ポルトガル共和国が統治するマカオは、賭博、麻薬、売春、人身売買でにぎわう“ヴァイス・シティ”(悪徳の都)だった。第二次世界大戦が勃発すると、マカオは東アジアで唯一の中立地帯として、危ういながらも、大きな戦火を免れる。こうしたなかで、マカオ政庁のペドロ・ホセ・ロボや中国人の“三大家族”などの“現地人勢力”が台頭。戦後の彼らはやがてポルトガル人の総督さえも凌ぎ、“真の統治者”としてマカオを牛耳ることになる。四世紀を超えたポルトガル人による統治は、黄昏を迎えようとしていた。
第二次世界大戦とマカオ
サラザール首相
(1939年)
ポルトガル共和国は1933年に憲法を改正し、第二共和政をスタートさせた。それはアントニオ・オスカル・カルモナ大統領という“お飾りの元首”の下で、独裁者のアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール首相が国家を統制するファシズム体制だった。
このファシズム体制は“新しい国家”(エスタド・ノヴォ)と呼ばれ、“神、祖国、そして家族”をスローガンに、カトリック信仰、ナショナリズム、伝統的価値観に基づく政策を推進した。
サラザール首相が率いるエスタド・ノヴォ体制のポルトガル共和国は、第二次世界大戦が始まると中立を宣言した。連合国と枢軸国のどちらか一方につくと、もう一方からの攻撃に遭うという地政学的リスクが、中立を選んだ背景にあった。
深圳河を越えて中国本土から英領香港に侵攻する日本軍
(1941年12月)
日本軍は1941年12月8日に英領香港への攻撃を始めたが、ポルトガル共和国が中立国だったことから、マカオは放置した。マカオは狭いうえに、大型軍艦の停泊が不可能だったことから、戦略的価値が乏しいという事情もあった。
マカオの慈善団体“同善堂”と難民児童の記念写真
資金不足で難民児童への食料配給は一時停止に追い込まれた
(1943年10月1日)
マカオでは第二次世界大戦が始まる前から、人口が増加の一途だった。原因は1937年7月7日の“盧溝橋事件”で勃発した日中戦争。中国本土からの難民が、マカオに流入し続けていた。
1941年12月25日に英領香港が陥落すると、マカオに逃れる難民が激増。人口は倍以上に膨らみ、約70万人に達したと言われる。
危うかったマカオの中立
ポルトガル共和国の海外領土が、すべてマカオのように無事だったというわけではない。1942年2月に日本軍はインドネシアのポルトガル領ティモール(現在の東ティモール民主共和国)に侵攻。背景には連合国側のオランダ軍とオーストラリア軍が、1941年12月からポルトガル領ティモールを占領していたことがあった。
“ティモールの戦い”で村を焼き払うオーストラリア軍
理由は日本軍の基地となる危険性があったためと説明。
(1942年12月12日)
ポルトガル共和国のサラザール首相は、オランダ軍とオーストラリア軍によるティモール占領に抗議していた。こうしたなかで起きたのが、日本軍のティモール侵攻だった。“ティモールの戦い”は1943年2月まで続き、ポルトガル領ティモールは日本軍の統治下に入った。
このようにポルトガル共和国は中立国だったが、その海外領土に戦火が及ばないという保証はなかった。日本軍はマカオに侵攻しなかったが、中立の維持は“綱渡り”のような状況だった。
実際、マカオ政庁が実質統治していたラパ島(湾仔島)、ドン・ジョアン島、モンターニャ島(横琴島)は、日本軍に占領された。さらに日本軍はマカオに領事館を設置し、抵抗活動を続ける中国人などを弾圧。日本領事はマカオ総督の特別顧問となり、マカオ政庁を監視下に置いた。こうした状況を背景に、終戦間際にはマカオに置かれた日本軍施設に対する米軍の空襲もあった。
戦時下のマカオと若き日のカジノ王
ペドロ・ホセ・ロボ 戦時中のマカオで最大の問題は、人口の激増にともなう食料難だった。この難題に取り組んだのが、この連載の第七十三回でも紹介したマカオ政庁のペドロ・ホセ・ロボだった。
