タイガー・ウッズがプロデビューする以前だった1990年代の序盤から中盤にかけて、米ゴルフ界で大人気を博していた国民的スター選手の代表格はデービス・ラブだった。
父親はティーチング界でその名を馳せたプロゴルファー。ゴルフの名家に生まれたサラブレッドのラブは、親しみやすい人柄も手伝って、ツアー仲間からもファンからも親しまれていた。
ノース・カロライナ州で生まれ育ち、地元のノース・カロライナ大学を卒業後、1986年から米ツアーに参戦開始。翌年、早々に初優勝を果たし、90年代に入ってからも着々と勝利を重ねていたラブは、文字通り、光り輝くスターだった。
だが、メジャー優勝はなかなか挙げられず、ラブは苦悩し始めた。米ツアー選手たちがこぞってパーシモンクラブをメタルクラブへ持ち替えてからも、ラブだけは幼いころから慣れ親しんできたパーシモンクラブがなかなか手離せず、最後まで“柿の木”の感触に固執した。
しかし、ロングヒッターのはずのラブが飛距離で他選手たちに置いていかれる状況があまりにも増え、最終的にはメタルクラブへシフトしたが、メジャー大会で勝てない日々は以後も続いた。
そんなラブが、ついに悲願のメジャー初優勝を果たしたのは1997年の全米プロ。勝利を決めた数分後、18番グリーンの彼方に美しい虹がかかったあの日のことを、喜びとともに今でも鮮明に記憶しているファンは、米ゴルフ界には想像以上に多い。
ラブの大きな変化
「メジャータイトルを手に入れたことはうれしいけど、1勝だけでは物足りない。もっともっとメジャーで勝ちたい」
全米プロ優勝後、ラブはそう言って闘志を燃やしていたが、その言葉とは裏腹に、成績は少しずつ下降していった。腰や首を傷め、手術やリハビリを繰り返したことが低迷した最大の原因。米ツアーにはウッズ時代が到来し、ウッズに追随しようとする若者が次々に登場していた。
その中で、40歳に近づきつつあったラブは「僕は、もうオールドだ」と感じ始め、そんな苦悩の日々にさらなるダメージを与えたのは、ともに経営していたゴルフビジネスの会社の経理を任せていた義兄によるお金の使い込みと猟銃自殺。
ショックのあまり、しばらくツアーを休んだラブは、しかし数か月後に試合の場にカムバックした。そして、2003年のジ・インターナショナルという大会で復活優勝。表彰式で溢れ出した彼の涙は「辛いことも乗り越えて、僕は頑張っていく」と言っていた。
ラブが目に見えて変わったのは、あの復活優勝からだった。まだまだ勝ちたいという気持ちに変わりはなかった。だが、あのショッキングな出来事を乗り越えて復活優勝を遂げて以降のラブは、辛い思いを味わった人々、味わっている人々に手を差し伸べずにはいられなくなったのだと思う。
社会貢献、チャリティ活動にそれまで以上に積極的になり、ラブの名は「プロゴルファー、デービス・ラブ」のみならず、人々への「慈愛」となって膨らんでいった。
チャリティのために財団も大会も設立
故郷ノース・カロライナを離れ、ジョージア州のシー・アイランドという海に近い湿地帯の街へラブが移り住んだのはキャリアの初め頃だった。
その湿地帯を切り開き、ゴルフコースを作り、ゴルフの街を創ることは、そもそもラブと彼の家族みんなの壮大な夢だった。
「自分が住む街、ひいては社会全体の役に立ちたい」
辛い出来事を経験後、そう願い始めたラブは、シー・アイランドのゴルフ場やゴルフ環境を必死で整えていった。すると、マット・クーチャーやザック・ジョンソンなどラブを慕う米ツアー選手たちが一人、また一人と、シー・アイランドに移り住み始めた。
“仲間”の協力を仰ぎつつ、ラブは2005年に「デービス・ラブ・ファウンデーション」なる財団を地元シー・アイランドで設立。貧困や傷病などで苦しい状況にある子供たちとその家族を支援し、教育や医療が受けられるようサポートしていくための非営利団体で、すでに州内外の45団体からさまざまな協力を得ている。
そして、米ツアーと手を取り合い、2010年には、ついに自身の財団がサポートする米ツアー公式大会を創設。それが現在、RSMクラシックと呼ばれ、シー・アイランドGCで開催されている開幕シリーズの大会だ。
90年代から筆者は何度もラブをインタビューしてきた(photo: 舩越園子)
愛は生き続ける!?
2010年の第1回大会を取材したときのこと。大会創設者で大会ホストのラブは、練習日から忙しそうに会場内のあちらこちらを走り回っていた。
クラブハウス近くの一角に、チャリティ・オークションの会場が設けられていた。オークションと言っても、人々が勢揃いして競り合うのではなく、出品されたものを展示しておいて、人々が値を付けていくサイレント・オークション形式。そこに、とても高価なバイクが出品されていた。
聞けば、それはラブの愛車だった。
「40歳の誕生日に妻のロビンがサプライズでプレゼントしてくれたオレンジカウンティ・チョッパーだ」
そんな大事な愛車をラブがオークションに出品したのは、もちろんチャリティのためだ。
「大切なものだからこそ、オークションに出す。その収益を寄付することで、たくさんの子供たちと家族が救われる。だから、現物を手放しても、妻と僕の愛は人々の中で永遠に生き続ける」
多忙な大会ホストだというのに、わざわざ出品した愛車の前で足を止め、真剣な眼差しでそう語ってくれたラブ。チャリティのためなら労をいとわない姿勢。外国人メディアの私のためにも時間を割いてくれる姿勢。
ラブには90年代から何度もインタビューをさせてもらってきたが、目を輝かせながらチャリティや社会貢献への意欲を語り、そのための大会運営に必死になっている昨今のラブは、昔以上に素敵だ。
現在、“ラブの大会”の冠スポンサーを務めているRSMはコンサルティング会社で2020年までのスポンサードを約束している。RSM以外にも20社以上が大会を協賛しており、2010年の大会創設以来、集まったチャリティ基金はすでに700万ドルを超えている。「ラブの愛」が7億円、いや8億円近い寄付金となって、苦しんでいる子供たちとその家族のために注がれている。
ランキングや勝利数はアスリートの強さの指標ではあるが、「ラブの愛」は、スター選手としての本当の大きさを表わしているのではないだろうか――。