1838年に即位したビクトリア女王の肖像画
この約5年後に英皇制誥と皇室訓令を発布
ビクトリア女王が1843年4月に英皇制誥と皇室訓令を発布し、英領香港を統治する制度的枠組みが決まった。英領香港の統治者は、英国王に任命された総督(ガバナー)。1843年に就任した初代のヘンリー・ポッティンジャーから数え、28人の香港総督が英領香港を統治した。
激動する国際情勢に何度も翻弄された英領香港だが、一世紀半の歴史を経て、世界屈指の国際自由港、国際金融センターに成長。この重要都市を英国は1997年に中国へ返還することになった。1984年に英中共同声明が署名されて以降、英国と中国の関係は融和的だったが、最後の香港総督が就任すると、両国の関係は一変した。
香港総督の質的変化
市井の人々と語らうマクレホース総督
いつも大勢の市民に囲まれていた
英領香港の発足から、香港総督はほとんどが軍人や植民地省の官僚出身者だった。1971年に就任した第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースは、異例の外務省の官僚。植民地省での経験がなかったことから、その行政手腕が懸念されたものの、彼は“黄金の十年”と呼ばれる香港の高度成長期を創出。最も香港市民に愛された総督と呼ばれた。
マクレホース総督の成功を受け、その後の香港総督は、外務省出身者から選ばれた。第二十六代目のエドワード・ユード総督、第二十七代目のデビッド・クライブ・ウィルソン総督のいずれも、元外交官だった。
1975年5月に香港を訪問したエリザベス女王
野菜市場を見学
マクレホース総督の時代から、英国は香港返還を意識するようになった。英国に残された時間が少ないなかで、外務省の出身者が香港総督を務めるようになった背景には、香港の統治者に求められる役割が変化したことがある。
1984年に調印された英中共同声明により、英国にとっての香港は、“英国が今後も統治し続ける植民地”ではなく、“中国に返還する予定の植民地”となった。返還後の英中関係を念頭に入れれば、香港市民に好印象を残すことが、英国にとって重要な布石となる。
香港市民に英国への好印象を残すには、香港総督に外交官のような資質が必要だったのだろう。
リセンシー効果
リセンシー効果
最後の印象が全体を決定
画像はBBCプロムス
なぜ植民地統治の最終段階で、好印象を残すことが重要なのか。それは“リセンシー効果”が期待できるからだ。リセンシー効果とは、“親近効果”、“終末効果”とも呼ばれ、「最後に与えられた情報が強く印象に残り、全体の評価に強く影響を及ぼす」という認知バイアスを意味する。
例えば、音楽の演奏。15分間の演奏のうち、最初の14分間は素晴らしかったが、最後の1分間にミスが連発した場合を考えてみよう。
聴衆が楽しめた時間は14分間で、不快に感じた時間は1分間にすぎない。つまり、全体としては、楽しめた時間の方が長かった。しかし、演奏終了後に聴衆に尋ねると、その多くが「まったくひどい演奏だった」「不快な時間を過ごした」などと答えてしまう。
簡単に思い出される演奏の記憶が、最後の1分間であるため、楽しかった14分間はすっかり忘れ去られてしまう。つまり、最後の印象が、全体の評価を決めてしまったのだ。
英領香港の評価とリセンシー効果
英国による香港統治は、1841年に始まり、1997年に終了する。その期間は156年以上に及ぶ。この長い歴史を香港市民はどのように評価するのだろう。リセンシー効果を考えれば、最後の印象がカギとなる。
英領香港の立法機能は、香港政庁の立法局が担っていた。香港政庁の発足時から、立法局の議員は香港政庁の官僚と香港総督が指名する人物で占められ、選挙はまったく実施されなかった。英国が香港に敷いたのは植民地統治であり、民主政治ではなかった。
香港史上初の立法局選挙
直接選挙はなく、間接選挙のみ
(1985年)
立法局の選挙が初めて実施されたのは1985年。英中共同声明が調印された後であり、植民地統治が始まってから、すでに144年が経過していた。そのうえ、実施されたのは間接選挙であり、直接選挙ではなかった。
つまり、英領香港の156年以上に及ぶ歴史のうち、立法局の選挙があったのは最後の12年だけ。しかも、香港市民による直接選挙が部分的に実施されたのは1991年になってからであり、完全な普通選挙はまったく実施されなかった。だが、この最後の12年間の記憶が、156年以上に及ぶ英領香港の評価に与える影響は大きい。
英国が与えた香港の役割
英領香港の最終段階で、香港市民に英国への好印象を与えれば、それは返還後も有利に働く。英国の香港統治を肯定的に受けとめる香港市民が増え、香港社会を味方につけることができるからだ。
また、香港返還までに民主化を進めれば、英国が香港で民主的な統治を実践していたかのような印象を残すことも可能だ。そのうえ、香港で民主主義の信奉者を増やせば、彼らが北京の中央政府に対抗する勢力となってくれる。
“我要真普選”(真の普通選挙を求める!)
