英中交渉に話を進める前に、返還前の香港と中国共産党(共産党)の関わりについて紹介しよう。英国が統治する香港に対し、共産党はまったくの無知だったわけではない。戦前から共産党は英領香港という特殊な地域を利用していたし、戦後も香港の社会や経済に一定の影響力を有していた。今回は中華人民共和国の閣僚級として初めて香港を訪れた李強という人物を軸に、中国近代史における共産党や鄧小平と香港との関わりについて話を進めることにする。
香港総督の歴史的公式訪問
第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースは、1979年3月24日に広東省広州の土を踏んだ。香港総督が中華人民共和国を“公式訪問”するのは、これが初めてだった。
広州~香港直通列車が30年ぶりに再開
本土訪問の帰路にマクレホース総督(右三)が乗車
香港と本土の関係変化を象徴する出来事だった
(1979年4月4日)
1955年に第二十二代香港総督のアレクサンダー・ウィリアム・ジョージ・ヘルダー・グランサムが北京を訪問したことはあるものの、当時の国際情勢を背景に、それは“私的訪問”という位置づけだった。マクレホース総督の公式訪問は、国際情勢や中国本土の政治情勢の変化を象徴する出来事でもあった。
マクレホース総督の公式訪問は、中国本土からの招きを受けて実現した。マクレホース総督を香港に招いた対外貿易部の李強・部長は、1978年12月に香港を訪問。中華人民共和国の閣僚級が公式に香港を訪問するのは、これが初めてだった
ただし、李強が香港を訪問したのは、これが初めてではない。最初の訪問では名前と身分を偽り、秘密裏に潜入。そこでは鄧小平との出会いもあった。李強にとって香港は、こうした因縁の地だった
李強が初めて香港を訪れたエピソードを理解するには、その当時の時代背景を知らねばならない。そこで、マクレホース総督の公式訪問から半世紀以上前の中国情勢を紹介しよう
広東大元帥府と国共合作
大元帥正装の孫文 “中国革命の父”である孫文は、1923年3月に広東省広州市に広東大元帥府を創設した。当時の中国は、袁世凱の死後に分裂した北洋軍が、北洋軍閥として各地に割拠し、北京政府(北洋政府)の実権をめぐり、抗争を繰り広げていた。こうした北洋軍閥と北洋政府に対抗する地方政権が、孫文の広東大元帥府だった。
広東大元帥府はソビエト連邦(ソ連)からの支援を受けていたことから、国共合作体制が築かれ、共産党員が二重党籍というかたちで中国国民党(国民党)に加わっていた。
1924年には国民党の軍隊である国民革命軍を創設するため、広州を流れる珠江の長洲島に、黄埔軍官学校が開設された。黄埔軍官学校では共産党員も要職に就任した。
国共分離の始まり
広州国民政府が組織した省港大罷工
中央の旗に「省港大罷工委員会」の文字
1925年3月12日に孫文が亡くなった後、広東大元帥府は同年7月に広州国民政府に移行。共産党に近い国民党左派は、同年に起きた香港の大規模ストライキ“省港大罷工”を組織した。こうした国民党左派・共産党の主導体制に対し、蒋介石など国民党右派は巻き返しを図ろうとしていた。
1926年3月に起きた“中山艦事件”を契機に、蒋介石が広州国民政府を掌握。国民党左派・共産党員を要職から排除した。ソ連の働きかけで、国共合作はかろうじて維持されたが、国民党右派と国民党左派・共産党の間に、亀裂が生じた
北伐に向かう国民革命軍 こうした国共分離の可能性を孕んだ状態で、蒋介石は1926年7月から孫文の悲願であった北部への侵攻“北伐”に着手。国民党左派・共産党員の勢力が低下したことで、香港の大規模ストライキは終息に向かった。
こうした経緯については、この連載の第三十六回で詳しく触れている。今回の話は、その続きでもある。
武漢国民政府と蒋介石の対立
