第二次世界大戦と中国本土の国共内戦は、香港華人社会を大きく変えた。3年8カ月に及んだ日本占領時代を経て、香港の社会と経済は徹底的に疲弊。香港華人社会のリーダー格である“香港望族”も、災難を免れることはできなかった。こうしたなか、国共内戦で中国共産党の勝利が迫ると、経済先進都市だった上海から、企業経営者とその資産が英領香港に流入。英領香港の戦後復興にとって、強力な追い風となった。
呉王だった夫差(紀元前5世紀)の矛
銘文は「呉王夫差自作用矛」
越王だった勾践(紀元前5世紀)の剣
銘文は「越王鳩浅(勾践)自作用剣」
王羲之の真筆「快雪時晴帖」
戦後直後の香港華人社会では、その上流層に上海出身者が加わることになる。そうした上海出身者のなかでも、戦前の上海で上流層を経営していた“寧波商幇”は、際立つ存在だった。今回は戦前の上海と戦後の香港で活躍した“寧波商幇”の活躍を紹介する。
中華文明の圏外だった江南
上海を含む長江南岸の下流地域は、古くから“江南”と呼ばれていた。長江の南という意味だ。春秋時代は呉国と越国がこの地で争い、その激しさは有名な“呉越同舟”や“臥薪嘗胆”などの四字熟語に残り、古くから日本にも伝わっている。
古代の呉国や越国は、その風俗や言語が中華文明の中心地だった中原地域とまったく異なっていた。例えば、呉人や越人は髪を結わず、身体に刺青を入れていた(断髪分身)。これは「魏志倭人伝」に記された倭人の習俗と共通する。それゆえ、中原地域の人々から、蛮族とみなされた。
現代の上海市民のY染色体を調査したところ、黄河流域をルーツとする遺伝情報は、上海市中心部で約45%、上海市郊外で約30%にすぎかったという。このことから、古代において黄河文明の人々と江南の諸民族が接触し、徐々に融合していったことがうかがえる。
呉人や越人の言葉は“鳥の言葉”と蔑視された。呉語や越語との融合で生まれた江南の諸方言は、その後も長期にわたり嘲笑の対象となった。例えば、五世紀前半に編纂された劉義慶の「世説新語」には、次のような話がある。
四世紀前半に活躍した仏教僧の支遁は、河南省出身だったが、華北の戦乱を逃れ、江南に建国された東晋に移った。支遁は “書聖”として名高い王羲之の息子たちと会談するため、彼らが住む会稽(浙江省紹興)を訪れた。ある人が支遁に「王家の息子たちはどうだった?」と、感想を尋ねた。
すると支遁は、「白い首のカラスどもが、カーカーと鳴いていたよ」と答えたという。支遁は王羲之の息子たちが話す江南の呉語をカラスの鳴き声に例えて、馬鹿にしたという話だ。王羲之は山東省の門閥貴族である琅邪王氏の出身で、幼少期に江南に移住した。その次世代はすっかり呉語のネイティブ・スピーカーになっていたことがうかがえる。
江南の発展
そうした江南地域も、南北朝時代に開発が進む。隋王朝の時代には大運河が開削され、他地域との交易が容易になった。唐王朝時代の時代に、都の長安が荒廃すると、中国社会は大きな変革期を迎える。門閥貴族の時代が終焉し、庶民中心の時代が到来。これを日本の東洋史学界では、唐宋変革と呼ぶ。
宋王朝の都は、大運河の中継地である河南省開封に置かれた。ベトナムから占城米(チャンパ米)が伝わると、江南で二期作が始まり、ここは穀倉地帯に変貌する。“蘇湖熟すれば天下足る”という言葉に象徴されるように、江蘇省の蘇州や浙江省の湖州の米だけで、天下の食糧をまかなうことができたと言われる。
食糧生産が飛躍的に向上したことで、この時代にさまざまな手工業や商業が始まり、大いに発展した。これは改革開放で農業の生産性が高まった江南に、数多くの郷鎮企業が誕生したのと同じメカニズムと言える。宋王朝の時代は金融も発達し、四川では“交子”と呼ばれる物資の預かり証が、決済に使われた。これは世界初の紙幣と言われる。
張択端(北宋)の代表作「清明上河図」
北宋時代の四川省で流通した“交子”
世界最初の紙幣と呼ばれる
江南の米は大運河で開封に運ばれ、その繁栄を支えた。開封の豊かな都市生活は、有名な「清明上河図」に細かく描かれており、その様子を知ることができる。宋王朝はその当時の欧州を凌駕する経済先進国だった。
北宋が女真族に滅ぼされると、宋王朝は南遷し、浙江省の臨安に都が置かれた。臨安とは現在の杭州市。江南は首都圏となり、ますます繁栄した。やがて南宋もモンゴル帝国に滅ぼされるが、元王朝の時代も臨安の繁栄ぶりは健在だった。
マルコ・ポーロは「東方見聞録」の中で、この都市を“キンザイ”として欧州人に紹介。“間違いなく、世界で最も豪華で豊かな都市”と評価し、その詳細を伝えている。
元王朝の末期に、朱元璋は江南の諸勢力を統一。江南の経済力を背景に、元王朝を北に追い払い、明王朝を建国した。これは中国史上初の江南勢力による統一王朝の樹立だった。
明王朝の時代になると、江南では主要産業が稲作から絹織物業や綿織物業に変化した。食糧生産の中心は、長江中流域の湖北省や湖南省に移り、“湖広熟すれば天下足る”と呼ばれるようになった。江南は商工業の中心地となり、その食糧事情を長江中流域が支えるという形が整った。
江南の発展ぶりと豊かさは、清王朝の皇帝を魅了。康熙帝と乾隆帝は、いずれも6度にわたり江南を巡行している。
戦前の上海と香港
このように上海が属する江南は、数百年にわたり中国経済の中心地だった。1842年の南京条約で、香港は英国の植民地となり、上海も開港。その時点で江南はすでに中国経済の先進地域だったことから、そこに位置する上海は、香港を凌ぐ勢いで発展した。
