第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースが着任したのは1971年11月19日。その任期は1982年5月8日まで続き、香港総督としては歴代最長の10年半に及ぶ。その統治期間は“黄金の十年”と呼ばれた。
異色の香港総督
ベルオール・カレッジのホール
ハリー・ポッターの世界を彷彿させる
マクレホース総督の母校の一角
アモイのコロンス島に残る旧・英国領事館
包玉剛プールの記念碑
碑文の“麥理浩”はマクレホース総督の中国語名
彼の名が残る記念碑は、香港各地に残る
マクレホースは1917年10月16日にスコットランドのグラスゴー近郊で生まれた。1936年にオックスフォード大学のベルオール・カレッジに進学し、現代歴史学を学ぶ。1939年に植民地省に採用され、マレーシアに向かったが、1940年には中国福建省のアモイ領事館に配属された。ここでマレーシアでも使われる福建語を学んだ。
1941年12月8日に太平洋戦争が勃発し、日本は英国に宣戦。アモイも日本軍の手に落ち、マクレホースは身柄を拘束された。1942年10月に釈放され、帰国の途に就いたが、1943年2月には海軍大尉として中国に戻り、広東省スワトー付近での情報収集活動などに当たった。
彼は非常に大胆な一面もあり、日本軍の支配下にあったスワトーのクラブに姿を現すと、一同が見守るなか一杯のジントニックを飲み干し、悠然と立ち去った。あっけにとられた日本軍に捕まることもなく、無傷で帰ってきたという。
現地での生活を経て、マクレホースは中国に対する関心が高まり、やがて中国語(標準語)も習得した。ちなみに、彼の中国名は麦理浩という。標準語では“マイリーハオ”と読むが、広東語では“マックレイホウ”となり、英語に近い。
戦後は退役し、1947年5月から正式に外務省に転属。湖北省武漢の領事館に勤めた。国共内戦に中国共産党が勝利すると、帰国を余儀なくされ、ロンドンではマーシャル・プラン関連の仕事に携わった。
その後はチェコ、ニュージーランド、フランスなどで勤務。1950年からは植民地省の仕事にも加わり、香港政庁の政治顧問となった。さらにベトナム、デンマークでも大使として勤務。1970年10月に香港の次期総督に任命され、就任までの短い期間を利用し、急いで都市公共行政管理を学ぶことになった。
歴代の香港総督は、ほとんどが植民地省出身であり、外務省出身というマクレホース総督のキャリアは異例だった。彼は植民地省の出身者のような行政のプロフェッショナルではないが、外務省でキャリアを積んだだけあり、情勢の分析に優れていた。
また、歴代の香港総督は、行政のプロであるがゆえに、その財政政策は保守的な傾向が強かったが、マクレホース総督は違った。香港の社会インフラは、保守的な財政政策のために整備が遅れていたが、マクレホース総督は歳出を増やし、香港市民の生活環境改善に力を入れた。
“亜洲四小龍”に成長
チャールズ・フィリップ・ハッドン・ケイヴ
積極不介入主義を提唱
マクレホース総督が着任した直後の1972年は、香港株式市場では株価が急騰。ハンセン指数は年間で147.1%も上昇した。そして1973年はバブルが崩壊。石油危機が追い打ちをかけ、今度は年間で48.6%も下落した。バブル崩壊の影響は長期に及び、香港株式市場は1977年まで低調だった。
株式市場は低調だったが、この間も香港の実体経済は着実に成長。1977年の名目GDP(域内生産)は727億2,400万香港ドルに上り、バブル崩壊の1973年に比べて1.8倍となった。
マクレホース総督の下で香港財政長官を務めたチャールズ・フィリップ・ハッドン・ケイヴは、積極不介入主義を提唱。自由経済を重視し、香港政庁の介入を最小限度にとどめる方針を採用した。この方針は香港政庁の財政政策やマクレホース総督の施政にも反映され、中国返還後も踏襲されている。
マクレホース総督の統治下で、香港経済は従来の軽工業から、電子製品製造、商業、金融業に軸足を移す。こうして香港経済はテイク・オフ(離陸)。シンガポール、韓国、台湾と並んで、「亜洲四小龍」(アジア四小龍)と呼ばれるほどの高度成長を達成した。