北伐を開始した国民革命軍は、湖南省、湖北省、江西省、福建省に侵攻。北洋軍閥の呉佩孚、孫伝芳、張作霖などを打ち破った。こうした軍事的成功の一方で、国民党と共産党の主導権争いが激化した。
国民党第二期三中全会の記念写真
前列右から5番目は孫文の未亡人である宋慶齢
2列目の右から3番目には毛沢東の姿も
広州国民政府は1926年11月11日に、湖北省武漢に移転すると決定。これに対して軍事行動中だった蒋介石は、彼が指揮を執っている江西省南昌に移るよう主張した。こうして国民政府は、武漢と南昌に分裂し始めた。
蒋介石は1927年2月26日に南昌で中央政治会議を開き、共産党や国民党左派との対決姿勢を強めた。一方、武漢では3月10日に国民党の第二期中央執行委員会による第三回全体会議(国民党第二期三中全会)が始まった。
この会議はソ連代表のミハイル・ボロディン顧問と国民党左派が主導し、中央執行委員会の常務委員会と政治委員会から、国民党右派を排除。国民党左派と共産党員が多数派を占めた。
武漢国民政府が国民党左派と共産党の手に落ちたことを受け、蒋介石はさらに対決姿勢を強めた。
上海進駐と南京事件
周恩来の指揮下にあった上海の武装労働者
三度目の蜂起に成功した
周恩来が率いる共産党は北洋軍閥に対抗するため、1926年10月から上海の労働者による武装蜂起を計画したが、失敗を繰り返していた。国民革命軍が1927年3月20日に上海を包囲すると、翌日に起こした三度目の武装蜂起が成功。3月22日に国民革命軍は、上海に進駐した。
江蘇省南京では3月23日に国民革命軍が到着。戦わずして、北洋軍閥は敗走した。国民革命軍は3月24日に南京への進駐を開始したが、外国の領事館、境界、学校、商社、病院、住宅などを襲撃する事態に発展した。
1925年に起きた“五・三〇事件”の影響もあり、英国と日本の領事館が主な襲撃対象となった。両国の領事が負傷したほか、英国人、米国人、フランス人、イタリア人など多数が死傷した。
この襲撃事件より前の1927年1月には、武漢や江西省九江の英国租界でも、北伐の成功にともない、排外主義的な同様の事件が起きていた。これを英国は国民政府による挑戦と受けとめ、中国への兵力派遣を強化していた。米国や日本も、警戒を強めていた。こうした情勢を背景に、南京付近の長江には、軍艦が待機していた。
米国領事は襲撃を受け、長江の米英軍に救援信号を発した。これを受け、米英の軍艦が艦砲射撃を開始。襲撃事件は終息に向かった。
襲撃事件を起こしたのは、国民党の程潜が率いる国民革命軍だった。しかし、蒋介石は当初、襲撃事件は国民革命軍に偽装した北洋軍閥軍の所業と発表。その後、外人居留民などの証言から、襲撃犯の兵士が国民革命軍の軍服を着ていたことが判明すると、再び釈明に迫られた。
武漢英国租界の惨状
1927年1月3日に襲撃事件が発生
燃え残った国旗を手にした南京の米国領事
大きな外交問題に発展したことから、蒋介石は南京事件の関係者に対する厳罰を表明すると同時に、事件の背景に共産党による策謀があったと説明した。ソ連と共産主義に対する警戒感を背景に、日本、米国、英国でも共産党による謀略説が広まり、国民党と共産党の対立は、さらに深まった。
こうした混乱はあったものの、南京も国民革命軍の手中に落ち、蒋介石はここを南昌に代わる新拠点に定めた。
上海クーデターと共産党弾圧
1927年3月26日に上海に到着した蒋介石は、4月5日に上海の裏社会を支配する青幇の三大ボスである杜月笙、黄金栄、張嘯林と会談した。そこで青幇の三大ボスに中華共進会と上海工界聯合会を組織させ、共産党の指導下にある労働者組織の上海総工会に対抗することが決まった。
蒋介石は4月9日に上海を離れ、新拠点の南京に移動した。蒋介石が去った後の4月12日に、青幇の協力を得た国民革命軍が、共産党員に対する大規模な粛清を開始。数多くの共産党員や労働者を逮捕・殺害した。この上海クーデター(四一二事件)を契機に、国民党右派による共産党弾圧の動きが、他の都市にも拡大した。
