第一次天安門事件(1976年4月4~5日)
故・周恩来首相を弔う天安門広場の大群衆
四人組を批判する声が高まった
これを四人組は反革命行為と認定
鄧小平は事件の黒幕とされ、失脚した
中華人民共和国にとって、1978年は大きな転換点だった。鄧小平が政治の実権を掌握し、改革開放政策が始まったからだ。それは香港の経済や社会にも、大きな変化をもたらした。この連載は改革開放が中国本土に与えたインパクトから始まったが、今回はそれが香港に及ぼした影響を中心に紹介する。
鄧小平の復活
天安門から群衆に応える華国鋒
四人組粉砕を祝う百万人集会にて
(1976年10月24日)
四人組の裁判(1980年11月~1981年1月)
左から張春橋、王洪文、姚文元、江青
反革命集団として全員有罪に
3度目の復活を果たした鄧小平(前列右)
北京工人体育場でサッカーを観戦
(1977年7月30日)
香港屈指の大富豪として知られる霍英東(中央)
プロサッカーチームの東昇体育会を創設
自らも試合に出場した
毛沢東の後継者となった華国鋒は、1976年10月6日にプロレタリア文化大革命(文革)を主導した四人組を逮捕。1977年8月に中国共産党・中央委員会の主席に就任した。
1978年当時の華国鋒は、軍事の最高責任者である中央軍事委員会の主席に加え、最高行政機関である国務院の総理(首相)を兼任。つまり毛沢東と周恩来の生前の職務を継承しており、中国共産党、中国人民解放軍、中央政府という三つの権力主体を手中に収めていた。党内では汪東興、呉徳など、文革や四人組逮捕の受益者が、華国鋒を支えた。
一方、鄧小平は1977年7月17日に中央委員会と中央軍事委員会の副主席、国務院の副総理として復帰したばかり。
鄧小平は2年半前の1976年4月5日に起きた第一次天安門事件の黒幕として糾弾され、人生三度目の失脚という憂き目に遭ったが、“鄧小平待望論”に押され、三度目の復活を果たした。党内では胡耀邦、万里、趙紫陽などが、鄧小平を支持した。
鄧小平の復活は、多くの人が望んでいた。職務復帰を遂げたばかりの1977年7月30日、北京工人体育場で開かれたサッカーの試合に、鄧小平が姿を現した。サッカー好きで知られる鄧小平は、お忍びで観戦に来たのだが、周囲の観客が彼に気づくと、その情報はたちまち会場内に広まった。すると、約8万人の観客が立ち上がり、鳴りやまぬ拍手で鄧小平の復活を歓迎した。
鄧小平が観戦したのは、霍英東(ヘンリー・フォック)が率いる香港チームと中国青年チームの試合。霍英東はこの連載の第四十四回でも紹介した香港屈指の大富豪だが、自らもプレイするほどのサッカー好きだ。彼によると、会場内に起きた8万人の拍手は、10分は続いたと感じるほどの長さで、“新しい時代の始まり”を感じたという。
政治思想の大論争
毛沢東の後継者となった華国鋒は、「二つのすべて」(両個凡是)という政治スローガンを掲げていた。それは「毛主席が決めたことを我々はすべて断固として守り、毛主席が指示したことを我々は終始変わらずに従わなければならない」という内容。これは毛沢東路線の継承だった。
だが、鄧小平の復活から約10カ月が過ぎた1978年5月10日、南京大学の胡福明・教授が執筆した「実践は真理を検証する唯一の基準」(実践是検験真理的唯一標準)という文章が、中央党校の内部出版物「理論動態」に掲載された。これは胡耀邦が監修した文章であり、たちまち「光明日報」「人民日報」「解放軍報」などに転載された。
1978年ごろの胡福明・教授(右)
文革の被害者の一人
「二つのすべて」を批判した
それは“実践”こそが、真理を検証する“唯一の基準”と主張するばかりではなく、中国共産党の路線が正しいか否かを確かめるうえでも“唯一の基準”とするものだった。これは華国鋒の「二つのすべて」という方針に対するアンチテーゼであり、大きな反響を巻き起こした。
