心臓外科医を目指す
医師を目指したきっかけをお聞かせください。
一番大きな影響は父が開業医だったことです。自宅と医院が近くにあり、父は外科の病院を開業して、肺の手術をしていたのです。昔は結核が多かったですからね。そういう環境でしたから、医師という仕事が身近でした。ただ、中学生ぐらいまでは父と一緒に食事をしたことはほとんどありませんでした(笑)。
コラム・連載
一番大きな影響は父が開業医だったことです。自宅と医院が近くにあり、父は外科の病院を開業して、肺の手術をしていたのです。昔は結核が多かったですからね。そういう環境でしたから、医師という仕事が身近でした。ただ、中学生ぐらいまでは父と一緒に食事をしたことはほとんどありませんでした(笑)。
特になかったですね。私は3人兄弟の真ん中で、兄も弟も医師になりました。弟が父の跡を継ぎ、兄も開業医になりました。
サッカー部に入っていましたので、サッカー漬けでしたね。練習後に5km走ることが決まりでしたが、私がキャプテンになってからは朝10km、練習後に10kmに増やしました。部員はうんざりしていたかもしれません(笑)。
でも、その頃からのジョギング歴があり、体調維持のために走っています。
大学時代に循環器内科の木村登教授の講義を受けたんです。木村先生は日本の循環器科学の第一人者でした。
木村先生は私と同じ山口県出身で、下関の方だったのですよ。私たちが大学生の頃はどの県出身で、どの学年でといった県人会があり、木村先生のご自宅でのホームパーティーにお招きいただいたこともありました。
木村先生はノーベル賞候補になった方なのですよ。今はあまり使われなくなりましたが、ベクトル心電図の開発者です。これは心臓の電気現象を立体的に表す心電図法です。
木村先生から心電図の読み方を教わったのはもちろんですが、その開発の経緯のお話を伺うのがとても面白く、循環器内科に興味を持ちました。
さらに、木村先生の脱線話も好きで、アメリカなどの海外の話を聞いて、私も留学したいという気持ちを一層高めました。
ただ、私は父が外科医だったので、外科に行くことは決めていました。それで、心臓外科に行くことにしたのです。
木村先生のご活躍で「久留米大学に循環器内科あり」と言われていましたが、循環器内科だけで完結しない治療は外科頼りになります。
そのため、当時の久留米大学の循環器は内科も外科もトップクラスでした。
当時、日本で年間300例以上の心臓手術をしていたのは札幌医科大学、東京女子医科大学と久留米大学の3つでした。
そこで、心臓外科の古賀道弘教授に挨拶に行ったら、「いいよ、いいよ」とのことで、すぐに決まりました。
そうです。外科と病理科を兼務するような大学院でした。私たちの頃はずっと無給医だったのですよ。卒業して10年以上、30いくつになるまで無給医で、給料ゼロでした。
今の初期研修医はきちんと給料が出ますが、私たちの頃は外科のアルバイトをしないと食べていけない時代でした。
外科の同門の先生が開業されている病院に週に1回、日勤に行ったり、土曜日や日曜日に当直に行ったりしていました。
サッカー部の先輩に勧められたからです。その先輩は病理学の講師をしておられ、私はその先輩と色々な話をしていたのです。
そこで私が心臓外科を目指していると言ったら、「心臓外科は心臓しか診ないから、見方や考え方が偏ってしまう。あなたは最初に全身を診る経験をした方が良いよ。病理に来れば、亡くなった方の病理解剖ができるから、全身をくまなく診られるようになるよ」と誘われました。
病理はやはり面白かったです。病理解剖をしたあとで、人間の身体はこんなに悪い状態になっても生きることができるのだと感動したこともあります。人間の生命力の素晴らしさを実感しました。
病理学教室では中島敏郎先生にお世話になっていたのですが、私は将来、心臓外科に行きたいということは話していました。
その頃は病理から留学するという人は珍しく、まして外科からも留学しなかった時代ですが、ちょうど私が大学院に入った頃に、その先輩のほかにもう一人いらした講師の先生がハーバードに留学されたことがありました。
その先生が留学しているときに、私もアメリカに行ったのです。
当時の日本の心臓外科はアメリカに比べると劣っていたので、絶対にアメリカで勉強しないと駄目だということは分かっていました。
それで、その先生が帰国したときに、教授に頼んで、病理のリサーチという伝手でボストンに行かせていただいたのです。
著者プロフィール
イムス東京葛飾総合病院 心臓血管外科 特任部長
日本胸部外科学会指導医、日本外科学会認定医・指導医、日本心臓血管外科学会専門医、日本循環器学会評議員、日本胸部外科学会評議員、日本冠疾患学会理事など。
国際学会員:STS(USA)、AATS(USA)、EACTS(欧州)