リスボン大地震
ジョアン5世
1707年の肖像画
ブラジルの黄金とダイヤモンドは、ブラガンサ朝ポルトガル王国の王権を強化した。1706年に即位した第四代国王のジョアン5世は、潤沢な王室財政を背景に、貴族や聖職者を必要としなくなり、身分制会議(コルテス)を開催しないことを決めた。このようにジョアン5世は絶対君主制を志向したが、貴族や聖職者の伝統的特権までには手を出せず、王権には一定の制約が残った。
1750年に即位した第五代国王のジョゼ1世は、“改革王”の異名を持つが、王自身は政治に無関心であり、後にポンバル侯爵に叙せられるセバスティアン・デ・カルヴァーリョに国政を委ねた。
ジョゼ1世
1773年の肖像画
カルヴァーリョはロンドン駐在のポルトガル大使を務めたことがあり、産業革命の成功ぶりに大きな刺激を受けていた。1755年に宰相の座に就くと、財政改革や工業化を推進。ジョゼ1世が“改革王”と呼ばれたのは、カルヴァーリョの活躍のおかげだった。
カルヴァーリョが後にポンバル侯爵に叙せられたから、こうした改革は“ポンバルの改革”と呼ばれ、伝統的に卑しい身分とされた“ブルジョアジー”(商工業者)の社会的地位も向上した。
“ポンバルの改革”が始まった矢先の1755年11月1日朝、大地震がポルトガル王国を襲った。震源はイベリア半島西南のサン・ヴィンセンテ岬から約200キロメートルの沖合で、マグニチュード8.5~9.0と推定される巨大地震だった。
カルヴァーリョ
後のポンバル侯爵
この地震の揺れは西ヨーロッパの広範囲で観測された。ポルトガル王国の首都であるリスボンは強烈な揺れが数分間にわたって続き、建物の8割以上が倒壊。約2万人が即死した。
その後、高さ15メートルほどの津波がリスボンに押し寄せ、さらに約1万人が犠牲となった。津波が引いた後は、大規模な火災が5日間も続き、リスボンは廃墟同然となった。当時のリスボンの人口は28万人弱だったが、この大震災で約9万人が死亡したと言われる。
炎と津波に襲われるリスボンを描いた銅版画 宰相のカルヴァーリョは、この“リスボン大地震”を運よく生き残り、震災対応で辣腕を振るった。消火隊を組織し、市街地を鎮火。疫病の発生を防ぐため、無数の遺体を沖合に運び、水葬に付した。これには聖職者が反対したが、カルヴァーリョは押し切った。略奪行為を防止するため、多くの絞首台を設置し、犯罪者を厳しく取り締まった。
テント生活を強いられるリスボンの被災者 ジョゼ1世は早朝にリスボンを離れており、馬車に閉じ込められたものの、無事だった。しかし、極度の閉所恐怖症となってしまい、壁のある部屋を恐れ、テントで暮らすようになったという。救出されたジョゼ1世は、カルヴァーリョの震災対応に感心し、より彼を信頼するようになった。
“ポルトガル海上帝国”の都である壮麗なリスボンの街は壊滅状態だった。大航海時代が始まったばかりの16世紀前半に流行した豪華な“マヌエル様式”の建物群は崩れ落ち、貴重な書物や絵画を焼失。ヴァスコ・ダ・ガマなど大航海時代を切り開いた航海者の記録も、ほとんどが失われた。
リスボン復興を誇るカルヴァーリョの絵画 カルヴァーリョは震災復興でも活躍した。ジョゼ1世が完璧な秩序のある街にこだわったことから、整然とした区画整理を実施。こうして “バイシャ・ポンバリーナ”という新しい街が完成した。“バイシャ”(下町)というものの、大きな広場や格子状の広い路地が特徴の優雅な街となり、新興階級のブルジョアジーが住むようになった。
建物には耐震性や耐火性を取り入れた。こうした建築は“ポンバル様式”と呼ばれ、欧州初の耐震建築だった。リスボンのがれきは1年も経たずに一掃され、後に“うるわしのリスボン”と呼ばれるほどの美しい街に変貌。ジョゼ1世は有能なカルヴァーリョをさらに信頼した。