マカオ政庁の中央経済サービス局で局長を務めていたペドロ・ホセ・ロボは、マカオ域内の食料を民間からすべて買い上げ、公的物資とした。こうした手法で、食料供給の統制を図ろうとしたが、難民が増え続け、公的物資の食料はやがて底をついた。
こうした苦境を背景に、ペドロ・ホセ・ロボはマカオ政庁を代表して、日本軍と取引した。食料と引き換えに、マカオ政庁は戦略的価値のある物資や施設を日本軍に差し出すことになった。
前列中央の人物が何東
後列左がスタンレー・ホーの祖父である何福
日本軍とマカオ政庁の取引を管理するため、マカオ協同会社(CCM)が設立された。CCMへの出資比率は、マカオ政庁、日本軍が33.3%ずつ。残りは英領香港からマカオに逃れた富裕層たちだった。この連載の第五十三回で紹介したユーラシアン(欧亜混血)の何東(ロバート・ホートン)もマカオに逃れており、CCMに大きく出資していた。
少年時代のスタンレー・ホー(中列左二) 後に“マカオのカジノ王”と呼ばれるスタンレー・ホーは、何東の弟の孫であり、このCCMで働いていたと言われる。CCMを通じてマカオの食料事情は改善されたうえ、何東をはじめとする富裕層たちも大儲けしたという。
スタンレー・ホーは10歳だった1932年に、英領香港の名門校“皇仁書院”(クイーンズ・カレッジ)に入学した。前途洋々のスタンレー・ホーだったが、1934年に父親の何世光が株式投機で破産し、一家でベトナムに夜逃げする羽目となった。
この時に味わった貧困生活をバネに、優秀な成績で大学進学の奨学金を獲得。1939年に香港大学に入学した。だが、在学中の1941年12月8日に日本軍が英領香港に侵攻し、スタンレー・ホーもマカオに逃れた。
スタンレー・ホーと黎婉華 CCMで働くようになったスタンレー・ホーは、若さと知力を武器に、危険な任務を次々とこなした。日本語も習得し、日本人の上司にも気に入られたという。二十歳なった1942年には、“マカオで一番の美女”と名高かったクレメンティナ・アンジェラ・デ・メロ・レイタオン(中国名:黎婉華)と結婚した。
マカオで成功したスタンレー・ホーは、1950年代に英領香港に戻り、不動産業などで活躍。香港屈指の富豪となった。その元手となる資金は、戦時中のマカオで築かれた。
マカオ三大家族
スタンレー・ホーは後に“マカオのカジノ王”と呼ばれるが、彼の家族はマカオの“望族”ではない。この連載の第五十三回でも紹介したが、“望族”とは名声と人望を集める一族を意味する。マカオには“カジノ王”とは別に、“三大家族”と呼ばれる“澳門望族”が存在した。
毛沢東と会見する何賢(右) マカオの三大家族とは、何賢に始まる“何家”、馬万祺に始まる“馬家”、崔徳祺に始まる“崔家”を指す。この三大家族も戦時中のマカオで発展した。
何賢は戦時中に英領香港からマカオに逃れ、金融業で成功。マカオの中国人社会で名声を高めた。戦後は当初こそ国民党に協力していたが、後に中国共産党(共産党)を支持。1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、その年の10月に中国人民志願軍が参戦すると、何賢は海外の戦略物資をマカオ経由で中国本土に供給した。
鄧小平と会談する馬万祺(右)
(1984年)
こうした活躍を受け、何賢は1956年に中国人民政治協商会議全国委員会(全国政協)の特別招聘委員に就任。北京市で毛沢東と会見し、関係を深めた。何賢は後に“影の総督”、“マカオ王”と呼ばれ、マカオ政庁を動かす実力者となった。
馬万祺も戦中はマカオに逃れていた人物であり、何賢とともに金融業で活躍した。一方、崔徳祺はマカオ出身であり、広東省広州で建築を学んだ後、1939年に帰郷。マカオの建築業界で活躍し、慈善活動や芸術活動などで名を馳せた。
同善堂の理事を務めた晩年の崔徳祺(右一)
(2003年9月)
三大家族はマカオの政財界で大きな権勢を有し、それは今日まで続いている。1999年12月20日にマカオ特別行政区が発足し、初代行政長官に就任したのは、何賢の息子である何厚鏵(エドムンド・ホー)だった。二代目行政長官の崔世安(フェルナンド・ツイ)は、崔徳祺の甥に当たる。