1930年の人口を比較すると、香港が85万人だったのに対し、上海は314万人。1934年の香港では、華人資本の工業投資額が5,124万元だったのに対し、1933年の上海の工業資本は1億9,087万元。1931年の香港では、華人資本の製造業が800社ほどであり、1933年の上海の23%ほどにすぎなかった。
香港は英国の植民地であり、香港華人は不平等に扱われた。一方、上海は列強諸国が管理する租界があったものの、その主権は清王朝や中華民国にあり、上海華人の自由度は高かった。この違いも、上海と香港の経済格差の一因だったと言えるだろう。
黄浦江に臨む上海共同租界のバンド(外灘)
(1928年)
戦前は対外貿易や金融業も、上海が中国の先頭を走り、香港はその後を追っていた。人材や資本も、香港から上海に流れていた。だが、第二次世界大戦と国共内戦は、この流れを逆転させた。1947~1949年に香港の製造業は当初の704社から1,309社に急増。工業生産も15億6,000万香港ドルから23億3,000万香港ドルに拡大した。
戦火や中国の共産化を恐れ、少なからぬ人材と資本が、上海から英領香港に流れ込んだ。ざっくりと言えば、上海経済の規模は香港経済の4倍ほど。その一部が流れ込むだけでも、戦後の香港経済にとっては、強力なカンフル剤となった。
では、英領香港の戦後復興に貢献した上海の人材と資本は、どのようにして誕生したのか?そこには上海に移住した寧波人の商業活動があった。それを紹介する前に、まずは中国各地に生まれた商人集団の活動を見てみよう。
明清時代の十大商幇
明王朝と清王朝の時代を“明清時代”と呼ぶ。この時代の特徴の一つとして、“商幇”の活躍が挙げられる。商幇とは地縁で結びついた中国各地の商人集団を意味する。商幇は数多くあったが、なかでも“十大商幇”の隆盛が有名。十大商幇とその根拠地は、以下の通りだった。
◆晋商幇(山西省)
◆徽商幇(安徽省黄山周辺)
◆竜游商幇(浙江省中西部)
◆寧波商幇(浙江省寧波)
◆洞庭商幇(江蘇省蘇州)
◆江右商幇(江西省)
◆広東商幇(広東省)
◆陝西商幇(陝西省)
◆山東商幇(山東省)
◆福建商幇(福建省)
これらを見ると、言語事情が複雑な華南・華中地域に、商幇が多いことが分かる。同じ方言を話す同郷者同士で連帯することが、商幇が生まれる背景にあるようだ。華北地域では山西省の晋商幇があった。華北地域では官話方言が広範囲に使われるが、山西省だけは古風な晋語という方言の地域だ。晋商幇が誕生した一因にも、やはり言語事情があったと推測できる。
これらのうち、明清時代に有名だったのが、晋商幇と徽商幇。高校世界史の授業では、山西商人、新安商人(徽州商人)などと教えられる。両者は朝廷とのつながりがある政商として活躍し、広範な商業ネットワークを構築。北部の晋商幇と南部の徽商幇が、中国市場を二分していた。
マレーシアの首都クアラルンプールの関帝廟 晋商幇は盗賊の襲撃に備え、武術を重視。商売の神としての関羽信仰も、晋商幇に始まると言われる。一方、徽商幇は儒教を重視していたことから、“儒商”とも呼ばれる。好対照な二大商幇だったが、いずれも清朝末期に衰退した。
寧波商幇の勃興
晋商幇と徽商幇が衰えるなか、勃興したのが寧波商幇だった。浙江省寧波鎮海県の方氏一族は、嘉慶年間の1796年に杭州湾を縦断し、長江河口の上海に進出した。方建康が上海に“方泰和”という店を開き、砂糖や乾物の商売を始めたのがきっかけだった。
方建康の従弟である方介堂も、道光年間の1821年に上海に進出。“方義和”という店を開設し、従兄と同じく砂糖を扱う商売を始めた。商売はますます繁盛し、扱う商品も多様化。鎮海方氏一族が発展する基盤を築いた。
17世紀の上海県城を描いた図
城壁は1913年に撤去され、北半分は人民路となった。
方介堂の甥である方潤斎は、1830年に貿易業が盛んだった上海の南市に、“履和銭荘”を開業。これは方氏一族が上海に開いた最初の銭荘だった。銭荘とは貸付業などを営む両替商。長江一帯では“銭荘”と呼ばれたが、広東省や華北では“銀号”という呼び名が一般的だった。こうして寧波商幇の“鎮海方氏一族”は、商業と金融業で勢力を拡大し、上海望族として成長した。
上海に進出した寧波商幇は、鎮海方氏一族だけではなかった。寧波鎮海県の李也亭は、1821年に上海に渡り、商売を学んだ。後に海運業を始め、蓄えた資本を元手に、銭荘も始めた。李也亭の息子は、上海の不動産事業に成功。この李一族は“小港李氏一族”と呼ばれ、鎮海方氏一族と肩を並べる上海望族として成長した。
鎮海方氏一族や小港李氏一族にならおうと、多くの寧波人が上海を目指した。そのほかの周辺地域の人々も上海に流入したが、寧波人ほどではなかった。
海上交易都市の寧波
“寧波”“鎮海”という地名からも分かるように、寧波は古代から海上交易の都市として繁栄していた。唐王朝や宋王朝の時代の寧波は、明州と呼ばれることが多かった。だが、明王朝の時代になると、国号と重なることから、寧波と名づけられた。意味は「海定則波寧」(海しずまれば、すなわち波やすらか)に由来し、やはり海上交易に由来する。
日明貿易船旗
万暦十二年(1584年)
寧波の一部である鎮海県は、唐王朝の時代に置かれた望海鎮に始まる。五代十国時代に定海県に改称。清王朝の時代になり、鎮海県となった。“望海”(海を望む)や“定海”“鎮海”(海をしずめる)と言い、やはり海上交易との関係が深い。寧波は“海のシルクロード”の重要港であり、北宋時代にはムスリム商人との交易も盛んだった。
