米PGAツアーが誇る「第5のメジャー」、プレーヤーズ選手権を制したのは2012年の全米オープン覇者、ウエブ・シンプソンだった。最終日を2位に7打差の単独首位で迎えたが、72ホール目を終えるまで「ただの一度も安心できなかった」と、シンプソンは振り返った。
何がシンプソンを不安にしたかと言えば、そこにはタイガー・ウッズの存在があった。サンデーアフタヌーンは復活優勝を目指すウッズがチャージをかけ、一時は5打差まで迫ってきた。
シンプソンの表情は硬くなったが、結局、ウッズは終盤に失速。ウッズの動きと反比例するかのようにシンプソンは安定感を取り戻し、2位に4打差を付けて堂々の勝利。米ツアー通算5勝目を5年ぶりの復活優勝で飾った。
シンプソンは32歳の米国人。名門ウエイク・フォレスト大学卒業後、下部ツアーを経て、米ツアー選手になり、2011年にウインダム選手権で初優勝を挙げた。その年、さらに1勝を挙げ、2012年には全米オープンを制してメジャー初優勝を達成。そして翌年、通算4勝目を挙げ、トッププレーヤーとして輝いていた。
しかし、2016年にゴルフルールの一部が改正され、アンカリングが禁止されると、シンプソンは最大の武器だった中尺パターをレギュラーパターに持ち替えざるを得なくなり、成績は下降。以来、優勝からも遠ざかっていた。そんなシンプソンにとって、今年のプレーヤーズ選手権で挙げた勝利は、レギュラーパターで挙げた初めての勝利となった。
生きる意欲を失いかけ、財団創設
シンプソンが挙げた通算5勝を、すべてロープの内側で支えてきたのは相棒キャディのポール・テソリ。そして、プレーヤーズ選手権の舞台、フロリダ州ポンテベドラビーチのTPCソーグラスを訪れた人々は、シンプソンのみならず彼のキャディのテソリにも「ポール!頑張れ!」と盛んに声をかけていた。
テソリに向けられたエールには、勝者の戦いを支える名キャディへの激励という以外に、もう1つ、別の深い意味が含まれていた。
テソリの祖父はTPCソーグラスのコース管理の責任者であるスーパーインテンデントの第1号を務めた人物。孫のテソリもソーグラスのすぐそばで生まれ育ち、当たり前のようにゴルフクラブを握るようになった。
「ソーグラスは子供のころから通算すると700回以上、ラウンドした」というテソリは、フロリダ大学ゴルフ部を経て、プロゴルファーになり、1997年から1999年は米PGAツアー選手として一流の舞台に立ち、戦いに挑んだ。
しかし、プレーヤーとしての限界を感じたテソリは、一時はゴルフの世界から離れて不動産業を営んだ時期もあった。が、やがて米ツアー選手のバッグを担ぐようになり、フィジー出身のビジェイ・シンなど数人の選手の帯同キャディを経て、2010年からシンプソンの相棒になった。
その間、テソリの人生には、実にいろいろなことが起こったという。プロゴルファーとしての人生には見切りをつけたが、結婚し、幸せを感じていた矢先、リーマンショックで不動産業界が大打撃を受け、テソリは「ほぼすべての財産を失った」。
結果的に、結婚生活も破綻。当時のテソリは生きる意欲を失いかけたそうだ。
だが、敬虔なクリスチャンである彼は博愛の精神で人々と共に生きようと考え、2009年に「テソリ・ファミリー財団」を創設。
「たとえ経済的に裕福ではなくても、ほんの小さな思いやりの気持ちと姿勢が他の誰かを救うこともある。みんなで助け合って共に生きよう」
それが、テソリの在団が目指すチャリティ活動の趣旨だった。
翌年からテソリの新しいボスになったシンプソンも、やはり敬虔なクリスチャンということもあり、テソリの財団やその活動に理解を示し、協力するようになった。
今年2月のフェニックス・オープンでは松山英樹とかつてプレーオフを戦ったウエブ・シンプソン、リッキー・ファウラーが同組だった。
向かって一番左がキャディのポール・テソリ。(photo: 舩越園子)
アップ&ダウンを一緒に昇り降り
その後、テソリは再婚し、愛妻ミッシェルは2014年1月に長男イザイアを出産した。だが、イザイアは生まれた直後から生死の境をさまよい、テソリは「息子の命が助かりますように」と、ひたすら祈った。
そして、医師から「息子さんの命は、もう大丈夫。しかし、息子さんはダウン症です」と告げられたテソリは「だから何だと言うのですか?命さえ大丈夫なら、息子が生きられるなら、それ以上の幸せはありません」と即答したのだそうだ。
それからの数ヶ月間は、テソリも妻ミッシェルも試行錯誤の連続になった。テソリはシンプソンのバッグを担ぐことができず、イザイアに付きっ切りの日々になったが、「生きていることを実感できた。僕も妻も、とても幸せを感じている」。
その間、臨時キャディで試合を乗り切っていたシンプソンは、テソリ夫妻に毎日のようにメールを送り、激励し続けた。
テソリがキャディに復帰すると、今度はシンプソンが武器だった中尺パターをレギュラーパターに持ち替えて不調に苦しみ始めた。テソリはそんなシンプソンを献身的に支え続けた。
励まし合い、支え合って前進していく。シンプソンとテソリは、たまたまそれを選手とキャディという立場で行なってきたが、そうやって助け合って生きていくことは、テソリが創設した「テソリ・ファミリー財団」の創設趣旨そのものである。
イザイアが生まれてからは、テソリの財団は自然にその活動内容を拡大していった。人と人とが助け合って生きることをサポートする従来の活動に加え、息子イザイアと同じようなスペシャル・ニードの子供たちとその家族がお互いに助け合いながら生きることのサポートも目指し始めた。
テソリは積極的にイザイアを試合会場へ連れて行き、強く明るく生きるイザイアの笑顔を大勢の人々に見せることで社会の理解と協力を求めた。
プレーヤーズ選手権でシンプソンの優勝が決まったあとも、テソリはイザイアを抱き上げてテレビカメラの前に立ち、「何にも代え難い、とてもとても幸せな人生です」と満面の笑顔で語った。
テソリのこんな言葉が印象的だった。
「人と人とが助け合うことは、人生のアップ&ダウンを一緒に昇ったり降りたりしながら歩むこと。テソリ・ファミリーは、そんな歩き方を目指しています」
優勝者に勝るとも劣らないこれほどの注目と激励を優勝キャディが受けることは、言うまでもなく珍しい。
シンプソンもテソリも“主役”になったことは、「第5のメジャー」にふさわしい素敵なエンディングだった。