一昔前は中国人のイラストを描くのが非常に簡単だった。いわゆる“人民服”さえ着せれば、それは誰の目にも中国人として認識された。中国人の誰もが同じような服を着ていたことは、世界の人々の目に奇異に映った。
天安門広場で毛沢東の登場を待つ紅衛兵や文革支持者たち みんなが人民服を着た背景には、プロレタリア文化大革命(文革)の影響があった。
文革とともに出現した“紅衛兵”とは、毛沢東を熱狂的に支持する極左思想の若者集団。彼らは軍服のような“紅衛兵装”で身を固め、古い思想、文化、風俗、習慣を破壊し、これらが刷新された新社会の樹立を目指した。
紅衛兵に攻撃されるキリスト教関係者 当時は紅衛兵の集団が街を練り歩き、帝国主義、封建主義、資産階級、地主階級、搾取階級などを連想させる服装を取り締まった。洋服、革靴、スカート、旗袍(チャイナドレス)、アクセサリなどを身につけた人を見つければ、暴力的な制裁を加えた。華美な化粧や髪形も、紅衛兵による弾圧の対象だった。
その結果、人々の外見は批判されない方向に集約され、いわゆる人民服に落ち着いた。中国人の服装が均一的だった背景には、こうした歴史的悲劇があった。
中山装を着た孫文 日本で人民服と呼ばれる服装は、中国では“中山装”(日本語:中山服)という。“中山”とは孫文の号。中華圏では孫文を“孫中山”と呼ぶ。中山装と名づけられたのは、これをデザインしたのが孫文と言われるからだ。
中山装は1920年代から流行し、中国国民党の中華民国政府で官服として採用。中国共産党の指導者も、これを着用するなど、主義主張を超えた中国人の“国民服”となった。
中華人民共和国後の成立後も、毛沢東は中山装を継承。1956年に毛沢東の体形に合わせて改良が施され、“毛式中山装”(略して“毛装”)に変化した。
この中山装のデザインには、さまざまな意味が込められている。
中山装を着た宿敵同士
左は中国国民党の蒋介石
右は中国共産党の毛沢東
例えば、左右の胸と腰にあつらえた四つのポケットは、国家の維持に必要な“四維”、すなわち“礼、義、廉、耻”を意味する。
五つのボタンは、孫文が掲げた“立法、司法、行政、考試、監察の五権分立”を示す。
片腕に三つの袖ボタンは、孫文が唱えた“民族、民権、民生の三民主義”を表す。
背中の中心には縫い目がなく、“国家が分裂しないことへの願い”が込められている。
孫文の理念を盛り込んだ中山装は、中華民国の移転先である台湾にも持ち込まれた。
台湾では1987年7月15日に戒厳令が解除されるまで、公務員は中山装を着ていたが、その後は衰退した。
中国本土では1978年12月に改革開放が始まると、人々の服装が多様化。中国共産党の幹部もスーツ姿が目立つようになった。
オランダを訪問した習近平・国家主席
中山装で晩餐会に臨んだ。
しかし、中国の最高指導者は重要な式典や外交などで中山装を着用する。中国文化への自信を誇る習近平・国家主席は、2014年3月に訪蘭した際、中山装で晩餐会に臨んだ。
いまや中山装は、中国の諸民族を包括した“中華民族”を強調する立派な正装に発展した。人民服という何だかチープな日本での呼び名も、そろそろ変えた方が良い気がする。