンなどで国際NGOのリーダーの一員として働いた経験があり、年齢は私よりはるかに若いながら、多くの経験値と、高潔で、情熱のある仕事ぶりで、心から尊敬のできる人物たちでした。3人とも、その後、それぞれ財務省の副大臣や保健省の局長などの要職に昇進し、国際的にも認められた逸材で、私が東京勤務時代、アフガニスタン政府代表団の主席グループの一員として来日し、旧交を温める機会もありました。
アフガニスタンは危なくなかったですか。
勤務形態としては、UNICEFの事務所ではなく、保健省で常に仕事をすることになっていたので、治安情報などが随時入手できるわけではなく、ときには突然保健省の前で銃撃戦があったり、すぐ近くにロケット弾が落ちたりもしました。ただ、同僚が適切に安全な場所に誘導してくれたり、特殊な銃砲音を聞き分け、どのような場所が危ないかを指示してくれたりしたので、私自身は危険な目に遭ったことはありません。着任から1年ほど経った後、首都カブールを除く、33州をカバーする国際・国内NGOとの契約がほぼ終了した頃、例の国事務所代表から呼び出され、今度は国事務所の保健・栄養セクションのチーフをやれとのことでした。保健省の仕事がまだ完全に仕事が終わったわけではなかったのですが、もう私の援助が全く必要ではないほどGCMUは成長していたので、後ろ髪を引かれつつ、UNICEFに戻り、UNICEFの仕事をすることになりました。
そのときはどういうお仕事だったのですか。
UNICEFは国連システムの中では計画と基金と呼ばれ、国連総会と経済社会理事会に報告を行い、専門的な役割を担う6つ機関の一つで、UNIEFのFもファンド(基金)です。UNICEFは、各国政府からの任意拠出金や個人・法人などからの善意の寄付を受けて、それをもとに、全ての子どもたちの権利を保証するために、人材・資金・資材などをマネージし、各国政府を支援していく仕事です。UNICEF自体はサービスを直接デリバリーしないので、保健省のマネージャー、病院や保健センターで働く医療従事者、それを支援する人々、あるいは反対する人も含めて説得し、どのようにすれば最も子どもたちの利益になるかを常に考える必要があります。異なる価値観を持つ、様々な当事者間の調整をしながら、保健システムで働いている人たちを動かしていく仕事は、私が当初抱いていたUNICEFのイメージとはかなり異なりましたが、全ては子どもたちのためという組織のミッションに深く共鳴し、とてもやり甲斐がある仕事でした。
レバノン事務所に行かれたのはどういった目的でしたか。
2006年はイスラエルが、自兵が国境付近で拉致されたことをきっかけに、レバノンのシーア派武装組織ヒズボラと戦争していたときです。イスラエルによる空爆で、ヒズボラの支配地である南部の幹線道路や港、発電所、橋などの基幹インフラ、そしてベッカー高原の村が破壊され、海岸沿いの火力発電所の石油貯蔵タンクも攻撃され、重油による海洋汚染も問題になっていました。また、イスラエルが使っていたクラスター爆弾攻撃などで、多くの子どもたちも死亡や負傷し、およそ100万人近くが避難民となっていました。レバノン事務所だけではこの緊急自体には対処できないとうことで、至急各国事務所からレバノンに行ける人材を募りました。ただ、国連レバノン暫定駐留軍に死者が出たり、国連施設がヒズボラの戦闘に巻き込まれたことも影響してか、いかなる緊急事態に対処できるとしていた登録していたUNICEF保健職員の内、99人が断ったそうなのですが、たまたま100人目の私が快諾したため、あっという間に派遣が決まりました(笑)。イスラエルにより、空港やレバノンに繋がる国境の主要な橋などはことごとく爆撃されており、イスラエルからは国連職員のレバノン国内の移動も厳しく制限されていたので、一旦空路でアンマンに入り、防弾車でシリアに入って北上し、北のシリア・レバノン国境から、トリポリに入り、海沿いを南下してベイルートに入りました。
戦争中の国への支援は大変ですよね。
イスラエルが「主権国家に対する戦争行為」として対象としていたのはレバノン国自体ではなく、レバノン国内にいる武装組織のヒズボラであるという点、そして侵攻がイスラエル領へのレバノンからのテロ攻撃の排除を目的とされ、軍事施設だけでなく、市民インフラにも打撃を加えるという、イスラエルの軍事的方向転換があったため、多くの一般人や子どもたちが犠牲になり、紛争が国際的にも複雑化していました。国連の人道的支援アクセスにも、事前の交渉が必要で、被害の大きな地域に行きたくても、簡単に許可されないような状態が続き、支援に来たのに行けないという、精神的にも肉体的にも大きな制約を受けていました。UNICEFを始めとする国連人道支援チームも、市内にある国連西アジア経済社会委員会事務所本部が、暴徒化した市民からの侵入などを受けたために使えず、安全をある程度保証された、指定されたホテルでのオペレーションを余儀なくされていました。