1927年4月12日の上海クーデター
街中で射殺される共産党員
上海の路上で斬首される共産党員
南京国民政府の成立式典
共産党員を受け容れている武漢国民政府は、上海クーデターの発生を知ると、4月17日に蒋介石の党籍はく奪を発表。一方の蒋介石は、4月18日に南京国民政府を樹立。共産党員を受け容れている武漢国民政府に対抗した。この対立は“寧漢分裂”と呼ばれる。寧とは南京の旧称である江寧を意味し、漢は武漢を指す。
だが、武漢国民政府も共産党の排除に乗り出す。武漢国民政府の主席だった汪兆銘が、ミハイル・ボロディン顧問による謀略を感知したことが原因だった。ミハイル・ボロディン顧問は国民政府を分裂させ、共産党に武漢の政治権力を奪取させる計画だったようだ。
武漢国民政府は共産党に対する取り締まりを始め、ミハイル・ボロディンなどソ連の顧問を解任。7月15日に武漢国民政府は共産党の排除を正式に発表した。武漢国民政府の汪兆銘らは、南京国民政府との合流を決定。9月17日に合流が完了したことが発表された。これを“寧漢合流”という。
上海クーデターを契機に、共産党排除の動きが全国に広がった。共産党は地下に潜伏することを余儀なくされ、やがて活路を求めて農村地域に進出することになる。
地下組織化と特務機関の創設
上海クーデターで共産党は大打撃を受けた。共産党は結党当初から独自の軍事力を持たず、諜報活動などを手掛ける特務機関もなかったことから、ダメージは深刻だった。そうした反省から、いまさらながら軍事力の掌握と特務機関の構築に着手した。
上海租界で活動していた頃の周恩来 上海クーデターから間一髪で生き延びた周恩来は、1927年5月下旬に武漢に到着すると、“中央軍事部”の部長に就任した。実際の軍隊を持たない名ばかりの部長だったと言える。
共産党弾圧の動きが広がるなか、党幹部の保護や党員の勧誘を目的とした特務機関の創設も決まった。こうして特務工作処が設けられた。その特務班長に就任したのが、マクレホース総督を公式訪問に導いた李強だった。
7月15日に武漢国民政府が共産党を排除すると、共産党中央委員会は秘密裏に上海租界に移転し、そこに潜伏することになった。租界警察や国民党の追っ手から逃れながら、地下活動を展開することになり、特務工作処の任務は重要性を増した。
南昌蜂起と人民解放軍の誕生
南昌蜂起を実行した朱徳(右)と賀竜(中央)
左の人物は鄧小平
(1949年)
周恩来は1927年7月15日に武漢を離れ、南昌に向かった。目的は国民革命軍・第一集団軍のうち、共産党シンパの多い第二方面軍を掌握すること。そのために第二方面軍の内部で反乱を起こす計画を立てていた。
第二方面軍は第九軍、第十一軍、第二十軍で構成される。うち第十一軍の副軍長の葉挺は共産党員であり、第二十軍の賀竜は共産党シンパ。また、南昌の公安局長である朱徳は共産党員だった。
八一軍旗を広げた訓練中の兵士たち 彼ら三人は8月1日に武装蜂起を決行し、南昌を制圧。中国人民解放軍の前身である中国工農紅軍は、この南昌蜂起をもって創設されたとされる。中国人民解放軍の軍旗などには「八一」と記されているが、これは建軍記念日に由来する。
南昌で放棄した反乱軍は当初の計画通り、新政権の樹立を目指して広東省方面に南進した。それは国民革命軍の追撃を受けながらの苦難の行軍だった。いまでは世界屈指の軍事力を有する中国人民解放軍だが、誕生当初はちっぽけな反乱軍であり、前途多難のスタートだった。
無線技術を習得せよ
上海租界の特務工作処は、1927年11月に中央特別行動科(中央特科)に改組された。本部は上海。周恩来は“伍豪”という偽名を使い、直接指揮を執ることになった。中央特科は上海租界を舞台に、情報工作の地下活動を展開。裏切り者への報復や国民党幹部を暗殺する“濡れ仕事”も担当し、“伍豪之剣”と呼ばれ、恐れられた。
