約2世紀にわたる衰退期を終えたマカオは19世紀後半に、賭博、麻薬、売春、人身売買でにぎわう“ヴァイス・シティ”(悪徳の都)へ変貌。非道徳的な産業に支えられながらも、ともかくマカオ経済の独自化が進んだ。こうしたなか、ポルトガル王国と清王朝では、同時期に共和政革命が勃発した。だが、いずれも共和政は短期間で崩壊し、軍閥や独裁が台頭。中葡両国は長期にわたる混迷と衰退の時代を迎えることになった。中葡両国のどちらにとっても辺境であるマカオは、さらに悪徳と腐敗が蔓延し、その闇を深めた。
ブラガンサ朝ポルトガル王国の没落
ペドロ5世(1860年) ブラガンサ朝ポルトガル王国では、1832年に勃発した王位をめぐる内戦の結果、1834年にマリア2世の統治下での立憲君主制が確立した。女王マリア2世が1853年11月に崩御すると、長男のペドロ5世が16歳で即位した。
ペドロ5世は学識が深く、数カ国語を習得したマルチリンガル(多言語話者)であり、奴隷廃止を支持する人格者だった。彼の治世では個人の権利が尊重され、報道の自由も広まり、国民からの人気も高かった。だが、ペドロ5世の治世は短かった。腸チフスを患い、1861年11月に崩御。わずか24歳だった。
ルイス1世夫婦(1862年) ペドロ5世の後を継いだのは、弟のルイス1世だった。彼の治世は1889年10月まで続いた。立憲君主制の議会では、保守派の“刷新党”と急進派の“歴史党”による “輪番政治”(ロータッチヴィズモ)が続き、政情は比較的安定した。ただ、その一方で他の欧州諸国に比べて近代化が停滞し、ポルトガル王国の地位はさらに没落した。
ポルトガル王国は1886年に、アフリカのポルトガル領モザンビークとポルトガル領アンゴラを陸続きで連結する計画を立て、二つの植民地の間をピンク色で塗った“バラ色の地図”を発表した。
だが、このアフリカ植民地の拡大計画は、英国の“アフリカ縦断政策”と衝突した。1890年にポルトガル王国は英国の脅しに屈し、バラ色の地図を撤回。このように海外領土をめぐる政策でも、英国やフランスに対し、ポルトガル王国は弱体化した。
1886年にポルトガル王国が作成した“バラ色の地図”の概要
東岸モザンビークと西岸アンゴラの間をピンク色で塗り、領有を主張
当時のポルトガル国王は、1889年10月に即位したばかりのカルロス1世だった。カルロス1世が英国の脅しに屈したことを受け、1890年に港湾都市ポルトで、反英暴動が発生。だが、この暴動は立憲君主制を否定する急進的な共和主義者の策謀だった。
当時のポルトガル王国は、公共事業やアフリカへの大規模投資で、財政が危機的な状況に陥っていた。これを背景に、急進的な共和主義者や社会主義者が台頭。王権の打倒と共和政の待望が、国民の間に広がった。
カルロス1世の悲劇とブラガンサ朝の終焉
社会情勢が不穏化したことを受け、カルロス1世は1906年に自由刷新党のジョアン・フランコを首相に任命。フランコは独裁政治に走り、共和主義者たちはカルロス1世に対する不満を募らせた。
左)カルロス1世(1907年)
右)ルイス・フィリペ(1907年)
カルロス1世を載せた馬車が、1908年2月1日に共和主義者に襲われた。群衆の中から一斉射撃を受け、カルロス1世は即死。その場にいた王太子のブラガンサ公ルイス・フィリペが、自動的に王位を継承することになった。この時、ルイス・フィリペは20歳という若さだった。
ルイス・フィリペは以前から共和主義者によるテロを警戒しており、襲撃犯に反撃した。だが、ルイス・フィリペも致命傷を受け、カルロス1世の崩御から約20分後に死亡が確認された。彼の在位は約20分にすぎず、“元首の最短在位記録”として「ギネス世界記録」に収録されている。
マヌエル2世
(1909年)
この事件でルイス・フィリペの弟マヌエルも腕を撃たれたが、事なきを得た。父と兄を一度に失った彼は、18歳にして国王マヌエル2世として即位。独裁者のフランコ首相を解任し、立憲君主制のイメージ刷新を図った。