カルヴァーリョの権力掌握
ジョゼ1世の暗殺未遂事件を描いた絵画 ジョゼ1世からの信頼を勝ち取ったカルヴァーリョは、大貴族からの反感を買った。カルヴァーリョも大貴族を“無能の集団”と見下していた。こうしたなか、1758年9月3日にジョゼ1世を狙った暗殺未遂事件が発生。ジョゼ1世は腕を撃たれたが、無事だった。
大貴族の処刑を描いた版画
欧州諸国で物議を呼んだ
この事件を契機に、カルヴァーリョは大貴族の粛清を始めた。逮捕した容疑者を拷問し、その自供を手掛かりに、大貴族を次々と処刑した。四肢切断や車裂きなど残虐な死刑を執行。さらに大貴族の財産は王室の名の下に没収し、彼らの邸宅は破壊され、その土地は塩漬けにされた。この時の残虐な死刑は欧州諸国で論争を呼び、後にカルヴァーリョが失脚する原因となった。
カルヴァーリョが次に標的にしたのが、イエズス会だった。王権を強化したいカルヴァーリョは、イエズス会もジョゼ1世の暗殺未遂事件に加担したと糾弾。1759年にイエズス会をポルトガル海上帝国の全域から追放すると決定した。
ポンバル侯のイエズス会追放
1773年の作品
イエズス会の追放は、その財産を没収することが目的だった。当時のイエズス会はポルトガル王国の財政を支えるブラジルで広大な土地を所有し、それを運用していた。そうしたブラジルの財産も没収し、これを現地のポルトガル人などに安価で払い下げることにより、新たなブルジョワジーを育成した。その一方でイエズス会が経営する学校も閉鎖に追い込まれ、ブラジルの教育界は深刻な影響を受けた。
イエズス会を追放するという命令は、1762年にマカオに届いた。マカオ政庁は聖ポール天主堂などイエズス会のマカオにおける財産を没収した。マカオにあったイエズス会の学校は閉鎖され、学生は離散。図書館に収蔵されていた貴重な書物は、二束三文で売却された。
リスボンのマルケス・デ・ポンバル広場
ポンバル侯爵の記念碑がそびえる
ポルトガル王国の経済発展を目指すカルヴァーリョは、ユダヤ系ポルトガル人(セファルディム)に対する制度的迫害を廃止。異端審問所を国家管理とし、ユダヤ教徒にもキリスト教徒と同じ法的権利を与えた。
絶大な権力を握ったカルヴァーリョは、“ポンバルの改革”を強化。イングランド王国の産業革命に倣った工業化を推進し、紡織産業の振興を図った。背景にはブラジルの黄金生産に陰りが見え始め、“コーヒーの時代”を迎えようとしていたことがあった。しかし、毛織物産業でのイングランド王国との競争は厳しく、ポルトガル王国の輸出品はワインだけという状況が長く続き、工業化の成果が出るには時間を要した。
イエズス会の苦難と復興
武士と談笑するイエズス会士
南蛮貿易はイエズス会の財源だった
1600年ごろの作品
ポルトガル王国によるイエズス会の追放に、宗教界は反発しなかった。この連載の第六十九回でも触れたが、イエズス会は異国での宣教活動を支援するため、商売にも携わっていた。南蛮貿易では“プロクラドール”と呼ばれる財務担当者をマカオに置き、中国産生糸の対日輸出で稼いでいた。
こうした商業行為は“拝金主義”として他のキリスト教団体ばかりでなく、身内のイエズス会からも批判があった。それ以前にも、イエズス会は中国での宣教活動をめぐる“典礼論争”で、他のキリスト教団体や教皇庁ともめており、宗教界からの同情は少なかった。
当時の欧州諸国はナショナリズムと王権強化が盛んであり、教皇に忠誠を誓ってグローバルに活動するイエズス会は、多くの国にとって目障りな存在だった。ポルトガル王国がイエズス会を追放すると、南欧諸国もこれに追随。さらにイエズス会を禁止するよう教皇に圧力をかけた。
クレメンス14世
イエズス会の解散を命令
