ネイホウ!――これは香港市民が挨拶に使う言葉であり、漢字では「你好!」と書く。この漢字を見て、“ニイハオ!”ではないのかと思う人もいるだろうが、それは中国本土の標準語での読み方だ。香港の事実上の標準語は、現地の方言である広東語であり、「你好!」は“ネイホウ!”と読む。簡単な挨拶ひとつ取っても、香港は中国本土と大きく異なる。そんな香港の株式市場に、中国本土の株式が初めて上場したのは1993年。資本主義陣営の英領香港の株式市場に、社会主義国の株式という奇妙な組み合わせが誕生した。
アヘン戦争と英領香港
アヘン戦争を描いた絵画(1843年製) 南京条約の締結 現代の香港 18世紀に始まった清王朝と欧州諸国との貿易で、茶葉の需要が旺盛な英国は、貿易赤字に陥った。これを打開するため、英国はインド産のアヘンを清王朝に売り込んだ。このアヘン貿易を清王朝が取り締まったことが発端となり、1840年にアヘン戦争が勃発した。
アヘン戦争に勝利した英国は、1842年に清王朝と南京条約を締結。香港島を清王朝から英国に割譲させた。さらに1860年の北京条約では、香港島の対岸に位置する九龍も割譲。1898年に九龍の北部や離島を英国が“99年にわたり租借”することにも成功し、これを新界(ニューテリトリー)と名づけて支配下に置いた。こうして英領香港の領域が整い、植民地支配は1997年6月30日まで続いた。
150年以上も植民地時代が続いた香港は、歩んだ歴史が中国本土と大きく異なる。日本で知られていないことも多い。そこで香港の歴史を簡単に振り返ってみよう。
香港が英領植民地になると、アヘンの貿易に携わっていたジャーディン・マセソン商会などがここに拠点を移し、商業活動が始まった。
1990年代のジャーディン・ハウス(渣甸大廈) アヘンを吸引する中毒者 1856年に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)の最中、1858年に清王朝は列強四カ国と天津条約を締結。アヘンは“洋薬”という名称で自由な売買と中国への輸入が認められ、列強諸国の中国における商業活動は、さらに広がった。
1865年には香港上海匯理銀行、後の香港上海匯豊銀行(HSBC)が香港と上海に設立された。HSBCはジャーディン・マセソン商会をはじめとする英国企業などに、金融サービスを提供。中国で得た利益の本国送金が容易になった。
なお、アヘンの中国への輸入は、清王朝が滅亡した後も続き、完全に止まったのは1917年ごろと言われる。アヘンは中国でも大量に栽培されるようになっており、撲滅するには長い年月を要した。
香港のブラック・クリスマス
ヤング総督 香港に進駐する日本軍 日本軍に連行される欧州人の銀行家たち 香港赤柱の留置所に収容された欧州人たち 英領香港の最高統治者は英国王。その全権代表である総督が、香港を統治した。英国法に基づく法整備の下で、英国人と中国人が入り混じる香港社会を形成。中国と西洋を結ぶ重要な窓口として発展した。
第二次世界大戦中は3年8カ月にわたり日本に占領された時代もあった。1941年12月8日に日本軍は広東省から香港に侵攻。同月25日にマーク・ヤング総督は無条件降伏し、1万人あまりの英国兵が捕虜となった。この日は“ブラック・クリスマス”と呼ばれた。ヤング総督は現在の遼寧省瀋陽市にあった奉天捕虜収容所に送られ、獄中生活は1945年8月にソビエト軍によって救出されるまで続いた。
ヤング総督は幸運な方だった。HSBCは職員の大部分が香港のスタンレー(赤柱)にあった留置所に送られ、チーフマネージャーだったヴァンデリュア・グレイバーン氏を含む幹部はホテルに監禁された。
グレイバーン氏は日本軍向けの決済業務を強いられるなか、捕らわれた同僚たちを密かに支援していたが、これが見つかってしまい、代理人のチャールズ・ハイド氏、デビッド・エドモンストン氏とともに、収容所に送られた。
グレイバーン氏は1943年8月に敗血症などが原因で獄死。ハイド氏は同年10月に処刑され、エドモンストン氏は1944年8月に栄養不良で死亡した。HSBCにとって、貴重な人材を一気に失った。