マクレホース総督が退任する直前の1981年は、名目GDPが1,924億8,800万香港ドルに上り、彼が着任した1971年に比べ7.3倍となった。
止まらぬ人口の増加
界限街の位置
抵塁政策が終了し、一律強制送還に方針転換
正式に香港市民になるため
元難民が居留事務所に集まった
中国本土ではプロレタリア文化大革命(文革)が続き、難民の流入が続いた。1974年11月にマクレホース総督は“タッチ・ベース政策”(抵塁政策)を発表。これは中国本土からの難民がバウンダリー・ストリート(界限街)より南の香港市街に入ることに成功すれば、居住権を与えるが、その前に捕まったら、強制送還するという政策だった。ベースに触ればセーフという野球のルールに似ていることから、こう名付けられた。
この政策が実施されてからの2年間で、香港市街に入ることに成功した人は2万人に上った。香港政庁は取り締まりを強化したが、1978年も2万8,000人が香港市街に入ってきた。1979年には9万人を強制送還したものの、10万人が香港市街に到達した。
流入人口の増加に歯止めがかからなかったことから、マクレホース総督は1980年10月に“タッチ・ベース政策”を廃止し、一律強制送還に方針を転換。これにより、ようやく人口の増加が抑えられたが、香港の人口は1981年に499万人に達し、1971年から105万人も増えていた。
そのため、1981年の名目GDPは1971年に比べ7.3倍となったものの、人口の急増にともない、1人あたりGDPは5.6倍にとどまった。ただ、それでも飛躍的といえる成長ぶりと言えるだろう。
公共住宅の提供
マクレホース総督が率いる香港政庁は、積極不介入主義を採用しているとはいえ、香港の経済や社会にまったく介入しないわけではない。経済や社会の安定のために、必要最低限な政策を推進した。
公共住宅の建設はその代表。1982年までに香港市民180万人に公共住宅を提供するため、「十年建屋計画」(Ten-year Housing Programme)を1972年に打ち出した。それまでの公共住宅政策は、住宅の数しか重視していなかったが、マクレホース総督の下では、適切な居住環境を備えていることが指針に加えられた。
ニュータウン(新市鎮)の位置 荃湾ニュータウン この「十年建屋計画」は、新界(ニューテリトリー)のニュータウン(新市鎮)の建設に合わせた政策でもあった。マクレホース総督の在任中に、新界の荃湾、沙田、屯門、大埔、元朗、粉嶺に、6つのニュータウンが建設された。
しかし、10年間で公共住宅の恩恵にあずかったのは96万人。目標の180万人を大幅に下回った。その一方で、この計画の推進により、新界の人口は当初の50万人から150万人に急増。香港の人口分布を大きく変えた。
目標に届かなかったことから、「十年建屋計画」は5年間延長され、マクレホース総督の退任後の1987年に終了。恩恵にあずかったのは累計150万人で、やはり目標に届かなかった。目標未達の背景には、石油危機の影響などがあったという。
だが、目標未達とはいえ、多くの香港市民が生活環境の改善を実感。香港政庁への信頼を高める結果となった。
生活圏の拡大
第二獅子山隧道
セカンド・ライオン・ロック・トンネル
夕方の紅磡駅(ホンハム駅)
ニュータウンの建設に合わせて、交通インフラの整備も進んだ。1974年には九龍地区の市街地と青衣島を結ぶ青衣大橋が開通。荃湾ニュータウンの青衣島サイドが発展する契機となった。
1978年には九龍地区の市街地と新界西部の屯門ニュータウンを結ぶ道路「屯門公路」が開通。九龍地区と沙田ニュータウンを結ぶ第二獅子山隧道(セカンド・ライオン・ロック・トンネル)も、同年に通行可能となった。
鉄道網の整備も進んだ。1973年に九広鉄道(KCR)の複線化工事に着手。1975年には九龍駅(尖沙咀駅)に代わる新たなターミナル駅として、紅磡駅(ホンハム駅)が完成した。1978年には九広鉄道の電化工事に着手。この工事はマクレホース総督が退任した後の1983年に完了した。
