コラム・連載

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話

複雑な民族事情が阻む「西南シルクロード」~張騫の夢は実現するか?

2025.04.05|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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青い線が大渡河。流域は険しい山岳地帯。この川を境に現在でも道路と都市の数が大きく違う。

四川省の中央部を流れる大渡河は、かつて中華文明と未開の領域を分ける境界線だった。この川の南側に当たる現在の四川省南部、雲南省、貴州省は、西暦3世紀の三国時代に「南中」と呼ばれ、多様な諸民族が暮らしていた。当時の漢民族は、南中の諸民族をまとめて「西南夷」という総称で記録した。

雲南省の民族分布 古代に南中と呼ばれた地域は、現在も民族分布が複雑だ。長江の北側に位置する四川省は、人口に占める漢民族の割合が9割強に達しているが、雲南省と貴州省はいずれも6割強であり、3割強を多様な少数民族が占める。特にミャンマー、ラオス、ベトナムの3カ国に接している雲南省は、古代から定住している少数民族の種類が最も豊富で、一部は国境を跨いで分布。例えばワ族(佤族)の居住地は雲南省のほか、ミャンマーやタイにも広がる。

東アジアのY染色体ハプログループの移動
共通した父系の遺伝的特徴を持つ集団とその歴史的移動が追跡可能
雲貴高原は水色、赤色、緑色、紺色の線が複雑に交わる地域
朝鮮半島も多くの集団が移動したが、単一民族化した。
雲貴高原や東南アジアは、地理的要因から各集団の特徴が残った。
雲南省や貴州省の多様で複雑な民族分布は、数千年にわたる民族移動と両省に跨る雲貴高原の複雑な地勢が生み出した。中国の民族移動は、北から南への「玉突き衝突」を基調とする。モンゴル高原の遊牧民族が、農耕地域の華北平原を蹂躙すると、漢民族は長江の南に避難。そこにいたタイ・カダイ系や系の諸民族は、漢民族の進出に圧迫され、雲貴高原や横断山脈の方へ移動した。そこは定住可能な場所が高山や渓谷で分断され、民族の棲み分けが可能な地域。そこから先の平野に進出できない諸民族は雲貴高原にとどまり、複雑な民族分布が形成された。

現在の貴州省には、紀元前に「夜郎」という国が存在した。紀元前2世紀末に漢王朝の使者が夜郎を訪問。夜郎の王は「我が国と漢王朝はどちらが大きいか」と尋ね、世間知らずを表す「夜郎自大」の故事成語が生まれた。

当時の漢王朝は、現在の四川省から雲南省を経由し、インドに至る「西南シルクロード」の存在を察知していた。きっかけは紀元前2世紀に中央アジアの大月氏国に派遣された張騫が、現在のアフガニスタン付近で、蜀の竹が売られているのを発見したことにある。蜀は現在の四川省。竹の仕入先はインドだった。そこで張騫は、現在の四川省からインド経由で中央アジアに至る交易路の開拓を構想。帰国した張騫は、これを皇帝に献策した。張騫は皇帝の命を受け、夜郎の国を経て西方のインドを目指したが、現在の雲南省昆明市で異民族に妨害され、彼の夢は挫折した。

険しい地勢と複雑な民族事情に阻まれ、その後も西南シルクロードには、中央アジアのシルクロードのような繁栄が訪れなかった。

漢王朝(桃色)の対外進出、オレンジ色の線が張騫の旅程
複数ある水色の破線は漢王朝の南方進出、一番左が張騫の昆明遠征
だが、かつて張騫の行く手を阻んだ昆明市は、いまや東南アジア各国を結ぶ交通のハブとなりつつある。「アジアハイウェイ」は国際連合アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が計画するアジア32カ国を結ぶ幹線道路網だが、その3号線と14号線は昆明市を通り、中国と東南アジアを結ぶ。

