今年9月、米フロリダ州がハリケーン・イルマに襲われ、大きな被害を受けたことは、みなさんもご存じのことと思う。そのイルマがフロリダに接近し、間もなく上陸するというニュースが流れたとき、自身の試合出場予定を変更し、自宅待機の道を選んだプロゴルファーがいた。
メジャー4勝、47歳の大ベテラン選手、アーニー・エルスのことだ。イルマが接近してきたときは欧州ツアーのKLMオープンに出場しようとしていたが、「ハリケーンが上陸したら、何がどうなるかわからない。嵐に備えて、みんなが肩を寄せ合うときだ」と言い、KLMオープン出場を取りやめて、フロリダ州ジュピターの自宅で待機すると決めた。
エルスが心配していたのは家族のことばかりではなかった。ジュピターにはエルスが創設した自閉症の子供たちのための教育施設『エルス・センター・オブ・エクセレンス』があり、ハリケーンに襲われたら、その施設や子供たちに何が起こるかわからない。だから彼は欧州行きを中止したのだ。
プロゴルファーの名前と立場を活用したい
南アフリカ出身のエルスは1994年と1997年に全米オープンを制覇。2002年には幼いころからの夢だった全英オープンでも勝利を遂げた。
その年に長男ベンくんが誕生。2003年も2004年もさらなる勝利を重ね、あのころのエルスは幸せの絶頂だった。長男ベンくんが自閉症だと診断されたのは、その矢先だった。
ベンくんの治療に必死になったエルスは文字通り、東奔西走した。そして2005年、家族旅行中に膝を故障。それからは勝利から遠ざかり、成績は下降していった。
そんなエルスがベンくんの自閉症をついに公表したのは2008年の春だった。それまでプロゴルフ界では、家族の病気を公けにすることはあまりなかったが、2008年にホンダクラシックで3年半ぶりの復活優勝を遂げたエルスは、あえて声を大にした。
「以前の僕は自閉症という障害について知識もなく、考えたことも無かったけど、ベンが自閉症と診断されて以来、僕の人生も人生のプライオリティも、すべてが変わった。僕は息子の自閉症を告白することで世界の注目を集めたい。自閉症への理解を高め、研究や治療を進めるためには、大勢の人に知ってもらうことが必要だ。僕はプロゴルファーとしての名前や立場を、そのために活用する」
それからのエルスは自閉症と向き合う人々とその家族のための財団を創設し、チャリティ活動や勉強会を開いては励まし合ってきた。以前は英国ロンドンに住んでいたが、ベンくんの治療のためにエルス一家はニューヨークへ移住。その後、財団の本拠地をフロリダに置いたため、フロリダへ移り住んだ。
手を取り合えば、大きな力になる
素晴らしいなと思うのは、そうした活動を開始してからもゴルフの努力と鍛錬を続け、2012年の全英オープンを制して、さらなるメジャー優勝を遂げたことだ。
2013年に欧州ツアーで勝利して以降は成績が低迷し、パットの際に手が動かなくなるゴルフの“奇病”、イップスにかかって、2016年マスターズでは初日の1番で60センチの距離から6パットを喫した。すると、世界中から何百通もの手紙やメールが寄せられ、「大いに励まされた」。
昨夏ごろには早々にイップスを克服。「長くプロゴルファーをやっていれば、いろんな山谷に出くわす。僕はたまたまイップスに出くわしたけど、今はパットするのが楽しい」。
そう、エルスは本当に次から次に山や谷に出くわし、どの山谷も乗り越えてきた。乗り越える力は一人だけでは不足でも、人と人とが手を取り合えば、大きな力になることを彼は肌で感じてきた。
プロゴルファーとして手に入れた財力も自閉症とその家族のために投入。2015年8月に設立したのが、前述した自閉症の子供たちのための教育施設、『エルス・センター・オブ・エクセレンス』だ。3歳から14歳の部と14歳から21歳の部の2部制で、どちらも授業料は無料。すべての費用はエルスの財団と州の公費で賄われる。
そんなエルスが今年8月の全米プロでメジャー出場100試合目を迎え、同じく100試合目を迎えたフィル・ミケルソンとともに祝賀会見に臨んだ。
そして予選2日間を松山英樹と同組で回り、36ホール目にエルスは松山と並んで歩き、しきりにアドバイスを授けていた。
「ヒデキには優れたリカバリー力がある。それを活かして頑張れと言った」
いくつもの山谷を乗り越え、ゴルフでも人生でもリカバリーしてきたエルスだからこそ、将来性溢れる松山に「山谷を越えて行くんだぞ」と励ましたくなったのではないだろうか。エルスは、そんな素敵なプロゴルファーだ。
今年の全米プロゴルフ選手権で予選二日間を松山英樹と
同組で回ったアーニー・エルス(photo: 舩越園子)