欧州諸国との関係修復を望んだ教皇クレメンス14世は、1773年にイエズス会の解散を命じた。しかし、ロマノフ朝ロシア帝国の第八代皇帝エカチェリーナ2世は、イエズス会を高く評価しており、解散命令を拒否。イエズス会はロシア帝国で細々と存続することになった。イエズス会は1814年に教皇ピウス7世によって復興が許可され、今日に至る。
なお、2013年にイエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、第266代教皇に就任し、“フランシスコ”と名乗った。イエズス会の出身者が教皇に就任するのは史上初。フランシスコと名乗る教皇も、彼が初めてだった。弾圧された歴史を持つイエズス会にとって、フランシスコ教皇の誕生は驚きだったという。
フランシスコ教皇
(2021年)
フランシスコ教皇はイタリア系アルゼンチン人。史上初の新大陸出身の教皇であり、欧州以外の出身者が就任するのも、1272年ぶりの出来事だった。フランシスコ教皇は“初めて尽くしの教皇”だ。2013年にローマの少年院で、“洗足式”を行った。教皇が足を洗ってあげる収容者には、イスラム教徒もいた。教皇による洗足式が、“少年院”で行われることや“異教徒”を対象にするのも、これが史上初だった。
フランシスコ教皇の紋章
中央に“太陽の紋章”
イエズス会出身を表す
2019年にフランシスコ教皇はアラブ首長国連邦(UAE)を訪問。イスラム教の発祥地であるアラビア半島を教皇が訪問するのは、これが初めてだった。2021年には教皇として初めてイラクを訪問した。
イエズス会はポルトガル王国から追放されたことを機に、苦難の時代を味わったが、ついに教皇を世に送り出した。フランシスコ教皇は就任後の記者会見で、「“クレメンス15世”と名乗るべきと知人に言われました。イエズス会を弾圧したクレメンス14世に仕返しできるからだそうです」と冗談を言った。
カルヴァーリョの失脚とマリア1世の疾患
ポルトガル王国の改革を進めたカルヴァーリョは、1770年にポンバル侯爵に叙せられ、栄達を極めた。だが、1777年2月にジョゼ1世が崩御し、娘のマリア1世がポルトガル王国で初の女王として即位すると、カルヴァーリョは解任された。
マリア1世の肖像画
1777年の作品
マリア1世はカルヴァーリョによる残忍な大貴族粛清を忘れておらず、イエズス会にも同情的だった。これを背景に、マリア1世はカルヴァーリョを毛嫌いしており、解任した後も、女王から20マイル以内に立ち入らないよう勅令を下したほどだった。
マリア1世は1760年に、ジョゼ1世の弟であるペドロ3世と結婚。マリア1世は25歳で、ペドロ3世は43歳だった。こうした叔父と姪の叔姪婚(しゅくてつこん)は、欧州の王族にしばしばみられる。ただ、これを近親婚として扱い、禁じている国も多い。
摂政ジョアン王子
後のジョアン6世
1788年の作品
43歳で女王となったマリア1世は、身内の不幸が続いた。1781年に母が死去。1786年にはアリア1世の“せん妄”が確認され、同じ年に夫のペドロ3世が亡くなると、症状が悪化した。1788年には王太子だった長男のジョゼが天然痘を患い、27歳で夭折した。
こうした出来事が発端となり、1791年にマリア1世は“大うつ病性障害”(MDD)と診断され、1792年からは三男のジョアン王子が摂政を務めることになった。なお、マリア1世の二人の姉妹も精神を病んでおり、王室で近親婚が続いたことがMDDの原因という見方もある。
なお、マリア1世の治世で、マカオでは1784年に“政治改革”が実施された。マカオ総督の権力を強化し、議会(レアル・セナド)の決議に対する拒否権も付与。市民兵の部隊を解散し、銃と大砲で武装したインド兵部隊を配置した。マカオの財政についても、議会による運営を廃止し、マカオ総督と裁判官による監査に切り換えた。
フランス革命とナポレオンの台頭