寧波は日本との関わりが深い都市としても知られる。唐王朝の時代には、対外交易の主要港となり、遣唐使は寧波を目指して出航した。鎌倉仏教の臨済宗や曹洞宗は、南宋時代に寧波から日本に伝わった。
倭寇と呼ばれる海賊の活動が活発になると、1371年に明王朝の洪武帝は海禁令を公布。こうしたなか、室町幕府との日明貿易(勘合貿易)で、寧波が唯一の港となった。
1523年には“寧波の乱”が起きた。これは勘合貿易をめぐる日本の大内氏と細川氏が、寧波で起こした事件だった。
大内氏と細川氏は、いずれも貿易港の利権を握っていた。大内氏が博多で、細川氏が堺だ。足利義稙の将軍復帰で功績があった大内氏は、勘合貿易の永久管掌権が認められた。これは勘合貿易の主要港が、堺から博多に移ることを意味した。
利権喪失の危機感を抱いた細川氏は、独自に遣明船を派遣。細川氏の使節が所持していた勘合符は、すでに無効だった。しかし、寧波の役人に賄賂を渡すことで、先に到着していた大内氏の遣明船よりも早く、入港検査を受けることができた。
これに激怒した大内氏の一行は、細川氏の遣明船を焼き払った。さらに細川氏に加勢した明王朝の役人も殺害し、外交問題となった。これほどの事件が起きるほど、寧波を拠点とする日明貿易は、日本にとって“うま味”があった。
こうした対外貿易港としての歴史を背景に、寧波は商業が発達。寧波商幇が誕生する土壌となった。なかでも鎮海はその中心地であり、“商幇故里”(商幇の故郷)と呼ばれる。
上海の開港と租界の誕生
1840年にアヘン戦争が勃発。英国軍は1841年10月10日に寧波の鎮海を攻撃し、わずか6時間ほどの戦闘で清軍に圧勝した。防衛の任に当たっていた欽差大臣の裕謙は自害。英国軍は一兵も損なうことなく、寧波を占領した。上海も1842年6月に占領された。
1842年に南京条約が締結されると、欧州との貿易を広東省広州に限定していた広東システムが崩壊。5つの港を開港することになった。5つの港とは、広東省の広州、福建省のアモイと福州、そして上海と寧波だった。
ジョージ・バルフォアの肖像画
上海英国租界の道路整備を描いた画報
蒸気機関のロードローラーが登場
物珍しさに、見物人が集まった
呉友如(1840~1893年)の作品
初代の英国駐上海領事のジョージ・バルフォアが、1943年11月8月に上海に到着。同月17日に上海の開港を正式に宣言した。清王朝は中国人と英国人の雑居を避けようと、上海の一部を英国が租借するよう提案。バルフォア領事は地方官の宮慕久と協議し、同月29日に上海に英国租界を設定したと発表した。中国における欧州列強の租界は、これが初めてだった。
当初の上海英国租界の範囲は、南は洋涇浜(現在の延安東路)まで、北は李家荘(現在の北京東路)まで、東は黄浦江までと決定。西の境界線は翌年9月に決まり、辺路(現在の河南中路)までとなった。租界内では外国人と中国人が分離して生活することが原則とされた。租界の外国人は、英国領事が管理した。
上海に租界を設けたのは、英国だけではなかった。1845年に米国聖公会の主教が、教会建設の名義で、上海英国租界の北側に位置する土地を安価で購入。1848年に役人との口約束で、ここを米国人の居留地とした。これが上海米国租界の始まりだった。
上海英国租界の南側には、1849年に上海フランス租界が誕生した。英米仏の三カ国は、上海租界の統一を計画したが、英米両国とフランスが対立。その結果、上海フランス租界を残し、上海英国租界と上海米国租界が1863年9月に合併。工部局が統一管理する上海共同租界となった。一方、上海フランス租界は上海共同租界と一線を画し、公董局と呼ばれる組織が管理した。
これらの租界はその後も拡大を続け、約一世紀にわたり存続。主権こそ中国にあったが、“国の中の国”という状態だった。1936年の上海租界の人口は、上海共同租界が約120万人、上海フランス租界が約50万人。いずれもほとんどが中国人で、外国人は全体の数パーセントだけだった。
異文化が交じり合う上海租界
昔は水路だった洋涇浜
現在の延安東路
上海英国租界の南端となった洋涇浜は、その当時は水路であり、そこに税関が設けられた。洋涇浜では外国人と中国人の経済交流が活発化。その周辺地域では英語と中国語が入り混じった独特の言語が話されるようになった。それは“洋涇浜英語”と呼ばれた。
このように現地語と異言語の接触で生まれた新しい言語は、言語学や文化人類学の世界では“ピジン言語”と呼ばれる。その学術用語は、洋涇浜の人々がビジネスを“ピジン”と発音したことに由来する。洋涇浜という地名は、やがて上海語の形容詞となる。下手な外国語や方言を話すと、“洋涇浜!”(ヤンジンバン)と言われる。
今日では使われない洋涇浜英語だが、一部は現代中国語に取り込まれた。現在も普通に使われる中国語の“沙発”(意味:ソファー)、“巧克力”(意味:チョコレート)などは、洋涇浜英語が起源と言われる。
ロシア正教会の聖母大堂
1936年に上海フランス租界に建てられた。
上海租界には世界中から様々な人々が集まった。一時は58カ国からの人々が、上海租界に住んでいたという。ロシア革命に敗れた白系ロシア人やナチスドイツの迫害から逃れたユダヤ人も、祖国を離れた後は上海を目指した。白系ロシア人が作ったボルシチ(羅宋湯)は、上海の家庭料理として定着している。
祖国や故郷のしがらみや迫害から逃れた人々は、上海で自由を満喫した。自由と解放感にあふれた上海は、世界中の人々を魅了。小説家の村松梢風はここを「魔都」と呼んだ。