中華民国のマカオ封鎖
1945年のマカオ 1945年8月に大日本帝国が無条件降伏し、第二次世界大戦が終結した。蒋介石が率いる中華民国の国民政府は、1945年11月にマカオを封鎖。“マカオ回収”を狙い、食料供給を遮断したうえで、軍事的圧力を加えた。
この封鎖を受け、マカオ社会は食料価格が暴騰するなどの大混乱に陥った。しかし、国際情勢は米国とソビエト連邦(ソ連)の東西対立に向かっており、中国も蒋介石の中国国民党(国民党)と毛沢東の共産党による内戦の前夜だった。
こうした国内外の情勢を背景に、蒋介石はマカオ回収について、時期尚早と判断。1945年12月にマカオの封鎖は解除された。
マカオと共産党
この連載に何度も登場した廖承志は、1938年1月に英領香港に潜入し、共産党の軍隊である八路軍の秘密事務所として、現地に“粤華公司”を設立していた。廖承志の指揮下で活動していた柯正平は、1949年8月にマカオで何賢や馬万祺と手を組み、“南光貿易公司”を設立。国民党との内戦や朝鮮戦争で、マカオから共産党に戦略物資を供給した。南光貿易公司はマカオで最初の共産党の“窓口会社”だった。
左から馬万祺、柯正平、何賢
(1950年代)
共産党のマカオ拠点として発足した南光貿易公司は、1961年6月に“澳門中国旅行社”を設立するなど、マカオの地場経済で大きな地位を占めるようになった。1985年8月に南光貿易公司は“南光(集団)有限公司”(南光集団)に改組。1987年9月には南光集団をベースに、新華通訊社澳門分社(新華社マカオ支社)を設立した。
中華人民共和国の建国30周年を祝う南光貿易公司の式典
右は柯正平、左は当時のマカオ総督(1979年9月30日)
南光集団の売上高は1994年に16億3,600万米ドルに達したが、アジア通貨危機で債務問題が表面化。すると、中央政府の国務院が南光集団の救済に乗り出した。こうした歴史を背景に、マカオを拠点とする南光集団は、国務院国有資産監督管理委員会(国務院国資委)が直接管理する“中央企業”の一員となっている。
マカオ返還の式典で江沢民・国家主席と握手する柯正平(左)
(1999年12月19日)
柯正平は1950年6月に両替商の“澳門南通銀号”を設立。医師である兄の柯麟を董事長(会長)に据え、自身は総経理(社長)を務めた。この両替商は1974年9月に“澳門南通銀行”へ改組。1983年には中国銀行香港支店を中心とした中国本土系金融機関14社の集合体である中銀集団(中銀グループ)に加わった。
澳門南通銀行は1987年1月に中国銀行に買収され、“中国銀行澳門分行”(中国銀行マカオ支店)に改組。1995年10月16日にマカオの通貨であるパタカの発券銀行となった。
このように柯正平は共産党の拠点をマカオに築き、それは今日まで存続している。この柯正平と手を組むことにより、何賢や馬万祺のマカオにおける社会的地位は、大きく高まった。
米国の対中禁輸措置
1950年10月に中国人民志願軍が朝鮮戦争に参戦すると、その年の12月に米国は対中禁輸措置を実施。米国製品の対中輸出は、米商務省の事前許可が必要となり、事実上禁止された。
さらに米国財務省は中国や北朝鮮の居住者の在米資産を凍結。米国人が中国や北朝鮮と商取引することも禁じた。また、米国籍の船舶や航空機が中国に入港・着陸することのほか、貨物を運搬することも禁止された。
中朝国境の鴨緑江を渡る中国人民志願軍
(1950年10月19日)
中国人民志願軍戦歌の歌詞に採用された有名な光景
米国議会は対中禁輸措置を国際的に強化するため、1951年12月に「相互防衛援助統制法」(バトル法)を成立。この法律は1952年1月に発効し、米国の援助を受けている国や地域は、共産圏への戦略物資輸送が制限された。米国が禁輸品目リストを作成し、中国が輸入できるのは、それに該当しない商品だけとなった。
北大西洋条約に署名するハリー・S・トルーマン大統領
(1949年8月29日)
資本主義陣営と社会主義陣営の対立は激しさを増した。
