かつての深圳経済特区は、広東省深圳市を横断する全長84.6キロメートルの金網フェンス(第二ボーダー)の南から、英領香港との境界線(第一ボーダー)までの封鎖された区域だった。第二ボーダーの検問所を通過して経済特区に入ると、そこは外国資本を受け入れた世界。さまざまな改革が、ほかの地域に先行して実施された。
深圳の工場で働く女性たち
(1980年代初期)
当然のことながら、経済特区の外資系企業で働く人は雇用契約を交わす。しかし、それは多くの人々にとって、初めて体験する出来事だった。その当時の中国本土では、雇用とは“政府による行為”であり、雇用関係とは“政府と労働者の関係”だったからだ。
これに対し、経済特区での雇用とは“企業による行為”であり、雇用関係とは“企業と労働者の関係”だ。企業による“解雇”という行為も、ここでは可能だった。
賃金制度も大きく変わった。それまでは、どんなふうに仕事をしても同じ給料をもらえたが、仕事の内容によって労働者間の給与に差をつけることが試された。このように、外資系企業には賃金の裁量権が与えられ、これは労働者の積極性を誘発すると同時に、生産効率の向上につながった。
時間こそ金銭、効率こそ生命 1982年の経済特区では「時間こそ金銭、効率こそ生命」というスローガンが流行った。このスローガンは全国へ伝わり、人々の働くことへの意識を変えていった。また、この年には全国に先駆けて価格改革も始まった。食料などの生活必需品の価格は自由化され、数十年も続いた配給券制度も撤廃されていった。配給券は不要となり、カネさえ持っていれば、物を買うことができた。
どれも今日の人々にとって当たり前のことだが、その当時の人々にとっては新鮮だった。。経済特区はまさに特別な地域であり、そこで働く人々は時代の最先端にいた。この連載の第三回で紹介した宝安公司も、そうした雰囲気の下で設立された。
鄧小平が改革を後押し
筆を揮う鄧小平
「経済特区を建設するという我々の政策が正しかったことを深圳の発展と経験が証明してくれた」という言葉を残した。
鄧小平は1984年1月に深圳経済特区を視察。「経済特区を建設するという我々の政策が正しかったことを深圳の発展と経験が証明してくれた」と評価した。この言葉に押され、経済特区の建設は加速した。この年の8月に経済特区の改革案が発表され、市内の国営企業は組織的に株式会社化を目指すことになった。
1986年に入ると、国営企業の株式会社化が始まった。こうしたなかで深圳市政府は、経済特区のさまざまな金融需要に対応するため、新しいタイプの銀行の設立を計画。計画経済の時代に設けられた農村向け金融機関6社をベースに、株式会社の深圳発展銀行股份有限公司(深圳発展銀行)を設立することが決まった。株式会社の銀行が設立されるのは、中国本土では初めて試みだった。
深圳市民の冷たい反応
深圳発展銀行は資本を調達するため、1987年5月10日から一般の人々に向け新株の購入募集を始めた。だが、募集はスムーズに進まなかった。市の幹部が率先して新株を購入し、複数の国営企業が大量の株券を購入して見せても、深圳市民の反応は鈍かった。
当初は額面20元の株券79万5,000株を発行し、1,590万元を調達する計画だった。しかし、最終的な発行株数は39万6,500株にとどまり、調達資金は793万元。計画の49.9%しか達成できなかった。
この連載の第五回や第七回で、飛楽音響や延中実業の新株購入募集の様子を紹介したが、上海市民の反応は激しかった。大きな宣伝をしなくても、上海市民は長蛇の列を作り、新株を買い求めた。深圳市民の反応とは対照的だ。
その違いは、上海市民には約100年にわたる金融街の記憶があった一方で、深圳市民にはそれがなかったことにある。1983年の宝安公司の株券発行から4年が経ち、深圳市の人口は1.7倍に膨らんだが、新しい深圳市民は株券に対する知識が乏しかった。宝安公司の株券を買って大儲けしたという話も聞かれず、多くの深圳市民は株券というものを疑いの眼差しで見ていた。
