中国の金融の中心地として知られる上海。それはウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)によって誕生した。1840年に勃発したアヘン戦争で英国が勝利。1842年に交わされた南京条約によって、長江の河口に位置する小さな街の開港が決まった。それが世界的な都市に発展した上海の原点だった。
上海には英国人が住む租界が設けられた。フランス人、米国人もこれに続き、さまざまな外国人が住む租界が、上海の原型となった。この地の自由な気風は世界中の人々を魅了し、小説家の村松梢風はここを「魔都」と呼んだ。その魔都で最も妖しい魅力を放っていたのが証券市場だった。
租界で花開いた証券市場
租界に住む外国人は中国で株式会社を次々と設立。こうした株式会社制度を清朝の洋務派官僚も取り入れた。1872年に北洋通商大臣の李鴻章は、上海に輪船招商局を創設。中国で最初の株式会社だった。
なお、輪船招商局は激動の中国近現代史を生き抜き、現在は国務院国有資産監督管理委員会の直轄企業「招商局集団有限公司」として、傘下に多くの上場企業を抱える中央政府系コングロマリットを形成している。
上海では1850年代から有価証券の売買があったようだが、それは外国企業の間で行われていたものだった。やがて植民地経済が繁栄を迎えると、租界のインフラ会社などが次々と誕生し、これらの株式の売買も盛んになる。株式売買のニーズが高まり、1869年には有価証券の売買仲介を手がける長利公司(J.P.Bisset & Co.)が開業。類似の会社が相次いで誕生した。
中国人も負けてはいない。外国人が経営する売買仲介会社から得た相場表を見ながら、友人知人の間で株式を売買していた。やがて中国人の株式取引は規模が拡大し、その売買仲介を手がける上海平準股票公司が1882年に開業。初の中国人による有価証券の売買仲介会社だった。
上海証券物品交易所の立会場 1891年には外国人が経営する売買仲介会社が集まり、上海股份公所(The Shanghai Sharebroker’s Association)を結成。租界の外国人によって、証券取引所の原型が整えられた。この上海股份公所は1904年に会員制の証券取引所となり、上海衆業公所(The Shanghai Stock Exchange)が発足。会員は100社に上り、うち87社が外国企業、13社が中国企業だった。
証券取引所が創設され、上海の株式売買はさらに過熱した。1910年には新素材の“ゴム”をめぐる株式バブルも発生。狂喜と破滅が入り混じる株式市場に、上海の人々は翻弄された。その翌年の1911年に辛亥革命が起こり、1912年に中華民国が成立。清朝は滅亡し、2000年以上も続いた帝政が幕を下ろした。
日本と中国の取引所戦争
1928年の上海 中華民国の誕生後も、上海の証券市場は存続した。民国政府は中国人による証券取引所の開設を構想。1918年6月5日に北京証券交易所が開業した。初の中国人による証券取引所の開設だった。
なお、この北京証券交易所は1927年に首都が南京に移されると、衰退の道を歩み始める。さらに1937年に勃発した日中戦争の影響で、1939年から休業状態となった。
北京証券交易所が開業した1918年、上海では日本人による証券取引所の設立計画が進んでいた。その計画を進めていたのは、「北浜の島徳」と呼ばれた相場師の島徳蔵。さまざまな会社の発起人に名を連ね、「会社屋」という異名も持っていた。その当時、島徳蔵は大阪株式取引所の理事長を務めていた。
島徳蔵は上海をはじめとした中国各地に証券取引所を設け、株価操作により巨万の富を得ようとした。島徳蔵が社長を務める上海取引所は1918年12月に開業。日本人の間では上取(しゃんとり)と呼ばれた。
だが、その当時の中国各地で抗日運動が広がっていた。1915年の対華21カ条要求の受諾や1918年の日支共同防敵軍事協定を背景に、日本が中国進出の企図を鮮明にしたことが原因だった。日本人による証券取引所の開業は、中国の人々を刺激した。
上海取引所に対抗するかたちで、中国人による証券取引所の設立準備が進み、1920年7月1日に上海証券物品交易所が開業。1920年5月20日は上海華商証券交易所がオープンした。これで中国人による証券取引所は北京に1カ所、上海に2カ所という体制となった。
なお、島徳蔵の上海取引所は、中国人が経営する証券取引所に押され、商いは低迷。さらに、上海取引所の乱脈ぶりが大阪の大手新聞によって暴かれ、1927年に上海取引所は解散が決まった。島徳蔵は上海取引所の解散にともなう債権放棄をめぐり、背任罪で起訴される。証券取引所の開設を通じた日本の中国進出は失敗したが、軍事面では拡大することになる。
上海租界の最後
1933年に上海証券物品交易所は上海華商証券交易所に吸収され、中国人の証券取引所は一本化された。1937年に日中戦争が勃発すると、上海華商証券交易所は業務を停止。しかし、戦火が拡大すると、上海の租界は中国各地の資本の避難先となり、巨額の資金が集まった。同時に、戦火を逃れようとする人々が上海に流れ込み、品不足と物価高が発生。中国の通貨は大幅に値下がりした。
これを機に外国人が経営する上海衆業公所は空前の好況を迎えることになった。資産を保全する最良の方法が、外国株式を保有することだったからだ。1937年の売買代金は1,800万元だったが、1940年の上期だけでも5,682万元に膨らんだ。
これが上海衆業公所の最後の繁栄だった。1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、日本軍は上海租界を占領。上海衆業公所は40周年を待たずに消滅した。
戦時下の上海金融街
日本軍の占領地では商工業が委縮し、品不足を背景とした物価高が進んだ。資本家などは資産保全を目的に、余裕資金で物資を買い占めた。物資の欠乏に直面した日本軍は、中国人による株式売買を再開。すると、物資の買い占めは沈静化し、株式取引が活発化。大都市では仲介会社を通じた株式の売買が賑わった。
物資の買い占めを恐れた日本軍は、証券市場を利用する方針を固め、上海華商証券交易所の業務を1943年9月29日に再開するよう命令。北京や天津での証券取引所の開設にも着手した。
戦時下での株式市場の繁栄は短かった。日本がポツダム宣言を受諾すると、1945年8月18日に上海華商証券交易所は閉鎖された。これを機に株式は闇取引の時代に入り、各地で分散的に売買されるようになる。国民党政府も取り締まれない状態となった。
上海に入る中国人民解放軍(1949.5) これを受け、国民党政府は1946年5月に証券市場の正常な取引を回復すると発表。秘密結社「青幇」の首領だった杜月笙に上海証券交易所の設立を指示した。青幇のボスは仕事が速く、上海証券交易所は1946年9月16日に開業。ただ、その終焉は早く訪れた。1949年5月に上海は中国人民解放軍に占領された。
幕引きしたのは鄧小平
上海を支配下に置いた中国共産党中央華東局は1949年6月7日に会議を開き、上海証券交易所を閉鎖する方針を固めた。この会議の主催者は中央華東局の第一書記だった鄧小平。30年後に改革開放を推し進め、金融市場の発展を促す鄧小平なのだが、この時は上海金融街の幕を下ろす役割を担った。
上海証券交易所を閉鎖する目的は、人民元の流通促進と物価高の沈静化にあった。上海の人々は法定通貨となった人民元を信認せず、金貨、銀貨、外貨を選好した。商店は人民元での支払いを拒否し、銀貨や外貨で商品価格を表示していた。
こうした状況を背景に、人々は銀貨を買い求めた。その結果、銀貨は値上がりし、人民元の価値は大幅に下落。銀貨が急騰したことで、生活必需品の価格は2週間で2~3倍も上昇した。
「解放軍は上海に入ったが、人民元は入れない!」――。この言葉に表されるように、金貨、銀貨、外貨の売買仲介人は強気だった。彼らが集まる上海証券交易所のビルは、大勢の市民で連日にぎわった。こうした状況が上海証券交易所の閉鎖を決定した背景にあった。
上海証券交易所ビルの捜査 1949年6月10日の午前、約260人に上る公安部隊が上海証券交易所のビルに突入。200人ほどを逮捕した。多額の金貨や銀貨も押収。この作戦によって銀貨の価格は暴落し、人民元の流通が進んだ。
上海を脱出する人々(1949.4) 約100年続いた上海の金融街は幕を下ろし、市民は投資と無縁の日々を送ることになった。有力な資本家は香港などに脱出し、新天地に根を張った。首都の北京では、1950年1月30日に北京証券交易所が復活したものの、投機熱を問題視した政府が1952年に閉鎖を決定。証券取引所は中国本土から一掃された。
中国本土は社会主義理論と計画経済の世界となり、証券市場の存在は否定された。ただ、かつての金融の中心地だった上海の人々の頭には、にぎわいの記憶と投資家精神が残っていた。これらは1980年代の株式制導入の助けとなり、証券取引所の復活を政府に認めさせる原動力にもなった。