青い線が大渡河。流域は険しい山岳地帯。この川を境に現在でも道路と都市の数が大きく違う。
四川省の中央部を流れる大渡河は、かつて中華文明と未開の領域を分ける境界線だった。この川の南側に当たる現在の四川省南部、雲南省、貴州省は、西暦3世紀の三国時代に「南中」と呼ばれ、多様な諸民族が暮らしていた。当時の漢民族は、南中の諸民族をまとめて「西南夷」という総称で記録した。
雲南省の民族分布
古代に南中と呼ばれた地域は、現在も民族分布が複雑だ。長江の北側に位置する四川省は、人口に占める漢民族の割合が9割強に達しているが、雲南省と貴州省はいずれも6割強であり、3割強を多様な少数民族が占める。特にミャンマー、ラオス、ベトナムの3カ国に接している雲南省は、古代から定住している少数民族の種類が最も豊富で、一部は国境を跨いで分布。例えばワ族(佤族)の居住地は雲南省のほか、ミャンマーやタイにも広がる。
東アジアのY染色体ハプログループの移動
共通した父系の遺伝的特徴を持つ集団とその歴史的移動が追跡可能
雲貴高原は水色、赤色、緑色、紺色の線が複雑に交わる地域
朝鮮半島も多くの集団が移動したが、単一民族化した。
雲貴高原や東南アジアは、地理的要因から各集団の特徴が残った。
雲南省や貴州省の多様で複雑な民族分布は、数千年にわたる民族移動と両省に跨る雲貴高原の複雑な地勢が生み出した。中国の民族移動は、北から南への「玉突き衝突」を基調とする。モンゴル高原の遊牧民族が、農耕地域の華北平原を蹂躙すると、漢民族は長江の南に避難。そこにいたタイ・カダイ系や系の諸民族は、漢民族の進出に圧迫され、雲貴高原や横断山脈の方へ移動した。そこは定住可能な場所が高山や渓谷で分断され、民族の棲み分けが可能な地域。そこから先の平野に進出できない諸民族は雲貴高原にとどまり、複雑な民族分布が形成された。
現在の貴州省には、紀元前に「夜郎」という国が存在した。紀元前2世紀末に漢王朝の使者が夜郎を訪問。夜郎の王は「我が国と漢王朝はどちらが大きいか」と尋ね、世間知らずを表す「夜郎自大」の故事成語が生まれた。
当時の漢王朝は、現在の四川省から雲南省を経由し、インドに至る「西南シルクロード」の存在を察知していた。きっかけは紀元前2世紀に中央アジアの大月氏国に派遣された張騫が、現在のアフガニスタン付近で、蜀の竹が売られているのを発見したことにある。蜀は現在の四川省。竹の仕入先はインドだった。そこで張騫は、現在の四川省からインド経由で中央アジアに至る交易路の開拓を構想。帰国した張騫は、これを皇帝に献策した。張騫は皇帝の命を受け、夜郎の国を経て西方のインドを目指したが、現在の雲南省昆明市で異民族に妨害され、彼の夢は挫折した。
険しい地勢と複雑な民族事情に阻まれ、その後も西南シルクロードには、中央アジアのシルクロードのような繁栄が訪れなかった。
漢王朝(桃色)の対外進出、オレンジ色の線が張騫の旅程
複数ある水色の破線は漢王朝の南方進出、一番左が張騫の昆明遠征
だが、かつて張騫の行く手を阻んだ昆明市は、いまや東南アジア各国を結ぶ交通のハブとなりつつある。「アジアハイウェイ」は国際連合アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が計画するアジア32カ国を結ぶ幹線道路網だが、その3号線と14号線は昆明市を通り、中国と東南アジアを結ぶ。
また、ESCAPは「アジア横断鉄道」(TAR)を計画。昆明市はインドシナ半島の東側、中央、西側を走る3路線のターミナル駅だ。張騫が西南シルクロードを構想して二千年以上も経ったが、彼の夢は今も生き続けている。
アジアハイウェイの東南アジア部分
昆明(Kunming)で3号線と4号線が交差
アジア横断鉄道
昆明(Kunming)は重要ターミナル駅