コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

マカオの衰退とポルトガル王国の混乱

2022.11.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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1550年代にポルトガル人の居留地となったマカオは、1630年代に“黄金時代”のピークを迎え、その後は約2世紀にわたる衰退期を迎えた。この長い衰退期の間、ポルトガル王国の海外領土は次々と新興国のオランダに侵略され、マカオはアジアで孤立。ポルトガル王国の視線は富を生み出すブラジルに向かい、アジアへの関心は薄れた。そうしたなか、ポルトガル王国は大地震に見舞われたうえ、内憂外患に翻弄される。

マカオの衰退期は特筆すべきことが少ない。今回は日本ではなじみの薄いポルトガル王国の歴史を中心に、近世から近代にかけての欧州やブラジルなどを扱った内容となる。中国とは無関係の話だが、激動した当時の国際情勢は、今日の世界の“底流”でもあり、知っておいて損はないだろう。

マカオの衰退

鎖国時代の長崎湾と出島(中央下)
中国のジャンク船(中央と左)とオランダ船(右)
ポルトガル船は姿を消した
16世紀中葉に始まった日本とポルトガル王国の南蛮貿易は、1639年の第五次鎖国令を受け、終焉を迎えた。南蛮貿易の拠点として繁栄していたマカオにとって、大きな打撃だった。

喝采を浴びるジョアン4世を描いた絵画
ヴェローゾ・サルガドによる1908年の作品
その直後の1640年12月にブラガンサ朝ポルトガル王国のジョアン4世が再独立を宣言し、スペイン王国との同君連合が解消すると、マカオとフィリピンの貿易も中断を余儀なくされた。

1644年3月には明王朝が滅亡。満州族の清王朝が、この年の6月に北京を占領し、明王朝の残存勢力である南明王朝への討伐を始めた。マカオは南明王朝を支援したが、1651年1月に清王朝に帰順。清王朝はポルトガル人のマカオ居留権を安堵した。

こうしたなか、ポルトガル王国がアジアに確保した海外領土は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)のオランダ東インド会社(VOC)によって、次々と奪われた。マカオはアジアで孤立感を深めた。

1830年ごろの広州の外国人居留地を描いた絵画
各国の商館(ファクトリー)と国旗
中国人画家“順呱”の作品
清王朝第四代皇帝の康熙帝は、1683年に鄭氏政権が支配する台湾を征服し、中国を統一した。康熙帝はそれまでの政策を転換し、1684年に外国との貿易を許可。広州、アモイ、寧波、上海が開港すると、マカオの特権的な地位は大きく揺らいだ。

清王朝第六代皇帝の乾隆帝は、1759年に欧州諸国との貿易を広州に限定。広東十三行と呼ばれる特権商人ギルドが、外国との貿易を独占することになった。こうして“広東システム”と呼ばれる貿易体制が整備された。

欧州人の広州滞在は、毎年5~6月ごろから9~10月までの期間に限定された。それ以外の期間は、帰国あるいはマカオ滞在が義務づけられた。こうしてマカオは広東システムの下で、欧州人の“越冬地”となった。

マカオのプラヤ・グランデ(南湾)にあった豪邸
商人と思われる白い服の欧州人が読書中
1843年の作品
越冬のためにマカオを訪れる欧州人の船団は十数隻の規模で、人数は250~300人だったという記録が残っている。ミルクティーを飲むために、乳牛を載せた船もあったそうだ。こうした欧州人に住宅や娯楽を提供することが、マカオの住人にとって重要なビジネスとなった。衰退期のマカオは、広東システムの“おこぼれ”で細々と生き延びた。

イエズス会の根拠地としてのマカオも衰退した。1549年8月15日にイエズス会の創設メンバーであるフランシスコ・ザビエルが日本の鹿児島に上陸。その後継者たちの活動の結果、日本のキリスト教徒は数十万人規模に達した。しかし、1639年の第五次鎖国令とともに、日本におけるイエズス会の宣教活動は絶望的となった。

康熙帝とイエズス会のアダム・シャール 中国ではイエズス会のマテオ・リッチが1582年8月にマカオに到着し、宣教活動の準備を始めた。イエズス会の宣教師は明王朝や清王朝の宮廷から信頼を勝ち取ったが、現地の文化に順応すべきという“適応主義”の宣教活動の方針が、カトリック修道会の“ドミニコ会”などに批判された。

中国の礼儀文化(典礼)を軽視するドミニコ会は、イエズス会が異教の習慣を許容していると批判。1645年に教皇庁はイエズス会に典礼行為を止めるように通達した。これにイエズス会が反論し、中国での宣教活動をめぐる“典礼論争”が始まった。

教皇庁が強硬な姿勢を崩さなかった結果、清王朝第五代皇帝の雍正帝は、1723年にキリスト教の宣教活動を禁止。マカオは中国におけるイエズス会の根拠地だったが、そうした役割も終わることになった。こうしてマカオは約2世紀にわたる衰退期を迎えた。

マカオの盛衰と人口変動

マカオの繁栄と衰退は、人口変動に色濃く表れている。当時の資料に基づく研究者の推計によると、1630年ごろのマカオの人口は2万人ほどだった。うちポルトガル人の既婚者は1,000人近くだったことから、人口の大部分は中国人だった。

南蛮貿易が終焉を迎えた直後の1640年ごろ、マカオの人口は約4万人に増加し、うち約2万人が混血を含むポルトガル人だったとみられる。盛んだった南蛮貿易を背景に、約10年間で人口が倍増しており、ポルトガル人の急増が顕著だったようだ。

1645年はマカオの人口が約4万4,000人に達したもようだ。その背景には1644年に明王朝が滅亡したことがあった。満州族による支配を嫌う漢民族がマカオに流入し、その多くが海外へ渡った。

17世紀の後半になると、マカオで出生した人が急増し、食糧事情が悪化。これを背景に、マカオ政庁は1696年に中国人を域外に追放した。その影響で、1700年にはマカオの総人口が2万人あまりに減少。そのほとんどがキリスト教徒だったが、多くは中国人であり、ポルトガル人は少なかった。当時のマカオ在住ポルトガル人は、150世帯だけだったという。

