浙江省紹興市の会稽山
この地で越王勾践は呉王夫差に敗北
「会計之恥」という四字熟語が生まれた
治水を行う禹を描いた後漢時代の画像石
山東省嘉祥県の武梁祠で発掘された
西暦151年ごろの作品
「大会」という言葉などの「会」という漢字は、中国の標準語「普通話」で「ホイ」(hui)と発音する。ただし、「会計」の「会」の字では、「クアイ」(kuai)という発音になる。
「会」という漢字を「クアイ」と発音するケースとしては、浙江省紹興市にたたずむ「会稽山」の「会」の字くらいしかない。
この会稽山は、山頂が海抜354メートルと、決して高くはないが、中国文明の始まりから天下に知られた名山だ。
中国で最初の王朝は、紀元前2000年ごろに誕生した夏王朝とされる。ただし、夏王朝は歴史書に記録が残っているものの、その実在を確実に証明するような考古学的物証を欠き、日本では「伝説の王朝」とされる。
この夏王朝を創始したのは、禹という人物。彼は13年の歳月を費やし、黄河の治水工事を成し遂げた。その功績により、伝説の帝王である舜は、禹に位を譲り、夏王朝が誕生。禹が崩御すると、息子の啓が王位を継承。血縁者が王位を継ぐ世襲君主制が始まった。
生前の禹は、治水工事のために各地をめぐり、その知識を基に、天下を九つの州に分けた。こうした禹の業績により、中国には夏王朝に由来する「華夏」や九つの州にちなんだ「九州」という別称がある。
禹が葬られた会稽山の大禹陵
紹興市越城区禹陵郷禹陵村
インカ帝国のキープ(結縄)
禹は会稽山を巡行した際に崩御したとされる。また、会稽山で禹が重大な祭祀を執り行ったという記録も残る。
この会稽山については、司馬遷が著した歴史書「史記」に「会稽とは会計なり」という記述がある。この山はもともと「茅山」や「苗山」といった名前だったが、この地で禹が諸侯と会合して、その業績を論じたことから、会計の意味を込め、会稽山に改名したという。
つまり、「会稽」と「会計」は、本来的に同じ意味。今日でも「会稽」と「会計」の「会」の字だけは、今日でも「クアイ」と発音し、そのほかの「会」(ホイ)と区別される。
このように、中国最初の王朝は、会計と大きな結びつきがあった。会計の歴史は古く、文字が発明される前から存在した。
中国には「結縄の政」という言葉がある。「結縄」とは文字を持たないインカ帝国で使われた「キープ」と同じものだ。縄に作った結び目の形状や個数で情報を記録し、これを使って国家を統治した。文字を発明する前の中国も、インカ帝国と同じであり、「老子」などの書物に、そうした記述がある。
太古の中国で政治に使われた結縄は、インカ帝国と同様に、財政収支や統計などを記録するのに不可欠なツールだったのだろう。
甲骨文字の数字
現代の漢数字の原形が垣間見える
夏王朝が崩壊すると、殷王朝の時代が到来した。殷王朝とは日本での呼称であり、中国では商王朝という。商王朝は政治に結縄ではなく、甲骨文字を使い、多くの記録を今日に伝える。そこには会計の記録も残っている。
一説によると、商王朝が崩壊すると、その国民、つまり商人は天下に散り、交易活動に携わった。これが「商人」という言葉の由来という。当然、商人たちは会計の知識も駆使しただろう。王朝の運営や商人の交易活動に使える会計は、まさに「文明の利器」だった。