だが、共和主義者の勢いを止めることはできなかった。政治情勢は悪化し、約2年間で政権が7回も交代。議会では共和主義者の共和党が議席を伸ばしたが、それでも立憲君主制の下では、国王擁護の王党派が優勢を維持し続けた。
ポルトガル共和国の樹立を宣言するホセ・レルバス
(1910年10月5日)
議会の劣勢を余儀なくされる共和党は、平和的な政権奪取が困難と判断し、武装革命の路線を決定。1910年10月3日に約2,000人の兵士が首都リスボンで反乱を起こした。
マヌエル2世はジブラルタル経由で英国に亡命。こうして10月5日に暫定政権が樹立され、ポルトガル共和国が誕生し、第一共和政が始まった。英国に亡命したマヌエル2世は故国に戻ることなく、1932年に亡くなった。
中国の帝政終焉
ポルトガル共和国の誕生から約1年後の1911年10月10日、湖北省武昌(現在の武漢市の一部)の新建陸軍(新軍)が、清王朝に対する反乱を起こした。この“武昌蜂起”を決起した反乱軍は、10月11日に湖北軍政府を樹立。こうして“辛亥革命”が始まった。
湖北軍政府の記念写真(1911年10月11日) 辛亥革命に呼応し、華南地域や華中地域の省が、次々と清王朝から離反。12月25日に孫文がフランスから帰国し、中華民国の臨時大総統に選ばれた。1912年1月1日に孫文は中華民国の樹立を宣言。こうして共和政の政権が中国にも誕生した。
臨時大総統に就任した孫文(中央)と閣僚たち
(1912年1月1日)
だが、清王朝の第二代内閣総理大臣だった袁世凱は、なお権力と軍事力を有していた。中国の内戦激化や外国の介入を阻止したい孫文は、袁世凱に大総統の地位を譲ることと引き換えに、第十二代皇帝である宣統帝(愛新覚羅溥儀)の退位を求めた。
この約束に基づき、袁世凱は宣統帝の退位を勧告。こうして1912年2月12日に宣統帝は退位し、2000年以上も続いた中国の帝政は終焉を迎えた。
臨時大総統に就任した袁世凱(中央)
(1912年3月10日)
ポルトガルと中国は、同時期に共和政に移行。中葡両国の人々は、いずれも明るい未来を夢見たが、待ち受けていたのはどちらも混乱だった。
共和政革命とマカオ
ポルトガル共和国の誕生が伝わり、1910年10月11日のマカオは祝賀ムードに包まれた。10月15日には初めてポルトガル共和国の国旗がマカオで掲揚された。
ポルトガル共和国はイエズス会などの修道会を廃止し、教会の財産を没収した。こうした命令はマカオにも届き、第百二代総督のエドゥアルド・アウグスト・マルケスには、イエズス会などの教会組織を英領香港に追放することが指示された。
マルケス総督 だが、マルケス総督はこの命令に反対し、辞職して抗議。マカオ在住のポルトガル人も、この命令を見直すようポルトガル共和国の暫定政権に求めた。こうした命令に中国の新聞も反対を表明し、「マカオでは賭博、麻薬、売春が許されるのに、功績のある宣教師を追放する」と批判した。こうした声に対し、ポルトガル共和国は何の反応も示さなかった。
辛亥革命が始まると、マカオ政庁は警戒を強化した。これを機に、中華民国が“マカオ回収”に着手することを恐れたからだ。
ポルトガルと中国で起きた共和政革命を背景に、このようにマカオでもいくつかの事件が発生した。しかし、マカオの存在を転覆させるような事態には至らなかった。ポルトガル共和国は1913年10月7日に中華民国を承認。マカオはポルトガル共和国から派遣される総督による統治が続いた。
五・二九事件
1919年5月4日の天安門広場
大学13校から約3000人の学生が集結
抗日・反帝国主義の“五四運動”が始まった
第一次世界大戦が終結し、1919年にパリ講和会議が開かれた。ドイツ帝国が支配していた山東省青島の“膠州湾租借地”は中華民国に返還されず、日本が権益を継承することが認められ、「ベルサイユ条約」が調印された。
これを受け、ベルサイユ条約に反対する北京の学生などが、1919年5月4日に天安門広場に集まり、抗日・反帝国主義のデモ行進を実施。この動きは中国全土に広がり、“五四運動”と呼ばれる大衆運動に発展した。