こうした道路や鉄道の整備によって、九龍地区の市街地と新界のニュータウンの往来に要する時間が大幅に短縮。香港市民の生活圏が広がり、新界の発展につながった。
香港島と九龍地区の一体化
年中渋滞のクロス・ハーバー・トンネル
別名「紅磡海底隧道」
マクレホース時代の地下鉄路線図
香港中心部の交通も、利便性が増した。香港島と九龍地区を結ぶ初の海底トンネルは、第二十四代香港総督のデビッド・クライブ・クロスビー・トレンチの時代から始まっていた。1969年9月に着工した海底トンネルは、マクレホース総督が着任した後の1972年8月に開通。カーフェリーを使うことなく、自動車で香港島と九龍地区を往来できるようになった。
中心地の交通インフラ整備は、これにとどまらなかった。1972年6月に地下鉄建設の準備に着手。1975年11月に着工し、九龍地区を南北に走る一部区間が、1979年9月に開通した。1980年2月には九龍地区の尖沙咀と香港島の中環(セントラル)を結ぶ海底トンネル区間も完成し、全面開通した。
香港島と九龍地区の往来は、昔からスターフェリー(天星小輪)に依存していたが、トンネルや地下鉄の開通で、飛躍的に便利となり、ビクトリア・ハーバー(維多利亜港)を挟んだ中心地の一体化が進んだ。
地下鉄は1977年7月に九龍地区から荃湾ニュータウンへの延長が決まった。1982年3月には香港島内の上環と柴湾を結ぶ路線の建設も決定。太古城(タイクーシン)など香港島北部の住宅開発も進むことになった。
警察の汚職とゴッドバー事件
マクレホース総督が着任した当時の香港は、社会のすみずみに汚職がはびこっていた。例えば火事が起きた場合、消防隊はカネを受け取るまでは、火を消さない。救急隊員はカネをもらわなければ、負傷者を運ばない。病院の職員は、カネをもらわなければ、看護しないというような有様だった。
公共住宅への入居、公立学校への進学にも、賄賂が欠かせないという状態。なかでも汚職が深刻だったのは、香港警察だった。
香港警察は1967年の六七暴動の鎮圧で功績を立て、ロイヤル(皇家)の称号を授与するなど、高い評価を得ていた。その一方で“カネさえ払えば、誰にでも買える最高の部隊”と皮肉られるように、収賄行為が横行。職権の乱用や犯罪の隠匿も盛んで、香港の治安悪化の原因となっていた。
警察の汚職問題は、トレンチ総督の時代から意識されていた。香港政庁はマクレホース総督が着任する直前の1971年5月に「贈収賄防止条例」を制定。反汚職部門の権限を強化したが、効果は乏しかった。
汚職に手を染めた警察幹部のゴッドバー
1975年に香港に身柄を引き渡された
懲役4年の実刑判決を受けたゴッドバー
2年ほどで出獄し、海外に隠れ住んだ
こうしたなか、警察幹部のピーター・フィッツロイ・ゴッドバーに汚職容疑が浮上。香港からカナダへの不正送金の情報を掴んだ警察の反汚職部門は、ゴッドバーが汚職で蓄えた財産を海外に持ち出そうとしたと見立て、捜査に乗り出した。
一方、捜査の動きを察知したゴッドバーは、家族の健康不振と自身の体力低下を理由に、1972年1月に早期退職を願い出た。まだ確たる汚職の証拠がなかったことから、この早期退職は受理され、ゴッドバーは1973年7月20日に退職することが決定した。
だが、捜査が進むと、ゴッドバーによる海外送金額が、警察在職中に得た給与総額をはるかに超えることが発覚。かなりの不正蓄財があり、汚職行為が相当な規模だった可能性が高まった。
捜査の進展に危機感を覚えたゴッドバーは、1973年6月30日までに香港を離れたいと上司に申し出たが、その願いは拒否された。だが、当初の予定通りに香港を離れることは承認された。
ゴッドバーの退職日が迫るなか、警察は1973年6月4日に家宅捜索を実施。押収した記録から、ゴッドバーが香港各地の闇カジノ、売春宿、薬物密売人から賄賂を受け取り、蓄財していたことが判明。その金額は437万7,248香港ドルに達することが分かった。
警察はゴッドバーに対し、1973年6月11日までに出頭するよう命令。貯め込んだ資金の出所について説明するように求めた。だが、ゴッドバーは6月8日にシンガポール航空の旅客機で英国に帰国。ゴッドバーの失踪に警察が気づいたのは6月9日になってからで、大きな失態だった。