日本では忘れられがちだが、アジアで起きた戦争の被害者は、現地民だけではない。香港などの植民地や中国各地の租界で暮らしていた欧州人も、戦争の犠牲となった。
戦後の香港
1945年8月15日に日本が無条件降伏すると、香港をめぐって新たな問題が起きた。香港を統治するのは、英国なのか、それとも中華民国なのか?――という問題だ。この問題をめぐり、英国と中華民国が争っていたが、最終的に英領香港として復活することが決まった。
本土に移送される難民(1962年)
1975年の香港島クイーンズロード
鄧小平とサッチャー首相(1982年)
中英連合声明の署名式
握手するサッチャー首相と趙紫陽・首相
1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、香港は中国大陸における資本主義陣営の橋頭堡となった。中国の社会主義化を恐れた資本家などが香港に逃げ込み、人口は急激に増大した。
香港と中国本土のボーダーラインは、欧州の“鉄のカーテン”ならぬ“竹のカーテン”と呼ばれ、東西陣営の最前線となった。中国本土との往来も昔と違って厳しく制限されたが、それでも香港に逃げ込む人は絶えなかった。
1970年代に香港経済は製造業を中心とした高度成長期に入り、韓国、台湾、シンガポールと並んで、“アジアNIES”と呼ばれるようになった。NIESとは新興工業経済地域を意味する。中国本土で改革開放政策が始まると、香港の製造業は安価な労働力を求めて広東省に移転し、代わってサービス業が経済の柱となった。
こうしたなかで、1997年6月30日に迎える新界の租借期限が意識されるようになり、英国と中国の交渉が始まった。英国は主権を中国に返還する一方で、香港の“統治権”を保持し続ける方向で交渉に臨んだが、鄧小平は受け容れなかった。
交渉は難航したが、英国は新界だけではなく、香港島と九龍の主権も中国に返還することで合意。中国は主権返還後も、香港の資本主義制度を50年間維持するという「一国二制度」を約束し、1984年12月19日に中英連合声明が署名された。
こうして1997年の香港返還が決まったものの、将来への期待よりも、不安を感じる人々が多かった。ジャーディン・マセソン商会は中英連合声明が発表される前の1984年3月に、本社を香港に残しつつも、会社登記地をバミューダ諸島に移すと発表した。
1989年6月4日に天安門事件が発生。1990年にHSBCは英国に持ち株会社を設立し、その傘下となることで、政治的リスクの回避策を取った。海外への移住を希望する香港市民も増加。そうしたなかで主権の返還に向けた準備が着々と進められた。
国有企業の香港上場計画
香港証券取引所では1989年ごろから、現在の状況と将来の展望について、社内で分析を進めていた。その結果、上場可能な香港の会社は、すでに大部分が上場しているということが判明。さらに発展するには、新たな上場誘致先を探す必要があった。そこで目をつけたのが、国有企業の株式会社化が始まったばかりの中国本土だった。
李業広・主席(左)と握手する朱鎔基(右) 香港証券取引所は1991年12月に中国本土の当局者を香港に招き、国有企業の香港上場の可能性を探ることにした。そこで中国本土から国家経済体制改革委員会の劉鴻儒・副主任が、香港に派遣された。劉主任はこの連載の第十一回でも紹介した人物で、閉鎖の危機にあった株券市場の存続を江沢民・総書記に訴えたことでも知られる。
劉副主任は国有企業の香港上場について、「弊害よりも利益の方が大きい」と報告したが、国務院は上海証券取引所と深圳証券取引所の発展を優先。香港上場は慎重に慎重を重ねるという結論に至った。
1992年4月下旬に香港証券取引所の李業広(チャールズ・リー)主席をはじめとする訪問団が北京市に到着。副首相を務めていた朱鎔基との会談が設けられた。そこで、李主席は国有企業の香港上場に言及。朱鎔基は「国有企業から10社ほど選び、香港に上場させよう」と即座に返事した。こうして、香港と中国本土の合同チームが設けられ、準備作業が始まった。