この“バトル法”に違反した国は、米国からの制裁を受けることから、日本でも中国との貿易が激減。日本と中国の貿易額は、1950年の5,896万米ドルから、1951年には2,743万米ドルに半減し、1952年には1,551万米ドルに落ち込んだ。
なお、共産圏に対するハイテク物資の輸出統制をめぐっては、すでに1950年1月から対共産圏輸出統制委員会(ココム)が活動を始めていた。日本を含む17カ国が加盟するココムは、禁輸品目リスト(ココムリスト)を制定し、加盟国から共産圏への輸出を制限していた。
“バトル法”を成立させた米国は、ココムの統制対象国に中国を加えることに成功。1952年6月にはココムの分科会“中国委員会”(チンコム)を設立。ココムリストよりも強力な“チンコムリスト”を作成した。
東芝製ラジカセをハンマーで壊す米国会議員
1987年の“東芝機械ココム違反事件”を受けて。
背景に当時の日米の貿易摩擦とハイテク摩擦
現在の米中対立と80年代の日米摩擦に共通点は多い。
中国を孤立させようとした米国の禁輸措置が、その後どうなったかを見てみよう。1957年に英国は中国に対する輸出統制をココムリストの水準に引き下げると発表。これに他の西側諸国も追随した。
その結果、チンコムリストは廃止され、米国と同盟国の間で対中輸出統制に差異が生じた。ココム参加国はやがて中国との貿易を本格化させた。その結果、中国を孤立させようとする米国の政策は、無意味となった。
1971年4月に愛知県名古屋市で開催された第31回世界卓球選手権を機に、米中両国の“ピンポン外交”が始まる。6年ぶりに参加した中国チームのバスに、米国のグレン・コーワン選手が誤って乗ってしまったという偶発的な出来事を利用し、米中両国は緊張緩和に舵を切った。
米国のグレン・コーワン選手(右)
握手しているのは中国の荘則棟・選手
(1971年4月4日)
米国が中国との直接貿易解禁を発表したのは、まさにピンポン外交が始まった1971年4月だった。中国への輸出が許可された品目は、ソ連や東欧向けより少なかったが、ともかく中国は西側諸国との貿易を再開させることになった。米中両国の貿易関係が回復するには、約20年の歳月を要した。
現代の対中禁輸措置
歴史を振り返れば、トランプ政権下の2018年に始まった現在の米中対立は、特に真新しい事ではないことが分かる。まさに“歴史は繰り返される”だ。中国が米国に対し、“冷戦思考から抜け出せていない”と批判する背景には、こうした歴史がある。
現在の米中関係は、朝鮮戦争当時まで退行しているとも言えるだろう。米国商務省産業安全保障局(BIS)が作成する “エンティティ・リスト”(EL)という禁輸措置対象リストには、米国の安全保障や新疆ウイグル自治区の人権問題を理由に、中国企業が次々と掲載されるようになった。
2018年3月に通信機器大手のZTE(中興通訊)が掲載されたほか、2019年5月には通信機器最大手のファーウェイ(華為技術)が加わった。ZTEは2012年と2016年の国際特許出願件数で世界1位だった企業。ファーウェイは2014年に世界1位となり、ZTEに抜かれた2016年を除き、2021年までトップの座にある。
米国による中国企業への禁輸措置は、もっともらしい口実を設けているが、本質は技術覇権をめぐる露骨な攻撃だ。中国の技術的台頭を抑えることが目的であり、米国は保護貿易の色彩を強めている。
半導体ファウンドリー世界最大手のTSMC(台湾積体電路製造)は、2020年5月に米国アリゾナ州フェニックスでファブ(工場)を建設すると発表した。TSMCの投資額は120億米ドルに上り、2024年から線幅4ナノメートルのウエハーを生産する計画。これによりアリゾナ州で約2,000人を雇用する見込みという。
米国でのファブ建設は、工程やコスト的な見地から不合理であり、地元政府からの補助金なしでは成り立たない。だが、米中対立を背景に米国からの圧力を受け、TSMCはファブ建設に至った。
TSMCの創業者である張忠謀(モーリス・チャン)は、自社に対する米国のやり方をたびたび批判。仮に莫大な補助金を得たとしても、米国にサプライチェーンを築くのは不可能と指摘していた。