こうして中国に抗日気運が広がったほか、ナショナリズムも一般市民に浸透した。ナショナリズムの高揚はマカオにも伝播。マカオの中国人もポルトガル人による統治に反感を募らせた。
マカオにはアフリカ出身の兵士が駐留していた。そのうちの一人が中国人女性にちょっかいを出し、その様子を見た多くの中国人が怒りに駆られた。1922年5月28日の出来事だった。怒った群衆は、この兵士を殴打。そこに警察が仲裁に入り、3人の中国人を騒乱の容疑で逮捕した。
マカオ駐留ポルトガル軍(1950年5月28日)
ポルトガル軍は1975年末にマカオを撤退
その後、返還までマカオは軍隊のない地域だった
このニュースは瞬く間にマカオの中国人に広まり、3人の釈放を求める抗議の声があがった。しかし、警察は釈放に応じず、1万人近くの市民が警察署を夜通し包囲した。
5月29日の早朝に警察は包囲を解くよう群衆に要求したが、これに応じる者はいなかった。そこで警察とポルトガル軍が群衆に発砲。70人が死亡し、100人以上が負傷した。これを“五・二九事件”という。
この事件を受け、マカオで大規模なストライキが発生。7万人を超える中国人がマカオを離れた。6月1日には孫文が拠点にしていた広州で、大規模な抗議集会も開かれた。孫文らはマカオ政庁に対し、アフリカ兵退去、被害者への賠償、アヘンやギャンブルの禁止を要求。しかし、これは内政干渉であると、マカオ政庁は反発した。
最終的にマカオ政庁は11月になってストライキの主催者と対談し、被害者への賠償を約束。こうして事件は収束したが、マカオの人口は激減し、その影響は長期にわたり続いた。
ポルトガル第一共和政の混乱
“五・二九事件”で中華民国とポルトガル共和国の緊張が高まったものの、両国はいずれも混乱期を迎え、マカオにかまっている状況ではなくなかった。
中国では1926年には中国国民党(国民党)と北洋軍閥の内戦(北伐)が始まった。1927年には国民党と中国共産党(共産党)の内戦(第一次国共内戦)も勃発。さらに1937年には日中戦争も始まった。その間の混乱した歴史は、これまでの連載でも触れているので、今回は割愛する。
ポルトガル共和国の革命は、“共和政待望論”を背景に始まった。これは共和政の確立を“救世主の出現”のように捉え、すべての問題が片付くという考えだった。だが、国民は早くも共和政が救世主ではなかったことを悟ることになった。
反聖職者主義を示すドイツの芸術作品
ティラノサウルス(暴君竜)の教皇が羊(信徒)を放牧
西側諸国に対するローマ教皇庁の影響力を批判
ポルトガル共和国では新時代の到来をアピールするため、国旗や国歌が変更され、通貨も“レアル”から“エスクード”に切り替わった。1エスクードは1,000レアルで交換された。また、王国時代との決別を示すため、ナショナリズムと“反聖職者主義”を推進。前述のように教会の財産を没収したことから、1911年にローマ教皇庁はポルトガル共和国と断絶した。
こうしたなか、国王を支持する王党派も残存していたほか、社会主義者や共産主義者も勢力を拡大していた。ポルトガル共和国の政情は、発足当初から不安定であり、共和党も複数の政党に分裂した。
第一次世界大戦と聖母出現
1914年に第一次世界大戦が勃発したが、ポルトガル共和国の世論は、英仏露三国協商の連合国につくべきという“親英派”と独墺伊三国同盟を支持する“親独派”に分裂しており、参戦は遅々として決まらなかった。参戦が決まったのは1916年に入ってからで、ポルトガル共和国は連合国の一員に加わり、5万人以上の将兵が出征した。
第一次世界大戦でポルトガル共和国の国民は重い戦費負担を強いられた。軍事動員や貿易停滞を背景に、インフレや物資不足も起きた。また、スペイン風邪が流行し、国内の死者は約1万人に達した。
ポルトガル共和国の社会が混迷するなか、中部の都市ファティマに聖母マリアが出現する奇跡が起きた。ファティマに住むルシア(女児)、フランシスコ(男児)、ジャシンタ(女児)という名の3人の子どものもとに、1916年春から天使がたびたび来訪。その後、1917年5月13日に聖母マリアが初めて出現し、毎月13日に姿を見せるようになったという。
