中国本土では1980年代に株式制度が復活し、瞬く間に膨大な数の個人投資家が誕生した。投資家が株式を売買する目的は、“金儲け”の一言に尽きる。それ以外の目的は考えられなかった。だが、1993年に入ると、“それ以外の目的”で株式を買う投資家が出現。株式投資の別の側面を人々に知らしめた。
二つの株主権
株式を保有する株主は、「自益権」と「共益権」という二つの“株主権”を保持する。自益権とは直接的な経済的利益に関わる権利であり、配当をもらう権利などが含まれる。一方の共益権とは、会社経営に参加する権利。株式会社の最高意思決定機関である株主総会での議決権などが、これに該当する。
この連載で何度も紹介した株式投資ブームで人々が追及したのは自益権のみ。共益権に関心のある投資家はいなかった。
高西慶の心配
1992年の8月10日に発生した8.10事件を受け、同年10月12日に中国証券監督管理委員会(CSRC)が発足し、証券市場をめぐる法整備が始まった。その経緯については、この連載の第二十二回で詳しく説明している。
高西慶さん(2014年) 「株式の発行と取引の管理についての暫定条例」の起草には、この連載の第二十三回で紹介した高西慶さんも参加した。高さんは1988年に米国から帰国。北京証券取引所の創設を目指し、1989年に証券交易所研究設計聯合弁公室を創設。CSRCが誕生すると、首席弁護士として加わっていた。
起草作業で高さんが特に力を入れたのが第四章「上場企業の買収」だった。これを見た法制局のメンバーは、次のような感想を漏らした。
「この章はまったく不要だ。これを見て意味が分かるヤツなんかいない。西側世界みたいに、“大きい会社が小さい会社を喰う”なんてことは、中国では十年たとうが起きないよ」
その当時、このように考えたのは法制局のメンバーだけではない。誰もが同じ発想だった。企業買収が中国で起きるとは、考えられなかった。
これを聞いた高さんは、「株式市場の存在自体が、企業買収の温床だ。いつか必ず起きるだろう」と反論。粘りに粘った結果、第四章は残されたが、大部分の条文が削除された。
こうして9章、84条からなる「株式の発行と取引の管理についての暫定条例」が、1993年4月22日に発表された。うち第四章の条文は、計7条だけだった。
頭の中が真っ白に
上海市で2番目に株券を発行した上海延中実業股份有限公司(延中実業)は、上海証券取引所が開業した1990年12月19日に上場。開業初日に上場した8つの銘柄を意味する「老八股」の一つとして知られていた。延中実業の株券発行については、この連載の第七回に詳しく紹介している。
中秋節には月餅を食べる習慣がある 1993年9月30日の中国は、ちょっとした“お祭りムード”だった。この日はちょうど名月を眺める中秋節であり、翌10月1日からは建国44周年を祝う国慶節の3連休だからだ。連休を控えた9月30日、延中実業の総経理(社長)だった秦国梁さんは出張中だった。
ちょうど昼ごろ、出張先で秦さんは、緊急の用件を知らせる電話を受けた。相手は上司である周鑫栄・董事長(会長)だった。
「わが社が買われてしまう!」と緊張感に満ちた声を秦さんは聞いた。言葉の意味が分からず、頭の中が真っ白になった。「会社が買われる……」。そんなことが起きるなんて、頭の片隅にもなかった。秦さんは呆然と立ちすくむだけだった。
謎の株価上昇
時間を少し前に戻そう。延中実業の株価は、9月の前半にかけて9元前後で推移していたが、後半に入ると、ゆるやかに上昇し始めた。こうした株価の動きを見て、その当時の秦さんは、特に何も思わなかった。
「株価の上昇は良いことだ。投資家は喜ぶし、われわれも面子を保てる。それくらいのことしか、考えていなかった」と、秦さんは後に語っている。その後も株価は上昇を続け、9月21日には10元を超えた。9月最終週に入ると、一気に11元、12元を突破した。
9月30日の延中実業の株価は、12.11元で寄り付いた。だが、11時15分に延中実業の株式に対する緊急取引停止を上海証券取引所が発表。その直後に深圳証券取引所に上場している深圳市宝安企業(集団)股份有限公司(宝安企業)が、以下のような情報を開示した。
「宝安企業の上海支社は、保有する延中実業の株式が、本日までに発行済み普通株の5%以上に達した。『株式の発行と取引の管理についての暫定条例』第四章第四十七条の規定に基づき、ここに通告する」