マリア1世の治世は、混乱の時代だった。1789年7月14日にフランス革命が勃発。ブルボン朝フランス王国は絶対君主制の放棄を余儀なくされ、第五代国王のルイ16世は1791年9月4日に憲法を承認。フランス王国は立憲君主制へ移行した。欧州の諸王国は、反革命の立場を相次いで表明し、フランス革命への干渉を始めた。
中央の人物はルージェ・ド・リール大尉
“ラ・マルセイエーズ”の作詞作曲者
こうした情勢を受け、フランス立法議会は1792年4月20日、王妃マリー・アントワネットの祖国であるハプスブルク帝国(オーストリア)に宣戦布告。“フランス革命戦争”が始まった。
1792年7月11日にフランス立法議会は“祖国は危機にあり”と宣言。これに応じてフランス各地から義勇兵がパリに集まった。この時、マルセイユからの義勇兵が歌っていた軍歌が広まり、“ラ・マルセイエーズ”という名の国歌となった。
“8月10日事件”を描いた絵画
テュイルリー宮殿カルーゼル広場の戦闘
フランス革命戦争はフランス軍の劣勢で始まったが、これはルイ16世夫婦が外国に内通していることが原因であると、民衆や義勇兵は考えた。怒りに燃える民衆と軍隊は、1792年8月10日にルイ16世一家の身柄を拘束。この“8月10日事件”を機に王権は停止され、1792年9月21日に国民公会による“フランス第一共和政”が始まった。これはフランス史上初の共和政体だった。
軍隊に入る市民を描いた当時の風刺画 フランス軍の劣勢が続くなか、1793年1月21日にルイ16世が処刑された。これを機に周辺諸国で“反フランス革命”の動きが拡大。窮地に陥ったフランス国民公会は、この年の8月23日に“国家総動員”を発令し、徴兵制度を施行した。これにより新たに120万人がフランス軍に加わった。
“国民皆兵”という近代的な徴兵制度は、この時に始まった。それまでの戦争は、正規軍や傭兵が担うものであり、国民の義務ではなかった。しかし、国家を支配した王権が消滅し、国民が主権者の“国民国家”になると、“兵役は国民の義務”という論法が成り立つ。容易に使える銃や大砲が発達したことで、国民皆兵という考えは実現可能となっていた。
第一統領ナポレオンの肖像画 徴兵制度の導入により、フランス軍は戦況の巻き返しに成功する。だが、これ以降の世界では徴兵制度によって戦争の規模が拡大。やがて国力を総動員した“総力戦”の時代を迎え、ついには世界大戦に至る。そうした意味でフランス革命戦争は、“人類の悲劇”の始まりだった。
このフランス革命戦争で台頭したのが、“若き英雄”として人気を集めたナポレオン・ボナパルトだった。フランス国民公会は1795年10月26日に解散し、この年の11月2日からフランス総裁政府が政治を担っていたが、ナポレオンは1799年11月9日に軍事クーデターを決行。これに成功したナポレオンは、統領政府を樹立し、自ら第一統領(第一執政)に就任した。こうしてフランス第一共和政は、ナポレオンの独裁体制となった。
皇帝ナポレオン1世の戴冠式を描いた作品 こうしてフランス革命戦争に始まった欧州の戦乱は、“ナポレオン戦争”と呼ばれる局面に入った。ナポレオンは1804年5月18日の元老院の決議で“終身の第一統領”となり、国民投票を経て、1804年12月2日に“フランス人民の皇帝”に即位。こうしてフランス第一共和政は崩壊し、“フランス第一帝政”が始まった。
フランス軍のポルトガル侵攻
ナポレオンの“フランス帝国”に対し、ポルトガル王国は中立を宣言していた。一方、ポルトガル王国との同盟関係にある英国は、フランス帝国と敵対関係にあった。
産業革命が進行中の英国を経済的に封じ込めようと、フランス皇帝ナポレオン1世は1806年11月21日に“大陸封鎖令”を発令。これに参加するようフランス帝国は欧州諸国に求めたが、英国との同盟関係にあるポルトガル王国は、これを渋った。