寧波商幇の飛躍
上海と寧波の開港は、寧波商幇が飛躍する契機となった。上海は対外貿易が活発となり、方潤斎の履和銭荘は外国人と中国人を仲介し、大いに繁盛した。
方潤斎の肖像画 対外貿易でも方潤斎は財を成した。方潤斎は外国人が中国で買い付けるシルクや茶に詳しいうえ、それを運ぶ船団も有しており、銭荘も経営していた。外国人にとって方潤斎は、理想的なビジネスパートナーだった。
方潤斎は洋涇浜英語を覚え、外国人と通訳なしで商談。やがて英国のトーマス・リプライ商会(李百里洋行)との貿易を始めた。“方振記”という屋号を使い、浙江省の湖州でシルクを買い付け、紹興では茶を仕入れ、それをトーマス・リプライ商会が海外から輸入した繊維製品と交換した。その繊維製品を“方振記”の商標で、湖北省武漢などに販売。この商売で大もうけした。
シルクと茶は1870年の中国の輸出額で、全体の94.7%を占めたという。1881年は上海からのシルクと茶の輸出額が、全国の83%を占めたと言われる。方潤斎がいかに莫大な富を築いたかがうかがえる。
太平天国と上海
太平天国とは広東省広州の客家人である洪秀全が打ち立てた王朝。キリスト教の影響を受けた新興宗教団体“拝上帝会”を創設した洪秀全は、1844年から広西省(広西チワン族自治区)で布教を開始。1万人を超える信徒に軍事訓練を施し、1851年1月11日に桂平県の金田村で武装蜂起した。これを太平天国の乱という。
1864年の天京攻防戦
清国軍(湘軍)によって、太平天国の首都が陥落
籠城による食料不足の中で、洪秀全は狂死した。
安康銭荘の方哲民・董事長
上海の鎮海方氏一族の第五世代
(1910年)
空爆後の消火活動に当たる上海の消防隊
太平天国軍は勢力を膨張しながら北進し、1853年3月に江蘇省南京を攻略すると、ここを“天京”と改称し、太平天国の王朝を打ち立てた。この王朝は浙江省、江蘇省、安徽省、湖北省、江西省に跨る地域を勢力下に置き、1864年7月に天京が陥落するまで存続。太平天国軍と清軍の戦闘は、上海に少なからぬ影響を与えた。
南京を攻略した太平天国軍は、上海に接近。すると、周辺地域の資産家が上海に避難し、鎮海方氏一族の履和銭荘はさらに発展した。洪秀全はキリスト教徒である欧米列強を“洋兄弟”と呼び、友好的な姿勢をとった。英国も権益を侵されない限りは、太平天国に干渉しないことを表明した。
120年続いた銭荘
方潤斎の履和銭荘は、1870年に安康銭荘に改組。1950年まで存続し、最も長命な銭荘として歴史に名を残している。
安康銭荘が廃業となったきっかけは、1950年2月6日の上海大空爆。1949年10月1日の中華人民共和国の成立後も、中華民国は浙江省の舟山群島などを領有しており、上海市の制空権をめぐる空中戦と空爆を続けていた。
一連の上海空爆による死者は2,000人以上。特に1950年2月6日の空爆では、上海のインフラ施設が、壊滅的な被害にあった。この空爆で多くの銀行や銭荘の経営が行き詰まり、安康銭荘も120年の歴史に幕を下ろすことになった。
上流階層となった寧波人
1927年の上海の人口は264万人に上り、その6分の1が寧波出身者と推測される。中華人民共和国の成立後、その比率は5分の1ほど。現在の上海でも、人口の4分の1~3分の1が、寧波人の末裔とみられる。
四明公所 寧波人は上海の一大勢力であり、古くから同郷者団体を結成していた。四明公所は上海で亡くなった寧波人の斎場であり、墓苑でもあった。当初は“四明義廠”という名称だった。四明とは寧波の雅称。寧波にそびえる四明山に由来する。
四明山は天台山の北に位置。北宋時代の僧侶である知礼は寧波出身であり、この地で天台の教えを広めた。そのため知礼は、“四明知礼”、“四明尊者”、“四明大師”などと呼ばれる。天台宗の教えを“四明の教法”と呼ぶのも、比叡山の西の頂を四明岳と名付けたのも、寧波の四明山に由来する。
四明公所の土地は、上海の寧波人が金を出し合い、1797年に購入。1862年に上海フランス租界の一部となった。鎮海方氏一族の方潤斎も、四明公所の役員を務め、1836年の修復拡張工事に資金を提供した。
上海フランス租界当局は道路を整備するため、1874年に四明公所の移転を強行した。300人あまりの寧波人が、抗議のために四明公所に集合。出動したフランス当局の発砲で、寧波人1人が死亡した。
すると、1,500人を超える寧波人が、フランス当局を包囲し、住宅や厩舎に放火した。これを受け、フランス海軍が出動する事態に発展。最終的に寧波人7人が死亡し、12人が重傷を負った。この問題は中仏間の外交ルートを通じ、いったんは解決した。
上海フランス租界当局との衝突を報じた当時の画報
古今の上海語の単語
いまは使われない単語も混じっている。
だが、1898年に上海フランス租界当局は、再び四明公所の土地収用を計画。外壁を破壊したフランス陸戦隊と寧波人が衝突し、2人が射殺された。これをきっかけに、寧波人の抗議活動が拡大。フランス海軍の鎮圧で17人が殺害された。
これを受け、約30万人に上る寧波人が、ストライキなどを決行。各国領事の調停もあり、フランス側が譲歩するかたちで解決した。このように寧波人は、上海租界を支配する外国人にとって、軽視できない勢力だった。