この論争で毛沢東に対する個人崇拝や教条主義が打ち破られ、それはやがて思想解放運動へと進化した。また、文革で起きた冤罪事件や数々の誤りを正そうとする動きも広がった。これも「二つのすべて」に対する反対意見であり、こうしたムードのなかで1978年11月10日に中央工作会議が開かれた。
36日間に及んだ中央工作会議
1978年の中央工作会議
鄧小平(左)と華国鋒(右)
1955年の汪東興(左)
毛沢東(右)の警護を担当
四人組の逮捕に貢献した
この中央工作会議は当初、1978~1980年の国民経済について話し合いが進んでいたが、やがて中心議題はプロレタリア文化大革命(文革)で起きた冤罪や犯罪に移った。
死亡した劉少奇や彭徳懐の名誉回復のほか、鄧小平が失脚する原因となった1976年4月5日の第一次天安門事件の是認に加え、文革で繰り広げられた犯罪行為の調査などを求める声があがった。
華国鋒を支えた呉徳は、第一次天安門事件で民衆を厳しく鎮圧するよう主張し、北京市民からは“無徳”と呼ばれるほど人気がなかったが、四人組の逮捕には積極的に関わった人物。会議では大勢からの批判を受け、自己批判に追い込まれた。
同じく華国鋒を支持していた汪東興も、四人組の逮捕で功績があった人物。彼は「二つのすべて」を妄信し、オウムのように華国鋒の言葉を唱えていると批判された。
こうした会議の流れを受け、華国鋒が問題解決を徹底できていないことを認めると、話し合いはますます過熱。白熱した会議は36日に及び、12月15日に終了した。「二つのすべて」とその追随者は批判を受け、華国鋒体制を支える理論的基盤は大きく揺るいだ。こうしたムードのまま、3日後の12月18日に中国共産党の第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)が開かれることになった。
米中国交正常化
1978年12月16日付「人民日報」の号外
中華人民共和国和美利堅合衆国
(中華人民共和国とアメリカ合衆国)
関于建立外交関係的聯合公報
(外交関係樹立に関する共同コミュニケ)
中央工作会議で鄧小平の実権掌握が濃厚となった12月16日、前日までの国内問題をめぐる激しい論戦から一変し、今度は中華人民共和国と米国の関係に焦点が移った。両国政府はこの日、外交関係に関する共同コミュニケを発表。1979年1月1日に外交関係を樹立すると宣言した。
1972年2月のニクソン訪中から約7年の歳月を経て、米中関係は正常化した。これにより、米国は中華人民共和国を中国で唯一の合法政府と認め、台湾(中華民国)との公式な国交を断絶。ただし、米国は「台湾関係法」により、引き続きビジネスや軍事兵器の販売をめぐり、台湾との交流を継続した。こうして新たな中台関係、米中関係、米台関係の基礎が固まった。
このように米中の国交正常化は、まさに鄧小平時代の幕開け前夜に発表された。これも新しい時代の到来を予感させる出来事だった。
改革開放政策の始まり
第11期中央委員会第3回全体会議
(第11期三中全会)
米中の共同コミュニケから2日後の12月18日、人々の目は再び中国の国内問題に向かう。第11期三中全会が始まったからだ。毛沢東路線を継承する華国鋒は、中央委員会の主席にとどまるものの、鄧小平ら改革派が優勢となった。
この第11期三中全会は12月22日に閉会し、改革派の胡耀邦が中央政治局の委員に加わった。彼は1980年2月に中央政治局の常務委員に昇格し、中央委員会の総書記に選ばれる。さらに1981年6月には華国鋒に代わり、中央委員会主席に就任することになる。