ナポレオン1世は大陸封鎖令に参加しないポルトガル王国への侵攻を決意した。フランス帝国による軍事侵攻が迫るなか、ポルトガル王国の摂政であるジョアン王子は、脱出の準備を進めた。
ポルトガル王室の脱出を描いた1810年の絵画 ポルトガル王国を統治する摂政政府を組織したジョアン王子は、女王マリア1世をはじめとする王族や高級官僚など1万人以上を率い、1807年11月に事実上の植民地であるブラジル公国へ脱出。その直後にフランス軍がポルトガル王国の首都リスボンに進駐した。
ポルトガル王室の脱出劇は、ナポレオン1世にとって大誤算だった。これによりポルトガル王室は海外領土の運営が継続でき、それがナポレオン1世を追い詰めることつながったからだ。
リオ・デ・ジャネイロの宮廷を描いた風刺画
ブラジルの人々がジョアン王子に拝謁する様子
リスボンを脱出したジョアン王子とマリア1世は、1803年3月にリオ・デ・ジャネイロに到着。このブラジル公国の中心都市が、ポルトガル王国の首都となった。これは史上初の旧大陸から新大陸への遷都だった。これを機にリオ・デ・ジャネイロの人口が増加し、文化水準も向上した。
半島戦争の“ヴィメイロの戦い”(1808年)
英国軍とポルトガル軍がフランス軍に勝利
ポルトガル王国では、1808年7月にアーサー・ウェルズリーが率いる英国軍が上陸し、フランス軍を撃破した。英国軍とポルトガル軍は、フランス軍と一進一退の戦いを続け、やがて戦況は泥沼化した。
この“半島戦争”は1814年まで続いた。英国軍はポルトガル王国やスペイン王国の民兵を支援。非正規兵による戦法は、スペイン語で“ゲリーリャ”(小さな戦争)と呼ばれ、これが“ゲリラ”の語源となった。イベリア半島は荒廃し、ポルトガル王国の経済構造は破壊された。
王の帰還とブラジル独立
半島戦争でポルトガル王国が荒廃するなか、王室が移転したブラジル公国は、あたかも宗主国のようになった。英国軍は半島戦争の終結後も、ポルトガル王国に残留し、大きな権限を振るった。ポルトガル王国は英国の保護国のような状態でもあった。
ポルトガル・ブラジル連合王国の領土(緑色) ブラジル公国は地位が高まり、王国に昇格。1815年12月に大西洋をまたぐ“ポルトガル・ブラジル連合王国”が誕生した。1816年3月にマリア1世はリオ・デ・ジャネイロで崩御。摂政のジョアン王子が“ジョアン6世”として連合王国の王座に就いた。
1820年にポルトガル王国の港湾都市ポルトで、反英国と自由主義を求める革命が勃発し、全国に広がった。その結果、英国軍は撤退し、ポルトガル王国への不介入を決めた。
ジョアン6世のリスボン帰還を描いた作品 革命派は本国であるはずのポルトガル王国が植民地のような扱いを受けている現状を改めるため、リオ・デ・ジャネイロのジョアン6世に対し、リスボンへの帰還を要請。さらにブラジル王国を公国に格下げすることも要求した。
これに応じ、ジョアン6世は1821年にポルトガル王国へ帰国した。王位継承者のペドロ王子は、ブラジル王国の摂政としてリオ・デ・ジャネイロに残留した。
リスボンへの帰還を果たしたジョアン6世は、1822年に議会が起草した憲法の遵守を約束。こうしてポルトガル王国は、絶対君主制から立憲君主制へ移行することになった。だが、ジョアン6世とともにリスボンへ帰還したミゲル王子は、絶対君主制の信奉者だった。
21歳のミゲル王子
1823年の作品
革命派との誓約を守ろうとするジョアン6世に対し、ミゲル王子は1823年に反乱を決行。ジョアン6世は捕らえられ、幽閉された。このクーデターに、リスボン駐在の外交使節が介入し、ジョアン6世を救出。英国船に保護されたジョアン6世は、ミゲル王子を罷免した。その結果、ミゲル王子はオーストリアのウィーンに亡命した。
