コラム・連載

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話

人を拒む神秘の地~異質で過酷なチベットの環境

2023.12.20|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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日本や西洋で“チベット”と呼ばれる地域は、中国語で“西蔵”(シーザン)という。チベット語では“プー”と呼ぶ。

中国語の“西蔵”という呼称は、17世紀中ごろから清王朝で使われるようになった。このうち蔵(ザン)の字は、チベットを流れるヤルンツァンポ河の上流域が、現地語の言葉で“ツァン”と呼ばれたことに由来する。西(シー)の字については諸説あるが、満州語に由来するという見解が有力だ。

スウェン・ヘディン(1908年)
中央アジアとチベットを探検した直後
チベットという西洋での呼称は、18世紀に生まれたようで、アラビア語から借用したという説が広まっている。日本は西洋での呼称に従った。

欧州諸国が植民地の拡張に明け暮れた時代、世界地図で最後まで空白として残ったチベットは、謎と神秘の土地だった。この空白は20世紀初頭にスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンによって、ついに埋められた。

チベットが最後まで秘境だった理由は、その過酷な自然環境にある。チベット高原は面積が日本の約6倍もあるうえ、平均標高は約4500メートル。チベット自治区の中心地であるラサ市は標高3600メートル付近にあり、気圧は650ヘクトパスカルほどしかない。

チベット旅行には携帯型の酸素吸入器が欠かせない
高齢者よりも、若年層の方が高山病のリスクが高い
チベットを旅行すると、高山病のリスクが増し、最悪の場合は肺水腫や脳浮腫を起こし、死に至る。また、低酸素の環境に人体が反応し、全身に酸素を運ぶ赤血球の体積が増大。すると、血液の粘性が増し、血栓ができやすくなり、心筋梗塞や脳梗塞の危険性も高まる。

気圧の低さは生活様式にも影響。水をどんなに熱しても、沸点が低いことから、90度に達しない。料理するにも一苦労だ。

チベットを旅行した人
左は出発前、右は旅行後
強烈な紫外線で肌が焼かれる
過酷なのは気圧だけでない。夏の最高気温は30度に達し、冬の最低気温は氷点下10度を下回る。服装にも注意が必要だ。

また、大気が薄いことから、日射や紫外線が強く、チベット人の肌は日焼けしている。冬場でも日焼け止めクリームが欠かせない。

チベットを訪れた旅行者は、こうした環境への順応に苦労する。だが、チベット人は遺伝子レベルで、この環境に適応している。

チベットの子どもたちと家畜のヤク
チベット人は遺伝子レベルで高地に適応
初期人類デニソワ人から獲得したという説もある
チベットではデニソワ人の化石が見つかっている
化石は16万年前のものだった
チベット人は出生時から血流の酸素飽和度が高く、一呼吸ごとに多くの空気を吸う。生涯を通じて肺活量が大きく、呼吸も速く、肺の容積や脳の血流が高水準を維持する。高地に適応したチベット人の遺伝的特徴は、自然淘汰の結果だ。人類史ではわずか数千年で起きた“最速の遺伝子変化”と呼ばれる。

異質で過酷な自然環境は、チベットを外部勢力の侵略から守る防壁だった一方、その発展の妨げでもあった。寒暖差が大きいうえ、土壌の有機物の含有量が低い。さらに微生物の活動も弱く、農業が可能な耕地に乏しい。

青稞(ハダカムギ)を収穫するチベット農民
主食のツァンパ、醸造酒のチャンなどに加工する
食料生産は“ヤク”と呼ばれる牛などの遊牧に依存。少ない耕地ではハダカムギという大麦を生産し、これを“ツァンパ”という主食に加工する。こうした食料生産では人口を支えられない。チベット自治区の面積は中国の8分の1を占めるが、人口は21年末でも360万人あまりで、全国の0.3%にすぎない。神秘の地チベットは、今も昔も人を拒む。