ICACの創設
ゴッドバー事件を受け、マクレホース総督は法律の制定や警察の自浄能力には期待できないと判断。汚職撲滅の専門機関を創設する方針を固め、1974年2月15日に廉政公署(ICAC)が発足した。
香港警察本部での集会 警察にネクタイを引っ張られるICAC幹部 汚職をめぐる香港市民の訴えは、ICACの発足から10カ月内で5,958件に上った。これを受け、警察に対するICACの捜査が展開された。だが、大勢の警察官が捜査協力を求められ、現場が混乱。警察官の早期退職のほか、犯罪人引渡し条約を結んでいない台湾への逃亡などが相次いだ。ついにはICACの苛烈な取り調べで、警察官が自殺。警察内部のICACに対する不満は頂点に達した。
1977年10月28日に数千人の警察官と家族が、香港警察本部で集会を開催。ICACへの不満を訴えた。集会が終わった後、数十人の警察官がICAC本部に押し寄せ、乱闘騒ぎに発展した。この事件でICACの職員5人が負傷。これを英字紙は「警察の反乱」と報じ、香港の治安悪化が懸念された。
こうした事態を受け、マクレホース総督は英軍の出動も検討したが、軍からの強い反対に遭い、譲歩を決定。1977年11月5日に特赦を発表し、1977年1月1日より前に犯した汚職は、すでに起訴された者や国際手配被疑者を除き、不問にすることが決まった。
ちなみに、香港の有名俳優として知られる曽志偉(エリック・ツァン)の父は、台湾に逃亡した警察官の一人。国際手配被疑者となったことから、香港に帰ることができず、台湾で生涯を終えた。
マクレホース総督の譲歩は、警察内部の不満を和らげ、柔軟な対応は世論の共感を呼んだ。その一方で汚職撲滅に懸命だったICACの士気を挫き、幹部が辞任する結果となった。
こうした問題が起こったとは言え、ICACはマクレホース総督が退任するまでに、2,000人以上を起訴。長年にわたった腐敗のイメージを一掃し、香港をアジアでも屈指のクリーンな都市に変貌された。
清潔な都市へ
クリーンになったのは、“香港の警官”だけではない。“香港の景観”もきれいになった。1972年8月にマクレホース総督は香港の街角からゴミを一掃するため、「清潔香港運動」(Keep Hong Kong Clean Campaign)を展開。ゴミをポイ捨てする人をイメージした“拉圾虫”(拉圾はゴミを意味する中国語)というマスコットキャラなどを製作し、大々的な宣伝活動を繰り広げた。
拉圾虫の人形 “拉圾虫”は香港政庁の広報部門に務めていたエドワード・アーサー・ハッカー氏がデザイン。一見すると簡単なキャラだが、デザインを練るのに1カ月の時間を要し、この間に描いた下書きは350枚に上ったという。
ハッカー氏の苦労は実った。このキャンペーンでは、ほかにも色々なマスコットキャラが誕生したが、多くの香港市民の印象に残ったのは“拉圾虫”だった。例えるなら、「それいけ!アンパンマン」の“ばいきんまん”のような存在と言えるだろう。
このキャンペーンには多くの芸能人が賛同し、香港市民の関心を集め、衛生・清潔に対する意識が高まった。マクレホース総督も自ら海辺の清掃活動に参加。こうした香港総督の姿は、少し前まで誰もが想像できなかったという。
保全された豊かな自然
全長100㎞のマクレホース・トレイル
1979年10月26日にオープン
世界屈指のハイキング・トレイルとして知られる
ハイキング中のマクレホース夫妻
マクレホース総督の時代に、香港社会は急速に発展。こうしたなかで中心街の歴史的建造物は取り壊され、高層ビル街に変貌していった。その一方で、香港の豊かな自然は保全された。1976年に「郊野公園条例」を制定。自然が豊かな郊野公園(カントリー・パーク)が正式に区画された。
郊野公園にはレジャー施設も整備され、1981年にはマクレホース総督夫人を記念した「麦理浩夫人度假村」(レディー・マクレホース・ホリデー・ビレッジ)が、新界の西貢にオープンした。