この情報を延中実業の周董事長は本社で知り、秦さんに電話したのだった。延中実業の株式が売買停止になったのも、この情報が原因だった。
「何のためにあるのか、誰にも分からない」と言われた第四章「上場企業の買収」だが、宝安企業はしっかり理解していた。
宝安企業の計画
宝安企業は1983年に広東省深圳市で初めて株券を発行した企業。その当時の状況については、この連載の第三回で詳しく紹介している。宝安企業は1991年6月1日に株式会社に改組され、1991年6月25日深圳証券取引所に上場していた。
宝安企業は1992年末ごろ、資本市場に詳しい人材を大量募集していた。これに応募した人材に、厲偉という名があった。厲偉さんは北京大学で教鞭を執った厲以寧・教授の息子。厲教授は株式制導入のきっかけを作った人物であり、この連載の第二回で詳しく紹介している。厲教授の息子の厲偉さんは、宝安企業の証券部に配属された。
宝安企業が延中実業の株式を買い集めたきっかけは、上海証券取引所が1993年9月3日に発表した国内法人によるA株売買の解禁だった。これにより、宝安企業は上場株式を買うことが可能となった。そこで目をつけたのが、延中実業だった。
延中実業は典型的な“三無株”だった。“三無株”とは国家、法人、外国企業による保有がほとんどない株式。つまり、政府、企業、外資の“後ろ盾”がないことを意味する。
その当時の延中実業の発行済み株式を見ると、9割が個人投資家の保有株。個人投資家は数こそ多いものの、それぞれの保有株は少なかった。個人投資家から市場で株式を買い集め、筆頭株主となることは、たいへん容易だった。
川の向こうが開発前の浦東新区(1990年ごろ) 現在の浦東新区(2018年) 延中実業を支配下に置くことは、宝安企業の事業戦略から見ても、理にかなった。1980年代の中国は深圳経済特区を中心とした“広東ブーム”だったが、1990年代は浦東開発区がテーマの“上海ブーム”が起きていたからだ。
容易に支配可能な上海企業を物色していた宝安企業は、国内法人によるA株売買の解禁を受け、すぐに行動を起こした。宝安企業の証券部に配属された厲偉さんは、その才能をいかんなく発揮した。
1993年9月14日から宝安企業は上海支社を含む3つの名義で、密かに延中実業の株式をコツコツと買い続けた。9月28日になると、宝安企業が延中実業の株式を買っているという噂が流れた。だが、延中実業の経営陣は気にも留めなかった。9月29日までに宝安企業は上海支社の名義でだけで持ち株比率が5%近くとなり、3つの名義合計では約10%に達していた。
先ほど紹介したように、9月30日に宝安企業は延中実業の株式を買い集めていることを公表した。緊急取引停止となっていた延中実業の株式は、午後から売買を再開。売買注文が膨らみ、株価は19.99元に達した。9月30日の取引終了までに、宝安企業は3つの名義での持ち株比率を一気に約16%に引き上げた。
連休明けの舌戦
宝安企業の記者会見を伝える10月5日付の新聞
延中実業の記者会見
秦国梁・総経理(左二)と周鑫栄・董事長(左三)
国慶節連休明けに宝安企業は延中実業の筆頭株主であることを明らかにし、株主総会の開催と財務資料の閲覧を要請。宝安企業は上海市で記者会見を開き、延中実業の買収は善意に基づく行為であり、目的は筆頭株主として経営に参加することにあると強調した。
宝安企業の攻勢を受け、延中実業は10月6日に記者会見を開催。ここで秦さんは宝安企業による株式購入について違法性を指摘した。
持ち株比率が5%を達した時点で情報を開示していないことは、ルール違反であると主張したほか、資本金1,000万元の宝安企業がどうして6,000万元を超える資金を株式購入に充てることができたのかと疑問を呈した。
持ち株比率が5%に達した際は3営業日以内に情報開示することが義務づけられていたし、借金で株式を購入するのは違法だったからだ。延中実業はCSRCによる調査を求めると同時に、訴訟も辞さない態度を示した。
これに対し宝安企業は、持ち株比率が5%に達したかの判断は、注文の約定ではなく、その後の決済・受け渡しで判断すべきとして、違法性はないと反論。株式購入資金についても、資本金は確かに1,000万元だが、すでに創業から何年も経ち、6,000万元以上の資金は十分に蓄えていると主張した。
企業買収は正義か?