1745年には人口が1万3,000人あまりに落ち込んだ。1792年は約1万2,000人にすぎず、18世紀を通じてマカオの人口は半減した。

18世紀末のマカオを描いた絵画
19世紀初期にリオ・デ・ジャネイロで入手と伝わる
アヘン戦争が勃発する直前の1839年6月20日に、アヘン禁輸担当の欽差大臣だった林則徐は、マカオの人口調査を実施。中国人は1,772世帯、計7,033人だった。西洋人と奴隷は720世帯、5,612人。このほか、英国人57世帯がマカオで暮らしていたという。

マカオの人口をもっと多かったと見積もる推計もあるが、この林則徐による調査は推計ではない一次資料であり、信頼性が高いと言えるだろう。それによれば、アヘン戦争が始まる直前のマカオの人口は、中国人と西洋人を合わせて1万2,645人ということになる。

マカオの人口はアヘン戦争の勃発前夜までに、ピーク時の4分の1まで落ち込んでいた。こうした人口変動をみると、マカオの衰退ぶりがよく分かる。

インド洋におけるポルトガル王国の凋落

マカオが衰退した背景には、“ポルトガル海上帝国”の没落があった。1640年12月に誕生したブラガンサ朝ポルトガル王国は、スペイン王国との“ポルトガル王政復古戦争”を推進するため、軍備増強を余儀なくされた。この戦争は1668年2月の“リスボン条約”で終結するが、それまでの間にポルトガル王国は海外領土を次々と失った。

オランダのVOCによる攻撃を受け、ポルトガル王国はマラッカ、セイロン島(スリランカ)などインド洋の東側で領土を失った。インド洋の西側では、ヤアーリバ朝オマーンがポルトガル王国の敵だった。

アラビア半島のマスカットは、1508年にポルトガル王国の海外領土となったが、1650年にオマーンに占領された。さらにオマーンは東アフリカ沿岸のポルトガル勢力を駆逐したほか、サファヴィー朝イランの沿海地域を征服。“オマーン海上帝国”としてインド洋の西側で覇権を握り、欧州諸国と競い合った。こうしてインド洋の西側でも、ポルトガル王国の影は薄くなった。

ポルトガル王国が19世紀まで確保できたアジアの領土は、インドのゴアとディーウ、インドネシアのティモール、中国のマカオだけだった。アフリカではアンゴラとモザンビークを確保していたが、経済的恩恵は少なかった。こうしたなかでポルトガル王国の関心は新大陸に向かい、ブラジルの経営に注力した。

ポルトガル王国を左右したブラジル

1648年4月の第一次グアララペスの戦いを描いた絵画
ポルトガル王国ブラジル植民地軍がオランダGWCに勝利
オランダ西インド会社(GWC)は1630年にポルトガル王国の海外領土であるブラジルの北東部を占領し、オランダ領ブラジルを樹立していた。現地のポルトガル勢力がGWCに抵抗を続けたことを受け、ブラガンサ朝ポルトガル王国の初代国王ジョアン4世はブラジルを“公国”に昇格。これ以降のブラガンサ朝ポルトガル王国の王太子は、“ブラジル公”を名乗ることが慣習となった。

ポルトガル軍は1654年1月までにオランダ領ブラジルを再征服。1661年にオランダと締結した“ハーグ条約”で、オランダ領ブラジルは正式にポルトガル王国に返還された。

ブラジルはポルトガル王国の経済を支える支柱だった。1500年4月22日に未知の陸地に到達したポルトガル貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラルは、その地を“ヴェラ・クルス島”と名づけ、ポルトガル王国による領有を宣言した。

1519年作成のブラジル沿岸地図
原住民によるブラジル木の伐採を描いている
だが、それは島ではなく、南米大陸であり、これがブラジルの始まりだった。カブラルが到着したのは、現在のブラジル東部の“ポルト・セグーロ”とみられる。

16世紀のブラジル砂糖生産を描いた絵画
こうした小規模製糖場を“エンジェーニョ”という
この地に生息する“パウ・ブラジル”(ブラジル木)という樹木からは、“ブラジリン”という赤い色素が抽出される。これがポルトガル王室の専売品として、最初の特産品となり、“パウ・ブラジルの時代”が始まった。ブラジルの歴史は、このように特産品によって時代区分される。なお、ブラジルの国名は、この“パウ・ブラジル”に由来する。

特産品のパウ・ブラジルは、発見から半世紀も立たずに枯渇した。そこでサトウキビが移入され、原住民のインディオを奴隷とした砂糖プランテーションが始まった。こうしてブラジルは“砂糖の時代”を迎えた。

インディオの数が不足すると、アフリカのアンゴラやモザンビークから大量の黒人奴隷がブラジルに連行され、砂糖プランテーションで酷使された。だが、この砂糖生産も、オランダとの“ハーグ条約”の締結から10年あまり過ぎると、衰退に向かった。

こうしたなか、1690年代にブラジル南東部で金鉱が発見されると、“ゴールドラッシュ”が起きた。40万人以上のポルトガル人と50万人以上の黒人奴隷が押し寄せ、ブラジルの中心地は、従来の北東部から南東部にシフト。ブラジルの“金の時代”が始まった。

この地では1727年にダイヤモンドの鉱山も見つかり、“ミナスジェライス”(宝石の鉱山)と呼ばれるようになった。これが後に州名として採用された。ブラジルからの黄金がポルトガル王国に流入すると、宮廷には華やかなバロック文化が花開いた。

ミナスジェライスの金採掘を描いた19世紀の絵画
働くのは黒人奴隷たち
それまでのポルトガル王国は海外から贅沢品の輸入が増え、経済状況が悪化していた。そこで国産製品を保護するため、輸入品の使用禁止を定めた一方、産業の工業化を急いでいた。しかし、ブラジルから黄金が流入すると、貿易赤字が解消。急に豊かになったポルトガル王国では、輸入品の密輸が増えた一方で、国内産業の工業化に対する熱意が失われた。

イングランド王国との結婚

幼少のアフォンソ6世と黒人の召使い
1653年ごろの作品
ブラガンサ朝ポルトガル王国は、1640年12月にスペイン王国との同君連合を解消するかたちで独立した。だが、国内の貴族や聖職者には、スペイン王国の支持者が多く、王室は孤立気味だった。