いまでも郊野公園は香港の総面積の4割を占める。香港の市街地を少し抜けると、すぐに亜熱帯の森林が姿を現す。まるで恐竜が住んでいそうな豊かな森は、こうして守られた。
マクレホース総督も自然を愛し、山歩きを楽しんだ。ひっそりとした山道にマクレホース総督が忽然と姿を現し、新界の住民を驚かせることもあった。そんな時、マクレホース総督は人々の話に耳を傾け、住民の暮らしぶりなどに関心を寄せたという。
義務教育の推進
マクレホース総督が着任したばかりの1971年に、香港では初めて義務教育制度が導入されたが、それは初等教育までであり、マクレホースは不満だった。そこで彼の任期内に中学校教育までの無償義務教育を実現するよう官僚に要求した。
1973年に香港政庁の教育委員会は、1981年までに80%の児童が中学校教育を受けられるよう学資支援する目標を定めた。マクレホース総督は、これに満足しなかった。ペースが遅すぎるからだ。そこで専門チームを立ち上げ、1974年10月に「香港の今後十年の中学教育」と題した白書を発表させた。これにより、1979年までに9年間の無償義務教育を実現する目標が定められた。
だが、人口の増加やニュータウン建設を背景に、マクレホースは目標達成を急いだ。1977年10月5日の施政報告で計画を繰り上げ、1978年から9年間の無償義務教育を導入すると発表した。
化学者の黄麗松(レイソン・ホワン)教授
香港大学で初の中国系の校長となった
さらに工業の発展に合わせ、1978~1979年にかけて複数の工業専門学校を創設。同時に建設業や縫製業の職業訓練学校も設けた。大学教育をめぐっても、改革を推進。1972年に黄麗松(レイソン・ホワン)教授が、中国系市民では初の香港大学校長に就任した。
マクレホース総督の時代に香港の教育事情は大きく改善。香港の社会的・経済的な発展にふさわしい人材を生み出す基盤が整えられた。
社会福祉政策の推進
海辺の古い住宅街
1970年代の香港
低所得者層の暮らしぶりを聞くマクレホース総督
マクレホース総督の着任前、まともな社会福祉制度は香港に存在しなかった。貧困対策は、わずかな食糧配給や現金支給だけだった。
こうした有様を見たマクレホース総督は、慈善団体の力だけでは不十分と判断。積極不介入主義を標榜する香港政庁だが、貧困問題は市場メカニズムで解決することは不可能であるとして、社会福祉制度の整備に乗り出した。
1972年から貧困救済の支給金を引き上げ、その用途も自由化した。さらに物価変動に応じて、支給額を調整する仕組みも整えた。1977年にセーフティネットは一段と拡充され、公的支援が必要な15~55歳の香港市民であれば、誰でも申請可能とした。
1973年には特別障害給付金制度と高齢者補助金制度も導入するなど、障碍者や高齢者への経済的支援を厚くした。このほか、学生向けの交通費補助、公的医療、労使問題などをめぐる制度も、マクレホース総督の時代に整備された。
生活のゆとりと余暇の充実
香港市民の生活環境の改善策は、単に生きるための分野にとどまらなかった。マクレホース総督は在任中に、香港各地に公園、プール、運動場、体育館などを建設した。
芸能人のコンサートなどが開かれることで有名な香港体育館(香港コロシアム、別名:紅磡体育館)は、マクレホース総督が在任中の1973~1981年に工事が進められ、退任後の1983年4月27日にオープンした。
香港海洋公園
オーシャン・パーク・ホンコン
香港屈指のテーマパークである香港海洋公園(オーシャン・パーク・ホンコン)は1972年7月に着工し、1977年1月10日に開幕式典が開かれた。1978年には香港で二つ目の競馬場「沙田馬場」が完成した。
こうしたレジャー施設の誕生は、一生懸命に働く人々の心を潤した。働くばかりが人生ではない。マクレホース総督のこうした施策は、多くの香港市民に幸せを感じる空間を提供した。
民間の声を重視
マクレホース総督の時代も、香港政庁の行政機関である行政局と立法機関である立法局は、香港総督による議員の任命制が維持され、選挙制は導入されなかった。だが、香港政庁の外部や中国系市民の声に耳を傾ける姿勢を鮮明にした。
