モンゴル国(ピンク色)と内モンゴル自治区(赤色) 世界で2番目に広い内陸国「モンゴル国」は、中国の「内モンゴル自治区」(内モンゴル)に接している。面積はモンゴル国が世界18位の157万㎢。内モンゴルは118万㎢で、世界25位のコロンビアよりも広い。
2020年の人口は、モンゴル国が328万人で、大部分がモンゴル人。モンゴル国は人口密度が世界一低い国家だ。一方、内モンゴルは2400万人で、うち漢民族が79%を占め、モンゴル人は18%の428万人に過ぎないが、モンゴル国よりも100万人ほど多い。
これら「二つのモンゴル」は、民族分断の悲劇を連想させるが、そんな単純な話ではない。二つのモンゴルの背景には、部族間の抗争が絶えなかったモンゴル人の歴史がある。
14世紀初頭のモンゴル帝国
緑色は中国を支配した元王朝
黄色はキプチャク・ハン国、紫色はイル・ハン国
灰色はチャガタイ・ハン国
モンゴル人は13世紀にユーラシア大陸の大部分を征服。広大な「モンゴル帝国」を築き、その一部である元王朝が中国を統治した。
14世紀の半ばに漢民族の明王朝が勃興すると、モンゴル人は中国から撤退。モンゴル高原で元王朝(北元)を存続させ、チンギス・ハーンの末裔がハーン(皇帝)の位を継いだ。
だが、ハーンの擁立をめぐり、モンゴル人の諸部族が分裂抗争を開始。そこに明王朝も参戦し、モンゴル高原は大混乱となった。
15世紀の東アジア勢力図 15世紀末に即位したダヤン・ハーンは、モンゴル高原を再統一。諸部族をハルハ部やチャハル部など6つのトゥメン(万人隊)に再編成し、「中興の祖」と呼ばれる。
17世紀に入ると、ツングース系民族「女真」(ジュシェン)が、中国東北地方に「金国」(アイシン・グルン)を建国。チャハル部は1635年に金国の第二代ハーンであるホンタイジに降伏し、元王朝の御璽を献上した。
ピンク色の領域はチャハル部を征服した時点の金国
ピンク色と緑色の境界線で。モンゴルが内外で分けられた
モンゴル人のハーンを兼ねたホンタイジは、翌年に国号を「大清国」(ダイチン・グルン)に改め、民族名も「満洲」(マンジュ)に変更し、清王朝が誕生。ゴビ砂漠以南のモンゴル人を清王朝は統治した。指導者を失ったチャハル部などは、皇帝が直接支配する「内属蒙古」となった。一方、皇帝に臣従する世襲の領主やジャサク (貴族)がいる諸部族は、「外藩蒙古」と呼ばれた。一方、ハルハ部は清王朝の朝貢国になることで独立を保った。
ハルハ部は17世紀後半に北方からロシア帝国の侵入を受ける。さらに、西方のジュンガル帝国に侵攻され、ハルハ部はモンゴル高原から駆逐された。清王朝はハルハ部を助けるため、ロシア帝国と国境条約を締結し、ジュンガル帝国を討伐した。ハルハ部は故地に帰還し、清王朝に臣従。ゴビ砂漠以北も清王朝の外藩蒙古に加わった。清王朝は従来からの外藩蒙古を「内蒙古」、ハルハ部を「外蒙古」と区別。二つのモンゴルの基礎となった。
ジュンガル帝国を討伐するため、モンゴル高原で野営する清軍 こうした歴史から、モンゴル国はハルハ部の国家だ。一方、内モンゴルは多様な部族の出身者が多く、漢民族との通婚も多い。同じモンゴルの名を冠しても、二つのモンゴルは大きく違い、民族分断の悲劇からはほど遠い。