唐王朝第十代皇帝の粛宗
安史の乱で回鶻(ウイグル)に援兵を要請
これを機に回鶻はジュンガル盆地に進出
現在は主に中国西部の新疆ウイグル自治区に定住するウイグル人だが、9世紀まではモンゴル高原に帝国を築いたテュルク系の遊牧民族であり、人種はモンゴロイドだった。
755年に中国の唐王朝で「安史の乱」が勃発すると、ウイグル帝国は現在の新疆ウイグル自治区に属するジュンガル盆地やタリム盆地に進出。ウイグル帝国が内乱で崩壊すると、ウイグル人はモンゴル高原を去り、タリム盆地や現在の甘粛省などに王国を築いた。これにより、ウイグル人の定住民化が進んだ。
ウイグル人の新天地には、印欧諸語の言語を話すコーカソイド人種のトハラ人やソグド人が住んでいた。彼らと混血した結果、ウイグル人のコーカソイド化が進んだ。ウイグル人の独特な容貌は、こうして生まれた。
サトゥク・ボグラ・ハンの墓
新疆ウイグル自治区アルトゥシュ市
サトゥクはカラハン朝の君主
イスラム教に改宗した最初のハン(王)
テュルク系民族のムスリム化を促した。
さらに、中央アジアで9世紀にテュルク系の遊牧民が、イスラム教を信奉するカラハン王朝を建国し、ウイグル人の諸王国へ侵攻。これを機に、もともとマニ教などを信奉していたウイグル人がムスリム化した。
清王朝がジュンガル帝国を平定する様子を描いた銅版画
清王朝第六代皇帝の乾隆帝が、宣教師に作成を命令
イエズス会のカスティリオーネなどによってフランスで作成
13年の歳月を経て1777年に完成した。
その後のウイグル人は、契丹族やモンゴル族などの支配を受ける。17~18世紀には“最後の遊牧帝国”と呼ばれるモンゴル系のジュンガル帝国に支配される。ジュンガル帝国は18世紀半ばに中国の清王朝によって滅亡。ウイグル人が暮らす土地は、新しい領土という意味の「新疆」と呼ばれるようになった。
ユースフ・アクチュラ
(1876~1935)
ロシア帝国のタタール人
汎テュルク主義を提唱
ウイグル人は長期にわたり自らの国家を持たず、その民族意識も19世紀には希薄となっていた。こうしたなか、ユーラシア大陸に広がるテュルク系諸民族の統合を目指す「汎テュルク主義」が台頭すると、ウイグル人の知識層で民族意識が覚醒した。
テュルク系諸民族の分布
シベリアの極北からユーラシア全体に広がる。
ウイグル人もテュルク系諸民族の一派
テュルク系諸民族は言語の共通点も多い。
1912年に清王朝が滅亡し、中華民国が誕生すると、新疆ではウイグル人の独立機運が高揚。一部のウイグル人は1933年に新疆西部で東トルキスタン・イスラム共和国を建国したが、翌年に軍閥の侵攻を受けて瓦解した。
東トルキスタン・イスラム共和国の建国式典
(1933年11月12日)
カシュガル市の会場には1万人以上が集まった。
しかし、独立運動の火は消えず、1944年にはソビエト連邦(ソ連)の支援を受けた東トルキスタン共和国が、新疆北西部に誕生。だが、ソ連と中華民国の交渉により、この新国家も1946年に崩壊した。1949年に中華人民共和国が建国されると、中国人民解放軍は中国国民党が残存する新疆に侵攻。新疆全域が中華人民共和国の統治下に入り、1955年に新疆ウイグル自治区が発足した。
43人が死亡、94人が負傷した自爆テロ
新疆ウイグル自治区ウルムチ市
2014年5月22日
東トルキスタン・イスラム運動(ETIM)の犯行
米国は2002年にETIMをテロ組織に指定
だが、米中対立を背景に、2020年に指定を解除
新疆ウイグル自治区では民族主義や独立運動などを背景としたテロ事件や騒乱がたびたび発生。海外では亡命ウイグル人の組織が、東トルキスタン独立運動を継続している。
東トルキスタン共和国亡命政府の創設式典
2004年9月14日
米国ワシントン
海外の亡命ウイグル人の組織は分散していたが、2004年4月にドイツのミュンヘンでウイグル人の民族自決を標榜する「世界ウイグル会議」が発足。同年9月には米国ワシントンに「東トルキスタン共和国亡命政府」が誕生し、独立運動を強化している。
世界ウイグル会議(WUC)のラビア・カーディル議長
G20大阪サミットでの抗議活動に参加した時の様子
(2019年6月)
これら組織の政治宣伝を大義名分に、人権重視の西側諸国は中国を制裁。だが、その影響を受けるは、故郷で働く大多数のウイグル人だ。彼らの人権を守るという制裁が、彼らの生活を奪うことになって欲しくない。