雨傘運動の標語
獅子山(ライオンロック)の絶壁
(2014年10月)
さらに、香港の選挙制度を未完成の状態で中国に返還すれば、その戦略的効果は一段と大きくなる。普通選挙の実現は返還後に目指すよう香港市民に仕向ければ、それは北京の中央政府にとって“頭の痛い問題”となるからだ。中央政府の対応しだいでは、中国を非難する絶好の口実となる。返還後の香港に、英国は新たな役割を与えることになった。
ウィルソン総督の腐心
香港の暴力的デモを批判するウィルソン元総督
2019年10月24日の英国上院
天安事件が起きた1989年、英領香港の統治者はウィルソン総督だった。香港の将来をめぐる不安が増大したことを受け、ウィルソン総督は市民に安心感を与えるために腐心し、いくつかの政策を打ち出した。
香港市民5万人とその家族に英国定住権を与える“居英権計画”は、そうした政策の一つであり、1990年に発表された。また、1991年9月の立法局選挙に直接選挙を部分的に導入すると中国側に提案したのも、市民の不安解消を狙ったものだった。この直接選挙の導入は、最終的に中国側も同意した。
しかし、中国側の了承を得ていない施策があった。それは香港国際空港の建設計画だった。ランタオ島(大嶼島)の北部に位置するチェクラプコクという小島を平らにして、空港用の埋め立て地を整備するという空前の大プロジェクト。空港にとどまらず、ニュータウン、高速道路、鉄道、海上橋、海底トンネルの建設などを含む総合的な開発プロジェクトだった。
香港国際空港の建設計画
香港国際空港の全景
上が西で、下が東、左はランタオ島
この開発プロジェクトが描く香港の将来は、“まるで薔薇園のように美しい”と、香港政庁は宣伝。これを受け、“ローズ・ガーデン・プロジェクト”と呼ばれるようになった。その建設予算は空前の規模で、香港政庁が当初発表した金額は2,000億香港ドル以上。香港社会は騒然となった。
なお、香港国際空港の建設は、のちにギネス世界記録が“最も高価な空港”と認定するほどの規模だった。主要契約だけでも183件、総額964億香港ドルに上り、世界中の建設会社がジョイント・ベンチャー方式で入札に参加。落札企業の国別比率では、日本が最大の26%。これに香港の23%、英国の16%、中国本土の8%が続いた。
香港国際空港のために建設された青馬大橋
全長2.16キロメートル
これだけの規模の空港を建設する背景には、香港市民に安心感を与えるという理由以外に、切実な問題があった。当時の香港の空港は、滑走路が1本だけの香港啓徳国際空港(カイタック空港)。香港の航空需要は経済発展を背景に、カイタック空港の処理能力を超過。新しい空港を建設しなければ、ビジネス機会の喪失などにより、香港は4,200億香港ドルに上る経済的損失を被ると指摘されていた。
伝説のカイタック空港
新しい空港を建設する理由の一つとして、カイタック空港の安全性をめぐる問題もあった。カイタック空港は20世紀初頭に有力華人の何啓と区徳が九龍湾に開発した住宅用埋立地を転用したもので、市街地に囲まれている。ここに着陸するには、建物にすれすれの高さで、急速に右旋回する必要があった。
巨大な航空機が、機体を大きく傾けて、右旋回しながら、超低空で飛行し、市街地の中に消えていく。着陸の様子は迫力満点で、見物客も多かった。一方、右窓側の乗客からは、付近の住宅がはっきりと見え、住民が見ているテレビの映像すら確認できたとも言われている。
カイタック空港に着陸するユナイテッド航空機 このカイタック空港への着陸は“香港カーブ”と呼ばれ、パイロットに相当な技量を要求した。このため、カイタック空港は“世界で最も危険な空港”“世界一着陸が難しい空港”などと呼ばれていた。
カイタック空港はすでになくなったが、フライトシュミレーターのゲームでは、いまでも人気の空港だ。パイロットの腕が試されるからだ。カイタック空港は今日でも、バーチャルな世界で存在し続けている。
空港建設計画と英中関係悪化
得点を許してしまったゴールキーパーのウィルソン総督
(1989年のサッカー試合)
このローズ・ガーデン・プロジェクトは、香港市民のためというウィルソン総督の気持ちから発案されたのだが、中国側の不信をまねく結果となった。建設予算があまりにも高額だったからだ。香港の財政剰余金を使い尽くす英国の陰謀と、中国側は疑った。
また、建設費用という名目で、巨額の資金を香港から海外などに支払うことになる。このため、英国が秘密裏に香港の蓄えを持ち出すための計画という疑念を中国側は抱いた。