マクレホースの着任時、行政局は15議席だった。内訳は7議席が香港総督を含むオフィシャル議員(官僚議員)で、8議席が非オフィシャル議員(民間議員)。その民間議員の議席は、英国系議員と中国系議員に4議席ずつ割り当てていた。だが、マクレホース総督は1974年から中国系議員に1~2議席ほど多く配分。台頭する中国系市民のパワーを重視する姿勢を示した。
立法局のマクレホース総督(左)
民間議員の増加を求める訴えに耳を傾ける
外部からの意見を尊重する姿勢は、立法局ではさらに鮮明だった。マクレホース総督の着任時、立法局は26議席であり、うち13議席が香港総督を含む官僚議員で、残り13議席を民間議員に割り当てていた。
官僚議員と民間議員は半数ずつだったが、1976年にマクレホース総督はこの均衡を崩した。総議席数を42議席としたうえで、官僚議員を20議席にとどめ、民間議員を22議席とした。これ以降、立法局の議席数が変化しても、民間議員が過半数というのが慣例となった。
1981年には総議席数が50議席となったが、官僚議員が23議席、民間議員が27議席という配分となった。外部からの意見を取り込もうとするマクレホース総督の姿勢は、誰の目にも明らかだった。
政治の舞台に中国語を
香港では1960年代から、中国語の公用語化を目指す「中文運動」が盛んだった。マクレホース総督が着任すると、その動きは加速。1972年には立法局で中国語(広東語)による発言が認められた。1974年には中国語に英語と同等の法的地位を与える法律が成立した。
英語ができない初の立法局議員となった王霖さん そのころのマクレホース総督は、立法局の民間議員について、対象者を拡大していた。それまでは英国系大企業の幹部や中国系市民の名士から民間議員を選んでいたが、各産業界の代表者にも候補者を広げていた。
1978年には九龍バスの切符販売員だった王霖さんを立法局の民間議員に任命した。彼が社会活動に非常に熱心だったことを高く評価しての決定だった。
しかし、王霖さんはオファーを受けた時、辞退しようとした。英語ができないうえに、家計にも影響が出そうだったからだ。これに対してマクレホース総督は、広東語で発言しても問題ないと励ました。また、議員報酬制度を導入すると提案し、それで秘書を雇えば負担も軽減できると、熱心に説得した。
こうして王霖さんは、立法会の歴史上、初の英語ができない議員となった。同時に、初の庶民階級を代表する議員でもあったことから、立法局で人々の生活に根差した数々の質疑を行い、議員生活は1985年まで続いた。なお、王霖さんは1990年に広東省東莞市の政治協商会議で常務委員を務め、1996年には名誉市民に選ばれた。
選挙制度の拡充
行政局や立法局は、マクレホース総督の時代も、議員の任命制が維持された。ただ、英領香港に選挙制度がまったくなかったわけではない。
香港島と九龍地区で公共衛生などの市民生活サービスを担当する市政局は、戦前から一部の議員が選挙で選ばれていた。だが、市政局の選挙は、資格要件が設定された制限選挙。一定以上の所得、納税額、教育水準がなければ、選挙権が与えられなかった。このため市政局の選挙に対する香港市民の関心は薄かった。
こうしたなか、マクレホース総督は、地方行政に市民が参加することを目指し、区議会制度の導入を計画。その準備に向け、1972年から民生区委員会などの組織を設けた。1981年1月に「地方行政白書」を発表し、正式に各区に区議会を創設すると発表。地方行政計画の下で、18の区議会が誕生した。
屯門の区議会選挙(1982年) 1982年3月4日に新界で初の区議会選挙が実施され、マクレホース総督が退任した後の同年9月23日には香港島と九龍地区でも行われた。ただし、区議会議員490人のうち、選挙で選ばれたのは132人。残りは134人が任命によるもので、224人が官僚議員などだった。
この区議会選挙は全面的な普通選挙ではなかったが、民主化に向けた試金石となった。選挙権の条件は、香港居住歴が満7年で、年齢が満21歳の市民であることだけ。このため市政局の選挙と違い、比較的多くの市民が投票所に向かった。