一方、摂政としてリオ・デ・ジャネイロに残留していたペドロ王子は、1822年10月に“ブラジル帝国”の皇帝ペドロ1世として即位。ブラジルの独立を宣言した。ブラジル帝国の成立は、現地の支配層がペドロ1世を擁立することで実現した。彼らはブラジル王国が再び植民地である公国に格下げされることを恐れ、独立を目指した。
ブラジル皇帝ペドロ1世
1826年の作品
こうして“ブラジル独立戦争”が始まり、ブラジル軍とポルトガル軍は1823年11月まで戦闘を繰り広げた。1825年に英国がブラジル帝国の独立を承認すると、これにポルトガル王国も追従。ポルトガル王国は“富の源泉”だったブラジルを喪失した。その翌年の1826年3月にジョアン6世は崩御した。
なお、ポルトガル王国での自由主義革命は、マカオにも飛び火した。マカオ生まれのポルトガル人は、主に自由主義革命を求め、立憲君主制を支持した。一方、貴族を中心としたマカオの官僚は、既得権益の源泉である絶対君主制を擁護した。
マカオ市民は憲法の遵守を官僚に求め、双方の対立は1822年8月に頂点に達した。マカオでは1784年の政治改革で、総督の権限が強化されていた。しかし、議会は最終的にマカオの政治体制を1784年以前の状態に戻すと決議。マカオ総督の権限は剥奪され、自由主義者が勝利した。
二人のポルトガル王
ジョアン6世が崩御すると、王位継承者であるブラジル皇帝ペドロ1世は、“ポルトガル国王ペドロ4世”として即位。しかし、すでにブラジル皇帝であったことから、わずか2カ月あまりで、王位を当時7歳の娘マリアに譲った。こうして1826年5月にブラガンサ朝ポルトガル王国の第九代国王として、女王マリア2世がリオ・デ・ジャネイロで即位した。
ブラジル皇帝のペドロ1世は、ウィーンに亡命した弟のミゲル王子との関係修復を図った。自由主義に基づく立憲君主制を前提に、ミゲル王子にマリア2世の摂政に就任するよう打診。さらにマリア2世が成人した後、彼女と結婚することも約束した。こうして1828年2月にミゲル王子はリスボンに帰還した。
マリア2世
1829年の作品
当時のリスボンは、絶対君主制の信奉者と自由主義者が入り混じっていた。絶対君主制の信奉者は摂政のペドロ王子を擁立し、ポルトガル国王に即位させることを画策。ミゲル王子は絶対君主制の信奉者だったことから、その流れに乗り、1828年7月に絶対君主として即位。“ポルトガル国王ミゲル1世”を僭称し、自由主義者を弾圧した。
こうしてポルトガル王国は、マリア2世とミゲル1世の二人が国王を名乗る状況となった。ブラジル皇帝のペドロ1世は自由主義を信奉しており、事態を収拾するため、ポルトガル王国への帰国を決断。1831年4月にブラジル皇帝の座を当時5歳の息子ペドロ2世に譲り、英国の軍艦でポルトガル王国に向かった。
なお、マカオでは自由主義者が政治を握っていたが、ポルトガル王国でミゲル1世が王を僭称すると、絶対君主制の擁護者たちも息を吹き返した。マカオ総督は自由主義者を弾圧し、絶対君主制の擁護者たちは歓呼した。こうしてマカオの民主化運動は頓挫した。
ポルトガル内戦
ポルトガル内戦の風刺画
王位をめぐり争うミゲルとペドロ
“兄弟戦争”には外国の後ろ盾が
1833年の作品
ブラジル皇帝の座を捨てたペドロは、英国で遠征軍を組織。大西洋のアゾレス諸島で自由主義者と合流すると、1832年7月に港湾都市ポルトの近郊に上陸した。こうして“自由戦争”、“兄弟戦争”などと呼ばれる“ポルトガル内戦”が本格化した。
ペドロの軍は約1年間にわたりポルトで包囲された。しかし、英国軍がペドロを支援し、巻き返しに成功する。ミゲル1世の軍は敗退。1834年5月26日に交わした協定でミゲル1世は退位を強制され、再び外国に亡命。二度とポルトガル王国に帰国することはなかった。