ルイサ・デ・グスマン王妃
1632年ごろの作品
スペイン王国との“ポルトガル王政復古戦争”を戦ううえで、ポルトガル王国は同盟国を欲していたが、周辺諸国や教皇庁との関係は良好ではなかった。初代国王のジョアン4世は、1656年11月に崩御。息子のアフォンソ6世が13歳で王座を継いだが、彼は小児まひに由来する精神不安を患っており、母親のルイサ・デ・グスマン王妃が摂政となった。

ルイサ王妃は1662年に娘のカタリナをステュアート朝イングランド王国のチャールズ2世に嫁がせた。これは政略結婚だった。ジョアン4世は独立したばかりのころから、イングランド王国との同盟を成立させるため、カタリナを当時は王太子だったチャールズ2世に嫁がせる計画を立てていた。しかし、1642年にイングランド王国で清教徒革命(ピューリタン革命)が勃発すると、この政略結婚の計画は頓挫した。

チャールズ1世の処刑(左) オリバー・クロムウェル
1649年の作品(右)
ステュアート朝イングランド王国では、1649年1月に第二代国王のチャールズ1世が処刑され、“イングランド共和国”が誕生。護国卿(ロード・プロテクター)に就任したオリバー・クロムウェルによる独裁体制が築かれた。

このイングランド共和国は1660年に瓦解。オランダに亡命していたチャールズ2世は帰国し、1661年4月にステュアート朝イングランド王国の第三代国王として即位。王政復古を果たした。

チャールズ2世の即位
1661年4月23日(左)
英国王妃となったカタリナ
1665年の作品(右)
イングランド王国が復活すると、1661年6月にポルトガル王国との“婚姻条約”が締結された。これに基づき、ポルトガル王国はカタリナの“持参金”として、インドのボンベイ(現在のムンバイ)と北アフリカのタンジール(現在のタンジェ)をイングランド王国に割譲した。

カタリナは1662年4月にチャールズ2世と結婚し、王妃“キャサリン・オブ・ブラガンザ”となった。ポルトガル王国はボンベイとタンジールを失ったものの、“ポルトガル王政復古戦争”で、イングランド王国からの支援を受けることに成功。イングランド王国の仲介で1668年2月に“リスボン条約”を締結し、スペイン王国はポルトガル王国の独立を承認した。なお、このリスボン条約により、ポルトガル王国は北アフリカのセウタを失った。

ポルトガル王国は1661年の“ハーグ条約”でオランダと講和し、同じ年の“婚姻条約”で英国と同盟。1668年の“リスボン条約”でスペイン王国からの完全独立を果たした。だが、その代償は大きく、ポルトガル王国はイングランド王国に対し、軍事や外交などで従属的となる。

余談だが、イングランド王国に紅茶を飲む習慣が広まったのは、カタリナとチャールズ2世の結婚がきっかけだったと言われる。当時のイングランド王国で紅茶は高級品だったが、アジア貿易で先行していたポルトガル王国では、そうではなかった。イングランド王妃となったカタリナは客に紅茶を振舞い、それが評判となり、喫茶の習慣が広まったという。

メシュエン条約とイングランド王国への従属

ジョン・メシュエン
駐ポルトガル英国大使
条約交渉の担当者
ポルトガル王国は経済面でもイングランド王国に従属的となった。1703年に両国は“メシュエン条約”を締結。ポルトガル王国はイングランド王国から毛織物を輸入することを承認した。一方、イングランド王国はポルトガル王国からの輸入ワインについて、低い関税率を適用することになった。その税率はフランス産ワインの3分の1だった。

この条約の締結により、ポルトガル王国の港湾都市ポルトから、大量のワインがイングランド王国に輸出された。ポルトからのワインは、イングランド王国では“ポートワイン”と呼ばれ、甘みとアルコール度数の高さが特徴。ポートワインはイングランド王国に普及し、ポルトガル王国はワイン輸出国としての地位を確立した。

熟成中のポートワイン イングランド王国の毛織物は、以前からポルトガル王国に密輸されており、メシュエン条約は現実を追認したものだった。イングランド王国の毛織物は人気があり、ポルトガル王国は輸入超過(貿易赤字)に陥った。

高級毛織物ハリスツイードの織工
(1960年撮影)
だが、ブラジルからの黄金のおかげで、ポルトガル王国の経済は破綻を免れた。ブラジルの黄金は、毛織物の輸入代金として、ポルトガル王国からイングランド王国へ流出。一説にはブラジルの黄金の4分の3が、イングランド王国に流れたという。イングランド王国に蓄積されたブラジルの黄金は、やがて産業革命の資本や金本位制の確立に使われることになる。

ポルトガル王国はワインの輸出に励む一方、それを上回る毛織物の輸入を続け、ブラジルの黄金で支払い続けた。こうした状況は、ポルトガル王国を経済面でもイングランド王国に従属的にさせたばかりか、工業化が遅れた一因にもなった。

デヴィッド・リカード
近代経済学の創始者
(1821年の肖像画)
メシュエン条約に基づくポルトガル王国とイングランド王国の貿易関係は、経済学者のデヴィッド・リカードが1817年に発表した「経済学および課税の原理」の第七章で引用しており、“比較優位”を論じた“比較生産費説”の実例として有名だ。

なお、ブラジルの黄金で産業革命を果たした英国は、1840年に勃発したアヘン戦争に勝利。アヘン戦争という“ウェスタン・インパクト”(西洋の衝撃)を受け、中国は“半封建・半植民地の時代”を迎えることになる。もしメシュエン条約が締結されていなければ、中国の歴史も現実とはかなり違ったかたちになっていたかも知れない。

レンティア国家

ブラジルの黄金に頼った当時のポルトガル王国は、一種の“レンティア国家”だった。レンティア国家とは、土地が生み出す天然資源からの収入に大きく依存する国家を意味する。例えば、原油で潤う産油国などがレンティア国家に該当する。