アフガニスタンでも、ロケット攻撃などは幾度も経験してはいましたが、イスラエルからのいわゆるスマート爆弾はときにはホテルからほんの数百メートル先の、ヒズボラ戦闘員が潜んでいると言われている市街地に、真っ昼間に、正確に、しかし無差別に打ち込まれていました。また、夜に幾度も鳴り響くミサイルなどの爆裂音は自分たちのホテルは攻撃対象外で、安全ではあるとは思っていても、その爆発のもとで、何人の子どもたちと家族が犠牲になっているかと考えると、非常に暗い気持ちになりました。義母らがよく話していた、第二次世界大戦での爆弾や機銃掃射を受けた経験のことを否応なしに思い出していました。このときほど、国連といえども、複雑な紛争下での人道アクセスは難しいものだと実感しました。予防接種を含むレバノンの一般的な保健サービスはその多くが日本と同様に民間医療機関が担っており、ワクチンなどの保管に必要な電気をはじめとする社会的インフラが破壊されており、早急な復興は困難であること、また大規模な避難民がヒズボラ実行支配域外に避難していることを鑑み、まずは麻疹などを中心とした予防接種プログラムの再構築を最優先課題としました。その後、8月14日に国連の停戦決議が受託されたため、活動も容易になり、各地の爆弾の痕が残る中、防弾車で南部の村々を周り、保健システムの再構築の可能性をようやく探ることができるようになりました。しかし、ヒズボラの地下施設を狙って攻撃したと思える地中貫通爆弾や、1000発以上と言われているクラスター爆弾の傷跡は激しく、私たちの車両もクラスター爆弾の子爆弾の一部にひっかかり、危うく被害に遭いそうになり、村の人たちに助けてもらったこともありました。レバノンでの滞在は緊急事態対応ということもあって短かったのですが、私はこの経験ゆえに、国連の平和構築・維持機能の強化の必要性や、より平和で人権が守られる世界の構築の重要性を感じました。国連職員と言うと、比較的恵まれた環境で仕事をしていると思われがちですが、自らの危険や自分の生命を顧みずに働く人たちも多く、そのような人たちとともに働く経験を持つことは人生の中でも貴重なことだと感じます。
東京事務所に赴任する
2006年に東京事務所のシニアオフィサーになられました。
このときは主に日本が議長国として主催した2008年の北海道洞爺湖G8サミットと、サミットに先立って行われた第4回アフリカ開発会議(TICAD)に向けて、母子保健分野など、子どもの権利に関する課題が両サミットの主要議題になるよう、本部やアフリカ地域事務所の職員とともに、2年ほどの準備時間を使いながら邁進していた時期です。また、TICADではアフリカ各国首脳の配偶者のための母子保健に絞ったプログラムを外務省と共同で実施したり、北海道洞爺湖サミットでは、同時に「J8(ジュニア・エイト)サミット」という、G8各国の子どもがG8サミットに関連する議題を議論し、各国の首脳に提言するサミットもあったので、世界の子どもたちの意見が直接各国の首脳にも届くよう、外務省と日本ユニセフ協会のスタッフと一緒に多くの時間とエネルギーを使いました。日本の代表となった高校生も、主に地球環境問題に関し堂々と自分たちの意見をG8首脳に述べている姿を見たかったのですが、残念ながらそのG8サミット直前に転勤が決まりました。
続いて、インド事務所の副代表になられたのですね。
インド事務所には正規スタッフが500人、ポリオに関するコミニュケーションコンサルタントが1000人程いて、年間に150億円ほどの予算規模で、世界でも最も大きい国事務所の一つであり、かつ難しいオフィスです。政府も政治システムも成熟しているものの、とても複雑で、憲法では禁止されているカーストを理由にした差別行為も有形・無形の形で存在していました。インドは今も目覚ましい経済成長を続けている国ですが、いわゆる社会的一貫性に欠け、同じ村にいても、存在が認められない、あるいは見えていても、あたかも見えない人たちがいるというように取り使われるような課題を抱えていました。それまでの私は慢性栄養障害になったり、急性栄養障害で亡くなったりするのは紛争下や人道危機の状態で起きるのがほとんどであると認識していました。しかし、インドでは多くの子どもたちが平和な状態でありながら、栄養障害が原因で亡くなっている事実に非常な憤りを覚えました。子どもたちが亡くなる原因は医学的な目で見れば、感染症、遺伝性疾患や生活環境、あるいは脆弱な保健システムなどが主な原因ですが、さらにその原因を突き詰めれば、無関心、無責任、無行動にほとんど起因すると認識するようになりました。インドでの勤務以降は生命を守る話をするときには保健の話ではなく、この3つの「無」をいかになくすのかといった話をするようになりました。
2010年に東京事務所の代表になられました。