TSMCファブの式典でスピーチするバイデン大統領
(2022年12月6日)
2022年12月にフェニックスのファブで設備搬入の式典が開かれ、ジョー・バイデン大統領も出席した。これに合わせて、TSMCはフェニックスのファブ建設の第二期を発表した。TSMCは投資額を400億米ドルに増額したが、これは海外から米国への直接投資では最大級。2026年から線幅3ナノメートルのウエハーを生産する予定で、約4,500人を雇用することになるという。
式典に出席したバイデン大統領は、TSMCの誘致が“ゲームチェンジャー”になり得ると発言。「米国の製造業が戻ってきた」と息巻いた。
一方、同じく式典に出席した張忠謀は、“グローバル化はほぼ死んだ。自由貿易もほぼ死んだ。多くの人々は自由貿易が戻って来ることを望むだろうが、個人的見解としては、おそらく戻るころはないだろう”と語り、大きな話題を呼んだ。
グローバル化と自由貿易の死を語るTSMC創業者の張忠謀
その発言は大きな話題を呼んだ。
(2022年12月6日)
半導体産業はグローバル化と自由貿易の下で、水平分業化が進んだ。米国のクアルコムやブロードコムなど生産設備を持たない“ファブレス”と呼ばれる企業が半導体を設計。その生産はTSMCなどファウンドリーと呼ばれる受託製造会社が担当した。半導体の封止や検査などの工程は、さらに別の企業に委託される。
こうした水平分業のおかげで、半導体は日進月歩で進歩した。ファウンドリーは世界中のファブレスから生産を請け負うことで、高額な最新設備の稼働率を上げ、短期間での減価償却にも耐えることができたからだ。水平分業なしでは、半導体会社の財務は成り立たない。
TSMCはグローバル化と自由貿易の恩恵に浴し、米国のクアルコム、ブロードコム、アップルのほか、中国のファーウェイなどからも受注していた。だが、米国の対中制裁を背景に、TSMCはファーウェイとの取引を停止せざるを得なかった。
張忠謀の発言には、こうした背景がある。米中対立が続く限り、グローバル化と自由貿易は縮小。それに欧州、日本、台湾などの西側諸国も巻き込まれることになるだろう。
ブレトン・ウッズ体制と黄金密貿易
米国の禁輸措置に対抗した霍英東 話を本題に戻そう。バトル法やチンコムで米国が中国に対する厳しい禁輸措置を実施するなか、前述のように何賢らは、海外の戦略物資をマカオ経由で中国本土へ供給。この連載の第四十四回で紹介した霍英東(ヘンリー・フォック)も、英領香港やマカオから中国本土に密輸した。当然のことながら、彼らは米国をはじめとする西側諸国にとって、目の敵だった。
鄧小平(左)と握手する霍英東(右)
後ろの人物は何賢
(1983年6月)
こうした情勢を背景に、共産党にとってマカオと中国本土の境界線は、海外からの戦略物資を調達する重要な密輸ルートだった。一方、この境界線はマカオのペドロ・ホセ・ロボや何賢にとって、黄金を密輸する重要なルートでもあった。
マカオ政庁は1946年5月28日に麻薬のアヘンを正式に禁止し、大きな財源を失ったが、財政難に至らなかった。その理由は、黄金の密貿易による利益がマカオを潤していたからだ。当時のマカオは、黄金の密貿易で世界的な中心地だった。
ブレトン・ウッズ会議(1944年7月) マカオが黄金の密貿易を始めるきっかけは、1944年7月に締結された“ブレトン・ウッズ協定”だった。ブレトン・ウッズ協定は1945年に発効。米ドルの価値を“黄金1トロイオンス=35米ドル”の金本位制で裏づけた。この米ドルを国際基軸通貨として、各国の通貨との固定相場制が定まった。これを“ブレトン・ウッズ体制”という。
ブレトン・ウッズ体制の下では、民間による黄金の保有や取引は、基本的に禁じられた。個人利用を目的とした黄金の貿易も禁止。こうした状況はブレトン・ウッズ協定の締結国で遵守された。英領香港でも同様だった。