なお、上海語の一人称複数(私たち)は、“阿拉”(アッラッ)という。北京語の“我們”(ウォーメン)とは、まったく異なる特徴的な響きだ。この“阿拉”はもともと上海語ではなく、寧波語だった。上海語を変えてしまうほど、寧波人の影響力は大きく、上海華人社会の上流層を形成した。
その一方で上海華人社会の底辺層として差別されたのが、蘇北人(江北人)だ。彼らは江蘇省の長江以北である蘇北(江北)から上海に流入してきた人々。蘇北は洪水や飢饉に見舞われやすく、上海に避難した後は、その多くが賎業とされた仕事に従事し、暮らしぶりも貧しかった。
彼らが話す蘇北語は、江淮官話方言に属し、北方官話と呉語の中間に相当。発音面は上海語に似ているが、使う単語が異なるので、会話すればすぐに分かる。そのため、寧波など蘇南にルーツを持つ上海人は、結婚や就業などで蘇北人を差別的に扱ったという歴史がある。ちなみに、国家主席だった江沢民や胡錦涛は、いずれも蘇北人だ。
常勝軍を創設した楊坊
上海では有力者の多くが、寧波人だった。彼らは鎮海方氏一族や小港李氏一族ばかりではなかった。
例えば、1810年に寧波鄞県に生まれた楊坊。彼は幼少期から地元のシルク店で働いていたが、賭博で抱えた借金から逃げるため、1843年に開港したばかりの上海に渡った。寧波の教会で習った英語を武器に、ジャーディン・マセソン商会のコンプラドール(買弁)となり、財を成した。上海の地方官に英語を教え、自身も官職を得た。
小刀会の本部となった豫園の点春堂 1853年3月に太平天国軍が南京を占領すると、これに呼応して上海では、秘密結社の小刀会が同年9月に蜂起した。小刀会は上海県城を占拠し、上海県の長官を殺害。さらに上海県を管轄する蘇松太道(上海道)の長官を人質にした。小刀会は豫園に本部を置き、上海周辺地域を占領した。楊坊は米国人宣教師らと協力し、上海道の長官を救出。その後も小刀会の鎮圧で功績を挙げ、昇進した。
なお、この小刀会は「清王朝の打倒と明王朝の復興」(反清復明)が目的であると表明し、上海租界の外国人と敵対しない姿勢を示した。これを受けて英米仏の三カ国も、小刀会に中立姿勢を取ったことで、上海租界は安全地帯となった。そのため、難民が大挙して上海租界に流入。外国人と中国人の住み分けが崩れ、雑居状態となった。
中国共産党第一回全国代表大会の跡地
典型的な石庫門の一つ
フレデリック・タウンゼント・ウォード
常勝軍の初代指揮官
ヘンリー・バージェヴィン
上海租界に住み着いた中国人は、石庫門と呼ばれる住宅を数多く建設。これは中国と西洋の文化が融合した独特な住宅であり、上海租界特有の景観を生み出した。
楊坊は四明公所の役員を務めており、寧波人の間でも人望が厚かったようだ。それを示すかのように、彼は私財を惜しまず、上海を守ろうとした。
1860年に太平天国軍が上海に迫ると、楊坊は資金を拠出し、米国人のフレデリック・タウンゼント・ウォードを隊長とする“洋槍隊”(小銃隊)を組織した。洋槍隊は100人あまりで、フィリピン人水兵などで構成。太平天国軍の上海侵攻に抵抗した。
だが、小規模の外国人部隊だった洋槍隊では、太平天国軍に勝てなかった。そこで、ウォードは洋槍隊の拡大を計画。外国人を指揮官とし、中国人を兵士とする軍隊の創設を目指した。1862年までに洋槍隊の規模は5,000人ほどとなった。
楊坊はウォードに娘を嫁がせ、彼の中国名も当初の“華爾”から“華飛烈”に改めさせた。ウォードは1862年に中国籍が認められた。洋槍隊は“常勝軍”に改称。太平天国軍の鎮圧に貢献した。1862年6月に長州藩の高杉晋作を乗せた幕府船「千歳丸」が、上海に入港。そこで目の当たりにした常勝軍の活躍は、高杉晋作の奇兵隊創設に影響を及ぼしたと言われる。
常勝軍の初代指揮官だったウォードは、1862年9月に戦死。二代目指揮官に就任した米国人のヘンリー・バージェヴィンは、待遇などへの不満から楊坊を襲撃し、軍資金4万元あまりを強奪した。この事件で心に大きな傷を負った楊坊は、1865年に亡くなった。
太平天国軍と戦っていた清国軍(淮軍)の李鴻章は、強奪事件の話を聞くと、バージェヴィンを即刻解雇。英国人チャールズ・ジョージ・ゴードンが三代目指揮官に就任した。軍事のアマチュアだったウォードやバージェヴィンと違い、ゴードンはプロの軍人だった。
ゴードンは常勝軍の綱紀を粛正し、それまで平然と行われていた略奪行為を禁止。軍事的にも大きな成功を収め、兵士たちの尊敬を集めた。高校世界史の教科書でも、常勝軍の指揮官と言えば、ゴードンしか紹介していない。
チャールズ・ジョージ・ゴードン
清王朝の官服を着た写真
なお、楊坊から軍資金を強奪したバージェヴィンは、常勝軍への復帰を希望したが、李鴻章は断固拒否。そこでバージェヴィンは、1863年7月に太平天国軍に投降した。だが、太平天国軍で重用されなかったことに失望。すると今度は、ゴードンの常勝軍に投降した。
常勝軍
バージェヴィンは米国領事によって中国から追放され、再入国を禁止された。たが、再起を図ろうと、1865年に福建省へ渡航。現地の太平天国軍に投降しようとしたところ、清王朝の軍隊に捕縛された。
李鴻章はこの変節漢を殺してしまいたいと思っていた。しかし、米国人のバージェヴィンを裁判にかけることは、領事裁判権の侵害に当たる。そこで彼を船で護送する最中、川の中ほどで突き落とし、溺死させた。李鴻章はバージェヴィンが不慮の事故死を遂げたと発表。彼の死について、米国政府が深く追求することはなかった。
証券取引所を創設した虞洽卿