石油で潤う典型的レンティア国家カタールの首都ドーハ
砂漠にそびえる高層ビルの街は、外国人労働者が支える
天然資源からの収入のおかげで、レンティア国家の財源は、国内の経済状況と無関係に豊富だ。それゆえ、レンティア国家は国内経済の強化に注力しなくなり、工業化が遅れる傾向がある。天然資源の生産に関わる労働者は少数で済むことから、失業率が高くなるという傾向も、レンティア国家の一つだ。

レンティア国家は天然資源の輸出に依存するが、当時のポルトガル王国の場合、イングランド王国に支払ったブラジルの黄金が、それに該当するとも言えるだろう。

豊かなレンティア国家のなかには、低賃金の外国人労働者を大量に雇用することで、自国民を納税や労働から解放するようなケースもある。その結果、自国民の労働意欲が損なわれ、深刻な事態に陥ることも起こり得る。

1970年代のナウル共和国
高級車の背後には、枯渇しかけのリン鉱脈
例えば、1968年に独立した南太平洋のナウル共和国は、それまで英国資本の手中にあったリン鉱石の採掘による利益を享受できるようになった。リン鉱石の採掘は国営化され、政府と国民は潤った。国民の生活費はタダとなったばかりか、贅沢な生活すら可能となった。

枯渇したリン鉱石の採掘場
穴だらけの荒廃した土地に
リン鉱石の採掘は、周辺諸国や中国からの出稼ぎ労働者に任せ、やがてナウル共和国の国民は勤労意欲を失った。毎日が休日という状態となり、多くの国民が肥満化。最大の死因が糖尿病という有様となった。

経済破綻したナウル共和国
いたるところに高級車が放棄されている
ナウル共和国のリン鉱石は、海鳥の糞が堆積して形成されたものであり、1907年から採掘が始まっていた。だが、天然資源は有限であり、いつの日か枯渇する。それに備えてナウル共和国は海外資産への投資を行っていたが、ガバナンスの欠如などを背景に、ほとんどが失敗に終わった。

やがてリン鉱石は枯渇し始め、海外資産も失い、1990年代の後半に入ると、ナウル共和国の経済は破綻状態となった。何十年も働いたことのない国民は、勤労意欲を失っており、危機的状況に陥った。

だが、神はナウル共和国を見捨てなかった。新たなリン鉱石の鉱脈が見つかり、21世紀に入ると、経済は回復を始めた。新たな鉱脈では30~40年ほどの採掘が可能という。これが幸か不幸かさておき、天然資源は“天の恵み”である一方、“呪い”でもある。レンティア国家は天然資源があるうちは天国だが、枯渇すると、たちまち危機が訪れる。

リスボン大地震

ジョアン5世
1707年の肖像画
ブラジルの黄金とダイヤモンドは、ブラガンサ朝ポルトガル王国の王権を強化した。1706年に即位した第四代国王のジョアン5世は、潤沢な王室財政を背景に、貴族や聖職者を必要としなくなり、身分制会議(コルテス)を開催しないことを決めた。このようにジョアン5世は絶対君主制を志向したが、貴族や聖職者の伝統的特権までには手を出せず、王権には一定の制約が残った。

1750年に即位した第五代国王のジョゼ1世は、“改革王”の異名を持つが、王自身は政治に無関心であり、後にポンバル侯爵に叙せられるセバスティアン・デ・カルヴァーリョに国政を委ねた。

ジョゼ1世
1773年の肖像画
カルヴァーリョはロンドン駐在のポルトガル大使を務めたことがあり、産業革命の成功ぶりに大きな刺激を受けていた。1755年に宰相の座に就くと、財政改革や工業化を推進。ジョゼ1世が“改革王”と呼ばれたのは、カルヴァーリョの活躍のおかげだった。

カルヴァーリョが後にポンバル侯爵に叙せられたから、こうした改革は“ポンバルの改革”と呼ばれ、伝統的に卑しい身分とされた“ブルジョアジー”(商工業者)の社会的地位も向上した。

“ポンバルの改革”が始まった矢先の1755年11月1日朝、大地震がポルトガル王国を襲った。震源はイベリア半島西南のサン・ヴィンセンテ岬から約200キロメートルの沖合で、マグニチュード8.5~9.0と推定される巨大地震だった。

カルヴァーリョ
後のポンバル侯爵
この地震の揺れは西ヨーロッパの広範囲で観測された。ポルトガル王国の首都であるリスボンは強烈な揺れが数分間にわたって続き、建物の8割以上が倒壊。約2万人が即死した。

その後、高さ15メートルほどの津波がリスボンに押し寄せ、さらに約1万人が犠牲となった。津波が引いた後は、大規模な火災が5日間も続き、リスボンは廃墟同然となった。当時のリスボンの人口は28万人弱だったが、この大震災で約9万人が死亡したと言われる。

炎と津波に襲われるリスボンを描いた銅版画 宰相のカルヴァーリョは、この“リスボン大地震”を運よく生き残り、震災対応で辣腕を振るった。消火隊を組織し、市街地を鎮火。疫病の発生を防ぐため、無数の遺体を沖合に運び、水葬に付した。これには聖職者が反対したが、カルヴァーリョは押し切った。略奪行為を防止するため、多くの絞首台を設置し、犯罪者を厳しく取り締まった。

テント生活を強いられるリスボンの被災者 ジョゼ1世は早朝にリスボンを離れており、馬車に閉じ込められたものの、無事だった。しかし、極度の閉所恐怖症となってしまい、壁のある部屋を恐れ、テントで暮らすようになったという。救出されたジョゼ1世は、カルヴァーリョの震災対応に感心し、より彼を信頼するようになった。

“ポルトガル海上帝国”の都である壮麗なリスボンの街は壊滅状態だった。大航海時代が始まったばかりの16世紀前半に流行した豪華な“マヌエル様式”の建物群は崩れ落ち、貴重な書物や絵画を焼失。ヴァスコ・ダ・ガマなど大航海時代を切り開いた航海者の記録も、ほとんどが失われた。

リスボン復興を誇るカルヴァーリョの絵画 カルヴァーリョは震災復興でも活躍した。ジョゼ1世が完璧な秩序のある街にこだわったことから、整然とした区画整理を実施。こうして “バイシャ・ポンバリーナ”という新しい街が完成した。“バイシャ”(下町)というものの、大きな広場や格子状の広い路地が特徴の優雅な街となり、新興階級のブルジョアジーが住むようになった。

