2018年3月12日、慶應義塾大学病院臨床研究推進センターの副島研造教授、同大学病院輸血・細胞療法センターの田野崎隆二教授らは、理化学研究所(以下、「理研」)の統合生命医科学研究センターの谷口克 免疫制御戦略研究グループディレクターらが発見したナチュラルキラーT(以下、「NKT」)細胞による免疫細胞活性化のメカニズムを応用し、新規に開発した再生医療等製品を用いたNKT細胞標的がん治療の安全性・有効性を評価するための第Ⅰ相医師主導治験を開始しました。
今回はNKT細胞を発見された理研の谷口先生からお話を伺い、基礎研究の面白さ、若い先生方へのメッセージなどをお話し頂きました。
お生まれは新潟県ですね。
私は新潟県長岡市生まれですが、遺伝子は新潟県ではありません。父のルーツは福岡で、母は鹿児島、すなわち九州です。父は当時の東京帝国大学医学部の「呉内科」、呉建教授のもとで循環器の医師をしていました。
父の同級生には横綱審議員長を務められた上田英雄教授を始め、著明な先生方が数多くおられました。呉教授は神経系・循環器系が専門で、日本の循環器内科をリードしてきた人です。昭和15年初めに父が長岡赤十字病院勤務を命ぜられ、長岡に着任してその年の暮れに私が生まれました。
ちょうどその頃、日本に心電図が導入されましたが、新潟県には大学にも心電図を読める医師がおらず、父が長岡赤十字病院に勤務しながら、大学まで心電図の読み方を教えに行っていたようです。現在の新潟大学、当時の新潟医科大学です。父が大学で心電図の読み方を教えている写真が残っていました。
小さい頃はどのようなお子さんでしたか。
昆虫が大好きで、蝶々を一杯集めて、標本を作っていました。綺麗な標本を作るためには幼虫から羽化した蝶でないといけないので、様々な種類の蝶の幼虫を捕ってきては、食草と幼虫の関係を詳しく調べて、飼育し、標本を作りました。
そんな訳で、家には蝶々の箱が一杯ありましたが、私が昆虫にハマって、受験勉強を全くしない子どもだったので、それに怒った母が、私の留守中に、蝶の標本箱を全部捨ててしまったため、仕方なく受験勉強を始めた次第です。母は101歳で亡くなりましたが、教育ママだったということですね。
鹿児島の遺伝子を持つお母様ですね。
母の父親、すなわち、私の祖父は海軍少将でした。その海軍少将の父親、曽祖父は若いときに西郷軍兵士として西南戦争に参加しています。賊軍だったんです(笑)。
曽祖父は桐野利秋の士学校に行き、西南戦争に参加しました。西郷軍は300人ほどが西郷隆盛と一緒に城山に立てこもり、100人が自決したそうですが、祖父の父は若かったために生き残り組でした。でも生き残り組の人たちは反乱軍ということで、全員が警官にさせられ、監視下に置かれたようです。
その子どもである私の祖父は父とともに上京し、後に開成中学校から海軍に入り、巡洋艦名取と巡洋艦常磐の艦長を経て、海軍少将になりました。開成中学では標準語を話せない福島弁の斎藤茂吉と鹿児島弁の祖父とが大の仲良しの同級生だったようで、母の実家には斎藤茂吉からの手紙が沢山ありました。そして海軍兵学校では山本五十六と同期で、仲が良かったようで、多くの手紙とともに、「噫 山本元帥」という著書を残しています。
斎藤茂吉や、山本五十六の小説を書くときなどに執筆家が実家を訪ねていた話はよく聞きました。また、海軍少将の祖父は獅子文六という随筆家と親友で、獅子文六著“へなへな編随筆”に「I海軍少将の思いで」と題して祖父のことが記載されており、祖父の気質が理解できました。
これらは、母が白寿を迎えた2016年に両親の古い写真とともに家系図を調べて、両親の一生を一冊の写真集にして、母親と子ども・孫たちにキンドル版として贈った「谷口元子白寿記念-戦前・戦後激動の時代を振り返る-」作成の途中で明らかになったことです。このキンドル版に、母はとても喜んでいましたし、孫たちへの谷口家伝承記になりました。
高校はどちらですか。
県立新潟高校です。昆虫に夢中になって勉強もしない私を見かねて、母は私が中学3年生のときに、長岡から新潟の中学に転校させ、下宿させました。新潟高校・新潟大学医学部に入学させるためです。
ある年の冬、長岡の自宅に帰省して翌朝電車で新潟に帰ろうとしたら、一晩で積もった80センチの雪をかき分けて駅まで行って新潟まで帰った記憶があります。
新潟高校までは母の意に沿いましたが、大学は母の意に反して千葉大学医学部に入りました。私は小さい頃から医師になると決めていて、ほかの職業は考えたこともありませんでした。千葉大学を選んだのは暖かいところだったからです(笑)。
医学部卒業後は、どうされたのですか。
父親の背中を見てきましたから、臨床医になるつもりでした。将来は父親と同じく循環器を専門にしようと考えていましたので、インターン(研修医)時代には主に循環器疾患を研修することにしました。
当時の国立千葉病院にアメリカの病院に10年近く勤務され、日本に帰ってこられたばかりの腕のいい循環器専門の先生がおられました。その先生は、あまりにもアメリカナイズされていて、お弟子さんが一人もいない状態だったので、そういう状況なら、しっかり教えていただけるだろうと思って、国立千葉病院の先生のもとを訪ねました(笑)。
案の定、先生は私に手取り足取り教えて下さり、10数例の心臓カテーテルまで、私に担当させてくださいました。1年間の研修を終えてからは、循環器以外の疾患を学ぶ必要があるとの想いで、循環器疾患をやっていない第一内科に入りました。
