「中国株」の定義
中国株とは何か?さまざまな定義があるが、とりあえず「香港・マカオ・台湾を除いた中華人民共和国(中国本土)で発行された株式」ということにして、話を進めていこう。
上海市と広東省深圳市に証券取引所が開業したのは1990年12月。では、中国株の歴史はここから始まったのだろうか?答えはノーだ。中国株は証券取引所の開業以前から存在していた。
では、中国株はいつ誕生したのか?そもそもの発端は1978年に遡る。この年の中国社会はどんな状態だったのか?それは10年以上に及んだ大混乱で疲弊し、貧しさばかりが目立つ社会だった。
毛沢東の亡霊
紅衛兵に批判される大学関係者
1976年10月6日に江青を中心とした四人組が逮捕され、10年以上も続いたプロレタリア文化大革命(文革)が終結。鄧小平は人生3度目の失脚の憂き目にあっていたが、1977年7月に開かれた中国共産党の第10期中央委員会第3回全体会議(第10期三中全会)で、党副主席(副首相)などの要職に復帰した。
華国峰・党主席(首相)の下で要職に復帰した鄧小平は、疲弊した中国の再建に取り組むことになったが、その最大の障害は毛沢東の亡霊だった。
文革当時の中国は、おとぎ話に出てくるような不思議な国だった。学校では成績優秀者が“知識分子”として敵視され、勉強のできない生徒が褒められた。黄金は“階級搾取による不義の財産”と呼ばれ、これを公衆の面前で街角のゴミ箱に捨てる人もいた。資本主義を匂わすものは徹底的に批判され、それに関連する人物には恐ろしい運命が待ち構えていた。そうした感覚が恐怖とともに人々の頭に染みついていた。
文革終結後の1978年1月に鄧小平は四川省成都市を訪れたが、その時に語った話がある。「少し前に広東省で聞いたのだが、ある地方ではアヒルを3羽ほど飼うだけなら社会主義とされ、飼うのが5羽になると資本主義とされるそうだ。本当に変な話だ!」――。文革期の政治運動は、農村のすみずみにも及び、人々を洗脳していた。
文革を過ごした人々の頭の中は、こうした状態だった。政府要人の頭の中も似たようなもので、鄧小平の上に立つ華国峰は、文革継続の毛沢東路線を主張していた。まさに毛沢東の亡霊に取り憑かれていた。
風向きが変わった
華国鋒の宣伝画
鄧小平は1978年9月に北朝鮮を訪問した帰路、中国の東北地方を視察した。その際に語ったとされる一連の内容は「北方談話」と呼ばれる。それは中国の現状に対する鋭い批判だった。
「我々はあまりにも貧しく、あまりにも落ちぶれている。人々に対して本当に申し訳ない」――。これは遼寧省瀋陽市を訪問した際の発言。続いて河北省唐山市を訪れた時は、「社会主義が優位性を発揮しているというのなら、どうして今のような有様なのだ。二十数年も社会主義をやり続けて、それでもこんなに貧しい。いままで社会主義はいったい何をやってきたのか!」と嘆いた。
第11期全国代表大会
華国鋒(左端)と鄧小平(中央)
こうした考えの鄧小平が、毛沢東の亡霊のような華国峰と相容れるはずもない。鄧小平は1978年11月10日に始まった中央工作会議で、華国峰が主張する毛沢東路線を厳しく批判。鄧小平は党幹部の頭の中を“洗濯”した。だが、10年以上かけて染みついた思想は、なかなか抜けない。中央工作会議は36日という異例の長さとなった。
1978年11月の中央経済工作会議 中央工作会議は12月15日に鄧小平の勝利で終了した。その直後の12月18日に中国共産党の第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)が開かれ、華国峰は失脚。ついに鄧小平が権力を掌握した。
第11期三中全会での鄧小平 第11期三中全会の閉幕に際し、鄧小平が語ったのが「イデオロギーの束縛から自由になれ!頭を働かせろ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!」だった。文革の傷はまだまだ癒えないが、人々は政治の風向きが大きく変わったことを感じた。
中国株の誕生前夜
株式と証券取引は私有財産制度、市場経済に基づくものであり、まさに資本主義の象徴的存在。これは社会主義の公有財産制度、計画経済と相反するものであり、共産党政権が弾圧すべき対象だ。風向きが変わったとは言え、まだまだ多くの人々が毛沢東の亡霊に取り憑かれており、巨大な中国の行政機構に巣食っていた。株式という言葉は1978年の中国では危険なNGワードであり、それについて語ることは憚られた。
株式制度が誕生する直前の状況としては、中国ほど暗澹たるものはなかったが、風向きは変わった。鄧小平を最高指導者に迎えた1978年を契機に、中国に住む10億人、世界総人口の5分の1以上が、新しい時代へと歩み出した。新しい最高指導者の顔色をうかがいながら、そろりそろりと慎重に……。これが中国株の誕生前夜だった。