こうした疑念を背景に、“ローズ・ガーデン・プロジェクトを祝福しない”と、中国側は明言。香港返還の期限を超える債務を中国側が負うことはないと主張した。
メジャー首相の屈辱とウィルソン総督の更迭
中国側が反対を表明したことで、香港国際空港の建設をめぐる資金調達が、大きな問題となった。そこで中国側の協力を求め、英国のパーシー・クラドック元駐中国大使が、秘密裏に江沢民・国家主席に遊説。最終的にジョン・メジャー首相が1991年に北京を訪問し、覚書に署名。香港政庁が250億香港ドル以上の財政剰余金を残すと約束した。
覚書に署名し、李鵬・総理と握手するメジャー首相
(1991年9月)
覚書に署名することで、香港国際空港の建設は前進することになった。メジャー首相は表面的には穏やかだったが、内心は怒りに満ちていた。
天安門事件の影響で、1991年は西側諸国が中国との距離を置いていた時期。こうしたなか、メジャー首相は天安門事件後に最初に中国を訪問した西側諸国の首脳となってしまった。そのうえ、中国側に協力を求めるという屈辱的な覚書に署名した。
メジャー首相をはじめとする保守党政権は、ウィルソン総督やクラドック元駐中国大使の対中姿勢について、弱腰と判断した。1992年に入ると、ウィルソン総督は一代貴族に叙せられたが、それからほどなくして、香港総督としての任期終了が突然発表された。
ウィルソン総督は当時57歳であり、定年まで3年の時間があった。こうしたなかで、後任の香港総督も決まらないまま、ウィルソン総督の任期終了だけが発表されたのは、メジャー首相の不満の大きさを表している。こうしてウィルソン総督は1992年7月に、傷心のまま香港を去ることになった。
ラスト・ガバナーの誕生
ウィルソン総督の後任として香港総督に就任したのは、クリストファー・フランシス・パッテン。政治家出身の香港総督は、英領香港の一世紀を超える歴史のなかでも、初めてのことだった。それまでの香港総督は、英国軍、植民地省、外務省の人物から選ばれていた。
彼は爵位も持たず、就任に際しても制服を着なかった。このように最後の総督(ラスト・ガバナー)は、異例ずくめの人物だった。なぜ、英領香港の最後に、型破りな香港総督が誕生したのか?その背景を見てみよう。
クリストファー・パッテンはオックスフォード大学で現代史を学ぶと、1966年に22歳の若さで、保守党の調査部に就職。1974年にはわずか30歳で調査部の主管に任命された。
それから5年後に実施された1979年の英国総選挙で、マーガレット・ヒルダ・サッチャー首相の政権獲得に貢献。この選挙で彼自身も、下院議員に初当選した。1989年7月には初入閣し、環境大臣を務めた。
環境大臣のパッテン(右)とサッチャー首相(左) サッチャー政権の下で、政治家の道を歩み始めたパッテンだったが、彼は一国保守主義者であり、サッチャー政権の経済政策(サッチャリズム)には反対だった。通貨供給量を目標としたマネタリズムをサッチャー政権が採用すると、これを批判した。
1989年になると、サッチャー首相は求心力を失った。彼女が提唱した人頭税の導入が、国民から強い反発を受けたほか、金利の上昇も経済界からの支持を失う原因となった。サッチャー首相は欧州統合に懐疑的で、この問題をめぐり保守党内も分裂した。
1990年11月に実施された保守党の党首選挙で、サッチャー首相は過半数を獲得したものの、2位との差が小さかったことから、2回目の投票が実施されることになった。これでサッチャー首相の求心力は、さらに低下。サッチャー首相はパッテンなど3人の閣僚に辞任を促され、保守党党首と首相から辞任することになった。
こうして、約11年半にわたった20世紀最長のサッチャー政権は終焉を迎えた。サッチャー首相は後継者として、ジョン・メジャーを指名。2回目の投票で、メジャーの得票数は最多となったが、やはり他候補との差は開かず、3回目の投票へと進むことになった。しかし、他の候補が党首選を辞退し、メジャー政権が誕生した。
総選挙に勝利したメジャー首相
(1992年4月)
パッテンはメジャー首相との関係が良好であり、彼の保守党内での地位は一段と高まった。こうしたなか、1992年4月にメジャー政権で初の総選挙を迎えた。世論調査では労働党が優勢だったが、パッテンらの活躍によって、保守党が勝利。だが、パッテンは自身の選挙活動に時間を割けず、落選という結果に終わった。
保守党勝利の立役者だったパッテンだが、落選したことで、閣僚から外れることになった。そこでメジャー首相はパッテンを第二十八代香港総督に任命。こうして1992年7月9日に異例ずくめの香港総督が誕生した。