また、ESCAPは「アジア横断鉄道」(TAR)を計画。昆明市はインドシナ半島の東側、中央、西側を走る3路線のターミナル駅だ。張騫が西南シルクロードを構想して二千年以上も経ったが、彼の夢は今も生き続けている。

アジアハイウェイの東南アジア部分
昆明(Kunming)で3号線と4号線が交差
アジア横断鉄道
昆明(Kunming)は重要ターミナル駅

 

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話
次回は5/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. ~内藤証券アナリストが書く~
    中国よもやま話
  2. 53. 複雑な民族事情が阻む「西南シルクロード」~張騫の夢は実現するか? NEW!
  3. 52. 生々流転の中国民族興亡史~滅亡が悲劇とは限らない
  4. 51. 何度も変わった民族名~中国の支配階級だった満族
  5. 50. 中国人の百人に一人はチワン族~影が薄い中国最大の少数民族とは?
  6. 49. 民衆と権力を動かすチベット仏教~モンゴル人への影響力は今も健在
  7. 48. 同族意識と連帯感はそれほどでも~二つのモンゴルの違い
  8. 47. モンゴル独立をめぐる攻防~中露両国に翻弄された歴史
  9. 46. モンゴル国と内モンゴル自治区~二つのモンゴルの起源
  10. 45. 信仰で区別された特異な少数民族~中国の回族とは?<
  11. 44. 民族の公認をめぐる試行錯誤~中国の民族政策におけるソ連の影響
  12. 43. 「あなたは何民族ですか?」~日本人と中国人の大きな違い
  13. 42. 洋の東西で同じ答えに~収斂進化した会計技術
  14. 41. これぞ「文明の利器」なる~王朝の誕生に会計あり
  15. 40. 商売の神様は実在した人物~彼が神たる理由とは?
  16. 39. 見た目は違うが、生まれは似ている~日本の「株式」と中国の「股份」
  17. 38. 香港市民の窮屈な生活~劣悪な住宅事情
  18. 37. 香港の“街並み景観”に歴史あり~租借地と王領植民地の違い
  19. 36. すべては英国王の手中に~英領香港の土地制度
  20. 35. “割当品から商品へ”~中国本土の住宅市場勃興
  21. 34. “所有権はないが、不便もない”~中国本土の土地制度
  22. 33. 労働力需要で犯罪組織が誕生~明治日本と改革開放中国の共通点
  23. 32. 香港裏社会に暗躍する三合会~返還後の表社会にも及ぶ影響力
  24. 31. 香港犯罪組織の系譜~数百年に及ぶ「洪門」の伝統
  25. 30. なぜ犯罪組織が人気?~中国起源の任侠道が果たした社会的役割
  26. 29. 21世紀版のグレート・ゲーム~ウイグルをめぐる情報戦
  27. 28. 現代の屯田兵~新疆生産建設兵団
  28. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
  29. 26. 東トルキスタン独立運動と西側諸国の連帯~ウイグル人が歩んだ歴史
  30. 25. 中国の街で目立つウイグル人~民族移動と人種的変容
  31. 24. チベット発展の秘策とは?~天国に最も近いタックス・ヘイブン
  32. 23. 神秘な世界の複雑な裏側~チベットの“化身ラマ制度”
  33. 22. 人を拒む神秘の地~異質で過酷なチベットの環境
  34. 21. 情報の真偽をめぐる混乱と論争~昔も今も中国は“遠い国”
  35. 20. 隋王朝に始まる中国経済の挑戦~言葉に映る南北の相違と一体化
  36. 19. 黄河文明と長江文明の融合と摩擦~中国の南北対立
  37. 18. 中国南北相違の原点~東アジアで異色な中国北部の小麦食
  38. 17. 漢字は同じでも、ひと味違う~複雑に絡み合う“麺料理”の概念
  39. 16. 現代中国の“漢服ルネサンス”~漢民族の服飾文化の探求
  40. 15. “人民服”の歴史的変遷~国民服から最高指導者の正装へ
  41. 14. 元々同じ圓が結ぶ奇妙な縁~東アジア一円の通貨
  42. 13. 誰もが彼らを無視できない~香港の摩天楼に潜む陰の実力者
  43. 12. 中国の人々を鼓舞する名曲~中国国歌の「義勇軍進行曲」
  44. 11. 伝統的バイオテクノロジーの傑作~茅台酒が高価な理由
  45. 10. 世界に目を向けよう~国際分散投資の魅力
  46. 09. なんでも漢字で表記~奥深い中国語名の世界
  47. 08. 自由を追い求める姿~中国の投資家たち
  48. 07. “口にすべし、楽しむべし”~中国的可楽世界
  49. 06. “いままで”と“これから”~EV投資をめぐる視点の違い
  50. 05. 株式市場を育てる順序~ミャンマーと中国の違い
  51. 04. 対中情報戦の犠牲者~王立強事件の空騒ぎ
  52. 03. 全国展開可能な中華料理~アメリカザリガニの恵み
  53. 02. 強烈すぎるこだわり~中華的な数の世界
  54. 01. イメージの先に在るもの~中国株投資の魅力

