コラム・連載

2019.10.01|text by 磯村 正

『心臓血管外科の未来について』第2回目

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ハーバードに留学する

最初にハーバードに留学されたときは病理でいらっしゃったのですね。

留学の理由としてはもちろん病理のこともありましたが、英語をとにかく話せるようになって、次に外科に行きたいというのが大きかったです。ハーバードは医師修行とともに、英会話修行でもありました。

病理でどういうリサーチをされたのですか。

ハーバードでの研究室は免疫病理学のがん研究の教室でしたので、僕は細胞培養の担当で血管内皮細胞をクローン化してがん細胞の標的を見つけ出す研究を行っていました。
日本に帰ってからの研究は今では大阪大学などが心筋シートと言っていますが、血管内皮細胞に加え、心筋細胞、がん細胞培養の研究をおこないました。心筋細胞を植えたり、心筋をビーティングさせて心筋保護液を入れ心筋細胞の拍動の停止や回復をみたりといった研究をしていました。

最初は英語がお得意ではなかったのですか。

そうです。英語はやはり留学をしたことがある人とない人とでは違いますね。

それからトロントに移られたのですか。

ボストンに3年近くいましたが、一度、大学の病理に帰りました。当時は大学院で博士号を取得すると、お礼奉公のような徒弟制度があったのです。そのために帰国しました。帰国後は大学院の院生を指導したり、学位を取らせたりする中で、自分の研究もしました。病理学教室では肝臓を専門にした病理を研究していたのですが、消化器外科の肝臓がんの患者さんから癌切除組織をもらって、それを培養しクローン化に成功したのです。おそらく、その当時、ヒトのがん細胞をクローン化して培養に成功したのは日本で初めてだったのではないでしょうか。

すごいですね。

αフェトプロテインを産生にするがん細胞ができたのですが、これは今でも教室に冷凍保存してあると思います。それを使って、色々なことができるようになったのです。そういうわけで、リサーチは面白かったので、続けてもいいなという気持ちはありました。

研究の世界でもご活躍になったかもしれないですね。

病理からも引き止められましたが、やはり外科に行きたかったです。

1985年に改めてトロントに留学されました。トロントを選ばれたのはどうしてですか。

いくつか手紙を書いて、アクセプトしてくれたところがトロント大学トロント総合病院だったんです。外科に帰ったときに、古賀教授に海外に留学したいと言ったのですが、教授から「お前はまだ外科医として、心臓外科にほとんど手をつけていない。これから自分が1、2年教えてやるから、それまで待っておけ」と言われました。それで、その頃、研究室に一緒にいた講師の先生に「自分も留学したいが、留学の仕方が分からないから、色々と教えてほしい」とお願いされました。そうしたら、その先生に「手紙を書いて、アクセプトしてもらえたら留学できる」と教えて手紙を書き、その先生がトロントに決まりました。そして、その先生がまず留学した後、続いて私も行きました。

トロントではどういった手術が多かったですか。

一般的な心臓外科全部です。ほとんどが冠動脈バイパス手術ですので、単純でしたね。

苦労されたのはどういったことですか。

日本人は話すのが下手ですよね。でも向こうの人は月曜日だと必ず「土日は何をしていたの」という話から始まります。そこで「土日はずっと寝ていた」というと会話が全然進みません(笑)。呼び名にしても、そうですよね。私は「ただーし」と呼ばれていましたが、ハル・ドボラーク先生という教授も皆からハル、ハルと呼ばれていたので驚きました。

どのように慣れていかれたのですか。

向こうでは話さないことは知らないことだと思われてしまいます。日本には話さず、寡黙なのがいいという考えもありますから、慣れるまでは苦労しましたね。ハーバードに行った頃は英語も下手でしたが、半年ぐらいすると普通に話せるようになり、皆と話ができるようになると、受け入れてもらえるようになりました。トロントに行ったときは最初から話せていましたので、ベアード教授からも「お前は英語ができるから、すぐに来月から当直して」と言われて、当直もさせられていました(笑)。3日連続で当直したこともあります。アメリカでは当直が一番ハードな思い出です。