中央特科が置かれた建物
上海市武定路930弄14号
特務班長の李強
(1923年)
1928年の共産党の第六回全国代表大会は、中国国内に安全な場所がなかったことからモスクワで開かれることになり、周恩来も秘密裏に出国した。モスクワから帰った周恩来は、特務班長の李強に無線技術を学ぶよう指示。秘密通信局を開設するため、無線短波送受信機を製造することが目的だった。
共産党中央政治局が潜伏した建物
上海市雲南路171号
1928年5月~1931年4月に利用
上海公共租界の警察隊
(1928年)
秘密通信局があった延安西路420号の建物 その当時の上海では、国民党が無線用機材や無線送受信機の販売を厳格に統制。共産党が無線送受信機を入手するには、自ら製造する必要があった。上海租界の共産党中央委員会は、陸の孤島に近い状態であり、各地の党組織と迅速に連絡を取り合うには、短波通信の無線送受信機を採用するほかなかった。だが、共産党に無線通信の専門家は一人もいない。開発のハードルは高かった。
周恩来の指示を受けた李強だが、建設技術を学んだことはあるものの、無線通信技術については、まったくの門外漢だった。しかし、周恩来は覚えていた。共産党が1927年3月に上海で起こした武装蜂起の際、李強が独学で黄色火薬を作り出し、爆弾や手榴弾を製造していたことを。
それを例に挙げ、「私が見たところ、君は“何でも屋”だ。専門家でもないのに、爆弾や手榴弾を作ったじゃないか。できないことは、学べば良い。君は頭が良いし、手先も器用だ。困難があれば、できる限りのことはする」と、周恩来は李強を激励した。
その日から李強をはじめとする開発グループの猛勉強が始まった。無線技術に関する英語の本を入手し、独学を開始。アマチュア無線家の仲間にも入り、知識や技術を習得した。通信会社に潜り込んでは、オペレーターの動作を目に焼き付け、技術を盗んだ。
コネを使って、無線送受信機を見せてもらうと、急いで分解し、配線図を書き起こした。李強は“張振声”という偽名を使っていたことから、いつしか“張エンジニア”と呼ばれるようになった。
その成果もあり、上海の外資系商店で部品を買い集め、1929年の春には共産党で初の無線短波送受信機を完成させた。秘密通信局を上海の大西路福康里(現在の延安西路420号)に開設。租界警察に見つからないように、巧妙にアンテナを隠した。これを使い、上海租界の共産党中央委員会は、各地の党組織と連絡を取ることに成功した。
短波通信を国民党が使い始めたのは1931年末ごろであり、共産党は情報戦で優位に立つことができたと言えよう。
香港潜入に成功
共産党中央委員会は1929年12月、李強を香港に派遣すると決定した。目的は香港に二つ目の秘密通信局を開設すること。李強は富豪を装い、香港行きの客船に乗った。一等室に持ち込まれた大きなカバンには、自作の無線短波送受信機が入っていた。
1930年代のネイザンロード(彌敦道) 無事に香港に到着したものの、そこで待っていたのは荷物検査の警察官だった。李強は何食わぬ顔で、4元ほどの紙幣を警察官のポケットにねじ込んだ。警察官は見て見ぬふりをし、李強のカバンにチョークで検査済みの印を記した。警察官は李強を単なる密輸商人とみなした。
こうして香港に潜入した李強は、ネイザンロード(彌敦道)にある建物の4階に、秘密通信局を設置。1930年1月には香港~上海の通信に成功した。
1929年に香港に潜入した李強だが、その時の身分は富豪を装った特殊工作員だった。警察官には富豪を装った密輸商人と思われた。それから半世紀後の1978年12月に、中華人民共和国の対外貿易部・部長として香港を訪れることになるとは、その当時の李強は夢にも思わなかっただろう。