1867年に寧波鎮海県に生まれた虞洽卿は、5歳の時に父が病没し、母の細腕ひとつで育てられた。家計が苦しいなか、彼はたいへんな孝行息子で、母が命じたことは何でも全力で取り組んだ。のちに上海屈指の資産家となるが、生活習慣は質素倹約を旨とし、篤志家として活動した。これは母の教えによるものという。
虞洽卿 虞洽卿は14歳の時、人の紹介で上海に渡った。1881年のことだった。ドイツからの輸入染料を扱う商店で働き始めたが、幼いながらに商才に富み、評判となった。同業者は何とか彼を雇おうと、引く手あまたの状態。染料店も彼を引き留めようと、高額報酬で働きに応えた。
商売を通じて外国人と接触することが多くなり、虞洽卿は英語の重要性を痛感した。そこで宣教師から英語を学び、上海の観光地に出かけては、案内役を買って出て、語学の修練に励んだ。
25歳になった1892年、一族の紹介でロイター・ブロッケルマン商会(魯麟洋行)に加わり、コンプラドールとして活躍。蓄えた私財を元手に、自らも貿易や不動産業を始めた。1896年には清王朝に多額の資産を納め、官職も得た。
1898年に四明公所の土地収用で流血事件が起きると、ストライキを呼び掛けたのは虞洽卿だった。これにより虞洽卿の名が広まり、一段と人望を集めた。
1902年にロイター・ブロッケルマン商会を退職すると、フランス資本の露清銀行でコンプラドールとなる。その翌年にオランダ銀行が上海支店を設けると、そのコンプラドールに転任した。なお、虞洽卿は巨額の利益をオランダ銀行にもたらし、1929年にオランダ政府から勲章を授与された。
1906年に日本を視察した虞洽卿は、事業発展の決意を固くした。1908年に上海の寧波人有力者と共同で、四明銀行を創設した。1909年には船会社3社を創設。上海~寧波、上海~武漢などの船舶輸送を始め、巨額の利益を得た。
上海証券物品交易所の建物 1920年には上海証券物品交易所を創設し、初代理事長に就任。これは中国人が上海に設けた最初の証券取引所だった。なお、上海証券物品交易所については、この連載の第四回で詳しく紹介している。
虞洽卿は上海華人社会のリーダーだった。1924年には上海総商会の会長に当選。彼は巨額の資金を拠出し、孫文の中国同盟会と辛亥革命を経済面から支援した。1919年に抗日運動の“五四運動”が広がると、彼は街角でストライキの停止を訴えた。1925年の“五・三〇事件”では、上海の人々にストライキするよう呼び掛けた。
虞洽卿は蒋介石を支援。1926年の国民革命軍による北伐や1927年の上海クーデターを支持した。蒋介石を資金面でバックアップした虞洽卿らは、日本では“浙江財閥”と呼ばれた。蒋介石は寧波の奉化県出身であり、寧波商幇と地縁的なつながりがあった。
上海の大華飯店で挙式した蒋介石と宋美齢
方液仙
三星牙膏(歯磨き粉)の広告
三星蚊香(蚊取り線香)の広告
挿絵が抗日機運を反映している。
日中戦争で虞洽卿は東南アジアの米を上海租界に輸入し、食糧問題を解決。ただし、その活動でも利益を得た。だが、日本の傀儡である汪兆銘政権が、上海租界で反日活動家の暗殺を本格化させると、虞洽卿はしだいに身の危険を感じるようになった。
そこで、蒋介石を頼り、1941年に臨時首都だった重慶に避難。その後は政治的後ろ盾を背景とした政商となり、物資輸送などで蓄財した。終戦が迫った1945年4月に、重慶で亡くなった。
“国貨大王”と呼ばれた方液仙
鎮海方氏一族の一員として1893年に上海で生まれた方液仙は、中西書院に学んだ。この学校は、1881年にアメリカ南メソジスト監督協会の宣教師だったアンドリュー・ヤング・ジョン・ウィリアム・アレン(中国名:林楽知)が創設。外国人の教師が、中国人の学生に教えていた。
中西書院で化学を学んだ方液仙は、中国市場に出回る日用化学品の多くが、どれもこれも外国製品であることに気づき、衝撃を受けた。そこで、自宅に実験室を設け、日用化学品の研究を始めた。1911年に母を説得し、1万元の資本金を拠出させ、自宅の実験室を会社化。こうして、中国化学工業社を設立した。
方液仙は数人の従業員と学生を自宅に集め、“三星ブランド”の歯磨き粉や化粧品を生産。売り子を使って、街角や路面電車などで販売した。だが、外国ブランドに対する人々の信頼は厚く、さっぱり売れなかった。毎年赤字となり、1万元の資本金は数年で底をついた。
それでも方液仙はあきらめなかった。1915年に5万元の増資を実施。うち7割を自身で拠出し、3割は親戚から集めた。工場建屋を借り、“三星ブランド”の蚊取り線香の生産を開始。だが、蚊取り線香は日本製品が中国市場を席巻しており、やはり売れ行きはさっぱりだった。
そんな方液仙に追い風が吹いたのは1919年。“五四運動”で全国的に日本製品の不買運動が広がると、国産品である“三星ブランド”の蚊取り線香は、飛ぶように売れ始めた。親戚たちも国産品の未来に可能性を感じ、1920年に5万元を追加出資。1925年に“五・三〇事件”が起きたころには、日本製の蚊取り線香は中国市場からほぼ消えていた。
ほかの“三星ブランド”の日用化学品も売れるようになる。中国化学工業社が開発した国産第一号の歯磨き粉は、全国規模で売れるようになった。これを見て、次々と国産ブランドの歯磨き粉が生まれた。こうしたなか、最も売れ行きが好調だったのは、先駆者である“三星ブランド”だった。
事業が軌道に乗ったことを機に、方液仙は1937年までに上海の工場を4カ所に拡大。さらに重慶、香港、台湾にも化学工場を建設した。化粧品や歯磨き粉のほかにも、化学調味料の“観音粉”、“箭刀ブランドの石鹸”などを生産。中国化学工業社が生産する日用化学品は多岐にわたった。
