キャメロン・スミスは現在28歳のオーストラリア出身選手。2015年からPGAツアー(米ツアー)で戦い始め、すでに通算5勝を挙げている。
メジャー大会でも何度も優勝争いに絡んでいるが、残念ながらメジャー初制覇はいまなお達成されておらず、「スミスにメジャー・タイトルがないことは米ゴルフ界の七不思議の1つ」とまで言われている。今年だけを見ても、4月のマスターズではスコッティ・シェフラーと最後まで勝利を競い合い、3位タイに甘んじた。
メジャー優勝こそないが、レギュラー大会では、今年1月のセントリー・トーナメント・オブ・チャンピオンズを制し、3月にはプレーヤーズ選手権で今季2勝目を挙げた。
悪天候に襲われ、不規則進行となった今年のプレーヤーズ選手権は日没サスペンデッドと日の出と同時の翌朝再開を繰り返し、選手たちはみな疲弊しきっていた。
最終日の戦いは史上8度目のマンデー・フィニッシュへとずれ込んでいったが、熾烈で長い戦いを見事に制したスミスの耐久力と忍耐力は秀逸だった。
そんなスミスの強さは、いつどうやって醸成されたのか。彼を突き動かしている原動力は何なのか。その答えは、スミスの歩みをジュニア時代まで遡ると、自ずと見えてくる。
「憧れ」と「ライバル心」
スミスの故郷はオーストラリアのブリスベン。印刷業を営む両親の下、平凡で平均的な庶民の子として生まれたスミスが巡り合った運命的な偶然は、同姓同名の10歳年上の「近所のお兄ちゃん」がラグビー選手として母国のヒーローと化していったことだった。
同じ名前の息子を持つ父親どうしが仲良くなったことで、息子である2人の「キャメロン・スミス」も、とても親しくなった。
母国では誰もが国民的スターとなった「ラグビー選手のキャメロン・スミス」と、まったく同じ名前を持つゴルフのスミスは「まるでスーパーマンの名前をもらっているみたいで、とてもうれしくて、自分の名前を名乗るたびに誇らしい気持ちになった」。
ラグビー界のスターに憧れの念を抱き、自分もあんなふうにゴルフ界のスターになりたいと思うことが、スミスにとって大きなモチベーションになったという。
スミスが「憧れ」を抱き、それが彼の向上心を押し上げることになった存在は、実を言えば、もう1人いた。
同じオーストラリア出身のマスターズ覇者アダム・スコットが、母国で時折り開催していたジュニア・クリニックに必ず参加していたスミスは、「カッコいい」「僕もあんなふうになりたい」とスコットに憧れ、彼の背中を夢中で追いかけた。
そうした憧れの存在たちとは別に、スミスの戦意を燃え上がらせたのは、母国のジュニア界のライバルたちだった。
2013年全米アマを制覇したオリバー・ゴス、2014年マスターズに出てローアマに輝き、世界アマチュア・ランキング1位にも輝いたブレイディ・ワットらの活躍を、スミスは常に悔しさを噛み締めながら眺め、「彼らを抜き去るぞ」と戦意を高めていた。
自分が抜きん出るためには「淋しいとか、心細いとか、文化や食生活の違いがどうとか、言っている場合ではなかった」とスミスは当時を振り返ったが、その言葉通り、彼は2013年にプロ転向するやいなやオーストラレイジアンツアーで転戦生活を開始。
2014年にはアジアツアーを転戦。2015年からは米国に拠点を移し、スポンサー推薦やマンデー予選を活用しつつ、PGAツアー参戦のチャンスをうかがっていた。
2015年の夏、地区予選から挑戦し、自力で出場権を獲得した全米オープンで、スミスは初出場にして、いきなり優勝争いに絡み、優勝したジョーダン・スピースに最後の最後まで追撃をかけた。
72ホール目のパー5では見事、第2打をピンそばに付け、タップイン・イーグルで4位タイ・フィニッシュ。その成績でPGAツアーのスペシャル・テンポラリー・メンバーとなり、正式メンバーへの道を歩んでいった。
あの全米オープンは、いわばスミスの世界のゴルフ界へのセンセーショナルなデビューとなり、プロゴルファー「キャメロン・スミス」の名が初めて世界のスポットライトを浴びた瞬間だった。
その後の歩みは、すこぶる順調。2017年のチューリッヒ・クラシックで初優勝を挙げると、以後は次々に勝利を重ね、今年の2勝を加えるとPGAツアーでは通算5勝の実績。
メジャー優勝こそないが、今年だけでもすでに22ミリオン(2200万ドル)、約28億円の賞金を獲得。現在は米フロリダ州に居を構えており、母国と米国の双方で所有している家は3~4軒、大好きな車はアウディ、BMW、メルセデス・ベンツなど高級車ばかりが5台ほどあるという。
すべては、幼少期に抱いた「憧れ」と「モチベーション」を膨らませ、必死に重ねた努力の結実である。
母国のために尽くしたい
母国オーストラリアを離れ、米国や世界を転戦しながら腕を磨き、戦い続けているスミスの胸の中には常に郷愁の念があり、自分を育んでくれた人々への感謝の念は年々膨らんでいるという。
ジュニア時代にスコットが主宰するジュニア・クリニックに参加したスミスは、自分もプロになったら一刻も早く子どもたちのためのクリニックに参加しようと心に決めていた。
2018年の春、やはり同郷のPGAツアー選手、ジョン・センデンが脳腫瘍による後遺症などで苦しむ人々のためのチャリティ・ゴルフ大会を開催した際、スミスは自分自身が4月のマスターズ出場権を掴めるかどうかの瀬戸際にありながら、強行日程を覚悟した上で、チャリティ・ゴルフ大会に参加。大急ぎで米国へ戻ったスミスは好成績を出し続け、マスターズにぎりぎりセーフで滑り込み、見事、5位タイに食い込んだ。
2019年の夏ごろから起きたオーストラリアの大規模森林火災の被災地域や被災者救済のため、スミスは2019年プレジデンツカップで得た12万5000ドルをすべて母国の被災地へ寄付。個人としても、さらに数千ドルを寄付した。
「帰国便がシドニー空港に着陸する際、いつもなら窓外に見えるはずの地平線が煙でまったく見えず、とてもショックを受けた」
その後も、スミスは同郷の選手たちとともに、バーディーを獲るごとに500ドル、イーグルなら1000ドルを母国へ寄付する活動を続けている。
母国への想いを強めるとともに、スミスは将来の夢も膨らませている。
「引退したら、故郷でコーヒーショップを開きたい」
心優しいスミスが淹れるコーヒーは、きっと深みとコクがある美味しいコーヒーになることだろう。