現在では個人による黄金の保有や取引は自由だが、それを可能とする“金の自由化”は、1971年にブレトン・ウッズ体制が崩壊して、やっと認められるようになった。米国や英領香港で金が自由化されたのは1974年末。日本では1973年だった。
米国民の黄金保有を禁止した大統領令6102号
1933年4月5日にルーズベルト大統領が署名
米国ではそもそも1933年4月に、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が署名した大統領令で、民間による黄金の保有や取引を原則禁止していた。不況時に民間で黄金の買い占めが起きると、金本位制の下では通貨供給量が減り、景気がさらに悪化する。これを防止するのが、大統領令の目的だった。米国市民の黄金は没収され、米ドル紙幣と交換された。
このようにブレトン・ウッズ体制の下で、民間による黄金の保有や取引は、長期にわたり世界的に原則禁止だった。こうした環境こそ、マカオが黄金の密貿易で潤う原因だった。なぜなら、マカオはブレトン・ウッズ協定の地域に含まれていなかったからだ。
黄金都市のマカオ
マカオでは黄金の取引が自由だった。ブレトン・ウッズ体制下の国々から黄金がマカオへ密輸され、これを取引業者が1トロイオンス=35米ドルで買い取った。この密貿易を牛耳っていたのが、マカオ政庁のペドロ・ホセ・ロボだった。
マカオの取引商“大豊金舗”(1949年)
写真の地下金庫には、無数の金地金
写真の二人は取材した米誌「LIFE」の記者
英領香港でも黄金の保有や取引は禁止だったが、中継貿易は可能だった。世界各地からの黄金が、フリーポート(自由港)の英領香港を経由して、マカオに集まった。なかには “ライヒスバンク”と刻印されたナチス・ドイツの金地金(インゴット)も持ち込まれていたという。
戦時中のナチス・ドイツは、中立国だったポルトガル共和国から物資を購入。その代金として、ポルトガル共和国はナチス・ドイツから金地金を受け取っていた。つまり、欧州諸国でナチス・ドイツに強奪された黄金は、ポルトガル共和国に渡り、戦後にマカオで換金されたということになる。
英領香港からマカオへ黄金を円滑に輸送するため、ペドロ・ホセ・ロボは1948年4月に、キャセイパシフィック航空(国泰航空)の創業者である米国人のロイ・クリントン・ファレル、オーストラリア人のシドニー・ヒュー・デ・カンツォと共同で、貴金属の空輸会社“澳門航空運輸”(MATCO)を設立した。
澳門航空運輸は当初、小型プロペラ機 “ダグラスDC-3”を採用したが、狭いマカオでは滑走路に問題があり、初飛行に失敗。これに慌てたファレルとカンツォは急いでフィリピンに向かい、水陸両用機の“PBYカタリナ”を購入した。
黄金を空輸する澳門航空運輸の水陸両用機 澳門航空運輸のPBYカタリナは、第百十六代総督のアルバノ・ロドリゲス・デ・オリヴェイラによって“、ミス・マカオ”(澳門小姐)と名づけられた。つまり、マカオ総督もペドロ・ホセ・ロボによる黄金の密貿易は関知していた。“ミス・マカオ”はマカオと英領香港を1日に何度も往復した。
マカオと英領香港は、直線距離で60~70キロメートルしか離れていない。“ミス・マカオ”の飛行ルートは 、“タバコ航空路”(香煙航程)と呼ばれた。タバコ1本を喫える時間しか飛ばない超短距離航空路だったからだ。ただ、これは少し大げさであり、実際の所要時間は約20分。英領香港では啓徳空港(カイタック空港)に着陸し、マカオでは港に着水した。
マカオで鋳直された金地金 “ミス・マカオ”で英領香港からマカオに運ばれた黄金は、1トロイオンス35米ドルで取引業者に買い取られ、新しい金地金に鋳直された。それを高値で中国本土や英領香港など各地に転売することで、マカオの取引業者は差額を稼いだ。マカオ政庁は黄金の輸出入や取引に税や手数料を課すことで潤い、ギャンブルを超える財源となった。時にはマカオの警察官も、黄金の運搬に駆り出されることもあったそうだ。
昔から黄金の需要が旺盛な中国本土へは、1トロイオンス=50米ドルでも売れたと言われる。このため、ボーダーゲートを通じた個人レベルの黄金密輸も横行した。1949~1966年にマカオに密輸された黄金は、専門家の試算によると、毎年1,600万~2,000万トロイオンスに上ったという。