ルシア(左)
フランシスコ(中央)
ジャシンタ(右)
(1917年)
聖母マリアは子どもたちに、さまざまな啓示を残した。それはやがて評判となり、1917年10月13日には約7万人がファティマに押し寄せた。そこで太陽が天空を乱舞する“太陽の奇跡”が起き、これを大群衆が目撃した。
この“聖母出現”と“太陽の奇跡”に、ローマ教皇庁は強い関心を寄せた。これを機に、“反聖職者主義”を推進したポルトガル共和国でも、カトリックの復権が進んだ。なお、ローマ教皇庁は1930年にファティマで起きた一連の出来事を奇跡と公認した。
聖母が子どもたちに残した3つの啓示は、その後も長く影響を及ぼした。特に3つ目の啓示はローマ教皇庁によって非公開とされ、“ファティマ第三の予言”と呼ばれた。1981年5月には修道士が“ファティマ第三の予言”の公表を求め、ハイジャック事件を起こした。
“太陽の奇跡”を見つめる群衆の写真
1917年10月29日付の写真新聞
“太陽の奇跡”から約2カ月後の1917年12月に、軍人のシドニオ・パイス少佐が、軍事クーデターに成功。パイス少佐は1918年4月に大統領に就任し、独裁政治を始めた。パイス大統領はカトリックの復権を推進し、ローマ教皇庁との関係も回復。しかし、この年の12月にパイス大統領は共和主義者によって暗殺された。
第一共和政の崩壊
パイス大統領の暗殺から約1カ月が過ぎた1919年1月19日、港湾都市ポルトでポルトガル王国の復活が宣言された。これはパイス大統領の暗殺に乗じた王党派の反乱だった。この王党派の政権は、英国に亡命したマヌエル2世とは無関係であり、国民の支持も得られなかったことから、この年の2月13日に終焉を迎えた。
リスボンに向け進軍中のゴメス・ダ・コスタ将軍(1926年6月6日) 1926年5月28日にはマヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍が、北部のブラガ県で決起し、首都リスボンに向けて進軍を開始した。この軍事クーデターが成功し、6月17日にゴメス・ダ・コスタ将軍は大統領兼首相に就任。この軍事独裁政権の誕生により、第一共和政は崩壊した。
このゴメス・ダ・コスタ大統領の政権は、1カ月も持たなかった。新たなクーデターによって、アントニオ・オスカル・カルモナ将軍が7月9日に大統領兼首相に就任し、ゴメス・ダ・コスタは全権力を失った。
欧州最長の独裁体制
カルモナ大統領の肖像画
(1933年)
カルモナ大統領の下で頭角を現したのが、1290年創立の名門コインブラ大学で教鞭を執っていたアントニオ・サラザール教授だった。当時のポルトガル共和国は財政危機に直面しており、カルモナ大統領は政治経済学者のサラザール教授を財務相として招聘した。
1928年4月に財務相に就任したサラザールは、緊縮財政を推進し、短期間で黒字化を達成。マスコミはサラザールを“祖国の救世主”と称え、最大の賛辞を贈った。こうしたプロパガンダ(政治宣伝)の効果もあり、第一共和政の混乱に失望していた国民は、ますますサラザールを救世主として見るようになった。
1929年10月24日に起きた米国の株価暴落を機に、世界恐慌が始まった。その影響が続くなか、サラザールは1932年7月に首相に就任し、財務相を兼務。1930年には植民地相も兼務し、マカオを含む海外領土に対する統制を強化した。
1939年のサラザール首相 サラザール首相は1933年に憲法を改正し、軍事独裁政権を終了させた。こうしてポルトガル共和国の“第二共和政”が始まったが、それは“新しい国家”(エスタド・ノヴォ)というファシズム的な独裁体制だった。エスタド・ノヴォ体制のポルトガル共和国では、“神、祖国、そして家族”をスローガンに、カトリック信仰、ナショナリズム、伝統的価値観に基づく政策を採用した。
サラザール首相は1933年に国防国際警察(PIDE)という秘密警察を創設し、共産主義者や無政府主義者などを次々と排除。政党はサラザール首相が率いる“国家連合党”のみ合法とされた。ファシズム思想を普及させるため、“ヒトラーユーゲント”(ヒトラー青少年団)に似た“ポルトガル青年団”を組織。ファシズム型の統制経済政策を推進した。