建物には耐震性や耐火性を取り入れた。こうした建築は“ポンバル様式”と呼ばれ、欧州初の耐震建築だった。リスボンのがれきは1年も経たずに一掃され、後に“うるわしのリスボン”と呼ばれるほどの美しい街に変貌。ジョゼ1世は有能なカルヴァーリョをさらに信頼した。

カルヴァーリョの権力掌握

ジョゼ1世の暗殺未遂事件を描いた絵画 ジョゼ1世からの信頼を勝ち取ったカルヴァーリョは、大貴族からの反感を買った。カルヴァーリョも大貴族を“無能の集団”と見下していた。こうしたなか、1758年9月3日にジョゼ1世を狙った暗殺未遂事件が発生。ジョゼ1世は腕を撃たれたが、無事だった。

大貴族の処刑を描いた版画
欧州諸国で物議を呼んだ
この事件を契機に、カルヴァーリョは大貴族の粛清を始めた。逮捕した容疑者を拷問し、その自供を手掛かりに、大貴族を次々と処刑した。四肢切断や車裂きなど残虐な死刑を執行。さらに大貴族の財産は王室の名の下に没収し、彼らの邸宅は破壊され、その土地は塩漬けにされた。この時の残虐な死刑は欧州諸国で論争を呼び、後にカルヴァーリョが失脚する原因となった。

カルヴァーリョが次に標的にしたのが、イエズス会だった。王権を強化したいカルヴァーリョは、イエズス会もジョゼ1世の暗殺未遂事件に加担したと糾弾。1759年にイエズス会をポルトガル海上帝国の全域から追放すると決定した。

ポンバル侯のイエズス会追放
1773年の作品
イエズス会の追放は、その財産を没収することが目的だった。当時のイエズス会はポルトガル王国の財政を支えるブラジルで広大な土地を所有し、それを運用していた。そうしたブラジルの財産も没収し、これを現地のポルトガル人などに安価で払い下げることにより、新たなブルジョワジーを育成した。その一方でイエズス会が経営する学校も閉鎖に追い込まれ、ブラジルの教育界は深刻な影響を受けた。

イエズス会を追放するという命令は、1762年にマカオに届いた。マカオ政庁は聖ポール天主堂などイエズス会のマカオにおける財産を没収した。マカオにあったイエズス会の学校は閉鎖され、学生は離散。図書館に収蔵されていた貴重な書物は、二束三文で売却された。

リスボンのマルケス・デ・ポンバル広場
ポンバル侯爵の記念碑がそびえる
ポルトガル王国の経済発展を目指すカルヴァーリョは、ユダヤ系ポルトガル人(セファルディム)に対する制度的迫害を廃止。異端審問所を国家管理とし、ユダヤ教徒にもキリスト教徒と同じ法的権利を与えた。

絶大な権力を握ったカルヴァーリョは、“ポンバルの改革”を強化。イングランド王国の産業革命に倣った工業化を推進し、紡織産業の振興を図った。背景にはブラジルの黄金生産に陰りが見え始め、“コーヒーの時代”を迎えようとしていたことがあった。しかし、毛織物産業でのイングランド王国との競争は厳しく、ポルトガル王国の輸出品はワインだけという状況が長く続き、工業化の成果が出るには時間を要した。

イエズス会の苦難と復興

武士と談笑するイエズス会士
南蛮貿易はイエズス会の財源だった
1600年ごろの作品
ポルトガル王国によるイエズス会の追放に、宗教界は反発しなかった。この連載の第六十九回でも触れたが、イエズス会は異国での宣教活動を支援するため、商売にも携わっていた。南蛮貿易では“プロクラドール”と呼ばれる財務担当者をマカオに置き、中国産生糸の対日輸出で稼いでいた。

こうした商業行為は“拝金主義”として他のキリスト教団体ばかりでなく、身内のイエズス会からも批判があった。それ以前にも、イエズス会は中国での宣教活動をめぐる“典礼論争”で、他のキリスト教団体や教皇庁ともめており、宗教界からの同情は少なかった。

当時の欧州諸国はナショナリズムと王権強化が盛んであり、教皇に忠誠を誓ってグローバルに活動するイエズス会は、多くの国にとって目障りな存在だった。ポルトガル王国がイエズス会を追放すると、南欧諸国もこれに追随。さらにイエズス会を禁止するよう教皇に圧力をかけた。

クレメンス14世
イエズス会の解散を命令
欧州諸国との関係修復を望んだ教皇クレメンス14世は、1773年にイエズス会の解散を命じた。しかし、ロマノフ朝ロシア帝国の第八代皇帝エカチェリーナ2世は、イエズス会を高く評価しており、解散命令を拒否。イエズス会はロシア帝国で細々と存続することになった。イエズス会は1814年に教皇ピウス7世によって復興が許可され、今日に至る。

なお、2013年にイエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、第266代教皇に就任し、“フランシスコ”と名乗った。イエズス会の出身者が教皇に就任するのは史上初。フランシスコと名乗る教皇も、彼が初めてだった。弾圧された歴史を持つイエズス会にとって、フランシスコ教皇の誕生は驚きだったという。

フランシスコ教皇
(2021年)
フランシスコ教皇はイタリア系アルゼンチン人。史上初の新大陸出身の教皇であり、欧州以外の出身者が就任するのも、1272年ぶりの出来事だった。フランシスコ教皇は“初めて尽くしの教皇”だ。2013年にローマの少年院で、“洗足式”を行った。教皇が足を洗ってあげる収容者には、イスラム教徒もいた。教皇による洗足式が、“少年院”で行われることや“異教徒”を対象にするのも、これが史上初だった。

フランシスコ教皇の紋章
中央に“太陽の紋章”
イエズス会出身を表す
2019年にフランシスコ教皇はアラブ首長国連邦(UAE)を訪問。イスラム教の発祥地であるアラビア半島を教皇が訪問するのは、これが初めてだった。2021年には教皇として初めてイラクを訪問した。