英中関係の悪化
就任宣誓を行うパッテン総督
(1992年7月)
ウィルソン総督に不満だったメジャー首相は、盟友のパッテンを香港総督に任命。マクレホース総督の成功以来、香港総督は外務省の出身者で占められていたが、最後は保守党の政治家が務めることになった。
その背景には、中国に妥協的だった英国の対中政策を見直し、強硬姿勢に転じるというメジャー首相の考えがあった。
パッテン総督が就任すると、英中関係は急速に悪化した。原因は1992年10月に発表した最初の施政報告。そのなかでパッテン総督は中国側の同意がないまま、1995年の立法局選挙について、制度を大幅に改める方針を示した。
1991年の立法局選挙
パッテン総督が就任する前に実施された1991年9月の立法局選挙は、中国側の同意に基づき、以下のような方式で実施された。60議席のうち、21議席は選挙なしで議員を選出。内訳は香港政庁からの官僚議員が4人で、香港総督任命の民間議員が17人。残る39議席についてのみ、選挙が実施された。
選挙で選ぶ39議席のうち、21議席は20種の業界で実施する職能別選挙を採用。職能別選挙で投票権を有するのは、個人としては一部の雇用主だけであり、そのほかは会社や団体を代表しての投票となる。一般の従業員などには、職能別選挙での投票権がない。このため、職能別選挙で登録可能な有権者の数は、個人単位で投票できる直接選挙に比べて少ない。
残りの18議席については、初の直接選挙が導入され、9地区から2人ずつ選ばれた。
1991年の立法局選挙では、直接選挙の18議席のうち、民主派が17議席を獲得。1989年の天安門事件が、民主派躍進の追い風となった。だが、職能別選挙での当選者や香港総督の任命の民間議員は、ビジネスなどで中国本土との良好な関係を築きたい親中派(建制派)が多い。最終的に民主派は23議席にとどまり、半数の30議席には届かなかった。
“立法局”から“立法会”へ
香港基本法が賛成2660票で可決
1990年4月4日の第7期全人代第三回会議
香港政庁の立法局は、香港返還後に、香港特別行政区政府の“立法会”に改組される。第一期の立法会を組成するため、1996年内に全国人民代表大会(全人代)が“準備委員会”を設け、香港特別行政区の創設準備を担当することになっていた。これは全人代で、1990年4月に承認された決定事項だった。
この決定事項のなかに、第一期立法会についての記載がある。それによると、第一期立法会は60議席。選出方法は20議席が直接選挙、10議席が選挙委員会選挙、30議席が職能別選挙。最後の立法局の議員構成が、“上記の決定事項や香港基本法に合致すれば”、準備委員会の承認を経て、“自動的に第一期立法会の議員となる”と定められていた。
パッテン総督の立法局選挙改革
立法局選挙の改革を発表したパッテン総督
(1992年10月)
こうした決定を踏まえたうえで、パッテン総督は立法局選挙の仕組みを大幅に変更すると発表。それは中国側の同意を得ていない一方的な決定であり、第一期立法会に多数の民主派を自動的に送り込むのが狙いだった。
パッテン総督の選挙改革案によると、最後の立法局議員を選ぶ1995年の選挙では、香港政庁からの官僚議員と香港総督任命の民間議員をすべて廃止。すべての議員を選挙で選ぶ。立法局の議員をすべて選挙で選ぶのは、英領香港で初めての出来事となる。
返還後の第一期立法会について、選挙委員会選挙で10議席を決めることになっている。だが、選挙委員会の組織方法は、明確に定められていなかった。
そこでパッテン総督は中国側の同意を得ないまま、区議会議員で構成される選挙委員会を創設すると発表。区議会選挙では直接選挙制が採用されている。こうした選挙委員会を創設すれば、直接選挙に強い民主派に有利に働く。
直接選挙については、前回の9地区から20地区に拡大。1地区から1人を選出するとした。これにより、直接選挙で選ばれる議席は、1991年の18議席から20議席に増加。これは全人代の決定事項にも合致する。
職能別選挙については、9つの業界を新設。業界の数を従来の20種から29種に拡大し、議席数も従来の21議席から30議席に増やすとした。30という議席数も、全人代の決定事項に合致する。
だが、新設した9つの業界での職能別選挙が問題だった。この新しい9つの業界での有権者は、1991年の人口調査でその業界に在職中の香港市民と定義。つまり、従来の職能別選挙のように、会社や団体としての投票ではない。新しい業界に属する香港市民であれば、個人として投票することを可能とした。そして、この9つの業界の範囲は広く、多くの香港市民が該当した。