当時はまだ心臓カテーテルは珍しい頃ですか。
珍しかったですよ。大学病院ではやっていませんでした。ほかの病院から送られてきた患者さんを診て、診断が正しいのかどうか、心カテで確認したところ、心カテを使用していない場合の診断的中率は5割ぐらいでした。
当時、心カテは患者負担も大きく、また普及していませんでしたから、聴診の心音や心電図に頼るしか方法はなかったのですが、耳だけだとやはり甘いですね。心カテはすごいなと思いました。
とは言え、聴診も重要なので、私は寝る前に必ず15分間は色々な心疾患の音を収録した製薬会社がくれたソノシートを聞きながら眠ることにしていました。
循環器内科の研修が終わってから、大学病院に戻られたのですね。
当時、インターンは1年でした。私は循環器以外の勉強も沢山して、早く循環器医になることを楽しみに、第一内科に入局したのですが、医局長が関連病院にアルバイトに行けと言うのです。私は「お金はいらないし、勉強したいので、アルバイトに行く必要はありません」と言いました(笑)。
でも、どうしても行けと言われたので、それでは「関連病院には心臓外来がなかったので、心臓外来を作ってもいいのなら行きます」と言って、関連病院にアルバイトに行き、週1回の循環器外来を作りました。
慢性循環器疾患を抱えた大勢の患者さんがいらっしゃったでしょう。
アルバイト先の関連病院は大きな病院でしたが、循環器外来がありませんでしたので、慢性循環器疾患の患者さんが多くいらっしゃったのですが、十分な治療が提供されていませんでした。そこで、最初は心音だけで診断するしかなかったのですが、どのような慢性疾患の患者さんがいるのか、心音で不明な病気の可能性があるときはインターン時代の先生に患者さんを紹介し、一緒に私自身も出向いて、カテーテルで診断を確認していました。
その結果、大動脈漏斗部狭窄症および肺動脈弁閉鎖不全症患者を発見できました。また、当時の内科治療薬は感染症特効薬の抗生物質ペニシリンがありましたが、感染症以外の疾患ではあれだけ効く薬は慢性心臓病治療の特効薬ジキタリスという薬くらいで、循環器病治療の習得をしていた私にはその処方ができたので、積極的に処方すると、「先生、良くなりました」「病院の坂を登っても息切れしなくなりました」と言われるようになりました。
慢性循環器疾患に対するジギタリスの効果は抜群で、病院の坂道をゼーゼー言って上がってきていた患者さんが全くゼーゼー言わなくなりましたからね。それでお礼にということで、野菜をたくさん持ってきてくれました(笑)。今なら問題ですが。
免疫学と出会う
その関連病院で、あるとき、私のもとに「入院患者さんを診てくれませんか」と依頼が来ました。その患者さんは、脾臓は3倍、肝臓も2倍ぐらいに腫れていたし、リンパ節はあらゆるところが累々と腫れていました。
私は血液系の疾患かと思いましたが、どんな疾患か見当も付きませんでした。それで、大学の病理学教室に血液サンプルを持っていくと、病理学の先輩が色々な細胞染色・血清検査をやってくださり、「これはマクログロブリン血症だよ」と教えてくださいました。日本で3例目でしたが、白血病化したマクログロブリン血症としては、国内はじめての症例でした。それはIgMという免疫グロブリンを作る免疫細胞が白血病化した血液がんです。
心臓外来で出していたジキタリスの効果もそうでしたが、このときの専門家の目利きの素晴らしさに感動しました。非常に驚き、学生時代には教えてもらっていなかった免疫グロブリンIgMとは何かを知るために、内科学を諦めて、病理学専攻の大学院に入学し、免疫学の勉強を始めました。
どのように免疫学を始められたのですか。
当時は免疫学の授業はなかったので、抗体については教えられていませんでした。それで病理学の先生に「何を勉強したら、いいですか」と聞きました。日本語の文献もなかったので、英語の文献だけでした。そのとき読んだ本には実に興味のあることが書かれていました。
まず、リンパ球受容体・抗体のレパートリーが100兆(1015)もあることに、大きな衝撃を受けました。当時は1つの遺伝子が一つのタンパク質をコードしているということが常識でした。しかし、人間の身体は約23,000の遺伝子だけで作られているのに、どうして免疫系だけがそんなにも多様なタンパク質を作ることが可能なのか不思議でした。
そのメカニズムである遺伝子再構成機序を発見し、1976年にノーベル賞を受賞したのが利根川進先生です。ほかの遺伝子と違い、リンパ球受容体・抗体を作る遺伝子は部品だけが親から伝わり、リンパ球ができる段階で、遺伝子部品がランダムに組み合わされ、そのプロセスの途中で、部品と部品を繋ぐための遺伝子修復機構により、再びランダムにDNAが追加される結果、多様な遺伝子ができあがり、それが膨大なリンパ球受容体・抗体を作るのだと判明しました。
マクログロブリン血症に遭遇したことがきっかけとなって、基礎研究に移られたのですね。
私の当時の疑問は免疫に関わった人ならば、皆、お持ちだったのでしょうが、それまでの私は免疫を考える機会もなかったので、考えてもみませんでした。
幼少期から循環器医になることだけを夢に見ていた私には、後に利根川先生が解き明かした、壮大な未知の世界に憧れて、“臨床”よりも“未知を探求する”ことの方がどんなにか楽しそうだと思い、基礎研究を始めることになりました(笑)>。