上海では国産品の生産と普及を図るため、1927年5月に上海機製国貨工廠聯合会(機聯会)が設立された。なお、“国貨”とは国産品を意味し、外国製品は“洋貨”という。すでに方液仙は、機聯会のリーダー格となっていた。
機聯会で最初の会議は、日本製品のダンピング(不当廉売)に、どのように抵抗するかがテーマだった。だが、事前に何の準備もなく、誰も声を発さなかった。そこで方液仙は、食事しながら、みんなで知恵を出し合おうと提案。こうして毎月最後の金曜日(中国語:星期五)に、会員が順番で夕食会を主宰することになった。この夕食会はやがて“星五聚餐会”と呼ばれるようになった。
方液仙は日本からの輸入に依存していた硫酸、硝酸、塩酸の国産化を目指し、1931年4月に上海の有力者と共同で、開成造酸股份有限公司を設立した。火薬の原料である硫酸や硝酸の国内生産強化は、自力更生の大きな一歩であり、中国への野心が明らかな日本への抵抗でもあった。
満州事変を受け、上海の街角には“国難”のスローガン 1931年9月18日の柳条湖事件をきっかけに、満州事変が勃発。抗日気運が全国的に盛り上がり、国産品の推奨と日本製品の不買運動が再び広がった。1932年1月28日に第一次上海事変が勃発し、上海租界の北側で日本軍と国民革命軍が軍事衝突。戦闘は同年3月3日まで続き、上海租界の北側は多くの建物が損壊した。上海に住む人々の反日感情は、いちだんと強まった。
こうしたムードのなか、星五聚餐会は柳条湖事件から1周年の1932年9月18日に、国産品ブランド18種の18日間セールを開催。その反響は大きく、国産品の専売会社を創設することが決まった。
こうして方液仙の主導で、1933年に中国国貨股份有限公司が発足。外国製品を販売する先施百貨店、永安百貨店、新新百貨店、大新百貨店に対抗することになった。これら四つの百貨店はいずれも中国資本だが、外国製品を中心に販売していたことから、当時の人々は“亡国会社”と呼んでいた。
開店前の中国国貨百貨店に押し寄せた上海の人々 中国国貨股份有限公司の百貨店は、1933年2月9日に上海随一の繁華街である南京路の大陸商場にオープンした。納入業者は200社を超え、方液仙が経営トップを務めた。経営方針は薄利多売であり、サービスも充実していたことから、たちまち大繁盛。納入業者は短期間で急増し、1,400社を超えたという。
充実した品ぞろえと手の届く価格が評判を呼んだうえ、抗日気運と愛国運動が追い風となり、わずか2年ほどで中国の主要都市に、中国国貨股份有限公司の百貨店が次々と開業した。方液仙の名声はさらに高まり、“国貨大王”と呼ばれるようになった。
強い愛国心の持ち主だった方液仙は、日中戦争中も上海に野戦病院を設立するなど貢献した。1937年11月に租界を除く上海が陥落すると、日本の傀儡である汪兆銘政権は、方液仙を実業部長として招聘。だが、これを拒絶したことが原因で、1940年7月25日に汪兆銘政権の特務機関に拉致され、殺害された。
いびつな繁栄
第二次上海事変で戦闘中の日本兵
背後の看板はコカ・コーラ(可口可楽)
コカ・コーラは1927年に中国に上陸
上海は米国外で最大の市場となった
可口可楽という中国名は蒋彝という人物が考案
1937年7月7日の盧溝橋事件を機に、日中戦争が勃発した。盧溝橋事件に始まる一連の軍事衝突で、中国の北部一帯が陥落。1937年8月13日に第二次上海事変が勃発すると、日本と中国は全面戦争へ突入した。
第二次上海事変の終盤に当たる1937年11月12日に、租界を除く上海が陥落。中華民国の国民革命軍は上海から撤退した。その後、日本軍は首都の南京を目指すことになる。
租界を除く上海は、日本の傀儡である汪兆銘政権の支配下に入った。日本軍は欧米との衝突を避け、上海租界には侵攻しなかった。上海租界の周囲は、すべて日本の支配下にあり、“陸の孤島”という状態に陥った。
第二次上海事変を受け、上海租界に逃げ込む人々
上海租界の鉄条網に阻まれた人々
名門の復旦大学を占領した日本軍
“虐殺者”と呼ばれた丁黙邨
ジェスフィールド76号を指揮
上海共同租界に進駐する日本海軍の陸戦隊
上海にあった日本軍の米軍捕虜収容所(1942年)
日中戦争中の安全地帯となった上海租界には、周辺地域から膨大な人口と資産が流入。陸の孤島は、いびつな繁栄期を迎えた。1937年末は400社ほどだった上海租界の製造業は、1938年末には4,700社を超えた。繊維製造業がその中心だった。
貿易商社も1937年の200社から、1941年には600社に達した。多くの軽工業製品が、上海から海外に輸出された。この連載の第四回でも紹介したように、上海の株式市場は空前の活況を呈した。多くの資産家が上海に集まったことで、百貨店も大繁盛。永安百貨店の売上高は、1938年から1941年にかけて数十倍に膨らんだという。
そうした繁栄の裏で、上海では要人の暗殺が相次いだ。ジェスフィールド76号(極司菲爾路76号)は、日本軍の後ろ盾で設立された汪兆銘政権の特務機関。上海租界の国民党関係者や反日活動家を次々と手にかけた。
虞洽卿が逃げ出し、方液仙が殺害された背景には、この特務機関の活動があった。その一方で蒋介石の特務機関である藍衣社や中央倶楽部(CC団)は、日本に通じた上海政財界の“漢奸”を次々に粛清。上海租界最後の繁栄の裏では、血なまぐさい戦いが繰り広げられていた。
上海租界の終焉