香港上場の障害
国有企業の香港上場には、三つの障害を乗り越える必要があった。一つ目の問題は法律。香港の法律はコモン・ロー(英米法)であり、西側諸国で幅広く通用する。一方、その当時の中国本土は、会社法すら存在していなかった。
二つ目の問題は会計制度。香港の会計制度は国際的に通用するものであり、そのまま英国に持ち込んでも、何の障害もない。一方、社会主義国の国有企業会計制度は、香港市場の投資家から理解を得られるものではなかった。
三つ目の問題は上場方式、取引、株式預託などの事務。社会主義体制の下で設立された株式会社は、西側諸国では特殊な存在であり、中国本土籍のまま直接上場させるのかが、議論の的になった。また、株主名簿の保管方法なども、大きな課題だった。
これらの問題をクリアするため、中国本土では矢継ぎ早に新しい規定を打ち出し、約200件に上る法律上の問題を解決。会計制度も大幅に修正した。事務的な問題に関しても、香港側と中国本土側で協議を重ね、環境を整えた。
香港上場の第一号は青島ビール
香港上場の第一号は、青島ビールに決まった。だが、そこに至るまでの道は平坦ではなかった。
国家経済体制改革委員会は1992年9月に香港上場の候補企業として、国有企業9社を選定。そのうちの一社が青島ビールだった。与えられた準備期間は、たったの8カ月だった。
9社が選ばれた時点で、香港上場の第一号は“上海石油化工”と誰もが予想していた。上海石油化工の正式名称は「中国石化上海石油化工股份有限公司」。中国の二大石油会社である中国石油化工総公司(サイノペック)の傘下にある石油化学会社で、中央政府の統治下にある。山東省青島市という地方政府の管理下にある青島ビールとは、格が違いすぎた。
その当時の青島ビールは、さまざまな問題が累積しているうえ、管理方法も遅れており、帳簿も手書きという状態だった。香港上場の第一号を目指すには、急ピッチで青島ビールの管理体制を海外投資家にも納得されるような状態に整えなければならない。香港会計基準に基づく監査も必要だった。
青島ビールという企業
青島ビールの歴史は一世紀を越え、日本との縁も深い。ビールが中国で作られるようになったのは、19世紀の最後の年。満州に進出したロシア人が、1900年に黒竜江省ハルビン市に中国初のビール工場を設けた。ビールは中国語で“啤酒”(ピージウ)という。
アングロ・ジャーマン・ブルワリー社 青島ビールの広告 青島ビールが誕生したのは1903年。山東省青島市に設立されたアングロ・ジャーマン・ブルワリー社が、その起源だ。香港で資金調達したドイツ人と英国人の合弁会社だった。
第一次世界大戦で連合国側となった日本は、ドイツの租借地だった青島市を占領。ドイツ人が保有するアングロ・ジャーマン・ブルワリー社の株式を接収し、さらに英国人の保有株を買い上げ、大日本麦酒株式会社の青島工場とした。ここで青島ビールのほか、アサヒビールなどを生産した。
1945年に日本が無条件降伏すると、中華民国政府によって日本の在中国資産は没収され、青島啤酒公司が誕生。1947年には中国国民党の企業である斉魯企業に買収され、斉魯企業青島啤酒厰に改称した。国共内戦中の1949年に、中国共産党は斉魯企業青島啤酒厰を没収。国営青島啤酒厰となった。
戦後の中国本土ではビール生産が低調だったが、青島ビールは1950年代から香港への輸出を開始。香港市民にとっても、馴染みのビールだった。
上海石油化工との競争
上海石油化工に後れを取っていると知った青島市政府は、全面的な支援に乗り出した。 青島ビールは第一工場、第二工場、第四工場の事業資産を一つの株式会社の下に置く再編を計画。第二工場に出資していた香港の銀行などを説得し、合弁契約の繰り上げ終了に成功。三つの工場を統括する株式会社の青島ビールが誕生した。
国務院は候補企業9社を一堂に集め、その場で審査を実施。最終的に青島ビールが香港上場の第一号に選ばれたが、その決め手となったのが事業資産だった。
