中華人民共和国の建国35周年を控えた1984年、かつての金融の街だった上海市は、すっかり社会主義国家の都市に変貌。人々は株式とは無縁の生活を送っていた。さまざまな悲劇を生んだプロレタリア文化大革命(文革)が終結してから数年が経ったが、その傷跡は大きい。建国前の状況を知っている年配者は、昔の繁栄をいっそう懐かしく感じていた。
にぎやかだった金融街の思い出話には、股票(株券)がつきものだが、当時の若者にはよく分からなかった。決して帰らぬ日々の話など、若者にとっては退屈だったかもしれないし、国是の社会主義を否定するように聞こえたかも知れない。だが、こうした年配者の話が、未来を背負う世代の助けとなった。
その年、テレビ用スピーカー部品を製造する上海飛楽電声総廠の工場長に、43歳の秦其斌さんが就任した。上海市の名門大学として知られる復旦大学を卒業した秦さんは、工場のトップに抜擢されたことを受け、何か新しいことにチャレンジする気概に満ちていた。そこで目を付けたのが、当時流行していた音楽喫茶だった。
「テレビ用スピーカー部品を作れるなら、ステレオスピーカーだってできる。音楽喫茶の店に売れるぞ!」――。そこで秦さんは新会社の「上海飛楽音響公司」を設立する構想を打ち立てた。しかし、資金がなかった。
思い出話が助け舟に
当初は従業員から資金を集めようとした秦さんだが、ある集会への参加をきっかけに、考えを改めた。その集会には中華人民共和国の建国以前から働いていた年配者が多く、そこで秦さんは初めて“株券”という言葉を耳にした。
「株券を発行して資金を集め、それで会社を作る。会社は株券に応じて配当金を分配する……」――。秦さんが理解したのはその程度だったが、この偶然に得た知識は魅力的であり、活用しない手はないと思った。年配者の思い出話が、壮年の秦さんを助ける格好となった。
「従業員は企業と命運を共にする」という口説き文句を使って上司を説得し、株券発行計画は許可された。さらに秦さんは念には念を入れ、中国共産党の上海市委員会に電話し、株式制の導入構想を伝えた。
「君たちの考えはとても素晴らしい。できれば、報告書を出してくれないか?」と、電話の声は非常に前向きだった。これ以降、上海市委員会の幹部だった呉邦国や黄菊が、たびたび上海飛楽電声総廠を訪問するようになった。こっそりと工場を訪れる姿は、まるで秘密工作員のようだったという。なお、2003年に呉邦国は全国人民代表大会常務委員会の委員長に選出される。同じ年に黄菊も副首相に選ばれた。
内輪の話が大騒ぎに
上海の人気夕刊紙「新民晩報」の記者だった潘新華さんは、秦さんが株式発行を計画していることを聞きつけた。そこで、秦さんに会って「株式を発行して資金を集める計画だそうですが、本当ですか?」と質問。秦さんからの返事は「そうですよ」だった。
そこで潘さんは一歩踏み込んだ質問をした。「じゃあ、“社会”に向けて発行するのですか?」――。秦さんは深く考えず、「そうですよ。“社会”に向けて発行しますよ」と答えた。
だが、二人が言う“社会”の認識はまったく異なるものだった。秦さんが言う“社会”は、「従業員、兄弟企業、銀行からなる内輪の社会」を意味していた。だが、潘さんは個人から成り立つ一般社会と理解していた。二人の認識がすれ違ったまま、1984年11月15日付の紙面に「上海飛楽音響公司が18日に開業、個人や団体による株券購入を受け入れ」という記事が掲載された。
記事は百数十字ほどの小さなものだったが、その反響は大きく、上海飛楽電声総廠や新聞社の電話が鳴りやまなかった。すべて株券の購入方法に関する質問だった。あまりの反響に、秦さんや「新民晩報」の重役は驚いた。35年も眠っていた上海の投資家たちが、一斉に目を覚ましたようだった。
「誤報になったら困ります。新聞社の名誉のために、少しでも良いから、社会に向けて発行してください!」――。「新民晩報」の重役からの電話だった。「そんなつもりは、なかったのに……」と、秦さんはぼやいたが、後の祭りだった。秦さんの計画は、多くの市民を巻き込んだ一大イベントとなってしまった。
本当の株券が誕生
