日本や西洋で“チベット”と呼ばれる地域は、中国語で“西蔵”(シーザン)という。チベット語では“プー”と呼ぶ。
中国語の“西蔵”という呼称は、17世紀中ごろから清王朝で使われるようになった。このうち蔵(ザン)の字は、チベットを流れるヤルンツァンポ河の上流域が、現地語の言葉で“ツァン”と呼ばれたことに由来する。西(シー)の字については諸説あるが、満州語に由来するという見解が有力だ。
スウェン・ヘディン(1908年)
中央アジアとチベットを探検した直後
チベットという西洋での呼称は、18世紀に生まれたようで、アラビア語から借用したという説が広まっている。日本は西洋での呼称に従った。
欧州諸国が植民地の拡張に明け暮れた時代、世界地図で最後まで空白として残ったチベットは、謎と神秘の土地だった。この空白は20世紀初頭にスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンによって、ついに埋められた。
チベットが最後まで秘境だった理由は、その過酷な自然環境にある。チベット高原は面積が日本の約6倍もあるうえ、平均標高は約4500メートル。チベット自治区の中心地であるラサ市は標高3600メートル付近にあり、気圧は650ヘクトパスカルほどしかない。
チベット旅行には携帯型の酸素吸入器が欠かせない
高齢者よりも、若年層の方が高山病のリスクが高い
チベットを旅行すると、高山病のリスクが増し、最悪の場合は肺水腫や脳浮腫を起こし、死に至る。また、低酸素の環境に人体が反応し、全身に酸素を運ぶ赤血球の体積が増大。すると、血液の粘性が増し、血栓ができやすくなり、心筋梗塞や脳梗塞の危険性も高まる。
気圧の低さは生活様式にも影響。水をどんなに熱しても、沸点が低いことから、90度に達しない。料理するにも一苦労だ。
チベットを旅行した人
左は出発前、右は旅行後
強烈な紫外線で肌が焼かれる
過酷なのは気圧だけでない。夏の最高気温は30度に達し、冬の最低気温は氷点下10度を下回る。服装にも注意が必要だ。
また、大気が薄いことから、日射や紫外線が強く、チベット人の肌は日焼けしている。冬場でも日焼け止めクリームが欠かせない。
チベットを訪れた旅行者は、こうした環境への順応に苦労する。だが、チベット人は遺伝子レベルで、この環境に適応している。
チベットの子どもたちと家畜のヤク
チベット人は遺伝子レベルで高地に適応
初期人類デニソワ人から獲得したという説もある
チベットではデニソワ人の化石が見つかっている
化石は16万年前のものだった
チベット人は出生時から血流の酸素飽和度が高く、一呼吸ごとに多くの空気を吸う。生涯を通じて肺活量が大きく、呼吸も速く、肺の容積や脳の血流が高水準を維持する。高地に適応したチベット人の遺伝的特徴は、自然淘汰の結果だ。人類史ではわずか数千年で起きた“最速の遺伝子変化”と呼ばれる。
異質で過酷な自然環境は、チベットを外部勢力の侵略から守る防壁だった一方、その発展の妨げでもあった。寒暖差が大きいうえ、土壌の有機物の含有量が低い。さらに微生物の活動も弱く、農業が可能な耕地に乏しい。
青稞(ハダカムギ)を収穫するチベット農民
主食のツァンパ、醸造酒のチャンなどに加工する
食料生産は“ヤク”と呼ばれる牛などの遊牧に依存。少ない耕地ではハダカムギという大麦を生産し、これを“ツァンパ”という主食に加工する。こうした食料生産では人口を支えられない。チベット自治区の面積は中国の8分の1を占めるが、人口は21年末でも360万人あまりで、全国の0.3%にすぎない。神秘の地チベットは、今も昔も人を拒む。