iPS細胞技術研究の意義
皆様、こんにちは。慶應義塾大学の岡野でございます。2012年にノーベル生理学・医学賞を山中伸弥教授が受賞されたことは記憶に新しいと思いますが、今日はiPS細胞がどのように役立つかといったことについて、お話しします。ご存知の通り、2012年のノーベル生理学・医学賞はこのお二人の方が受賞されました。イギリスのジョン・ガードン卿と山中伸弥教授です。
この研究の意義について少しお話しします。これはヒトの一生、特に発生過程を簡単に書いたものです。ヒトの一生はまずは精子と卵子による受精によって始まります。そして、我々大人の身体なら36兆個の細胞からなる非常に複雑な個体が形成されていくわけです。この過程でどのようなことが起きているかと言うと、精子と卵子が融合して一つの受精卵という細胞になり、それが分裂を繰り返して我々の個体を作ります。受精卵が受精卵として分裂を続けると、タラコのような個体ができてしまいますが、決して、そういうことではなく、ヒトの身体は内蔵などの内胚葉、筋肉や血液になる中胚葉、皮膚や神経になる外胚葉から成り立つという複雑な細胞社会を構築します。我々の身体のプロトタイプは実は比較的初期からできています。受精後4週間ぐらい経つと、このような状態になりまして、将来、頭になる、手になる、足になる、色々な内蔵の原基が既にできあがっているわけです。
この過程をもう少し詳しく見ますと、受精後5.5日ぐらい経ちますと、初期胚がここにお示ししているような状況になっています。黄色い部分が内部細胞塊と言いまして、身体を構成する、あらゆる細胞になる細胞が存在している部分です。このような細胞を多能性幹細胞と呼んでいます。多能性とは一つの細胞に由来して、内胚葉、中胚葉、外胚葉の細胞になることができる能力のことです。この内部細胞塊を培養したのが、ES細胞と言われる多能性幹細胞です。これがしばらくしますと、多能性幹細胞は特定の臓器、組織だけを作る幹細胞に変化していきます。これは体性幹細胞と言われています。これで血液の幹細胞ができたり、神経の幹細胞ができたり、消化管の幹細胞ができたりするわけですが、この体性幹細胞が分裂を続けて、我々の36兆個の細胞ができあがっていきます。我々大人の身体は、言ってみますと非常に特殊化した細胞、すなわち、これを分化した細胞と言っていますが、分化した細胞からできあがっていることが知られています。しかし、我々大人の身体の中にも体性幹細胞というのが、ごく少量ですが存在していて、我々の色々な臓器の恒常性の維持に重要な役割を果たしています。例えば、赤血球の寿命は120日ですが、死んでいく赤血球の代わりに新しい赤血球を作っていくのも血液の幹細胞です。消化管の細胞は、非常にターンオーバーが激しく、消化管の上皮は毎日、便の中に排出されていくわけですが、どんなに毎日、排出されても、消化管の上皮がなくならないのは幹細胞から新しい細胞ができているからです。このように古い細胞は、どんどん死んで、新しい細胞ができているという、細胞としての新陳代謝、これを担う元の細胞が体性幹細胞です。いずれにせよ、受精卵に始まりまして、特定の臓器だけを作る体性幹細胞ができて、さらには分化した細胞ができていきます。最初は非常に単純であったものが、段々と特殊化していくというのがこれまでの発生学の大前提だったわけです。
ところが、この分化した細胞に色々な処置を施すことによって、これを初期化するという技術が開発されました。その一つがiPS細胞技術であるということです。慶應義塾大学医学部・病院には、百寿総合研究センターという100歳以上の方(百寿者)を対象にして、健康長寿の研究をしている部門があります。同センターでは、106歳の方の皮膚の細胞からiPS細胞を作りました。ご本人はお元気な方ですが、細胞だけは2カ月ぐらいしますと生後5.5日の段階まで戻ってしまうのです。このようなことが起きるということで、生物学的タイムマシンと言うことができます。
この、いわゆる初期化という技術につきましてはiPS細胞以外に体細胞の核移植があり、英国のジョン・ガードン卿が成功しています。これは未受精卵で、ここに精子さえ来れば、どんな細胞にも分化します。これは特定の運命決定を受けた細胞、例えば腸の細胞、これを受精卵の核と入れ替えることによって、腸以外の細胞になるかどうかといったことを検討したのがジョン・ガードン卿です。未受精卵による核の情報を、紫外線を照射することによって不活性化して、そこに腸の細胞を導入しました。この腸の細胞は腸の細胞でしかありえませんが、初期化して、さらにカルシウムなどで刺激しますと、腸の細胞を持った未受精卵が分裂を続けまして、このような一個体を作ってしまうことが分かりました。すなわち、もともとの細胞の核に由来した神経細胞や血液細胞、筋肉、もちろん腸の細胞ができたということです。腸という特殊な細胞になった遺伝情報を持っている核が初期化したということを見出したのです。この論文は1962年に発表されました。この年はちょうど、山中伸弥教授が生まれた年だということが面白いですね。
ところが、ジョン・ガードン卿による、クローンカエルを作ったという研究は当時はそれほど評価を受けたわけではありませんでした。というのは、これはカエルに特殊な現象として思われていて、我々人間などからはかけ離れているのではないかというふうに思われたためです。しかし、1990年代の終わりにイアン・ウィルマート教授がクローン羊を作りました。このことから哺乳類についても、こういった核移植による初期化ができ、そしてクローン個体も作成できることが分かりまして、ヒトへの応用に関しても十分にありえるということで、大きなインパクトを得ました。