カルモナ大統領は1951年4月に死去するまで、その座にとどまった。しかし、カルモナ大統領は“お飾り”な存在であり、実権はサラザール首相が握り続けた。第二次世界大戦では英国との同盟を保ちつつ、中立国という立場を取り、サラザール首相のファシズム的な独裁政権は戦後も続いた。
サラザール首相が始めたエスタド・ノヴォ体制は1974年4月まで続き、これは“欧州で最長の独裁体制”と呼ばれる。
辺境のマカオ
1910年代の初期に誕生した共和政の中華民国とポルトガル共和国だが、国民の期待は失望に変わり、このように混迷と衰退が長く続いた。
サラザールが財務相に就任したばかりの1928年7月に、中華民国政府は「中葡和好通商条約」が、すでに同年4月28日に失効していると宣言した。理由は10年に1度の条約改正が実施されなかったためだ。しかし、ポルトガル共和国はこれを認めず、この年の12月に中華民国と「中葡友好通商条約」を締結。マカオの地位をめぐる問題は、またも棚上げにされた。
マカオは中国の政治的中心から地理的に離れているうえ、ポルトガルからも遠い。賭博、麻薬、売春でにぎわう“悪徳の都”には、中国系の犯罪集団も跋扈するようになり、マカオ政庁にも腐敗、怠慢、官僚主義が蔓延した。
国際的な薬物規制の動き
1909年に上海で開かれた国際アヘン委員会会議の説明スライド
国連薬物犯罪事務所(UNODC)
アヘン戦争やアヘン貿易をめぐる国際的な批判が高まり、1909年2月に上海で13カ国による“国際アヘン委員会”の会議が開かれた。これは国際的な薬物禁止の第一歩だった。この会議にポルトガル共和国も参加した。この会議では9カ条からなる議定書を交わしたが、その内容は“勧告”にとどまるものであり、強制力はなかった。
ハーグの第一回国際アヘン会議
「万国阿片条約」を締結
上海で始まったアヘンをめぐる議論を継続するかたちで、1911年12月にオランダのハーグで“第一回国際アヘン会議”が開催された。この会議には24カ国が参加し、1912年1月に「万国阿片条約」が締結された。これは初の国際麻薬取締条約だったが、多くの国で批准に至らなかった。締結国に批准を求める国際会議も開かれたが、大きな進展はなかった。
しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、戦場でコカインや鎮痛剤のモルヒネが多用され、欧米諸国で中毒者が急増。こうした問題を受け、万国阿片条約の批准を求める動きが広がった。中国でアヘン中毒者が増加しても気にしなかった欧米諸国だが、自国の問題になると動きは早かった。
英米の主導で、1916年6月に締結されたベルサイユ条約には、国際阿片条約が組み込まれた。これにより、ベルサイユ条約の批准国は、国際阿片条約にも批准したという扱いとなった。だが、この国際阿片条約は、薬物の輸出を制限する内容であり、麻薬の栽培や国内販売を禁じるものではなかった。
ジュネーブの第二回国際アヘン会議 米国で薬物濫用が広がると、スイスのジュネーブで1924年から“第二回国際アヘン会議”が開かれた。1925年2月19日に万国阿片条約の改正議定書を締結し、この年の9月25日に発効。この議定書ではアヘンの輸出や販売を政府の独占事業にすることやアヘン喫煙所を制限することなどが盛り込まれた。
マカオ政庁の闇
アルトゥール・タマニーニ・デ・スーザ・バルボサは、1918~1940年にマカオ総督を三度も務めた人物だ。任期は第百七代(1918年10月~1919年8月)、第百十一代(1926年12月~1931年3月)、第百十四代(1937年4月~1940年10月)であり、通算8年7カ月に及んだ。
ペドロ・ホセ・ロボ 第二回国際アヘン会議の結果を受け、1927年3月にバルボサ総督はアヘンの製造から販売までを7月1日からマカオ政庁の独占事業にすることを決めた。これを受け、マカオ政庁の財政担当者ペドロ・ホセ・ロボが、5月末にアヘン事業の担当官に就任した。