第11期三中全会で「二つのすべて」は完全に否定され、「イデオロギーの束縛から自由になれ!頭を働かせろ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!一致団結して前を見よう!」(解放思想、開動脳筋、実事求是、団結一致向前看!)が指導方針となった。
この一大方針転換から、中国の改革開放政策は第11期三中全会が開幕した1978年12月18日に始まったとされる。
改革派VS保守派
改革派の鄧小平(右)と保守派の陳雲(左)
第11期三中全会にて
胡耀邦(中央)と趙紫陽(左)
鄧小平の右手と左手と呼ばれた
1986年の学生運動(八六学潮)
改革派の鄧小平(左)と
胡耀邦(右)の間に立つ陳雲(中央)
胡耀邦の葬儀に参列した鄧小平(中央)
左は趙紫陽、右は李鵬
鄧小平が事実上の最高実力者となり、改革派が多数を占めたとは言っても、何の障害もなく改革開放政策が進んだわけではない。陳雲や李先念という保守派の元老も健在だったからだ。改革派と保守派の政治闘争は、陳雲が亡くなった1995年まで続いたと言われる。
例えば、改革派の胡耀邦は非常に楽観的であり、性急な経済改革を推進。やがて国務院にも干渉するようになり、これに同じく改革派の趙紫陽・首相は不満を抱いた。さらに政治の自由化にも楽観的で、保守派の元老や鄧小平の不興も買った。
そんな彼の政治姿勢が影響してか、1986年末に民主化・自由化を求める大規模な学生運動が主要都市で発生した。これに激怒した保守派と改革派の元老や要人は、胡耀邦の責任を追及。鄧小平はすでに胡耀邦から辞職願を受け取っていたが、彼に“党内生活会”に出席するよう指示した。
1987年1月10~15日に開かれた“党内生活会”は20~30人の集まりで、胡耀邦は元老や要人による批判にさらされた。この“党内生活会”の主催者だった薄一波は、2012年に重大事件で失脚した薄熙来の父。出席者は代わる代わる胡耀邦の誤りを糾弾した。
同じく改革派の趙紫陽や友人の王鶴寿さえも、胡耀邦を批判。こうしたなかで習近平・国家主席の父である習仲勲だけが、異論を唱えたという。まるで文革のような方法で、総書記の胡耀邦を辞任に追い込むという方法に怒りを覚えたそうだ。
だが、この“党内生活会”が終了した翌日の1月16日に、中央政治局の拡大会議が急遽開かれ、胡耀邦の辞任が挙手で承認され、趙紫陽が総書記に就任することが決まった。胡耀邦はそれから2年4カ月後の1989年4月15日に死去した。
このように改革開放政策は、改革派と保守派に、バランサーとしての鄧小平が加わることで進められていた。時には改革派同士での対立さえ起きた。
なお、最終的には悲劇に終わった胡耀邦だが、彼の時代は中国共産党の改革派さえ恐れるほどのスピードで、中国社会が大きく変容した。また、失脚した華国鋒は引き続き党内で尊重され、2002年まで中央委員会の委員に選ばれ続けた。
鄧小平の訪米
鄧小平の歓迎式典
右はジミー・カーター大統領
1979年1月29日
フォード自動車工場を視察する鄧小平
ボーイング747の組立現場を視察する鄧小平
カウボーイハットをかぶる鄧小平
1979年1月1日に米中の国交が正常化すると、政治の実権を掌握したばかりの鄧小平は、同年1月28日~2月5日にかけて米国を訪問。中華人民共和国の最高実力者が訪米するのは、これが初めてだった。
ワシントンD.C.では国家元首の訪米時と同じ格式の歓迎式が開かれた。ワシントンではジミー・カーター大統領などと会談したほか、米国航空宇宙局(NASA)を訪問した。
その後は大統領専用機でカーター大統領の故郷であるジョージア州を訪れ、アトランタのフォード自動車工場を視察した。最先端の生産ラインを見ながら、鄧小平は従業員にさまざまな質問を投げかけた。その内容は細部に及び、ポイントを押さえたものだった。