李強が香港に潜入していた1930年1月、鄧小平は広西省(現在の広西チワン族自治区)に向かうため、香港に立ち寄った。その目的の一つは、李強に接触することだった。なぜ鄧小平は李強に会おうとしたのか?そこで、若き日の鄧小平の活動を見てみよう。
フランスに渡った鄧小平
鄧小平は1920年に16歳で故郷の四川省広安を離れ、フランスに向かった。働きながら留学することが目的だった。フランスの高校に入学したものの、第一次世界大戦後の不況で生活難に陥り、退学せざるを得なくなった。さまざまな仕事を転々としたが、どこも長時間労働で、得られる賃金はわずかだった。フランスに滞在する中国人の若者は、多くが似たような状況にあった。
フランスで撮影した鄧小平(右)の写真
左は一緒に渡仏した叔父の鄧紹聖
(1921年3月)
そうした過酷な労働環境に対する反感を背景に、1922年に“旅欧中国少年共産党”が設立された。それは1923年に“旅欧中国共産主義青年団”となり、周恩来が執行委員会書記を務めた。これに鄧小平も入団。働きながら、共産主義の宣伝活動に明け暮れた。
鄧小平と周恩来は、いつも深夜まで一緒に印刷作業を没頭していた。鄧小平は周恩来を尊敬し、弟分とみられるようになる。周恩来の働きぶりを観察し、鄧小平は組織構築の手法などを学んだという。
1924年1月に国共合作が成立すると、周恩来は国民党パリ支部の部長を務めることになり、同年7月には中国国内で活動するよう命じられた。周恩来の後を継いだ鄧小平は、フランスでの共産主義運動や中国人労働者運動を組織した。
フランス留学時代の周恩来(右二)
旅欧共産主義小組のメンバーと撮影
1925年5月に鄧小平に指令が届き、モスクワでの研修を受けた後に帰国し、革命運動に参加するよう命じられていた。それにもかかわらず、鄧小平はフランスでの活動を継続した。そうした活動の最中に、鄧小平は自動車メーカーのルノーで働いたこともある。鄧小平が1979年の訪米でフォード工場を見学した際、要領を得た質問ができた背景には、こうした経験があった。
フランス警察に目をつけられていた鄧小平は、1926年1月にモスクワに向かった。フランス生活で大好きになったポテト、チーズ、クロワッサン、ワイン、コーヒー、サッカーとも、しばらく別れることになった。
逆風下での帰国
鄧小平にとって最初の妻だった張錫媛 モスクワでの研修では、蒋介石の息子である蒋経国と同期生だった。ここで鄧小平は本格的な学問に触れ、熱心に学んだが、1年ほどで帰国することになった。モンゴル経由で帰国した鄧小平は、1927年3月ごろから陝西省を中心に活動を始めた。4月に上海クーデターが起きると、共産党員に対する弾圧が始まり、武漢国民政府に向かうことになった。
7月に武漢に到着した鄧小平は、ここで兄貴分の周恩来と再会。中央秘書として働き始め、名前も“希賢”から“小平”に改めた。10月までに共産党中央委員会は上海租界への移転を完了。鄧小平は中央秘書長に就任し、周恩来をサポートすることになる。鄧小平は短期間で上海語を習得するなど、地下活動では優秀な“連絡人”となった。
上海租界での地下活動を続けるなか、1928年の冬に鄧小平は同じ共産党員の張錫媛と結婚した。鄧小平とはモスクワで知り合った仲で、彼女も上海租界で地下活動に加わっていた。鄧小平夫妻は周恩来夫妻の隣に住み、租界警察や国民党の目をかいくぐりながら、新婚生活を営んだ。
広西省での任務と突然の不幸
1929年撮影の鄧小平 新婚だった鄧小平に、広西省に向かうよう指令が下された。1929年8月下旬のことだった。目的は広西省の百色県と竜州県で武装蜂起し、現地の兵力と政権を奪取することだった。妊娠中の新妻を上海に残しての任務だった。
“鄧斌”という偽名を使い、商人を装って香港行きの客船に乗り、広西省に向かった。広西省に到着してからは、武装蜂起の準備を進めた。
武装蜂起直前の11月に、鄧小平は中央委員会への報告のため、上海に戻るように指示を受けた。彼が不在中の12月11日に、準備していた実行部隊が、百色県での武装蜂起に成功。そこは共産党の軍隊である中国工農紅軍第七軍(紅七軍)の支配地となった