1988年末には不動産開発事業への進出を計画していた深圳万科企業股份有限公司(深圳万科企業)が新株購入を募集したが、やはり未達に終わった。それほど、株券は人気がなかった。
なお、深圳万科企業は1991年1月29日に深圳証券取引所にA株(証券コード:000002)を上場。1993年5月28日には香港ドルで取引されるB株(証券コード:200002)を上場した。1993年に社名を万科企業股份有限公司(万科企業)に変更。2014年6月にはB株を香港市場で取引されるH株(証券コード:02202)に変換した。
最初は人気がなかった万科企業だが、中国本土で最大手の不動産デベロッパーに成長。「あの時に買っていれば……」と、後悔している深圳市民も多いだろう。
証券会社は“何でも屋”
国営企業の株式会社化と並行して、証券会社の設立に向けた準備も進んでいた。1985年9月9日に中国人民銀行(中央銀行)の深圳支店が深圳経済特区証券公司を設立することが承認された。設立されれば、中国本土で最初の証券会社ということになる。
しかし、証券会社は資本主義の象徴のようなものであり、反対派からの圧力が強かった。設立されたのは1987年9月19日。承認から設立まで2年間を要した。開業したのは1988年1月8日で、最初の業務は国庫券の取引だった。
その当時、正式な取引所や取引規則もなければ、資金の決済制度、証券の受渡制度、名義書換などの証券事務制度のいずれも整備されていなかった。深圳経済特区証券公司はこれらのすべての機能を負うことになり、証券会社、取引所、清算機関、証券代行会社の役割を果たした。
1988年4月に入ると、深圳経済特区証券公司は株券の店頭取引を開始。取り扱ったのは、前年に発行された深圳発展銀行の株券だった。この連載の第七回で紹介したように、すでに上海市では1986年9月26日に中国工商銀行上海信託投資公司静安分公司(静安証券営業部)が株券の店頭取引を始めた。しかし、証券会社として株券の店頭取引を始めたのは、深圳経済特区証券公司が第一号だった。
なお、深圳発展銀行は1991年4月3日に深圳証券取引所に上場(証券コード:000001)。2012年に平安保険の傘下となり、社名を平安銀行股份有限公司に改めている。
冷淡から熱狂へ
株券の店頭取引は始まったものの、深圳市民の反応は相変わらず冷淡だった。「あんな怪しいものを買って、バカじゃないのか?」というのが、多くの人々の感想だった。
1988年は全国都市部の消費者物価指数(CPI)が前年に比べ20.7%も上昇した空前の物価高騰期。深圳市民はこの連載の第九回で紹介した楊百万と違い、手元の現金を惜しんだ。店頭取引は閑散とし、株価も発行価格の20元付近にとどまり続け、ほとんど動かないという有り様だった。
1989年に入り、深圳発展銀行は1988年度の配当案を発表。株主の保有株1株につき7元の現金配当に加え、同10株につき5株の新株を交付することになった。株価を20元とすれば、配当利回りは35%に達し、売却益も見込める。この配当案に株券の保有者は大興奮。その一方で株券を持っていない深圳市民は焦り出した。
深圳経済特区証券公司に集まる人々 「いままで株をやっている連中をバカにしていたが、やつらはカネ儲けに成功した。おれたちはチャンスを逃していた」――。株式投資を馬鹿にしていた人々は、大きなショックを受け、いままでの考え方を改めた。1989年の株券の売買代金は前年の8倍に膨らんだ。
深圳行きの列車に乗り込む出稼ぎ労働者たち 「深圳に行けば、株でラクに儲けることができる」――。この情報は全国に拡散。膨大な数の人とカネが、金網フェンスの南に向けて動き出した。そして、1990年に深圳市はゴールドラッシュならぬ “株券ラッシュ”に飲み込まれる。それは熱狂と混乱の渦だった。
こうして1980年代に中国本土の各地で萌芽した株式会社、株券、投資家、取引市場は、1990年代に試行錯誤の揺籃期を迎えることになった。