秦さんは宝安企業による株式購入の話を聞いてショックを受けた時、「みな中国共産党の企業なのに、なぜ買収しようとするのか?」という思いが脳裏に浮かんだそうだ。“企業買収”という未知の概念に当惑したという。
そこで第四章「上場企業の買収」を読み、海外から専門家も呼び寄せ、記者会見に臨んだ。逆に宝安企業の株式を買収することも検討したが、明らかに資金が不足していた。出せるカードは限られていた。
延中実業の記者会見に集まった記者 「もともと雇用の受け皿として作られた零細企業の当社が、上場を果たすまでに、どれほど頑張ったことか!それのに、その成果だけをやすやすと買われてしまうなんて……。そんな理屈が通るなんて、おかしいじゃないか!」という思いが、記者会見に臨んだ秦さんからにじみ出ていた。
企業買収という想定外の事態に直面した延中実業に、上海市の主要メディアは同情的だった。こうした延中実業を応援するムードが広がったことから、上海市に来ていた宝安企業の関係者は、宿泊先を何度も変えるなどの警戒態勢を取っていたそうだ。
こうした騒ぎのなか、延中実業の株価は一段と上昇。10月6日に21.98元に達した。10月7日は42.2元の高値を付けた後、34.61元で取引を終了。投資家たちは色めき立った。
秦さんの変貌と高さんの高笑い
まだ「会社法」も「証券法」もなかった当時、この騒ぎの決着は発足したばかりのCSRCに委ねられた。すでに持ち株比率が19.8%に達していた宝安企業の保有株について、10月22日にCSRCは買収と保有が有効であると判定。ただし、情報開示違反があったとして、宝安企業に100万元の罰金を支払うよう命じた。
宝安企業と延中実業は、和解に向かって動いた。ほどなく開かれた延中実業の株主総会で、董事長職は宝安企業の人物に譲ったものの、周董事長は副董事長にとどまり、秦さんは留任。さらに秦さんは宝安企業の要職を兼任することになった。
中華人民共和国で初めての企業買収に遭遇した秦さんだが、この騒ぎを経て“呑み込まれる側”から“呑み込む側”に変貌する。秦さんは上場企業買収の達人となり、大きな案件を5つもこなした。
「あの騒ぎで宝安企業がいくら儲けたか分かるか?十数億元?とんでもない!広告効果を考えると、計り知れない利益を得た。企業買収はカネになる」と、後に秦さんは語っている。
「株式の発行と取引の管理についての暫定条例」の第四章の起草に注力した高さんは、ニューヨークで宝安企業と延中実業の騒ぎを同僚からの電話で聞いた。
「企業買収は十年たとうが起きないって言っていたじゃあないか!なんでそんなに早く起きてしまったんだ?」と、声を大にして笑ったという。