当時のフォードの月産台数は、中国全体の年産台数に相当。中国と米国の大きな格差を感じた鄧小平だったが、「中国も自動車産業の発展が必要だ。20年後には成果が出るでしょう。中国は“四つの現代化”(工業・農業・国防・科学技術の現代化)を通じて、世界の工場強国になるでしょう」と語った。
この言葉を聞いた多くの専門家は、白昼夢だと一笑したが、その後の中国の急成長に世界が驚くことになる。
テキサス州のヒューストンでは、ジョンソン宇宙センターなどを見学した。ワシントン州のシアトルでは、ボーイングの工場を視察し、そこから日本へ向かった。鄧小平の訪日は、1978年10月以来の二度目。大平正芳首相と会談し、2月8日に帰国した。なお、最初の訪日では、日産自動車の座間工場、新日鉄の君津製鉄所、松下電器の茨木工場などを視察している。
こうした矢継ぎ早の外遊で、鄧小平は西側諸国と中国の巨大すぎるほどの格差を実感。改革開放政策の決意を固めた。
1979年3月1日に米中両国は、互いの首都に大使館を開設。東西冷戦が続くなか、米中両国は1980年代にわたり良好な関係が続いた。
改革開放の推進
蛇口工業区を視察する鄧小平
1984年1月26日
改革開放とは“対内改革、対外開放”の略称。対内改革では市場経済体制への移行を試み、農村では集団農業体制の解体と生産責任制の導入が進んだ。都市では国営企業の改革が始まった。
対外開放では1979年1月31日に広東省深圳市の蛇口工業区が発足し、華僑資本を中心とした外資の誘致に着手。同年7月には広東省の深圳市、珠海市、スワトー市(汕頭市)、福建省のアモイ市(廈門市)に輸出特区が創設され、これらは1980年5月に経済特区に改称。中国経済の牽引役となった。
ホテル建設から始まった対外開放
深圳市の観光名所となった有名な鄧小平画像
堅持党的基本路線一百年不動揺
(党の基本路線は百年揺るがない)
白天鵝賓館の外観
広州市沙面島
白天鵝賓館の開業式典
左から順に、霍英東、梁威林、廖承志
白天鵝賓館から珠江を眺める鄧小平
1984年1月31日
白天鵝賓館を訪れたエリザベス女王
赤いネクタイの人物は霍英東
華僑資本や外国資本の誘致策は、鄧小平が実権を掌握する前から始まっていた。こうした資本を誘致するには、まずは海外の資本家に、実際に中国本土に来てもらうことが必要。そのためには、迎賓館施設ではなく、海外に遜色のないホテルが必要だ。こうして対外開放政策は、ホテル建設から始まった。
いくつかの主要都市に華僑資本や外国資本を誘致し、彼らが経営するホテルを建設する方針が固まると、1978年夏に専門チームが国務院に設けられた。チームの副リーダーはである廖承志は、霍英東や李嘉誠など香港の資産家を北京に招き、これについて商談を重ねた。なお、廖承志の生い立ちや活躍は、この連載の第十二回や第三十六回で詳しく紹介している。
愛国心の強い霍英東は、直ちに投資を決定。広東省広州市にホテルを建設することで、話がまとまった。建設用地はかつて英仏租界があった沙面島。こうして1983年2月6日に白天鵝賓館(ホワイトスワン・ホテル)がオープンした。
このホテルは最新の施設や設備が充実していたが、それよりも人々を驚かせたのは、「こんなに上等のホテルが、カネさえ払えば普通の人でも利用できる」という考え方だった。その経営スタイルやサービスは、地元政府の官僚や市民にとっては初めて目にするものばかり。いわゆるサービスがどんなものなのかを中国本土に広めるきっかけとなった。
それゆえ、白天鵝賓館は「改革開放という試験田で最初に発芽したタネ」と呼ばれ、中国本土のホテル業が発展するうえでのモデルとなった。