鄧小平が上海に滞在していた1930年1月、妻の張錫媛は難産の末に女の子を出産。しかし、産褥熱を発症した。鄧小平は妻を見守ったが、数日後に死亡。生まれたばかりの女の子も、すぐに亡くなった。
大きな不幸に見舞われた鄧小平だが、広西省の情勢は予断を許さなかった。亡くなった妻を埋葬することもできないまま、香港経由で広西省に向った。鄧小平が李強との接触を試みたのは、この時だった。
李強への依頼
香港の地下ルートを通じて李強を探し出した鄧小平は、広西省から上海に無線通信する際のコールサインや暗号などを尋ねた。これは今後の任務のために重要だった。さらに鄧小平は、個人的なことを李強に頼んだ。それは妻の埋葬だった。特殊工作員の李強は、死亡した共産党員の埋葬係でもあったからだ。
張錫媛の墓
上海市の竜華烈士陵園
張錫媛が地下活動の際に使ったスカーフ
香港での任務を終えた李強は上海に戻り、張錫媛の埋葬責任者となった。公共墓地に埋葬し、墓碑銘は“張周氏”という偽名を使った。共産党員は地下活動に携わっていたため、墓碑銘も偽名を使うことが多かったという。
1949年に中国人民解放軍が上海に進駐すると、鄧小平は真っ先に妻の墓を探した。しかし、公共墓地は日本軍によって飛行場に変えられ、発見は困難だった。だが、ここでも李強の能力が発揮された。卓越した記憶力を頼りに、見事に張錫媛の墓を発見。丁重に改葬した後、鄧小平は再び戦地に旅立った。
なお、鄧小平はその生涯において、香港に5回立ち寄ったと言われる。最初は16歳の時で、フランスに向かう途中だった。残りは1929~1931年で、いずれも広西省と上海を往復する旅の途中だった。
こうした経験から、英領香港の実情や中国本土との違いを鄧小平は熟知していた。そのうえ、フランスでの生活を通じて、欧州人との交渉にも強い。香港の前途をめぐる交渉で、英国にとって鄧小平が手ごわい相手であることは明らかだった。
李強の多彩な活躍
鄧小平と李強には、こうした縁があった。その後の李強は無線通信を中心とした軍事エンジニアリングの道を歩む。1931年にモスクワに派遣され、無線通信技術を本格的に学び、ロシア語も習得した。中華人民共和国の成立後は、国営ラジオの責任者に就任。無線通信と電話通信の責任者も兼任した。
上海租界での地下活動で、商品取引市場や証券市場にも詳しかったことから、1952年には対外貿易部の副部長に就任し、駐ソ中国大使館で勤務。経済分野でも活躍することになる。1955年には無線通信理論での功績が評価され、中国科学院の学部委員(院士)にも選ばれた。
1961年4月にソ連を訪問した李強(右五)
中央の人物はソ連最高指導者だったフルシチョフ第一書記
1973年に李強は対外貿易部の部長に昇進。1979年に米中の国交正常化が実現すると、対外貿易部のトップとして、李強が「米中貿易関係協定」に署名した。李強は革命家であると同時に、科学者でもあり、経済の専門家でもあった。マクレホース総督を北京に招待した李強とは、こうしたマルチな才能を持つ人物だった。
共産党の香港拠点
地下組織化した共産党にとって、香港経由の移動ルートは、国民党の支配地域を通るよりも、比較的安全だった。それゆえ、鄧小平は広西省での活動に当たって、このルートを何度も往復した。
孫文未亡人の宋慶齢が香港に設立した保衛中国同盟の記念写真
右端は粤華公司を設立したばかりの廖承志
左から4番目が宋慶齢
(1938年6月)
国民党ではなく英国が支配する香港は、共産党の対外窓口としても重要性が増した。この連載で何度も紹介した廖承志は、1938年1月に香港を訪れた。日中戦争が始まったことを受け、ここに共産党の軍隊である八路軍の秘密事務所を開設することが目的だった。