この連載の第五十三回で紹介した利希慎は、マカオ政庁からアヘン専売権を得ていた。ロボがアヘン事業担当官に就任すると、アヘン専売権を利希慎から取りあげようとしているという噂が流れた。これを聞いた利希慎は、バルボサ総督をはじめとするマカオの有力者などに嘆願書を出した。
嘆願書が出回っていると知ったロボは、これを自分への誹謗中傷として受けとめ、利希慎を侮辱罪で訴えた。この裁判の判決は1928年4月16日に下され、利希慎が全面勝訴。しかし、利希慎は同月30日に英領香港のセントラル(中環)で暗殺された。銃弾を三発浴び、即死だった。暗殺犯は最後まで見つからなかった。
アヘンはマカオ政庁の独占事業となった。しかし、マカオにはアヘンの密造工場や密売所が多数存在した。これを背景に、アヘンの喫煙所や販売店の数は、完全に万国阿片条約に違反していた。1930年1月に行われた国際連盟の現地調査でも、こうした実態が指摘された。
これを受け、1930年2月にマカオ政庁は全面的な取り締まりを実施。しかし、これは見せかけであり、喫煙所や販売店は看板を外しただけで、経営を続けていた。アヘン事業はマカオ政庁にとって重要な財源であり、これを失うことを恐れていた。
米国はマカオのアヘン販売を問題視し、ポルトガル共和国に厳しく取り締まるよう圧力をかけた。こうして1936年9月にポルトガル共和国はマカオ政庁に対し、管理強化を求めた。だが、その後もアヘンはマカオ政庁の独占事業であり続け、その収入は増加した。
バルボサ総督(右)
左の女性は妻のマリア
1920年代後半の写真
マカオ政庁のアヘン事業からの月間収入は、1937年6月は6万9,000米ドルだったが、この年の12月には26万5,000米ドルに増加する有様だった。
1940年6月末にポルトガル共和国はバルボサ総督を首都リスボンに召喚する命令を下した。理由はマカオ政庁が万国阿片条約に違反し、アヘンの密造と密売を黙認したという容疑だった。バルボサ総督は更迭され、これが引き金となり、この年の7月10日に亡くなった。
アヘンを止められないのは、中毒者だけではなく、マカオ政庁も同じだった。前述のように、マカオでのアヘン禁止は、第二次世界大戦後の1946年まで待たねばならなかった。
共産主義国のヴァイス・シティ
アヘンや人身売買は違法となったが、売春業は今も続く。1932年に英領香港で売春業が禁止されると、多くの娼婦がマカオに引っ越した。この年にマカオの娼館は120カ所を超え、娼婦は約1,500人に上ったという。
マカオ警察が逮捕した売春組織の娼婦たち(2015年4月19日)
個人的な売春行為は合法だが、組織的売春行為はマカオでも犯罪
逮捕された21人の娼婦は韓国籍
外国籍の娼婦も多く、日本人女性も含まれる
こうした事情を背景に、マカオ政庁は1936年末に初めて、売春業は容認されるものであり、犯罪ではないという法的見解を示した。現在のマカオでも“組織的な売春業”などは違法だが、娼婦の個人的な売春行為は犯罪ではない。男性の買春行為も違法ではない。ただし、年齢や活動場所などには一定の制限がある。仮に売春行為に違反な部分があっても、比較的軽い処罰で済まされる。
このようにマカオは闇の多い悪徳の都だった。1999年12月20日のマカオ返還後は、カジノがギャンブル産業の中心となった。ラスベガスのようなエンターテインメント要素が重視され、陽気な明るさが増したことで、殺伐とした賭場のような“男の街”の雰囲気は薄らいだ。
しかし、アヘンはなくなったものの、マカオは今でも“飲む、打つ、買う”のすべてが合法。共産主義の中華人民共和国では異色の“ヴァイス・シティ”であり、まさに“特別行政区”と呼ぶのにふさわしい都市だ。
男性客と勝負するマカオの女性カジノディーラー マカオ返還にともなう“五十年不変”の政策により、悪徳の都は少なくとも2049年12月19日まで存続が許されている。執筆時時点の2022年11月下旬から考えれば、残りは約27年1カ月。まだまだ長いようだが、4世紀半を超えるマカオの歴史から見れば、ほんの一瞬なのかも知れない。