話すことが大事なのですね。

話さないと話しかけてこないですからね。日本は外国人に弱いところがありますが、向こうでは黙っている相手を助けてやろうというのはありません。積極的にならないと駄目ですね。日本のどこから来たみたいな話をしても、会話が続かないと沈黙になります。私の場合は向こうの講師の先生ご夫妻が色々と面倒を見てくれて、親戚の家や別荘などにも招かれていました。

ご家族でいらしたのですか。

そうです。私は単身赴任するつもりでしたが、妻が「二重生活だとお金がかかるから、一緒に行く」と言ってくれました。トロントは北国なので、冬は3時ぐらいから日が暮れてきます。朝は真っ暗のうちに出勤するので、真っ暗なときにバスや地下鉄で出勤して、手術や当直をしてという感じでした。トロントでは仕事しかなかったですが、たまの休みに家の近所の高台で娘たちとソリ遊びをしていました。

お休みを取られなかったのですか。

唯一の休みが1週間の夏休みでしたので、家族で『赤毛のアン』のプリンスエドワード島に行きました。でも、向こうでしっかり医師をするなら、そのぐらい頑張らないといけないということですね。慣れてくれば、もう少し休めるのかもしれませんし、私もあと1年弱ぐらいはいたかったですけど、帰国することになりました。

トロントに何年いらしたのですか。

1年です。とにかく帰ってこいと言われたんです(笑)。1年間でも向こうでは年間1500例ほどの手術があり、私も600例近くについていました。トロントに留学して2カ月後に心臓バイパス手術に初めて取り組みました。師事していたベアード先生の手術で助手をしていたので、手順は頭に入っていましたが、そのベアード先生のご指導をいただきながら無事に終えることができました。その頃、日本ではバイパスを1本つけるのに1時間もかかっていたのですが、ベアード先生のチームでは10分で済ませていました。

今の若い先生方はあまり留学をしなくなっているそうです。

日本の心臓外科は随分と発達したので、留学のメリットが少なくなっているのだと思います。私の頃はバイパスがほとんどでしたが、日本ではまだ一般的ではなかった時代でしたので、海外で学べることが多かったです。留学を終えて、帰国したときは手術をかなりこなせるようになっていました。

著者プロフィール

磯村正先生 近影

著者名:磯村 正

イムス東京葛飾総合病院 心臓血管外科 特任部長

  • 1951年 山口県徳山市(現 周南市)で生まれる。
  • 1975年 久留米大学を卒業する。
  • 1979年 久留米大学大学院を修了する。
  • 1979年 ハーバード大学ベスイスラエル病院に勤務する。
  • 1985年 トロント大学トロント総合病院に勤務する。
  • 1987年 帰国し、久留米大学病院心臓外科に講師として勤務する。
  • 1997年 湘南鎌倉総合病院心臓血管外科部長に就任する。
  • 2000年 葉山ハートセンターを須磨久善(すまひさよし)先生と創設し、副院長として着任する。
  • 2001年 葉山ハートセンター院長に就任する。
  • 2002年 葉山ハートセンター名誉院長に就任する。
  • 2005年 葉山ハートセンター心臓外科センター長に就任する。
  • 2008年 信州大学診療特任教授を兼任する。
  • 2015年 東京都立広尾病院心臓血管外科に勤務する。
  • 2015年 大和成和病院心臓血管外科スーパーバイザーに就任する。
  • 2015年 大崎病院東京ハートセンターに副院長として着任し、心臓血管外科特任部長を兼任する。
  • 2019年6月 東京医科大学兼任教授に就任する。
  • 2019年7月 イムス東京葛飾総合病院心臓血管外科特任部長として着任。

 
日本胸部外科学会指導医、日本外科学会認定医・指導医、日本心臓血管外科学会専門医、日本循環器学会評議員、日本胸部外科学会評議員、日本冠疾患学会理事など。

国際学会員:STS(USA)、AATS(USA)、EACTS(欧州)

バックナンバー
  1. 心臓血管外科の未来について
  2. 05. 心臓血管外科とAI
  3. 04. 心臓血管外科の面白さ
  4. 03. 須磨久善先生に出会う
  5. 02. ハーバードに留学する
  6. 01. 心臓外科医を目指す

 

  • Dr.井原 裕 精神科医とは、病気ではなく人間を診るもの 井原 裕Dr. 獨協医科大学越谷病院 こころの診療科教授
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