1941年12月8日に日本がハワイの真珠湾を攻撃。米英に宣戦布告すると、日本軍が上海共同租界への進駐を開始した。日本海軍は黄浦江に停泊中の米英艦を砲撃し、東のバンド(外灘)に上陸すると、上海共同租界を西に進軍した。
上海共同租界を管理する工部局は、形式的には存続したが、日本軍の支配下に置かれた。その後、工部局は上海共同租界の民兵組織である万国商団(上海義勇隊)を解散。英国人や米国人は、強制収容所に送られた。フランスは日本の同盟国であるドイツに降伏したため、日本軍は上海フランス租界には進駐しなかった。
汪兆銘政権は1943年7月にドイツの傀儡であるフランスのヴィシー政権から、上海フランス租界を回収。翌月には上海共同租界を日本から回収し、こうして約一世紀にわたった上海租界は終焉を迎えた。
世界に散らばる上海の資産家
1945年8月15日に日本が無条件降伏すると、中華民国の国民政府が上海を接収した。旧上海租界では往時のように、外国人の姿も見られるようになった。1946年6月26日に蒋介石は中国国民党の正規軍に命令を発し、中国共産党に対する全面侵攻を開始。上海には戦火が及ばなかったが、経済は大混乱となった。
紙くず同然となった法幣
10億元で3,400米ドル
ハイパーインフレを発生させた。
この連載の第三十一回で紹介したように、劣勢に陥った中国国民党は、法定紙幣(法幣)を乱発し、インフレーション(物価上昇)が急速に進んだ。さらに国民政府の貴金属や外貨が尽きると、民間人から黄金を徴発するため、1948年8月19日から金圓券を発行。民間人が所有する黄金を強制的に金圓券で買い取った。金圓券の発行で国民政府は、都市住民からの支持を失い、国共内戦に敗れる一因となった。
1949年4月21日に中国人民解放軍は長江を渡り、同月23日には中華民国の首都である南京を攻略。金融都市の上海に迫った。共産化による私有財産の没収を恐れ、寧波商幇をはじめとする上海の資産家は、この地にとどまるか、よそに逃げるかの選択を迫られた。
1949年4月25~26日の2日間だけで、3,000人を超える資産家や欧米人が、飛行機で上海を脱出。1949年5月27日に中国人民解放軍は上海を占領した。
荷車と自動車であふれる上海の交差点(1949年4月)
上海脱出の切符を求め、中国旅行社に群がる人々
(1949年5月上旬)
上海脱出最後の船に乗り込む人々
香港望族となった上海出身の寧波人
この連載の第四十四回で紹介した包玉剛は、寧波鎮海県の出身。1938年から上海にあった中央銀行付設機関の中央信託局(CTC)で働いていたが、1948年に英領香港に移住。環球航運集団(ワールドワイドシッピング)を創業し、“アジアの海運王”と呼ばれた。1977年には“世界の海運王”に上り詰めた。
包玉剛夫婦(前列)と四人の娘(後列) 董浩云夫婦(前列)と董建華(後列) 包玉剛は1980年にジャーディン・マセソン傘下のワーフ(九龍倉)を買収。1985年には四大英国系企業の一角であるウィーロック(会徳豊)を支配下に収めた。寧波商幇の包玉剛は、1970~1980年代の香港を代表する資産家となった。
包玉剛は四人の娘に恵まれた。長女はオーストリア人弁護士のヘルムート・ゾーメン(蘇海文)と結婚。包玉剛が引退すると、ゾーメンが環球航運集団を引き継いだ。次女は上海出身の寧波人である呉光正(ピーター・ウー)と結婚。ワーフとウィーロックの経営は、呉光正が継承した。三女は日本人の渡伸一郎と結婚。彼は日本の総合商社コーンズの社長だった。こうして包玉剛の家族は、誰もが認める香港望族となった。
1940年に上海で海運会社の中国航運股份有限公司(CMT)を設立した董浩云は、1912年に寧波定海県に生まれた。1949年に英領香港に移住。香港でも海運会社の東方海外(オリエント・オーバーシーズ)を経営。世界屈指の海運王となった。
董浩云は1982年に死去。東方海外の経営を引き継いだのは、長男の董建華だった。董建華は1992年に香港政庁行政局の議員となり、政界入りを果たす。香港返還前の1996年に、香港特別行政区の初代行政長官に選出された。
1949年に上海から英領香港に移住した安子介は、戸籍が寧波定海県。香港の繊維製造業を牽引した南聯実業を創業し、1970年代の香港で活躍した。
1907年に寧波鎮海県に生まれた邵逸夫(ランラン・ショウ)は、香港映画界の巨人。上海で育ち、兄の映画会社で働いていたが、満州事変に不安を感じ、1930年代に英領香港に移住した。
邵逸夫(中央)
妻と娘との記念写真(1978年)
邵逸夫の映画会社であるショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)は、1960~1970年に多くの名作を世に送った。1982年のSF映画「ブレードランナー」に出資したことでも知られる。
また、邵逸夫は香港の民放テレビ局TVB(無線電視)の筆頭株主でもあり、経営者でもあった。2014年1月7日に106歳で死去。100歳を超えても健康であり、TVBの最高経営者だったことから、生前は“世界で最も長寿で、在任期間の長いCEO”と呼ばれた。
これらのほかにも、戦後の香港政財界には、上海出身の寧波人が数多くいた。そうした例は、枚挙にいとまがない。ただ、これまでに見たように、戦後の香港は複雑な国際情勢の影響を受け、社会や経済の構造が目まぐるしく変化。香港政財界に根づいた上海出身の寧波人も、新たな香港望族の台頭を受け、徐々に影が薄くなっていった。