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. ~内藤証券アナリストが書く~
    中国よもやま話
  2. 53. 複雑な民族事情が阻む「西南シルクロード」~張騫の夢は実現するか? NEW!
  3. 52. 生々流転の中国民族興亡史~滅亡が悲劇とは限らない
  4. 51. 何度も変わった民族名~中国の支配階級だった満族
  5. 50. 中国人の百人に一人はチワン族~影が薄い中国最大の少数民族とは?
  6. 49. 民衆と権力を動かすチベット仏教~モンゴル人への影響力は今も健在
  7. 48. 同族意識と連帯感はそれほどでも~二つのモンゴルの違い
  8. 47. モンゴル独立をめぐる攻防~中露両国に翻弄された歴史
  9. 46. モンゴル国と内モンゴル自治区~二つのモンゴルの起源
  10. 45. 信仰で区別された特異な少数民族~中国の回族とは?<
  11. 44. 民族の公認をめぐる試行錯誤~中国の民族政策におけるソ連の影響
  12. 43. 「あなたは何民族ですか?」~日本人と中国人の大きな違い
  13. 42. 洋の東西で同じ答えに~収斂進化した会計技術
  14. 41. これぞ「文明の利器」なる~王朝の誕生に会計あり
  15. 40. 商売の神様は実在した人物~彼が神たる理由とは?
  16. 39. 見た目は違うが、生まれは似ている~日本の「株式」と中国の「股份」
  17. 38. 香港市民の窮屈な生活~劣悪な住宅事情
  18. 37. 香港の“街並み景観”に歴史あり~租借地と王領植民地の違い
  19. 36. すべては英国王の手中に~英領香港の土地制度
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  21. 34. “所有権はないが、不便もない”~中国本土の土地制度
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  23. 32. 香港裏社会に暗躍する三合会~返還後の表社会にも及ぶ影響力
  24. 31. 香港犯罪組織の系譜~数百年に及ぶ「洪門」の伝統
  25. 30. なぜ犯罪組織が人気?~中国起源の任侠道が果たした社会的役割
  26. 29. 21世紀版のグレート・ゲーム~ウイグルをめぐる情報戦
  27. 28. 現代の屯田兵~新疆生産建設兵団
  28. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
  29. 26. 東トルキスタン独立運動と西側諸国の連帯~ウイグル人が歩んだ歴史
  30. 25. 中国の街で目立つウイグル人~民族移動と人種的変容
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  35. 20. 隋王朝に始まる中国経済の挑戦~言葉に映る南北の相違と一体化
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  53. 02. 強烈すぎるこだわり~中華的な数の世界
  54. 01. イメージの先に在るもの~中国株投資の魅力