新しい9つの業界での職能別選挙では、登録可能な有権者数が、直接選挙並みに増加することになる。これは職能別選挙でありながら、誰にでも投票できることから、実質的には直接選挙に等しいものだった。実際に1995年に実施された選挙では、「在職者には、さらにもう一票」と宣伝していることから、これが事実上の直接選挙の拡大だったことが分かる。
このように、立法局選挙の制度を大幅に改革するとしたうえで、選挙権年齢も従来の21歳から18歳に引き下げるとした。中国本土と英国のいずれも、選挙権年齢が18歳というのが理由だった。
中国側の大激怒
こうしたパッテン総督の選挙改革案を受け、不意打ちを食らった中国側は大激怒。香港返還後はパッテン総督の改革をすべて取り消すと明言した。そのうえで、パッテン総督の制度変更は、香港基本法の抜け穴を利用したやり方であり、一方的な行為であると非難。こうした手法は、英中共同声明や香港基本法に違反していると主張した。
パッテン総督を“千古罪人”と批判した魯平 一方のパッテン総督は、なんら違反していないと反論。英中双方の主張は、平行線をたどることになった。
中国側の怒りは相当なもので、パッテン総督を“毒蛇”“コソ泥”などと罵倒。中央政府で香港マカオ関係を管轄する国務院港澳事務弁公室の魯平・主任は、パッテン総督を“永遠の罪人”(千古罪人)と非難した。
英国からの批判
パッテン総督への批判は、英国からもあがった。“最も香港市民に愛された総督”と呼ばれたマクレホースは、パッテン総督の選挙改革案を危惧。香港市民を対中政策の“手駒”とする政策であり、香港社会を危うくすると指摘した。1992年11月に英国の上院に出席し際も、“中国への香港返還は確定事項であるのに、パッテン総督は無意味な抵抗を画策している”と非難した。
クラドック元駐中国大使もマクレホースと同意見だった。それまでの英中交渉の成果を壊したと、パッテン総督を批判。“信じられないほど委縮した総督”と形容した。一方のパッテン総督も、“陰気な退職大使”と言い返すなど、悪口の応酬となった。
このように、パッテン総督の政策は、前任の香港総督や外務省出身者からも、大きな批判を浴びた。英国も香港問題と対中政策をめぐっては、一枚岩ではなかった。
選挙改革案をめぐる立法局の攻防
国務院港澳事務弁公室の魯平・主任は、パッテン総督の選挙改革案を廃案に追い込もうと奔走。親中派である自由党の立法局議員に、反対票を投じるよう説得した。
香港民主同盟の劉慧卿(エミリー・ラウ)
60議席全部の直接選挙を提案
1票差で否決に
自由党はパッテン総督の選挙改革案について、修正案を作成。1994年6月24日の立法局会議で審議されたが、香港政庁からの官僚議員に反対され、2票差(賛成29票、反対27票、棄権・欠席3票)で退けられた。
その一方で民主派の香港民主同盟は、全面的な直接選挙を求める修正案を提出。6月30日に審議されたが、民主派の4人が棄権し、これも1票差で否決(賛成20票、反対21票、棄権・欠席18票)。最終的にパッテン総督の選挙改革案が、8票差(賛成32票、反対24票、棄権・欠席3票)で承認された。
立法機関の分裂へ
最後の立法局の議員は、そのまま返還後に第一期立法会の議員となることも可能だった。しかし、パッテン総督の選挙改革案に激怒した中国側は、そうした決定事項を撤回すると発表。1995年の立法局選挙で当選した議員は、香港返還と同時に失職させることを決めた。
香港返還後で最初の立法会選挙は、1998年5月に実施される。最後の立法局議員が返還と同時に失職するのであれば、最初の立法会選挙で第一期立法会の議員が決まるまで、香港の立法権に空白期間が生じることになる。そこで、空白期間を埋めるため、中国側は独自に“臨時立法会”を創設することを決めた。
1995年の立法局選挙
英領香港で最後の立法局選挙は、1995年9月17日に実施された。すべての議員を選挙で選ぶのは、英領香港一世紀半の歴史上、これが最初で最後のことだった。香港返還まで残すところ2年弱というタイミングであり、そのリセンシー効果は大きい。実際、香港返還から20年以上が経った今日、英領香港で民主政治が敷かれていたと思い込んでいる人は、香港の若者を含め、少なくない。
1995年の立法局選挙は、制度改革の効果もあり、民主派が躍進。直接選挙だけではなく、選挙委員会選挙や職能別選挙でも、民主派が議席を伸ばした。60議席のうち、民主派が31議席を占め、初めて半数を超えた。