イエズス会はポルトガル王国から追放されたことを機に、苦難の時代を味わったが、ついに教皇を世に送り出した。フランシスコ教皇は就任後の記者会見で、「“クレメンス15世”と名乗るべきと知人に言われました。イエズス会を弾圧したクレメンス14世に仕返しできるからだそうです」と冗談を言った。

カルヴァーリョの失脚とマリア1世の疾患

ポルトガル王国の改革を進めたカルヴァーリョは、1770年にポンバル侯爵に叙せられ、栄達を極めた。だが、1777年2月にジョゼ1世が崩御し、娘のマリア1世がポルトガル王国で初の女王として即位すると、カルヴァーリョは解任された。

マリア1世の肖像画
1777年の作品
マリア1世はカルヴァーリョによる残忍な大貴族粛清を忘れておらず、イエズス会にも同情的だった。これを背景に、マリア1世はカルヴァーリョを毛嫌いしており、解任した後も、女王から20マイル以内に立ち入らないよう勅令を下したほどだった。

マリア1世は1760年に、ジョゼ1世の弟であるペドロ3世と結婚。マリア1世は25歳で、ペドロ3世は43歳だった。こうした叔父と姪の叔姪婚(しゅくてつこん)は、欧州の王族にしばしばみられる。ただ、これを近親婚として扱い、禁じている国も多い。

摂政ジョアン王子
後のジョアン6世
1788年の作品
43歳で女王となったマリア1世は、身内の不幸が続いた。1781年に母が死去。1786年にはアリア1世の“せん妄”が確認され、同じ年に夫のペドロ3世が亡くなると、症状が悪化した。1788年には王太子だった長男のジョゼが天然痘を患い、27歳で夭折した。

こうした出来事が発端となり、1791年にマリア1世は“大うつ病性障害”(MDD)と診断され、1792年からは三男のジョアン王子が摂政を務めることになった。なお、マリア1世の二人の姉妹も精神を病んでおり、王室で近親婚が続いたことがMDDの原因という見方もある。

なお、マリア1世の治世で、マカオでは1784年に“政治改革”が実施された。マカオ総督の権力を強化し、議会(レアル・セナド)の決議に対する拒否権も付与。市民兵の部隊を解散し、銃と大砲で武装したインド兵部隊を配置した。マカオの財政についても、議会による運営を廃止し、マカオ総督と裁判官による監査に切り換えた。

フランス革命とナポレオンの台頭

マリア1世の治世は、混乱の時代だった。1789年7月14日にフランス革命が勃発。ブルボン朝フランス王国は絶対君主制の放棄を余儀なくされ、第五代国王のルイ16世は1791年9月4日に憲法を承認。フランス王国は立憲君主制へ移行した。欧州の諸王国は、反革命の立場を相次いで表明し、フランス革命への干渉を始めた。

中央の人物はルージェ・ド・リール大尉
“ラ・マルセイエーズ”の作詞作曲者
こうした情勢を受け、フランス立法議会は1792年4月20日、王妃マリー・アントワネットの祖国であるハプスブルク帝国(オーストリア)に宣戦布告。“フランス革命戦争”が始まった。

1792年7月11日にフランス立法議会は“祖国は危機にあり”と宣言。これに応じてフランス各地から義勇兵がパリに集まった。この時、マルセイユからの義勇兵が歌っていた軍歌が広まり、“ラ・マルセイエーズ”という名の国歌となった。

“8月10日事件”を描いた絵画
テュイルリー宮殿カルーゼル広場の戦闘
フランス革命戦争はフランス軍の劣勢で始まったが、これはルイ16世夫婦が外国に内通していることが原因であると、民衆や義勇兵は考えた。怒りに燃える民衆と軍隊は、1792年8月10日にルイ16世一家の身柄を拘束。この“8月10日事件”を機に王権は停止され、1792年9月21日に国民公会による“フランス第一共和政”が始まった。これはフランス史上初の共和政体だった。

軍隊に入る市民を描いた当時の風刺画 フランス軍の劣勢が続くなか、1793年1月21日にルイ16世が処刑された。これを機に周辺諸国で“反フランス革命”の動きが拡大。窮地に陥ったフランス国民公会は、この年の8月23日に“国家総動員”を発令し、徴兵制度を施行した。これにより新たに120万人がフランス軍に加わった。

“国民皆兵”という近代的な徴兵制度は、この時に始まった。それまでの戦争は、正規軍や傭兵が担うものであり、国民の義務ではなかった。しかし、国家を支配した王権が消滅し、国民が主権者の“国民国家”になると、“兵役は国民の義務”という論法が成り立つ。容易に使える銃や大砲が発達したことで、国民皆兵という考えは実現可能となっていた。

第一統領ナポレオンの肖像画 徴兵制度の導入により、フランス軍は戦況の巻き返しに成功する。だが、これ以降の世界では徴兵制度によって戦争の規模が拡大。やがて国力を総動員した“総力戦”の時代を迎え、ついには世界大戦に至る。そうした意味でフランス革命戦争は、“人類の悲劇”の始まりだった。

このフランス革命戦争で台頭したのが、“若き英雄”として人気を集めたナポレオン・ボナパルトだった。フランス国民公会は1795年10月26日に解散し、この年の11月2日からフランス総裁政府が政治を担っていたが、ナポレオンは1799年11月9日に軍事クーデターを決行。これに成功したナポレオンは、統領政府を樹立し、自ら第一統領(第一執政)に就任した。こうしてフランス第一共和政は、ナポレオンの独裁体制となった。

皇帝ナポレオン1世の戴冠式を描いた作品 こうしてフランス革命戦争に始まった欧州の戦乱は、“ナポレオン戦争”と呼ばれる局面に入った。ナポレオンは1804年5月18日の元老院の決議で“終身の第一統領”となり、国民投票を経て、1804年12月2日に“フランス人民の皇帝”に即位。こうしてフランス第一共和政は崩壊し、“フランス第一帝政”が始まった。

フランス軍のポルトガル侵攻

ナポレオンの“フランス帝国”に対し、ポルトガル王国は中立を宣言していた。一方、ポルトガル王国との同盟関係にある英国は、フランス帝国と敵対関係にあった。

産業革命が進行中の英国を経済的に封じ込めようと、フランス皇帝ナポレオン1世は1806年11月21日に“大陸封鎖令”を発令。これに参加するようフランス帝国は欧州諸国に求めたが、英国との同盟関係にあるポルトガル王国は、これを渋った。