前回の赴任はやや短い期間であったので、このときの赴任では自分を育ててくれた日本に恩返しができる機会を再度もらったと感じました。また、韓国との関係構築も担っていたので、資金援助ばかりでなく、UNICEFと日本と韓国との関係性を過去に比べて最も高いレベルまで引き上げようと意欲に満ちていました。
東京事務所での勤務で印象に残っているのはどのようなことですか。
6年の赴任中、最も印象に残っている日は赴任から10カ月ほど経った2011年の3月11日です。当日の昼は、のちにシリアで亡くなった後藤健二さんに、UNICEFの活動を長年支援してくださっているユニセフ議員連盟の国会議員の方々に対して、発表してもらうように頼んでいました。そのビデオリポーティングの内容は南スーダン、特に地方を中心にしたUNICEFと日本政府との共同事業を取材し、彼の独自の視点で編集したものです。後藤さんは知り合いのメディア関係の方に紹介されたのですが、紛争地域の子どもたちを取材した“ダイヤモンドより平和がほしい”に代表されるように、苦しい状況の中に置かれている子どもたちへの関心とその問題の本質を突く洞察力が鋭く、予算の少ない我々に対し、その意義を理解していただき、渡航費だけで快く引き受けてくださいました。その報告会の成功を分かち合い、事務所に帰ってしばらく経った午後2時46分、あの大きな揺れが襲ってきました。最初は前々日に起きた程度の地震と思っていたら、あっという間に大きな揺れとなり、事務所のテレビや本棚が倒れ、東京直下型の地震かと思ったほどでした。建物から離れ、しばらく道路上に避難していたので、地震の全体像が分からなかったのですが、職員の一人が見ていた携帯のワンセグテレビにとてつもなく大きな津波が東北を襲っている様子が映し出され、大きな地震と津波が東北地方などを中心に大きな被害をもたらしている、あるいはもたらしつつあることが初めて理解できました。
UNICEFの対応はどのようなものでしたか。
初日だけでもこれだけ大きな被害が出ているので、UNICEFとして何もしないという選択肢はないと思いました。ただし、国連組織としてのUNICEFは日本政府との間に、日本国内でいわゆるプログラムを実施するような覚書は戦後の一時期を除いて交わしておらず、またUNICEFへの資金は開発途上国でのみで使えるという前提であったので、日本でのUNICEFの活動を代表して70年以上その責務を担っている日本ユニセフ協会が主導する形が最も有効であると感じました。同様な意見を持つ日本ユニセフ協会とUNICEF本部とも調整し、まずは世界で活躍するUNICEF日本人職員に短期間でも良いので東北地方で活動してほしい旨の要請を出しました。福島の原発事故の収束も見えない中、それでも呼びかけに答える形で、UNICEFの中でも特に経験値が高い保健・教育・子どもの保護・調達分野の各専門家たちが参集してくれ、日本ユニセフ協会の職員とともに、現地での活動を開始しました。彼ら、彼女らが参加した数週間以降は日本ユニセフ協会が主体となり、協会全職員の貢献と参加もあり、UNICEF が発展した国で行われたおそらく初めての大規模な活動にもかかわらず、非常に効果的な支援が行われたのではと感じています。
日本の子どもを取り巻く環境も悪化しています。
そこは難しい問題です。東日本大震災以降、我々としても日本の子どもたちの問題について知るべきであるとの認識もより高まり、小・中・高等学校での職員による講演会などの機会を増やしたり、全国の高校生を対象にオンラインサーベイを実施したりしました。その中で、嬉しい驚きもありました。多くの高校生、特に地方の高校生は社会問題や平和などの国際問題に高い関心があり、また、関心を持っている生徒の半数以上は既に関心のある課題に対し、何かしらの行動を起こしているというものでした。また、そのような問題を深く認識するのはSNSを通じてというよりは学校の教員からや家庭での会話がきっかけになったと答えていました。日本の若者の持つ、日本ばかりでなく世界への課題解決へ貢献できる大いなる可能性を感じ、当時の文部科学大臣に面会を求め、これらのデータを提示しながら、日本の学校と若者の大いなる可能性を力説しました。
日本の問題の解決までには時間がかかりそうですね。
日本では真摯に研究を重ねる専門家も多く活躍されており、国の行政力も世界でもトップレベルであると思います。ただし、専門家たちが導き出している研究の成果や科学的根拠が必ずしも有効に政策策定や行政レベルでの実施には結びついていないこともあります。私自身が関わっているアジア太平洋地域でも、科学と実施を結びつけるには高い壁が存在します。その高い壁を突き崩すには全社会的アプローチが必要です。科学の政策のプロが話し合うばかりでなく、様々な当事者をどのように取り込み、賛同を得ながら、反対する人たちとの間に建設的な解決方法を導くという包摂的なリーダーシップが必要だと思います。私は多くの日本の若者にそのような資質があると強く感じています。