中国側が問題視した新しい9つの業界での職能別選挙は、登録有権者が106万人に上った。見込まれていた270万人には達しなかったが、一般の職能別選挙に比べて、はるかに多かった。
臨時立法会の誕生
1995年の立法局選挙で大勝した民主党
支持者の声援に応える失職した民主派議員
英領香港最後の日(1997年6月30日)
民主派は立法局で過半数を占めたが、その前途は明るいものではなかった。香港返還と同時に、彼らは失職することになるからだ。
中国側の準備も着々と進んでいた。1996年12月21日に“臨時立法会”の選挙が行われ、60人の議員が選出された。その選挙は400人の推薦委員会で行わる間接選挙であり、英領香港では非合法として扱われる。
この選挙に親中派の立法局議員が参加したが、民主派の議員は多くがボイコット。その結果、当選した臨時立法会の議員60人のうち、33人が現役の立法局議員で占められたが、ほとんどが親中派となった。
当然のことながら、臨時立法会の存在を香港政庁は認めない。臨時立法会が香港で活動すれば、違法集会を開催したとして訴追される可能性があることから、会議などは広東省深圳市で開かれた。
臨時立法会の33人は、立法局でも議員だったことから、香港と深圳市を往来する忙しい日々を過ごすことになった。
深圳迎賓館
臨時立法会の最初の会議は、ここで開催
臨時立法会は正式な第一期立法会が誕生するまでの立法機関であり、必要最低限の法律を承認するのが目的だった。1997年7月1日に香港の主権が中華人民共和国に返還されると、深夜のうちに臨時立法会は深圳市から香港へ移転した。
1998年5月24日に返還後最初の立法会選挙が実施され、第一期立法会の議員が正式に決まると、臨時立法会は歴史的役割を終え、1998年6月30日に解散した。
公安条例の復活
短期間しか存在しなかった臨時立法会だが、香港返還の直前に重要な法律を承認した。それは新しい公安条例。数年前に撤廃された公安条例の一部条文を復活させることが目的だった。
英領香港では1948年に、最初の公安条例を制定。これは大規模な動乱に備える法律であり、中国本土との境界線付近に、フロンティア・クローズド・エリア(香港辺境禁区)を設けることなどが目的だった。
1967年に香港の左派市民による“六七暴動”が起きると、立法局は公安条例を大幅に改正。暴動罪などの罰則を強化した。また、香港市民が集会を開く場合、事前に警察の許可を得ることが必要となった。1971年には合法的に集会を開ける場所が、ビクトリア・パークなど、5カ所に限定された。
その後、公安条例は徐々に緩められた。1980年には30人未満の集会と20人未満のデモ行進は、警察の許可が不要となった。場所に関する制限も緩和され、許可制となった。1987年には虚偽報道の罪が撤廃された。
1989年6月の天安門事件を受け、ウィルソン総督は「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(国際人権B規約)を参考に、1991年6月に香港人権法案条例を施行。これに抵触する公安条例の条文は、1995年に撤廃されることになった。
だが、中国側は1995年に実施した公安条例の条文撤廃は、香港基本法に反すると判断した。これを受け、臨時立法会は1997年6月14日に新しい公安条例を承認。デモ行進や集会の開催は、警察から“デモや集会の申請に反対しない旨の通知書”(不反対通知書)を取得することが必要になった。
公安条例に反対する香港市民の抗議活動 新しい公安条例をめぐっては、植民地時代への後退であると、批判の声が上がった。国際人権B規約に抵触するという指摘も出ているが、香港政府はこれに反論。デモや集会は許可制ではなく、届出制のようなものであり、市民の権利を奪うものではないと説明している。
なお、日本では都道府県が公安条例を制定し、集会やデモ行進を規制している。街頭での集会は届出制。届け出ない場合は、道路交通法違反で検挙される可能性がある。こうした公安条例は、最高裁判決で合憲とされている。
市民に人気の総督
パッテン総督は中国側との関係こそ険悪だったが、香港市民からの人気は高かった。彼は中国語を話せないものの、積極的に各地を視察。市民との交流を図った。一般的な店で茶を飲んだり、エッグタルトを食べたりする様子に、市民は親しみを覚えた。
テレビ番組にも出演し、市民からの電話に耳を傾けた。住宅問題などをめぐり、市民が直接訴えると、すぐに対応。福祉関係の財政支出も大幅に増やし、その金額は中国側を心配させるほどだった。