この事務所の表向きは、クイーンズロード(皇后大道)の茶葉商「粤華公司」。事務所の目的は、海外に対する共産党の宣伝、各国から共産党への支援物資の輸送、国際情勢の収集にあった。
この事務所の開設については、周恩来が事前に英国大使に知らせており、同時に香港総督からの支援を要請。非公開の事務所であることから、日中戦争における英国の中立を阻害しないと説得した。
だが、1939年3月に香港警察が粤華公司を捜索し、関係者5人を逮捕。周恩来や廖承志が説得に当たり、逮捕者の釈放に至ったが、大量の関係書類が押収された。これ以降、香港でも共産党の活動も地下組織化した。
華潤公司の誕生
聯合行を設立した秦邦礼
兄は共産党早期の指導者の秦邦憲(博古)
香港の秘密事務所と同時に設立されたのが、聯合行(Liow & Co.)という貿易会社。共産党のために活動する香港企業であり、1948年に華潤公司に改名した。華潤とは毛沢東の字である「潤之」に由来し、「中華潤之」(中華これを潤す)の意味が込められている。
華潤公司は1983年に華潤(集団)有限公司に改組され、2003年からは国務院国有資産監督管理委員会が直接管理する中央企業となった。幅広い産業に影響力を持つ複合会社に成長しており、多くの上場企業を傘下に置く
華潤公司が準備した1957年の広州交易会 そもそも華潤公司は党営企業だったが、1952年に中華人民共和国政府に移管された。香港を拠点に活動を続け、1957年には広州で貿易展示会の中国進出口商品交易会(広州交易会)を開催。改革開放前の中国で、対外貿易の唯一の窓口として活躍し、全国の貿易額の3分の1を取り扱ったこともあった。
華潤公司の影響力
香港へ食肉用豚を輸送する専用特快列車 華潤公司の傘下にある香港の五豊行は、1951年に設立された食品専門の卸売会社。中国本土から香港に供給される食肉を独占しており、大きな影響力があった。1962年からは武漢、上海、河南省鄭州からの専用特快列車で、香港への食肉供給を続けており、プロレタリア文化大革命(文革)の最中でも、それは途切れることがなかった。
1973年に東南アジアで米凶作となり、香港の米価が高騰。五豊行は中国本土の米を香港に供給した。同年の石油危機の際が、華潤公司が中国本土の石油を香港に輸入。華潤公司は中国本土の商社として香港で活動し、市民生活に与える影響は大きかった。
英中交渉の牽制役に
天水囲(2016年) 香港の華潤公司は商社として振る舞い、直接投資などの活動は低調だった。しかし、改革開放政策が始まったばかりの1979年3月に、それまでになかった行動を起こした。それは新界(ニューテリトリー)の元朗にある天水囲の土地開発に参加することであり、開発会社の株式51%を掌握した。そのほかの株式は、新進気鋭の実業家だった長江実業の李嘉誠や四大英国系企業の一つであるウィーロック(会徳豊)などが取得していた。
天水囲の開発計画は、新界の租借期限である1997年6月30日を超えるものであり、さまざまな憶測を呼んだ。華潤公司の性質から、純粋な投資ではなく、政治的な背景があるとの見方が強かった。天水囲は中国本土に近く、戦略的な意味も考えられる。
天水囲の開発計画に華潤公司が参加したのは、まさに英国が香港の前途をめぐる中国のとの交渉を始めようするタイミングであり、香港政庁も注目した。
華潤公司による新界での土地開発を許すということは、英国が香港統治の継続を放棄したとも受けとめられるからだ。そうなっては、中国との交渉で英国に不利に働く。こうした事情もあってか、香港政庁は1982年に華潤公司と長江実業から、天水囲の土地を買い戻し、ニュータウン(新市鎮)建設に切り替えた。
華潤大廈の落成式典
(1983年)