ナポレオン1世は大陸封鎖令に参加しないポルトガル王国への侵攻を決意した。フランス帝国による軍事侵攻が迫るなか、ポルトガル王国の摂政であるジョアン王子は、脱出の準備を進めた。

ポルトガル王室の脱出を描いた1810年の絵画 ポルトガル王国を統治する摂政政府を組織したジョアン王子は、女王マリア1世をはじめとする王族や高級官僚など1万人以上を率い、1807年11月に事実上の植民地であるブラジル公国へ脱出。その直後にフランス軍がポルトガル王国の首都リスボンに進駐した。

ポルトガル王室の脱出劇は、ナポレオン1世にとって大誤算だった。これによりポルトガル王室は海外領土の運営が継続でき、それがナポレオン1世を追い詰めることつながったからだ。

リオ・デ・ジャネイロの宮廷を描いた風刺画
ブラジルの人々がジョアン王子に拝謁する様子
リスボンを脱出したジョアン王子とマリア1世は、1803年3月にリオ・デ・ジャネイロに到着。このブラジル公国の中心都市が、ポルトガル王国の首都となった。これは史上初の旧大陸から新大陸への遷都だった。これを機にリオ・デ・ジャネイロの人口が増加し、文化水準も向上した。

半島戦争の“ヴィメイロの戦い”(1808年)
英国軍とポルトガル軍がフランス軍に勝利
ポルトガル王国では、1808年7月にアーサー・ウェルズリーが率いる英国軍が上陸し、フランス軍を撃破した。英国軍とポルトガル軍は、フランス軍と一進一退の戦いを続け、やがて戦況は泥沼化した。

この“半島戦争”は1814年まで続いた。英国軍はポルトガル王国やスペイン王国の民兵を支援。非正規兵による戦法は、スペイン語で“ゲリーリャ”(小さな戦争)と呼ばれ、これが“ゲリラ”の語源となった。イベリア半島は荒廃し、ポルトガル王国の経済構造は破壊された。

王の帰還とブラジル独立

半島戦争でポルトガル王国が荒廃するなか、王室が移転したブラジル公国は、あたかも宗主国のようになった。英国軍は半島戦争の終結後も、ポルトガル王国に残留し、大きな権限を振るった。ポルトガル王国は英国の保護国のような状態でもあった。

ポルトガル・ブラジル連合王国の領土(緑色) ブラジル公国は地位が高まり、王国に昇格。1815年12月に大西洋をまたぐ“ポルトガル・ブラジル連合王国”が誕生した。1816年3月にマリア1世はリオ・デ・ジャネイロで崩御。摂政のジョアン王子が“ジョアン6世”として連合王国の王座に就いた。

1820年にポルトガル王国の港湾都市ポルトで、反英国と自由主義を求める革命が勃発し、全国に広がった。その結果、英国軍は撤退し、ポルトガル王国への不介入を決めた。

ジョアン6世のリスボン帰還を描いた作品 革命派は本国であるはずのポルトガル王国が植民地のような扱いを受けている現状を改めるため、リオ・デ・ジャネイロのジョアン6世に対し、リスボンへの帰還を要請。さらにブラジル王国を公国に格下げすることも要求した。

これに応じ、ジョアン6世は1821年にポルトガル王国へ帰国した。王位継承者のペドロ王子は、ブラジル王国の摂政としてリオ・デ・ジャネイロに残留した。

リスボンへの帰還を果たしたジョアン6世は、1822年に議会が起草した憲法の遵守を約束。こうしてポルトガル王国は、絶対君主制から立憲君主制へ移行することになった。だが、ジョアン6世とともにリスボンへ帰還したミゲル王子は、絶対君主制の信奉者だった。

21歳のミゲル王子
1823年の作品
革命派との誓約を守ろうとするジョアン6世に対し、ミゲル王子は1823年に反乱を決行。ジョアン6世は捕らえられ、幽閉された。このクーデターに、リスボン駐在の外交使節が介入し、ジョアン6世を救出。英国船に保護されたジョアン6世は、ミゲル王子を罷免した。その結果、ミゲル王子はオーストリアのウィーンに亡命した。

一方、摂政としてリオ・デ・ジャネイロに残留していたペドロ王子は、1822年10月に“ブラジル帝国”の皇帝ペドロ1世として即位。ブラジルの独立を宣言した。ブラジル帝国の成立は、現地の支配層がペドロ1世を擁立することで実現した。彼らはブラジル王国が再び植民地である公国に格下げされることを恐れ、独立を目指した。

ブラジル皇帝ペドロ1世
1826年の作品
こうして“ブラジル独立戦争”が始まり、ブラジル軍とポルトガル軍は1823年11月まで戦闘を繰り広げた。1825年に英国がブラジル帝国の独立を承認すると、これにポルトガル王国も追従。ポルトガル王国は“富の源泉”だったブラジルを喪失した。その翌年の1826年3月にジョアン6世は崩御した。

なお、ポルトガル王国での自由主義革命は、マカオにも飛び火した。マカオ生まれのポルトガル人は、主に自由主義革命を求め、立憲君主制を支持した。一方、貴族を中心としたマカオの官僚は、既得権益の源泉である絶対君主制を擁護した。

マカオ市民は憲法の遵守を官僚に求め、双方の対立は1822年8月に頂点に達した。マカオでは1784年の政治改革で、総督の権限が強化されていた。しかし、議会は最終的にマカオの政治体制を1784年以前の状態に戻すと決議。マカオ総督の権限は剥奪され、自由主義者が勝利した。

二人のポルトガル王

ジョアン6世が崩御すると、王位継承者であるブラジル皇帝ペドロ1世は、“ポルトガル国王ペドロ4世”として即位。しかし、すでにブラジル皇帝であったことから、わずか2カ月あまりで、王位を当時7歳の娘マリアに譲った。こうして1826年5月にブラガンサ朝ポルトガル王国の第九代国王として、女王マリア2世がリオ・デ・ジャネイロで即位した。