エッグタルトを食べるパッテン総督 市民と談笑するパッテン総督
こうした活動の成果もあり、香港浸会大学が1997年3月に実施した調査では、62%の人々がパッテン総督を支持。それは就任直後を上回る支持率だった。
中国本土との経済関係
深圳市を視察した鄧小平
(1992年1月18日)
パッテン総督の就任で、香港返還を前に英中関係は悪化した。その一方で、香港と中国本土の経済関係は、ますます緊密となった。
鄧小平は1992年1~2月にかけて、中国南部の主要都市を視察。改革開放政策を加速する方針を表明した。この南巡講話と呼ばれる一連の行動により、天安門事件で停滞していた改革開放政策が、息を吹き返した。
中国本土の安価なインフラや労働力に惹かれ、香港の製造業は広東省への直接投資を拡大した。中国本土で生産した製品を海外に向け輸出。香港は中国本土と海外を結ぶ中継貿易港として発展した。
国際自由貿易港に成長
海外から輸入した商品をそのまま海外に輸出することを“再輸出”という。香港では輸出額に占める再輸出額が急増した。香港返還の1997年は、香港の貿易額が天安門事件前の1988年に比べ、3.1倍に膨らんだ。このうち輸入額は3.2倍、輸出額は3.0倍だった。
輸出額は3.0倍となったが、このうち香港製品の輸出(地場輸出)は、1992年まで増加が続いたものの、製造業が中国本土に移転したことを受け、その後は減少傾向が続いた。1997年の地場輸出額は、1988年に比べ2.9%減少した。
その一方で中継貿易の拡大を受け、再輸出額が急増。1997年の再輸出額は、1988年の4.5倍に達した。輸出額に占める再輸出額の比率は、1988年は55.9%だったが、1997年には85.5%に達した。
再輸出額の大部分は、中国本土との貿易が占めた。中国本土を仕向地・仕出地とする再輸出額は、1988年にはすでに再輸出額全体の82.2%を占めていたが、1997年には93.8%に達した。
香港経済の構造変化
製造業の移転を受け、香港の地場経済は大きく変化した。1988年は87万人を数えた製造業の就業者だが、1997年には44万人に減少。この間の減少率は49.1%。つまり、ほぼ半減した。
その一方で、中継貿易港として発展したことを背景に、“卸小売業・貿易業・外食業・宿泊業”の就業者数は、1988年の66万人から、1997年には96万人に増加。この間の増加率は45.2%に達した。また、“運輸業・倉庫業・通信業”の就業者数も、1988年の25万人から1997年の34万人に増加し、増加率は39.9%だった。
後で紹介するが、株式市場でも香港と中国本土の緊密化が進んだ。香港は国際金融センターとして、本格的な発展期を迎えた。“金融業・保険業・不動産業・ビジネスサービス業”の就業者数は、1988年の18万人から急増し、1997年には41万人に達した。つまり、10年も経たずに、2倍以上に膨らんだことになる。
こうした就業者数の劇的変化は、香港社会の柔軟性を示している。同じような経済構造の変化が日本で起きた場合、日本人は対応できるだろうか。「リスクを恐れ、これまでの仕事に執着し、新天地に飛び込めず、失業者であふれるのではないか」と想像するのは、筆者だけだろうか。日本社会は香港社会に比べ、経済構造の変化に対して硬直的であり、コロナ禍への対応では、そうした問題があぶり出されているように見える。
話が横道にそれたので、元に戻そう。上記のような、構造的変化に直面しながらも、香港経済は成長が続いた。1997年の名目GDP(域内総生産)は、1988年の2.9倍に増加。香港経済は最高の状態で、返還を迎えることになった。
パッテン時代の株式相場
パッテン時代の株式相場は好調だった。パッテン総督が就任したのは1992年7月9日。その前日のハンセン指数は、終値が5,981.91ポイントだった。英領香港で最後の取引日だった1997年6月27日の終値は、1万5,196.79ポイント。この間の上昇率は、154.0%に達した。
パッテン時代の香港株式市場は、新時代に向けた変革が進んでいた。その変革とは、中国本土企業の上場。この連載の第二十四回でも紹介したが、香港証券取引所は1989年ごろから、中国本土の上場誘致を模索していた。
レッドチップとH株
“赤い資本家”と呼ばれた栄毅仁(右)と鄧小平(左)
シティックの第1回董事会(取締役会)
(1979年10月4日)