ペドロ・ホセ・ロボの横顔
顔が見える後方の人物は何賢
彼らは黄金の密貿易で蓄財した。
この黄金密貿易は、ペドロ・ホセ・ロボや何賢を含む一握りの富裕層グループが独占した。ペドロ・ホセ・ロボは1950年代に極東で一番の金持ちになったと言われる。こうしたマカオの黄金密貿易は、ブレトン・ウッズ体制が崩壊した後の1974年まで続いた。これは俗説だが、映画007シリーズ「ゴールドフィンガー」(1964年)の登場人物を創作するうえで、世界的な黄金の密貿易を牛耳るペドロ・ホセ・ロボが参考にされたと言われる。
第二次関閘事件
このようにマカオと中国本土の境界線は、戦略物資や黄金の密輸ルートだった。何賢や霍英東は、こうした中国本土との取引で蓄財に成功すると同時に、愛国者として北京とのコネクションを築いた。なお、そうした北京とのコネクションは、改革開放が始まると、大きな実を結ぶことになる。
1951年11月にヨアキム・マルケス・エスパルテイロが第百十八代マカオ総督に就任すると、ペドロ・ホセ・ロボや何賢の影響力を削減する政策を始めた。中国本土とマカオの境界線を通じた密輸の取締強化も、そうした政策の一環だった。新任のマカオ総督は、マカオを牛耳るペドロ・ホセ・ロボや何賢との対立を深めた。
マカオと中国本土の境界線は取締強化を受け、緊張が高まった。こうしたなかで起きたのが、マカオと中国本土を接続する関閘(ボーダーゲート)での武力衝突だった。
マカオと中国本土の境界に位置するボーダーゲート(関閘) ポルトガル語で“ポルタス・ド・セルコ”と呼ばれるボーダーゲートでは、中国人民解放軍の兵士とアフリカ人のポルトガル兵が、曖昧なままの境界線を警備していた。ここで1952年7月25日の夕方に、境界線の越境をめぐる双方の口論が起き、刃物、銃撃、手榴弾などを使った武力衝突に発展。夜には砲撃戦にエスカレートし、双方に死傷者が出た。
マカオ駐留ポルトガル軍 この事件を中国では“第二次関閘事件”という。“第一次関閘事件”は1849年8月に起きた“パッサレオンの戦い”であり、この連載の第七十二回で詳しく紹介している。第二次関閘事件は103年ぶりとなるマカオと中国本土の武力衝突だった。
この事件を受け、マカオはボーダーゲートを7月26日から閉鎖。中国本土に依存しているマカオの食料は供給不足に陥り、価格が高騰した。中国政府はマカオの兵士が越境したうえ、先に銃撃したとして、すべての責任はポルトガル政府にあると非難した。
マカオにおける共産党の代表者である柯正平は、事件発生時に広東省広州にいた。ポルトガル共和国と中華人民共和国は外交関係がなかったことから、柯正平と連絡できないマカオ政庁は事態打開のきっかけを見出せなかった。
エスパルテイロ総督はペドロ・ホセ・ロボに全権を委任し、問題解決を指示するほかなかった。ペドロ・ホセ・ロボは何賢と馬万祺を仲介者として、共産党との協議に臨んだ。協議は8月23日まで17回に及び、その間も散発的な衝突が続いた。
謝罪書を提出するペドロ・ホセ・ロボ(左)
(1952年8月23日)
最終的にペドロ・ホセ・ロボはマカオ総督を代表して謝罪書を提出し、中国側の被害者に補償することになった。ただし、ポルトガル政府からの公式な謝罪はなかった。
この事件の解決で、ペドロ・ホセ・ロボ、何賢、馬万祺など“現地人勢力”の優位性が一段と高まった。米国の輸出統制が続くなか、マカオと中国本土の境界線は、その後も“抜け穴”として機能した。
マカオ開港四百年記念事件
閲兵するエスパルテイロ総督 このようにマカオの統治者は総督だが、実権は共産党と手を握る現地のペドロ・ホセ・ロボや何賢が握っていた。そして彼らを通じ、共産党はマカオに対する強い影響力を有していた。そうした状況を象徴する事件が1955年秋に起きた“マカオ開港四百年記念事件”だった。