巨大国有企業の上海石油化工は、従業員のための学校や病院など非営利資産を数多く抱えていた。こうした非営利資産が多く含まれている株式会社は、投資対象としては不適格。香港上場を目指すならば、こうした非営利資産を切り離す必要があり、それには長い時間を要する。
一方の青島ビールは、営利目的の事業資産だけで構成されており、短期間内での上場が可能だった。こうして青島ビールは、中国本土で会社登記された会社としては初めて、香港証券取引所に上場することが決まった。
異例の上場セレモニー
青島ビールの上場日は、1993年7月15日に決まった。青島ビールは香港のスーパーマーケットでも売られており、知名度は高い。大勢の香港市民が新株購入の申込書を求め、証券会社の前に長蛇の列ができた。募集株数に対し、購入希望株数は110倍を超えたという。
青島ビールで上場を祝う劉鴻儒・主席ら関係者 青島ビールに与えられた証券コードは168。これは中国本土の標準語で“イー・リウ・バー”と読み、「一路発」(イー・ルー・ファー)に通じる。「ひたすら発展する」という意味が込められた縁起の良い数字だった。
初めてとなる中国本土籍の会社の上場ということもあり、上場日には中国証券監督管理委員会(CSRC)のトップに就任した劉鴻生・主席や香港証券取引所の李業広・主席のほか、日本やシンガポールなどから大勢の来賓が、香港証券取引所に集まった。
香港証券取引所の上場セレモニーでは、シャンペンを開けて祝うのが伝統だった。噴き出すシャンペンのように、株価が上に向かうことを祈るという意味が込められている。
青島ビールの上場セレモニーではこの伝統を破り、特製のグラスに注がれた青島ビールで、「一路発!」と乾杯した。
青島ビールの新株購入価格は2.8香港ドル。上場日の終値は3.6香港ドルだった。2013年11月20日に付けた高値は63.711香港ドル(調整後)であり、新株購入価格の22.8倍だ。
米中貿易摩擦が吹き荒れた2018年11月30日の終値でも、新株購入価格の11.4倍に相当する31.85香港ドルだ。上場してから2018年8月までに支払われた配当金は、合計51.26人民元に上る。
青島ビールA株の応募抽選会 シャンペンこそ開けなかったが、青島ビールの株価と配当金は、噴き出すような利益を投資家にもたらした。
青島ビールは1993年8月27日に上海証券取引所にA株(人民元普通株)を上場。初のA株H株重複上場の会社となり、これら2件の上場で調達した資金で、事業を拡大した。
改革開放が進むにつれ、中国本土ではビールの消費量が年々増加。2003年から中国のビール消費量は世界一位となっている。こうしたなかで、青島ビールは2005年まで国内シェア1位が続いた。現在は雪花ビールに抜かれたものの、国内2位にとどまっている。
H株の誕生と香港証券取引所の発展
香港証券取引所に上場した中国本土籍の会社の株式は“H株”と呼ばれるようになった。“H”とは、香港(Hong Kong)の頭文字。H株は額面が人民元の普通株だが、取引通貨は香港ドル。1994年に入ると、中国本土では会社法や海外上場の規則が整備され、香港証券取引所もH株上場の規則が正式に定められた。
香港上場を目指す中国本土籍の会社は、上場基準を満たすため、企業管理体制の整備を進めた。中国本土の経済が高成長期に入り、海外の投資家はH株に注目。香港証券取引所に上場するH株は増加の一途をたどった。
2017年末のデータを見ると、H株を上場した会社は252社で、香港市場全体の12%に相当。だが、時価総額は6兆8000億香港ドルで、香港市場全体の20%。2017年の売買代金は5兆6000億香港ドルに上り、香港全体の34%を占めている。
H株のほかに、レッドチップやP株と呼ばれる中国本土資本の海外登記会社の株式を加えると、この数字はさらに膨らむ。会社数で香港市場全体の50%、時価総額で66%、売買代金で76%に達する。
H株が上場するまで、香港市場は比較的ローカルなマーケットだった。だが、H株をはじめとする中国本土系の会社の株式が上場することで、国際的な市場へと飛躍。日本人を含む海外投資家にとって、香港市場は中国株投資の中心的マーケットとして成長した。