1835年のマリア2世を描いた肖像画 マリア2世は1833年9月にリスボンに入城しており、1834年9月には議会からも王位を承認された。同じころに、父のペドロも死去。名実ともにマリア2世の時代が到来した。
ポルトガル内戦は自由主義者の勝利で終結。絶対主義の信奉者だった修道院や修道会などは、財産を没収された。だが、ブラジルを失ったポルトガル王国の財政には、戦争にともなう外国からの借款が重くのしかかった。勝利した自由主義者も経済的に報われず、内戦で活躍した軍人も見返りが少なく、政府への不満が高まった。
こうした状況を背景に、立憲君主制のポルトガル王国では、1830~1840年代に民衆の反乱や軍人の専横、それにクーデターがしばしば発生した。マリア2世の時代になっても、ポルトガル内戦の余波が続いた。
マカオに再注目
南蛮貿易が終了した後のポルトガル王国は、前述のように西洋のブラジルに関心が移り、東洋のマカオは半ば放置された。ポルトガル王国はリスボン大地震で甚大な被害を受け、復興後も半島戦争や内戦で国土が荒廃。富の源泉だったブラジルも、結局は失った。
61歳のペドロ2世(1887年) なお、ペドロ2世が統治するブラジル帝国は、1889年のクーデターで崩壊。共和制の“ブラジル合衆国”に移行した。ペドロ2世は欧州に亡命した後、1891年にパリで死去。ポルトガル王室とブラジルの縁も、完全に断たれた。
こうした歴史を背景に、ポルトガル王国はマカオにかまう余裕がなかった。だが、1840年に勃発したアヘン戦争の結果、1842年の“南京条約”で英領香港が発足すると、これにポルトガル王国は刺激を受け、その視線は再び東洋のマカオに向かった。
清王朝の衰退を確認したポルトガル王国は、居留地のマカオを植民地化する計画を推進。約2世紀にわたる衰退期を経て、マカオは再び活性化することになる。次回は再活性したマカオに話を進める。ただ、その前に今回の締めくくりとして、マカオの再活性ぶりと現状を簡単に紹介しよう。
マカオの人口は2021年末で推計68万3,200人であり、1839年の54倍ということになる。このマカオを訪問する域外からの旅行者は、コロナ禍前の2019年で年間延べ3,940万6,200人。これは2019年末の人口の58倍に相当する。
大勢の客でにぎわうコロナ禍前のカジノ
マカオの米国系カジノ会社サンズ・マカオ(金沙中国)
域外からの旅行者の目的は、言うまでもなくカジノだ。2021年末の労働人口は38万9,900人、就業者数は37万8,400人。うちカジノ関連の従業員は7万8,100人に上り、就業者の21%を占める。カジノ産業との関わりが深いホテル・外食産業の就業者は5万300人、小売業では3万3,000人だった。
マカオ政府の歳入は、コロナ禍前の2019年で1,407億3,020万パタカ。うちカジノ・ギャンブルからの収入は1,127億1,036万2,000パタカで、歳入の80%を占めている。
現在のマカオの人口は黄金時代を凌駕するが、その基盤はカジノ産業であり、コロナ禍では厳しい状況にある。2020年のカジノ・ギャンブル収入は前年比74%減の298億816万パタカに過ぎず、歳入に占める割合も29%に落ち込んだ。
コロナ禍で明かりが消えたマカオのカジノ・リスボア カジノの街に変貌した現在のマカオは、一見すると空前の繁栄ぶりだが、その基盤がもろいことは、昔の黄金時代と変わりない。“上陸できる”ということしか長所がないマカオの価値は、周辺環境や国際情勢に合わせた活用法で決まるからだ。
新型コロナウイルスのパンデミックという未曽有の事態を受け、マカオを取り巻く環境は劇的に変化した。中国本土が“ゼロコロナ政策”を続けるなか、カジノ産業に大きく依存するマカオは、かつてない試練を迎えている。