このほか、アヘン販売で財を築いた利希慎ファミリーの利銘沢(リチャード・チャールズ・リー)は、広州花園酒店(ザ・ガーデン・ホテル)を広州市の中心部に建設することで契約した。
合和実業の創業者である胡応湘(ゴードン・ウー)は、長江実業、新世界発展、恒基兆業地産、新鴻基地産、新鴻基地産とコンソーシアム(共同事業体)を組成し、同じく広州市に中国大酒店を中国企業との合弁で設立した。中外合弁のホテルは、これが初めて。これは香港資本と本土資本の合弁モデルとなった。
香港製造業の北上
香港の経済成長を担っていた製造業は、人件費と地価の高騰に悩んでいた。そのうえ、1973年の第四次中東戦争や1979年のイラン革命で起きた石油危機(オイルショック)に見舞われ、苦境にあった。香港は土地や鉱物資源に乏しく、発展の余地は限られていた。
こうしたなかで改革開放が始まり、中国本土が経済特区に外資を誘致すると、香港の製造業者はこれに乗った。中国本土の社会体制は、企業経営での障害になることもあったが、外資に対する優遇政策のおかげで、安価な労働力の確保、土地や原材料の入手は便利であり、減免税も魅力的だった。
多くの香港企業が深圳市などの経済特区を視察し、生産ラインを広東省に移転すると決定した。改革開放の初期、中国本土が誘致した外資の8割が香港資本だったと言われる。
蛇口工業区を視察する香港の資産家たち
左から順に、恒隆集団の陳曽熙、華懋集団の王徳輝、合和実業の胡応湘、新鴻基集団の馮景禧
“香港ホテル王”の陳沢富、新鴻基地産の郭炳湘、新華社香港分社の祁烽、長江集団の李嘉誠
蛇口工業区の袁庚、“愛国商人”の霍英東、“香港ゴールド王”の胡漢輝、大昌集団の陳徳泰
香港経済の変容
香港の電子製品製造は広東省に移転 製造業が広東省へ北上すると、香港では工場の閉鎖が進んだ。香港では1980年時点で、就労者数の42%に相当する99万人が製造業で働いていた。それが1985年には92万人となり、就労者数に占める割合も36%に縮小した。その後も製造業で働く人は、急速に減少。2000年には33万人となり、就労者数に占める比率も10%に縮小した。
製造業で働く人は、約20年間で3分の1となった。その一方でサービス業の就労者が急増した。“花形”の“金融業・保険業・不動産業・ビジネスサービス業”の就労者は、1985年時点で15万人だったが、2000年には3倍の45万人に達した。
知識や技能を必要とする高度なサービス業が経済の中心となり、それに従事する高学歴者は高額収入を得る機会を得た。一方、製造業が移転したことで、単純労働者は働く場を失い、失業や低所得に苦しむことになった。
こうして中国本土の改革開放は、香港に新たな貧困層を形成し、貧富の差を拡大させた。また、香港経済は金融業や不動産業に過度に依存し、国際経済や金融市場の影響を受けやすくなった。
こうしたマイナス面はあったものの、改革開放が始まったことで、香港は世界各国が中国本土にアクセスするうえでの重要な中継ポイントとなり、その役割は日増しに大きくなった。
赤い資本家の誕生
鄧小平は訪米直前の1979年1月17日に、中国人民政治協商会議全国委員会(全国政協)の栄毅仁・副主席ら5人と会談した。
栄毅仁は戦前の上海市で活躍した実業家。製粉事業や紡織事業で名を馳せた。中華人民共和国の成立後も上海市に残り、資産の国有化に協力するなど中国共産党に接近。政治の世界に飛び込み、1957年には上海市の副市長に就任した。
第1期全国政協第3回会議で発言する栄毅仁
1951年10月31日
5人の旧実業家と握手する鄧小平(中央)
右から2番目の人物が栄毅仁
1997年1月17日
鄧小平と握手する栄毅仁
シティックの第1回董事会(取締役会)
1979年10月4日
胡錦涛(左)と談笑する栄毅仁(右)
1998年3月の両会(全人代・全国政協)にて
文革中は実業家だったことを理由に、資本主義の復活を目指す“走資派”として弾圧され、右手の人差し指をへし折られた。悲惨な日々を過ごしたが、文革が終結すると、1978年3月に全国政協の副主席として復帰を果たした。
鄧小平は経済建設を進めるうえで、文革で弾圧された非共産党員を大胆に採用する方針だった。1979年1月17日の会談のために集められた5人は、いずれも中華人民共和国の成立前に活躍した実業家ばかり。彼らを前に鄧小平は、経済建設という大風呂敷は広げたものの、知識もなければ、カネもないと率直に語った。
この言葉を聞いた栄毅仁は、海外資本を誘致することで、生産活動を展開することを提案。また、生産活動をうまく行うには、人材と管理という二つの問題を解決しなければならないと語った。さらに国内では政府各部門が協調することの必要性も論じた。
栄毅仁の献策を聞いた鄧小平は、全面的な支援を表明。こうして海外から資本を調達し、国内の経済建設を進める窓口会社を設立することが決まった。
設立準備に追われる栄毅仁に対し、鄧小平は「人材はあなたが探し、管理もあなたが行い、責任もあなたが負いなさい。政府部門からの干渉は排除するので、心配することはない。あなた自身も官僚主義に陥らないように気をつけなさい」と、力強い言葉をかけた。
こうして、1979年10月4日に中国国際信託投資公司(CITIC=シティック)が北京市に誕生した。“公司”(会社)という言葉すら珍しかった時代、“信託”という言葉はなおさら未知の響きだった。シティックは国務院直属の会社だが、誰もが栄毅仁の会社だと思った。
実際、国務院が拠出した資金だけは経営もままならず、栄毅仁も自らの資産1,000万元をシティックのために投じたという。董事会(取締役会)は44人に上り、栄毅仁が董事長(会長)に就任。董事(取締役)には霍英東や李嘉誠など、香港財界の実力者も含まれていた。
シティックは海外からの資本調達先として、まず日本を選んだ。1980年6月にオリエント・リース(オリックス)と合弁で、ファイナンスリース会社の中国東方租賃公司を設立。こうしてファイナンスリースは、中華人民共和国が最初に対外開放した金融分野となった。
1982年1月にはサムライ債(円建て外債)を発行することで、野村證券と契約。このサムライ債は年利8.7%の12年物で、100億元を調達。その資金の8割は、化学繊維メーカーの中国石化儀徴化繊に投じられた。
こうした功績を背景に、栄毅仁は1993年3月に国家副主席に選任された。彼が“赤い資本家”と呼ばれるゆえんだ。なお、栄毅仁は秘密裏に中国共産党に入党。これは1985年の出来事であり、2005年10月26日に彼が死去した後に明らかにされた。
赤い資本家と香港
やがてシティックは香港に進出。香港子会社を指揮したのは、栄毅仁の息子である栄智健(ラリー・ユン)だった。香港子会社は1987年1月にキャセイパシフィック航空(国泰航空)の株式12.5%を買収し、三位株主に名乗りを上げ、香港市民を驚かせた。
“栄太子”と呼ばれた栄智健
2008年に起きた中信泰富の巨額損失事件で辞任に
香港株の“レッドチップ”や
米国株の“ブルーチップ”
ポーカーチップに由来
香港子会社は1990年に上場企業の泰富発展の株式49%を買収。さらに手中に収めた香港資産を泰富発展に注入し、その社名を1991年に“中信泰富”へと変更。こうしてシティックの香港子会社は、筆頭株主として上場企業の中信泰富を支配下に置いた。つまり、香港で取得した資産を中信泰富の株式というかたちで、香港株式市場に“裏口上場”させることに成功した。
この中信泰富のように、香港など中国本土以外で登記され、背景に中国政府の資本がある企業の株式は、“レッドチップ”(紅籌股)と呼ばれた。米国では優良銘柄をポーカーで使う最も高価なチップ(コイン)に例えて、“ブルーチップ”と呼ぶ。香港ではハンセン指数の構成銘柄が、ブルーチップとされる。レッドチップとは共産主義のシンボルカラーである赤とブルーチップにちなんだ呼び名だ。
レッドチップと呼ばれた中信泰富の株式は、1992年8月4日付でハンセン指数に組み入れられ、香港株式市場を代表する銘柄となった。レッドチップがハンセン指数構成銘柄になるのは、これが初めて。中信泰富はレッドチップであり、ブルーチップでもあることから、“パープルチップ”(紫籌股)と呼ばれた。
その後も中信泰富は金融やインフラを含む幅広い企業に投資を繰り返し、香港の経済や株式市場に与える影響度は、日ごとに高まった。
改革開放と香港株式市場
文革が終結し、鄧小平が復活すると、改革開放政策が始まった。これを受けて香港株式市場ではハンセン指数が上昇トレンドに入った。1979年のイラン革命と第二次オイルショック、1980年のイラン・イラク戦争勃発で株式市場が揺れる場面もあったが、この連載の第四十五回でも紹介した華人企業の台頭や中国本土の改革開放政策は、それ以上の好材料だった。
株式市場は過熱感が増し、これに危機感を感じた四つの証券取引所は、1980年11月17日から前場だけの半日取引とした。だが、取引時間が短くなったことで、投機的な動きが拡大するという逆効果となった。
その後、香港の銀行が金利を2%引き上げたことを嫌気し、株式市場は一旦調整した。しかし、1980年12月に入ると、米国の銀行が金利を引き下げたことが影響し、香港の株式市場は再び過熱。1981年に入ってもハンセン指数は堅調に推移し、この年の7月17日にハンセン指数の終値は1,810.20ポイントに達した。
だが、この日の夜に香港の銀行が金利を1%引き上げると発表すると、ハンセン指数は下落傾向に入る。1981年のハンセン指数は1,405.82ポイントで終了。最高値の1,810.20ポイントに比べ、22.3%安だった。
返還の足音
鄧小平(右)と会談するマクレホース総督(左)
1979年3月29日
その後の香港株式市場は、動揺が続くことになる。背景には香港の主権をめぐる英中交渉があった。その端緒となったのは、第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースの北京訪問だった。
北京に米国大使館が開設された直後の1979年3月29日、マクレホース総督は鄧小平と会談した。ニュータウン(新市鎮)の開発が進む新界(ニューテリトリー)の租借期限が、1997年6月30日に迫っていることを受け、それを超過する土地契約の有効性や香港の前途をめぐる鄧小平の考えを探ることが目的だった。
マクレホース総督は1997年6月30日以降も引き続き英国が香港を統治することを求める考えだった。だが、鄧小平は想像以上に強硬な姿勢を示し、“香港を回収する”と主張。ただし、中華人民共和国が香港の主権を取り戻した後も、基本な制度や特殊な地域としての地位を変えることはないという方針も示し、「投資家は安心して香港に投資してほしい」と語った。
香港に戻ったマクレホース総督は、1979年4月6日に記者会見を開催。香港がパニックに陥ることを避けるため、“香港を回収する”という鄧小平の言葉には触れず、「投資家は安心して香港に投資してほしい」とだけ語った。これがニュースの見出しとなり、株式市場や不動産市場の混乱を抑えることができた。
これで一時はやり過ごすことはできたが、いつまでも続かない。香港の前途が明らかとならず、香港政庁や香港財界の間で徐々に将来への不安が高まっていった。次回は英中交渉と株式市場を中心に話を進める。