ヒトクローン胚がどれだけできるか、そして、そこからES細胞のような細胞を作れるかということでしたが、それから捏造事件などがあって、混乱した時期もありました。しかし、2013年ぐらいから、やはりできるということが分かってきました。
一方、2006年には山中教授が全く違うアイディア、遺伝子を導入するという方法で、この多能性の細胞を作ることに成功しました。この山中4因子、Oct3/4、Sox2、c-Myc、Klf4を導入することによって、ES細胞そっくりの人工多能性幹細胞、iPS細胞を作ることに成功したのです。したがって、このノーベル生理学・医学賞の二つの研究は全く違う方法で生体になって、特殊化した細胞を初期化させたというものです。一つの方法は核を未受精卵に導入することによって、核移植を受けた卵が受精卵のような状態になったということです。細胞を分裂させることによって、個体発生に関与していきました。もう一つの方法は全く違う方法で、2006年に論文発表されました。マウスに遺伝子を導入することで、ES細胞そっくりの多能性幹細胞を作ったということです。合わせて考えますと、初期化細胞技術は非可逆と思われた発生過程を逆もどりさせることができる、いわゆるタイムマシンのような技術であることが分かりました。発明の年が46年も離れていますし、ガードン卿と山中教授は、親子ほど年が離れていますが、一つのコンセプトを全く違う方法で証明したことで、2012年にノーベル生理学・医学賞に輝いたということです。iPS細胞は論文発表から6年でのノーベル賞受賞だとよく言われますが、その背景となる核移植による初期化といった研究が実は50年も前からされていたのですね。
多能性幹細胞の性質としまして重要なものが二つあります。これはES細胞、iPS細胞の多能性を保って、無限に増えます。言わば、自己複製です。自分自身の性質を保って無限に増え、そして身体を構成する、どんな細胞も作ることができます。外胚葉系の神経系、内胚葉系の心筋細胞、内胚葉系の肝細胞などです。これがいわゆる多能性です。多能性を持って自己複製する細胞としまして多能性幹細胞と定義することができます。そして、そこには初期胚から取ってきたES細胞と人工的に作り出したiPS細胞があります。
ES細胞に関しましては1981年にマーチン・エバンスさんという人がマウスにおいて、この方法を確立しました。マウスの初期胚から由来しまして、ES細胞をこのようにシャーレの中で確立したのです。それをまた違う初期胚に導入しますと、ES細胞由来の細胞はここで示しますと、色がついたところの細胞集団です。このような個体発生にも参画させて、しかも生殖細胞にも分化することが分かりました。したがって、このES細胞由来の細胞が次の世代に移っていくということです。そして、このES細胞を別の培養条件に変えますと、胚様体という、これはシャーレの底にぴたっと張りついているものですが、これを浮かせると、こういうことになります。このような細胞凝集塊を作ります。これは三胚葉性の分化をしていきまして、シャーレの中で上皮細胞、そして神経細胞、そして、このような血液細胞になっていく能力があります。1981年にこのようなマウスのES細胞を作りましたが、1998年にはウィスコンシン大学のジェームス・トムソンさんという人がヒトのES細胞を樹立しました。これは受精後5日程度のヒト胚ですが、これが胎児の身体になる部分です。ここの部分が将来、胎盤になる部分で、受精卵に由来していますが、胎盤の細胞は赤ちゃんの身体にはなりえません。内部細胞塊から培養したのがヒトのES細胞です。これはES細胞のコロニーです。このES細胞はインスリン産生細胞、神経系、肝、血液、心筋、骨、軟骨、眼、皮膚、骨格筋、腎といった様々な細胞に分化できます。したがって、インスリン産生細胞がなくなってしまうようなI型糖尿病の治療、神経系ではアルツハイマー病ですとか、脊髄損傷、パーキンソン病の治療で注目されています。
今日はこの神経系の話を重点的にさせていただきたいと思います。最初に臨床に応用されたものとしまして、網膜色素変性症、あるいは加齢黄斑変性症といった疾患があります。ES細胞から作った色素細胞の上皮のシートを移植したという論文が2012年の『ランセット』誌に発表されました。このようにES細胞を用いた再生医療は実は始まっているのですが、色々な問題点があります。ES細胞とは言え、人様の細胞ですので、移植後の明確な拒絶反応がありますし、ヒト胚を使うという生命倫理的な問題があります。
したがって、ヒトES細胞を使った再生医療は難しかったのですが、最近になって厚生労働省の指針がようやく改正になり、ヒトES細胞を使った臨床研究も可能になりつつあります。iPS細胞はご自身から作ることができますので、移植後の拒絶反応の問題は回避できますし、iPS細胞技術はヒト胚を使うES細胞と違って、大人の皮膚の細胞から作りますから、これらの問題は解決できると考えます。iPS細胞技術のすごいところは発生生物学の常識を打破したということですね。生物学のタイムマシンであること、これがノーベル賞の理由になりました。それだけでなく、医療応用、すなわち移植などの細胞治療として疾患モデル細胞、これらへの応用が非常に注目されているところです。すなわち、患者さんの皮膚の細胞からiPS細胞を、最近は血液からも作られますが、シャーレでiPS細胞を様々な細胞にすることができます。例えば、神経系の異常のある方でしたら、ご本人のiPS細胞由来の細胞をご本人に移植するというような再生医療が可能になります。シャーレの中でも色々な解析で、病気の原因の解明、薬効、副作用の評価などができるようになります。ですから、再生医療だけではなく、病気のモデル細胞を作ることが可能となります。モデル細胞ができますと、創薬や副作用の判定にも使われるということで、非常に強い医療応用への注目がされています。