 

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話
次回は1/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. ~内藤証券アナリストが書く~
    中国よもやま話
  2. 44. 民族の公認をめぐる試行錯誤~中国の民族政策におけるソ連の影響NEW!
  3. 43. 「あなたは何民族ですか?」~日本人と中国人の大きな違い
  4. 42. 洋の東西で同じ答えに~収斂進化した会計技術
  5. 41. これぞ「文明の利器」なる~王朝の誕生に会計あり
  6. 40. 商売の神様は実在した人物~彼が神たる理由とは?
  7. 39. 見た目は違うが、生まれは似ている~日本の「株式」と中国の「股份」
  8. 38. 香港市民の窮屈な生活~劣悪な住宅事情
  9. 37. 香港の“街並み景観”に歴史あり~租借地と王領植民地の違い
  10. 36. すべては英国王の手中に~英領香港の土地制度
  11. 35. “割当品から商品へ”~中国本土の住宅市場勃興
  12. 34. “所有権はないが、不便もない”~中国本土の土地制度
  13. 33. 労働力需要で犯罪組織が誕生~明治日本と改革開放中国の共通点
  14. 32. 香港裏社会に暗躍する三合会~返還後の表社会にも及ぶ影響力
  15. 31. 香港犯罪組織の系譜~数百年に及ぶ「洪門」の伝統
  16. 30. なぜ犯罪組織が人気?~中国起源の任侠道が果たした社会的役割
  17. 29. 21世紀版のグレート・ゲーム~ウイグルをめぐる情報戦
  18. 28. 現代の屯田兵~新疆生産建設兵団
  19. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
  20. 26. 東トルキスタン独立運動と西側諸国の連帯~ウイグル人が歩んだ歴史
  21. 25. 中国の街で目立つウイグル人~民族移動と人種的変容
  22. 24. チベット発展の秘策とは?~天国に最も近いタックス・ヘイブン
  23. 23. 神秘な世界の複雑な裏側~チベットの“化身ラマ制度”
  24. 22. 人を拒む神秘の地~異質で過酷なチベットの環境
  25. 21. 情報の真偽をめぐる混乱と論争~昔も今も中国は“遠い国”
  26. 20. 隋王朝に始まる中国経済の挑戦~言葉に映る南北の相違と一体化
  27. 19. 黄河文明と長江文明の融合と摩擦~中国の南北対立
  28. 18. 中国南北相違の原点~東アジアで異色な中国北部の小麦食
  29. 17. 漢字は同じでも、ひと味違う~複雑に絡み合う“麺料理”の概念
  30. 16. 現代中国の“漢服ルネサンス”~漢民族の服飾文化の探求
  31. 15. “人民服”の歴史的変遷~国民服から最高指導者の正装へ
  32. 14. 元々同じ圓が結ぶ奇妙な縁~東アジア一円の通貨
  33. 13. 誰もが彼らを無視できない~香港の摩天楼に潜む陰の実力者
  34. 12. 中国の人々を鼓舞する名曲~中国国歌の「義勇軍進行曲」
  35. 11. 伝統的バイオテクノロジーの傑作~茅台酒が高価な理由
  36. 10. 世界に目を向けよう~国際分散投資の魅力
  37. 09. なんでも漢字で表記~奥深い中国語名の世界
  38. 08. 自由を追い求める姿~中国の投資家たち
  39. 07. “口にすべし、楽しむべし”~中国的可楽世界
  40. 06. “いままで”と“これから”~EV投資をめぐる視点の違い
  41. 05. 株式市場を育てる順序~ミャンマーと中国の違い
  42. 04. 対中情報戦の犠牲者~王立強事件の空騒ぎ
  43. 03. 全国展開可能な中華料理~アメリカザリガニの恵み
  44. 02. 強烈すぎるこだわり~中華的な数の世界
  45. 01. イメージの先に在るもの~中国株投資の魅力

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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