飛楽音響の株券 中国人民銀行(中央銀行)の上海支店の承認を受け、上海飛楽音響股份有限公司(飛楽音響)の株券発行が決まった。株券の額面は50元。1万株を発行し、50万元に上る資本金を集めることになった。株券の35%は法人が購入し、65%が一般の個人投資家などに販売された。
飛楽音響の株券購入で長蛇の列 一般向けの販売を引き受けたのは、中国工商銀行上海信託投資公司静安分公司(上海工商信託静安公司)。そこから派遣された2人の職員が上海飛楽電声総廠の守衛室に入った。長い行列を作った投資家から払込金を受け取り、株券を手渡しした。その光景は映画館のチケット販売のようだった。人々は親しみを込めて、その株券を“小飛楽”と呼んだ。
飛楽音響は上海市で初めての株式会社となった。その株券は“疑似株券”とは違い、償還期限はなく、売却することも可能。それは“本当の株券”だった。株券の発行は成功し、資本金の調達が完了。1984年11月18日に飛楽音響の設立大会が行われることになった。
呉邦国のスピーチ
呉邦国(2009) 株式制の導入をめぐっては、国の方針が定まっていない。“後ろ盾”が欲しい秦さんは呉邦国の自宅を訪れ、設立大会への出席をお願いした。呉邦国は快く応じた。さらに黄菊など市の幹部に電話を入れ、「みんなで設立大会を盛り上げてくれないか?」と出席を促してくれた。この光景に秦さんは勇気づけられた。
設立大会は上海市の有名クラブで盛大に開かれた。上海市政府の要人が多数出席し、記者も集まった。この舞台で呉邦国が株券や株式制を認めてくれることを秦さんは願っていた。だが、呉邦国のスピーチは飛楽音響を励ます内容に終始。株券や株式制に一言も触れなかった。
呉邦国はあえて政治的に敏感な言葉に触れず、設立大会の出席という実際の行動で、飛楽音響と株式制を承認した。これが老練な政治家のやり方だった。ただ、秦さんには伝わらなかった。言葉による保証を期待していた秦さんは、一転して不安のどん底に沈んだという。
落とし穴
株券の発行と株式会社の設立は大成功。しかし、後に大きな落とし穴があったことが判明した。設立大会の前に、秦さんは営業許可証を取得するため、上海市工商行政管理局で会社登記したが、その内容が問題だった。
「あんたたちの所有制は何かね?」――。工商行政管理局の職員は怪訝そうな目つきで、秦さんを見つめた。そうした問題に疎い秦さんは、素直に「株式制です」と答えた。
その正直な答えに対し、「株式制だと?株式制なんてものは存在しない!」と、怒りの声が返ってきた。こうした会社登記の問題は、北京市でも起きていた。この連載の第三回で紹介した天橋百貨のケースだ。天橋百貨の時は工商行政管理局の協力もあり、「国営、集団、個人自営業の共同経営」というイレギュラーな登記で乗り切った。だが、秦さんは工商行政管理局への根回しを忘れていた。
「国営でもないし、自営業でもないので、集団所有制ということでお願いします」と、秦さんは深く考えずに届け出た。
1986年に入り、飛楽音響は初めての配当を提案。株主総会で1株あたり35元の現金配当が承認された。株主は1株あたりの配当金から15元を拠出し、新株1株を購入することも決まった。
現金配当と新株の発行は無事に完了。しかし、飛楽音響の財務諸表をチェックした税務署から、査察チームがやって来た。「お前たちは国有財産を私物化した!」という何とも恐ろしい言葉が、秦さんに投げかけられた。
「わたしたちは国営企業ではありません」と秦さんは説明したものの、「集団所有制の財産もすべて国家のものだ!それを個人で分け合うことは許されない!」という厳しい答えが返ってきた。「集団所有制」と届け出ていた秦さんは査察チームに言い返せず、罰金を支払うことになってしまった。
何とも後味の悪いことになったが、その後、株式会社の配当が国有財産の私物化と言われることはなくなった。“本当の株券”の第一号となった“小飛楽”は、さまざまなドタバタを経て誕生した。
飛楽音響は上海証券取引所が開業した1990年12月19日に上場(証券コード:600651)。2016年末時点でも社名は変わらず、「上海飛楽音響股份有限公司」のままだ。社名に「音響」という文字があるものの、事業の中心はLED照明などに変わっている。昔の社名にこだわるのは、中国株第一号としての誇りがあるからだろう。