英中交渉において、華潤公司は牽制役として機能した。天水囲の開発だけではない。華潤公司の本部は、1952年から香港島セントラル(中環)の中国銀行大廈(バンク・オブ・チャイナ・ビルディング)にあったが、1979年に香港島・湾仔の湾景中心(コーズウェイ・センター)のA棟を購入し、そこに移転。同年12月には湾仔の埋立地に華潤大廈(チャイナ・リソーシズ・ビルディング)を建設すると発表した。
改革開放を機に、華潤公司の香港での活動は拡大し、英中交渉にも影響を与えた。また、華潤公司よりも長い歴史を有している香港の招商局輪船も、動きが活発化した。
歴史に翻弄された招商局輪船
輪船招商局大楼
門には「輪船招商総局」の文字が残る
上海市中山東一路9号
清王朝では1861年から、欧州近代文明を吸収することで国力増強を図る“洋務運動”が始まった。北洋通商大臣だった李鴻章は西太后の承認を得て、1873年1月13日に海運会社の輪船招商総局(当初は輪船招商公局)を上海に創設。米国のラッセル商会や英国のスワイヤ商会などと競い合った。この輪船招商総局はただの海運会社にとどまらず、保険業、鉱業、製造業、銀行業などにも投資を広げた。
1911年の辛亥革命で清王朝が崩壊すると、中華民国政府に接収され、商弁招商局輪船公司に改称。経営トップには伍廷芳が就任した。彼は第八代香港総督ジョン・ポープ・ヘネシーの下で働いた人物であり、この連載の第三十三回でも紹介したことがある。
その後も何度か社名が部分的に変更されたが、“招商局輪船”が使われ続けた。国共内戦で国民党が不利になると、1949年4月に台湾に招商局輪船の総管理処を開設。一方、1949年5月に共産党は上海にあった招商局輪船の本社を接収。こうして招商局輪船の資産は、大陸側と台湾側に分かれた。
香港で決起した招商局・鴻章号のメンバー 英領香港では1950年1月15日に招商局輪船の船舶13隻と従業員600人が決起し、中華人民共和国に帰属することを宣言。香港に残った招商局輪船は、中華人民共和国交通部の管轄企業となった。香港の招商局輪船は1956年から業務を再開し、香港島西部で埠頭を経営していた。
一方、台湾に渡った招商局輪船は、1971年に中華人民共和国が国際連合(国連)の代表権を得ると、「中国を継承する」との名目で接収されることを避けるため、陽明海運を設立し、そこに資産を移した。
改革開放が始まると、香港の招商局輪船も活性化。1979年1月31日に深圳市に蛇口工業区を建設することが承認され、外資誘致の窓口として活動した。なお、招商局輪船は中央政府が管轄する招商局集団となり、いまでは多数の上場企業を抱える複合企業に成長している。
英中交渉前の勝利宣言
六七暴動の鎮圧に当たる香港警察
香港の街角にも毛沢東の姿が
香港での記者会見(1978年12月)
対外貿易部の李強・部長(右一)
華潤公司の張光斗・総経理(右二)
香港は戦前から共産党にとって重要な中継地点であり、なじみの活動拠点でもあった。1967年の“六七暴動”に見られるように、戦後も香港社会への影響力も有していた。香港政庁が立法局の民主化に踏み切れなかった一因に、選挙を実施すれば共産党寄りの左派市民が議席の大半を占めることへの警戒感もあったほどだ。
改革開放と英中交渉の始まりに際しては、それまで低調だった華潤集団や招商局輪船などの駐香港企業をフル活用。外資誘致や英中交渉が有利に展開するよう機能した。
話を1978年12月に戻そう。香港を訪問した対外貿易部の李強・部長は記者会見の席上、「中国の現代化計画には、数百億ドルに上る外貨の支援が必要だ。この分野で香港は機能することになるだろう」と語った。
これは英中交渉が始まる前の話だが、すでに鄧小平にとって香港返還は織り込み済みで、返還後の香港の役割や位置づけさえ固まっていたことが伺える。交渉前から鄧小平は、もっと先の将来を見据えていたのだろう。
実際に多くの中国企業が香港株式市場に上場し、海外から資金調達するようになる。振り返ってみれば、香港の未来を示唆した李強の発言は、英中交渉前の勝利宣言と言えるのかも知れない。