歴史的な北京訪問
鄧小平と握手するマクレホース総督 1970年代の中ごろになると、新界の土地契約問題が意識されるようになった。新界の租借期限は1997年6月30日。これ以降を期限とする土地契約の有効性が疑問視された。
そうした情勢を背景に、マクレホース総督は1979年3月に北京を公式訪問。私的訪問ではなく、公式に中華人民共和国の土を踏んだ初の香港総督となった。3月29日にマクレホース総督は鄧小平と会見。中国側が香港を“回収”する方針であることを知った。これを皮切りに、中国と英国の香港をめぐる交渉が始まることになった。
香港に本格的な選挙制度を導入しようとしたマクレホース総督だが、1997年の香港返還に向けた交渉を前に、中国を刺激しないとの配慮から、これ以上は民主化計画を進めなかった。
英領香港の歴史は1842年に始まったが、100年以上にわたって本格的な選挙制度は導入されなかった。こうした植民地統治を1世紀以上にわたって続けた英国が、返還間際の土壇場で香港の政治制度を民主化し、中国にとって“やっかいな状態”で押し付けようと画策していると受けとめられるからだった。
だが、マクレホース総督の危惧をよそに、後の香港総督は返還間際の土壇場で、中国側の了承なしに立法会の選挙制度改革を推進。これに中国側は激怒し、返還後の香港にとって、中国本土との分断のタネとなった。この英国が香港に残した“置き土産”は、やがて民主化を求める市民と香港政庁の対立へと発展することになるのだった。
最も愛された香港総督
市井の人々と語らうマクレホース総督
いつも大勢の市民に囲まれていた
マクレホース総督は多くの香港市民に愛された。それまでの居丈高な香港総督のイメージと異なり、彼はカジュアルな服装を好み、香港のあちこちに出歩いては、さまざまな市民と触れ合った。ゴミの清掃活動に参加する姿に好感を抱く香港市民も多かった。
彼は身長が高く、やつれたような面持ち。講演する際は、たびたび深くて長い沈黙があり、独特の威厳を醸し出していた。深夜まで勤務することも多く、正義感も強かった。意志が強く、一度決めたことは曲げることが少なかった。その一方で自分の過ちに気づくと、それを認めて、改める勇気もあった。
そうしたマクレホース総督を尊敬する香港政庁の職員は多かったが、大胆な改革を進めたことで、古参の官僚からは不満も多かった。
前述のような市民生活を重視した数々の施策に加え、大型の娯楽イベントもたびたび開催したことで、香港に和やかなムードが広がった。1967年の六七暴動で冷え込んだ香港政庁と市民の関係も、大きく改善された。
そうしたムードのなかで、エリザベス女王が1975年5月4~7日に香港を訪問。英国王が香港を訪問するのは、これが初めてだった。マクレホース総督のエスコートで、女王は香港各地を回り、行く先々で香港市民の大歓迎を受けた。女王の香港訪問は大成功だった。
野菜市場を見学するエリザベス女王 公共住宅を見学するエリザベス女王
別れの時
子どもにも人気だったマクレホース総督 栄誉礼を受けるマクレホース総督 マクレホース総督の任期が長期に及んだ背景には、その卓越した業績もさることながら、彼に代わる人材がいなかったからと言われる。だが、年齢を重ね、病気も患い、ついに退任する日が来た。
1982年5月8日の夜、マクレホース総督は総督府に別れを告げ、最後の栄誉礼を受けるため、専用車で皇后碼頭(クイーンズ・ピア)に向かった。沿道は香港市民であふれ、マクレホース総督との別れを惜しんだ。
ビクトリア・ハーバーを渡るために乗船した際も、帰国のために空港に向かう際も、多くの香港市民が押し寄せ、感謝の言葉を送った。マクレホース総督も手を振って応じ、名残惜しそうにしていた。
マクレホース総督が生み出した“黄金の十年”を通じて、香港市民の生活水準は大幅に改善した。彼は香港社会を大改造し、都市景観などの見た目を変貌させただけではなく、香港市民の意識すら変化させた。香港政庁に対する市民の信頼を勝ち取り、香港への帰属意識を芽生えさせた。マクレホース総督はまさに、今日につながる香港の基盤を作った人物だった。