中国企業の香港上場は、1980年代から国有企業が香港上場企業を買収する形式で実施されていた。これらはいわゆる“裏口上場”。1980年代に香港への裏口上場を進めてきた国有企業としては、中央政府系の中国国際信託投資公司(CITIC=シティック)、華潤公司(チャイナ・リソーシズ)、招商局集団(チャイナ・マーチャンツ)のほか、広東省政府系の粤海集団、広東省広州市政府系の越秀集団などがあげられる。
中国政府系の資本が入った香港上場企業の株式は、“レッドチップ”と呼ばれた。
1991年には招商局集団が、香港で塗料会社を登記。この塗料会社は海虹集団に名前を変え、パッテン総督就任直後の1992年7月15日に、香港株式市場に上場した。裏口上場ではなく、株式の新規公開(IPO)で上場したレッドチップは、これが初めてだった。なお、香港株式市場に上場した海虹集団は、たびたび社名を変更。今日では招商局港口と名乗っている。
李業広・主席(左)と握手する朱鎔基(右) レッドチップ形式での上場は増えてきたが、中国本土で登記された企業が、香港に直接上場する道は、開かれていなかった。そこで、香港証券取引所の李業広(チャールズ・リー)主席が、1992年4月下旬に北京を訪問し、朱鎔基・副首相と会談。そこで、中国側が国有企業から10社ほど選び、香港に上場させることで合意した。
青島ビールで上場を祝う関係者 この合意に基づき、1993年7月15日に青島ビールが香港に上場。中国本土で登記された会社の株式が香港市場に上場するのは、これが初めてのことだった。中国本土の株式市場では、人民元で売買される株式がA株、外貨で売買される株式がB株と呼ばれていた。そこで、香港に上場した株式は、“H株”と呼ばれることになった。“H”は“Hong Kong”の頭文字を意味する。
ハンセン指数の公表を手掛ける恒指服務有限公司(HISサービシーズ)は、1994年8月8日から恒生中国企業指数(HSCEI)を発表。この指数はH株で構成されており、日本でもH株指数という呼び名で知られるようになった。
香港返還直前の1997年6月16日には、レッドチップで構成される恒生香港中資企業指数(HSCCI)を発表。パッテン時代の香港株式市場は、中国本土企業の存在感が高まる時期でもあった。
ジャーディン・マセソンの香港撤退
香港経済の中核を握っていた英国系のジャーディン・マセソンは、英中交渉が進行中の1983年3月28日に、登記上の本社をバミューダ諸島に移転すると発表。当時の香港株式市場に、大きな動揺をもたらした。
バミューダ諸島に移転したものの、ジャーディン・マセソンが香港の上場企業であることには、変わりはなかった。しかし、海外移転したことを理由に、ジャーディン・マセソンは香港証券取引所や監督管理当局に対し、上場規則など香港株式市場のルールを自社には適用しないように要求した。
そのような“特権”は認められないとして、ジャーディン・マセソンの要求は退けられた。すると、ジャーディン・マセソンは1992年9月7日に、“プライマリー上場先”をロンドン株式市場とし、香港株式市場を“セカンダリー上場先”に変更すると発表した。
セカンダリー上場先とすることで、香港の上場規則を遵守することが、一部免除される。そうしたうえで、ジャーディン・マセソンは特権を認めてもらうため、さらに圧力をかけた。
しかし、それが叶わないと悟ると、1994年3月23日に香港株式市場から撤退すると発表。デイリー・ファームや香港置地(香港ランド)などの傘下上場企業とともに、1994年12月31日で上場廃止となり、アジアでの上場先をシンガポールの株式市場に移した。
ジャーディン・マセソンのグループ事業
現在も香港経済に与える影響は大きい
こうして香港返還を前に、香港経済の中核にあった英国系のジャーディン・マセソンは、1994年で香港から撤退。中国本土企業はレッドチップやH株のかたちで、香港への進出を加速した。
ラスト・ガバナーの影響力
パッテン総督の就任以来、英中関係は悪化が続いた。その裏で、香港は中国本土との経済的な結びつきを強め、国際自由貿易港、国際金融センターとしての発展を遂げた。株式市場では香港返還を待たず、英国企業が撤退し、中国企業が進駐の足を速めた。
香港の学生運動を激励するパッテン元総督(左)
右は日本でも有名になった周庭(アグネス・チョウ)
(2017年9月)
香港の経済と金融の発展は、中国本土との関係が緊密化した結果だが、皮肉なことに、好景気は香港市民のパッテン支持にも作用した。香港の急成長も影響し、パッテン総督の残したリセンシー効果は絶大だった。今日の香港をめぐる英中対立でも、ラスト・ガバナーとして知られるパッテンの発言は、英国、中国本土、香港に大きな影響を与え続けている。