ブラジル皇帝のペドロ1世は、ウィーンに亡命した弟のミゲル王子との関係修復を図った。自由主義に基づく立憲君主制を前提に、ミゲル王子にマリア2世の摂政に就任するよう打診。さらにマリア2世が成人した後、彼女と結婚することも約束した。こうして1828年2月にミゲル王子はリスボンに帰還した。

マリア2世
1829年の作品
当時のリスボンは、絶対君主制の信奉者と自由主義者が入り混じっていた。絶対君主制の信奉者は摂政のペドロ王子を擁立し、ポルトガル国王に即位させることを画策。ミゲル王子は絶対君主制の信奉者だったことから、その流れに乗り、1828年7月に絶対君主として即位。“ポルトガル国王ミゲル1世”を僭称し、自由主義者を弾圧した。

こうしてポルトガル王国は、マリア2世とミゲル1世の二人が国王を名乗る状況となった。ブラジル皇帝のペドロ1世は自由主義を信奉しており、事態を収拾するため、ポルトガル王国への帰国を決断。1831年4月にブラジル皇帝の座を当時5歳の息子ペドロ2世に譲り、英国の軍艦でポルトガル王国に向かった。

なお、マカオでは自由主義者が政治を握っていたが、ポルトガル王国でミゲル1世が王を僭称すると、絶対君主制の擁護者たちも息を吹き返した。マカオ総督は自由主義者を弾圧し、絶対君主制の擁護者たちは歓呼した。こうしてマカオの民主化運動は頓挫した。

ポルトガル内戦

ポルトガル内戦の風刺画
王位をめぐり争うミゲルとペドロ
“兄弟戦争”には外国の後ろ盾が
1833年の作品
ブラジル皇帝の座を捨てたペドロは、英国で遠征軍を組織。大西洋のアゾレス諸島で自由主義者と合流すると、1832年7月に港湾都市ポルトの近郊に上陸した。こうして“自由戦争”、“兄弟戦争”などと呼ばれる“ポルトガル内戦”が本格化した。

ペドロの軍は約1年間にわたりポルトで包囲された。しかし、英国軍がペドロを支援し、巻き返しに成功する。ミゲル1世の軍は敗退。1834年5月26日に交わした協定でミゲル1世は退位を強制され、再び外国に亡命。二度とポルトガル王国に帰国することはなかった。

1835年のマリア2世を描いた肖像画 マリア2世は1833年9月にリスボンに入城しており、1834年9月には議会からも王位を承認された。同じころに、父のペドロも死去。名実ともにマリア2世の時代が到来した。

ポルトガル内戦は自由主義者の勝利で終結。絶対主義の信奉者だった修道院や修道会などは、財産を没収された。だが、ブラジルを失ったポルトガル王国の財政には、戦争にともなう外国からの借款が重くのしかかった。勝利した自由主義者も経済的に報われず、内戦で活躍した軍人も見返りが少なく、政府への不満が高まった。

こうした状況を背景に、立憲君主制のポルトガル王国では、1830~1840年代に民衆の反乱や軍人の専横、それにクーデターがしばしば発生した。マリア2世の時代になっても、ポルトガル内戦の余波が続いた。

マカオに再注目

南蛮貿易が終了した後のポルトガル王国は、前述のように西洋のブラジルに関心が移り、東洋のマカオは半ば放置された。ポルトガル王国はリスボン大地震で甚大な被害を受け、復興後も半島戦争や内戦で国土が荒廃。富の源泉だったブラジルも、結局は失った。

61歳のペドロ2世(1887年) なお、ペドロ2世が統治するブラジル帝国は、1889年のクーデターで崩壊。共和制の“ブラジル合衆国”に移行した。ペドロ2世は欧州に亡命した後、1891年にパリで死去。ポルトガル王室とブラジルの縁も、完全に断たれた。

こうした歴史を背景に、ポルトガル王国はマカオにかまう余裕がなかった。だが、1840年に勃発したアヘン戦争の結果、1842年の“南京条約”で英領香港が発足すると、これにポルトガル王国は刺激を受け、その視線は再び東洋のマカオに向かった。

清王朝の衰退を確認したポルトガル王国は、居留地のマカオを植民地化する計画を推進。約2世紀にわたる衰退期を経て、マカオは再び活性化することになる。次回は再活性したマカオに話を進める。ただ、その前に今回の締めくくりとして、マカオの再活性ぶりと現状を簡単に紹介しよう。

マカオの人口は2021年末で推計68万3,200人であり、1839年の54倍ということになる。このマカオを訪問する域外からの旅行者は、コロナ禍前の2019年で年間延べ3,940万6,200人。これは2019年末の人口の58倍に相当する。

大勢の客でにぎわうコロナ禍前のカジノ
マカオの米国系カジノ会社サンズ・マカオ(金沙中国)
域外からの旅行者の目的は、言うまでもなくカジノだ。2021年末の労働人口は38万9,900人、就業者数は37万8,400人。うちカジノ関連の従業員は7万8,100人に上り、就業者の21%を占める。カジノ産業との関わりが深いホテル・外食産業の就業者は5万300人、小売業では3万3,000人だった。

マカオ政府の歳入は、コロナ禍前の2019年で1,407億3,020万パタカ。うちカジノ・ギャンブルからの収入は1,127億1,036万2,000パタカで、歳入の80%を占めている。

現在のマカオの人口は黄金時代を凌駕するが、その基盤はカジノ産業であり、コロナ禍では厳しい状況にある。2020年のカジノ・ギャンブル収入は前年比74%減の298億816万パタカに過ぎず、歳入に占める割合も29%に落ち込んだ。

コロナ禍で明かりが消えたマカオのカジノ・リスボア カジノの街に変貌した現在のマカオは、一見すると空前の繁栄ぶりだが、その基盤がもろいことは、昔の黄金時代と変わりない。“上陸できる”ということしか長所がないマカオの価値は、周辺環境や国際情勢に合わせた活用法で決まるからだ。

新型コロナウイルスのパンデミックという未曽有の事態を受け、マカオを取り巻く環境は劇的に変化した。中国本土が“ゼロコロナ政策”を続けるなか、カジノ産業に大きく依存するマカオは、かつてない試練を迎えている。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は12/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
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  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに