コラム・連載

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」

悪意の萌芽

2018.10.5|text by 千原 靖弘(内藤証券中国部 情報統括次長)

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株式市場が活況だった1992年だが、深圳市場の投資家たちは愕然とした。この年の7月7日に深圳原野実業股份有限公司(原野実業)が売買停止となったからだ。原野実業に何が起きたのか?そこには株式市場に萌芽した“悪意”があった。

彭建東という男

1985年の深圳市 原野実業を支配していた彭建東は、広東省の福建語地域に属す陸豊市の出身。深圳市に移り、1982年ごろは貧民街で暮らしていたそうだ。それから数年後、彭建東は高級住宅で使用人に囲まれた生活を送りようになった。外出時はロールスロイスの高級車に乗り、羽振りが良かった。

高層ビルが立ち並ぶ現在の深圳市 1989年には200万米ドルを支払い、豪州シドニーの高級住宅街に住むようになった。1990年には560万米ドルを投じ、香港の戸建て住宅を購入した。1991年には香港の日本庭園付の高級住宅を4,400万香港ドルで買い取った。彭建東は深圳市民も羨む成功者だった。

彭建東の資金はどこから来たのか?その背景には原野実業の存在があった。

原野実業の発展

原野実業の前身である深圳市原野紡織股份有限公司(原野紡織)は、1987年6月に設立された株式会社。当初は貿易会社だったが、既製服の生産なども手がけるようになった。

設立当時の筆頭株主は深圳市政府が管理する国有企業で、その持ち株比率は60%。また、香港の香港潤涛実業有限公司(潤涛実業)が、20%の株式を保有していた。残る20%は2人の人物が10%ずつ保有しており、その一人が彭建東だった。

その後、原野紡織は資産評価に基づく増資が何度も実施され、1989年8月には国有企業や彭建東は株主名簿から姿を消し、香港の潤涛実業が唯一の株主となった。これにより、原野紡織は外資100%出資の株式会社に変貌。1990年2月に社名を原野実業に改めた。

しかし、原野実業の本質は、外資企業ではなかった。株主の潤涛実業は香港企業だが、その支配者こそ彭建東だったからだ。つまり、原野実業は外資の皮をかぶった彭建東の個人会社だった。言い換えれば、原野事業の資産は設立当初こそ大部分が国有財産だったが、それがいつの間にか彭建東という個人の所有物になっていたということになる。

その後、株式上場の要件を満たすため、いくつかの中国企業を原野実業の株主とした。こうして原野実業は名目上、中外合弁会社となった。だが、それらの中国企業も潤涛実業に支配されており、原野実業の実態は彭建東が完全支配する個人所有の会社だった。

原野実業の株券 原野実業は1990年2月に新株を発行し、一般の投資家から総額2,450万元に上る資金を調達。その株式は同年3月から深圳経済特区証券公司で店頭取引されるようになり、原野実業は“老五股”と呼ばれた5銘柄の一つなった。なお、その当時の店頭取引の活況ぶりは、この連載の第十回第十一回で紹介した通りだ。

原野実業の株式の額面は10元だったが、株価は1990年10月24日には1,350.09元に上昇。深圳市場の“穴馬”と呼ばれ、人気の銘柄となった。同年12月10日に原野実業の株式は深圳証券取引所に上場。“中国で最初に上場した中外合弁会社”と称賛された。

突然の爆弾

原野実業に投資した株主は、“カネがカネを生む”のを楽しみに待っていた。つまり、配当などの株主還元を期待していた。しかし、原野実業は他の銘柄と違い、株価は上昇するものの、配当を一向に実施しなかった。決算発表のたびに配当への期待感が高まるもの、投資家はいつもガッカリする結果となった。ただ、株価が堅調だったので、大きくは失望しなかった。

こうしたなか、原野実業の投資家の不安を煽る噂が流れ始めた。「原野実業の株主である潤涛実業は“インチキ香港企業”だ。本当の株主は、むかし外貨投機でムショに入った彭建東というヤツだ……」という内容だった。だが、あくまで噂だったので、信じる人は少なかった。

1992年4月7日に中国人民銀行(中央銀行)深圳支店は一通の通知を発表し、投資家を驚かせた。「債権者である金融機関は、原野実業に対する財務検査に協力せよ。調査の目的は原野実業による債務弁済。原野実業の資産を許可なく移転することを禁じる」という内容だった。多くの投資家が、爆弾をいきなり投げ込まれたような衝撃を受けた。

原野実業の一部の従業員は、当局によって連行された。これを受けて原野実業は、同月18日に中国人民銀行と債権者の中国工商銀行を裁判所に訴え、会社の正当な資産を守るよう要求。中国人民銀行に対抗する構えをみせた。

その当時の原野実業の株主は約1万6,000人。突然のことに驚いたものの、予想外の出来事を受け、どう反応すればよいのか分からなかった人が多かった。中国人民銀行の関係者が投資家の不安を鎮めるため、「原野実業の先行きは明るい」と語ったこともあり、多くの株主が株式を売らずに、事の成り行きを静観することにした。

穴馬の正体

原野実業の調査に着手した中国人民銀行の関係者は、その実態をみて驚きを禁じ得なかった。潤涛実業は原野実業の株式の52.3%を保有しており、その時価総額は1992年4月7日時点で5億元を超えていた。にもかかわらず、潤涛実業は原野実業の株式を取得するために、1元も支払っていなかった。

実際にカネを支払っていたのは、すでに原野実業の株主ではなくなった深圳市政府の国有企業。彭建東は原野実業の株式取得にともなう資金を国有企業に立て替えさせ、あたかも自分や潤涛実業が資金を支払ったように見せかけていた。このようなことが可能だった背景には、彭建東と深圳市政府関係者の“ただならぬ関係”があったからだ。

彭建東は原野実業を支配下に置くと、その資金を原料輸入代金などの名目で、自分が所有する潤涛実業に送金していた。それには一般の投資家から集めた資金も含まれていた。彭建東は投資家から集めた資金を事業拡大に使わず、すべて自分の懐に納めるために海外送金していた。政府、銀行、投資家には、ウソをつき続けた。

逃げ出した彭建東

1992年6月20日に中国人民銀行・深圳支店は原野実業に対する調査結果を発表した。彭建東が支配する香港の潤涛実業は、海外送金を通じて1億元を超える原野実業の資金を受け取っていた。また、原野実業は2億元を超える資金を銀行から借り入れ、期限を過ぎても返済していなかった。

中国工商銀行は原野実業を裁判所に訴え、貸付金の弁済を要求した。だが、彭建東の動きは素早く、裁判が始まる前に、被告である香港の潤涛実業そのものを深圳市政府の香港窓口会社に売却してしまった。

その結果、裁判の原告と被告がいずれも中国の政府機関ということになり、その当時の体制下では訴訟を進めることもできなくなった。こうして彭建東は裁判から逃げ出すことに成功した。どうやって深圳市政府の香港窓口会社に潤涛実業を売却できたのかは、大きなナゾだ。彭建東と深圳市政府の関係が尋常ではなかったことが、この一件からでもよく分かる。

こうした複雑な事情を背景に、原野実業の株式は1992年7月7日から売買停止となった。原野実業は再編を実施。原野実業に対する潤涛実業の債務弁済は、最終的に深圳市政府の香港窓口会社が肩代わりすることになった。

原野実業は深圳世紀星源股份有限公司(世紀星源)に改名し、1994年1月3日に株式の売買を再開。投資家は1年半もの間、原野実業の株式を持ったまま、売ることもできなかった。なお、世紀星源(証券コード:000005)は2018年8月時点も上場している。

謎の多い原野実業事件

裁判から逃げ出すことに成功した彭建東は海外にいたが、1995年に深圳市で裁判にかけられることになった。そこに至るまでの経緯ははっきりしない。中国側は1993年に香港で逮捕されたと説明。一方、彭建東は1993年にポルトガルの植民地だったマカオで誘拐され、深圳市に連行されたと主張している。

その後の展開についても、彭建東と中国側の説明には大きな食い違いがある。中国のメディアによると、1995年に裁判が開かれ、彭建東は横領などの罪で懲役16年が言い渡された。ただし、彭建東はいつの間にか豪州国籍を取得しており、まったく牢屋に入ることもなく、国外追放になったという。

逮捕された彭建東 一方、彭建東の主張によると、1995年に言い渡された判決は懲役18年。6年にわたって監獄に入れられていたが、豪州国籍を所持していたことから、外交問題に発展。1999年に江沢民・国家主席(当時)の豪州訪問前に釈放され、その後は海外で生活しているという。

香港で訴訟を起こした彭建東 どちらの説明が正しいのか分からないが、いずれにしても彭建東は2000年代には海外生活をするようになっていた。大事件の当事者の割に、科された罰は軽いと言えるだろう。

海外に逃れた彭建東は原野実業を政府に奪われたと主張するようになり、香港で深圳市政府の香港窓口会社を相手に訴訟を起こした。2003年の一審判決では彭建東が勝訴したが、2006年の最高裁判決では逆転敗訴となった。当時の事件と会社再編への理解が進んだことが、逆転判決につながったもようだ。

原野実業事件の影響

原野実業は多くの分野で中国証券史上の“第一号”となった。“中外合弁会社の上場第一号”“長期売買停止の第一号”“再編された企業の第一号”“上場詐欺の第一号”など、不名誉なものばかりだが……。

この原野実業事件で、投資家は株式投資のリスクが株価の変動だけではないことを知った。“上場企業の詐欺行為”、“筆頭株主による資金横領”、“政府と上場企業の腐敗”――。こうした問題に警戒する必要性を学んだ。

このような巨額の資金が絡んだ犯罪は、貧しさしかなかった時代には考えられないことだった。原野実業事件は株式市場の誕生によって新たに芽生えた人間の“悪意”が引き起こしたと言えるだろう。この悪意はじわじわと広がり、やがて数々の事件を起こした。

原野実業事件が起きた1992年は、「証券法」や「会社法」もなく、監督管理機関も存在してないかった時代。この新たに芽生えた悪意を止める手段は少なかった。原野実業事件では深圳市政府の腐敗も明らかになったが、有効な対策が即座に講じられることはなかった。

その結果、原野実業の売買停止から1カ月後、深圳市では多くの死傷者を出す流血の大惨事が発生することになる。
 

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は11/5公開予定です。お楽しみに!

 
バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
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  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
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  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
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  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券中国部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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