エスパルテイロ総督らはマカオ開港四百周年を記念するイベントを1955年11月に開催することを計画した。これを知った中華人民共和国は、中国の主権を侵害する行為として強烈に反発。“マカオ回収”も辞さないという強い姿勢で、マカオ政庁に圧力を加えた。
こうしたなかで、マカオ政庁と北京の中央政府の橋渡し役になったのは、やはり何賢だった。最終的にマカオ政庁は、財政を理由に記念イベントの中止を発表。高さ18メートルの“中葡友誼四百周年記念碑”は日の目を見ることなく、取り壊された。この事件もマカオ総督の凋落を世に知らしめることになった。
“一二・三事件”
戦後のマカオ社会には、共産党支持の“左派”と国民党支持の“右派”が混在し、それらのコミュニティは対立関係にあった。こうしたなか、何賢ら共産党に近い人物の名声が強まるのに従い、右派の活動はしだいに低調となった。
左派が優位に立っていることを背景に、中華人民共和国は国民党の活動を禁止するようマカオ政庁にたびたび要求。しかし、マカオ政庁は中立の立場を取り、こうした要求を退けていた。
1966年5月に中国本土でプロレタリア文化大革命(文革)が始まると、その影響はマカオに及び、左派の活動が活発化した。こうしたなか、11月にタイパ島で左派と警察官の間で小競り合いが発生。学校建設を求める左派と許可しない当局の対立が原因だった。なお、マカオ政庁の実力者だったペドロ・ホセ・ロボは、すでに1965年10月に他界していた。
“一二・三事件”
セナド広場の銅像を倒そうとする群衆
これをきっかけに、左派の抗議活動が拡大。総督府に集団で押し寄せ、抗議活動はエスカレートした。12月3日に暴徒化した左派と警察が総督府で大規模に衝突。警察の発砲で2人が死亡した。総督府は戒厳令と夜間外出禁止令を敷き、鎮圧に当たった。最終的に8人が死亡し、212人が負傷。逮捕者は62人に上った。これを“一二・三事件”という。
この事件を受け、広東省政府とマカオの左派団体は12月10日に、マカオ政庁に対して全面的な謝罪を要求。当時のマカオ総督は11月25日に着任したばかりのホセ・マヌエル・デ・ソウザ・ファロ・ノーブレ・デ・カルヴァリョだった。
北京との仲介役である何賢は、1万人に上る紅衛兵がマカオ付近に集結していると、カルヴァリョ総督に報告。また、武装した中国人民解放軍が、ボーダーゲート付近に集まっているほか、軍艦4隻がマカオの海域に向かっていると告げた。
こうした恫喝を受け、マカオ政庁は12月12日に広東省政府の要求を全面的に受け容れると応じた。1967年1月2日にマカオ政庁は、域内における中華人民共和国と敵対する活動を禁止すると発表。台湾の中華民国や国民党の支援を受けたマカオの右派団体は解散に追い込まれ、青天白日滿地紅旗(中華民国の国旗)の掲揚は禁止された。
謝罪書に署名するカルヴァリョ総督
(1967年1月29日)
左派団体はさらにマカオ政庁に圧力を加え、1月24日に“三不”活動を展開。これは「マカオ政庁への納税拒否」、「マカオ政庁と公務員への商品販売拒否」、「ポルトガル人の官僚と兵士に対するサービス拒否」という内容の抗議活動だった。こうしてマカオ政庁は1月27日に謝罪声明を発表することになった。
ポルトガル人によるマカオ統治の黄昏
中華人民共和国の建国20周年を祝うマカオ
左派の何賢が“一二・三事件”で実権を掌握
共産党のマカオに対する影響力も増大した。
この“一二・三事件”で、マカオ総督の権威は失墜。何賢ら“三大家族”がマカオの政財界で大きな権勢を持つようになる。マカオ社会で最大の実力者となった何賢は、“影の総督”、“マカオ王”と呼ばれるようになった。
また、“一二・三事件”を機にマカオ政庁のポルトガル人官僚は、域内の中国人に関わらない姿勢を取るようになった。ただ、統治者としてのプライドがあることから、福祉政策、行政許認可、裁判などをめぐり、中国人に対する有形無形の嫌がらせが目立つようになった。
その結果、マカオは福祉政策の少なさや手抜き裁判を背景に、犯罪が増加。行政許認可をめぐる贈収賄も横行するようになったという。400年以上続いたポルトガル人によるマカオ統治は、すでに黄昏を迎えていた。