マカオ返還の式典
(1999年12月19~20日)
1999年12月20日にポルトガル領マカオの主権が中華人民共和国へ返還された。これにより中国大陸における外国支配地が一掃され、“アジア最後の欧州植民地”だったポルトガル領マカオが消滅。それと同時にマカオ返還は、15世紀から約6世紀も続いた“ポルトガル海上帝国”の実質的な終焉を意味した。
ポルトガル人がアジアに進出した16世紀は、東シナ海を海賊集団が跋扈しており、これを明王朝が取り締まっていた。こうしたなか海賊集団は民族や国家の隔たりを越えて結びつき、東南アジアや日本に広がる密貿易ネットワークを構築。当時の東シナ海は、海賊集団、周辺諸国、強大な明王朝の各勢力が複雑に絡み合っていた。
ポルトガル海上帝国の領域
赤色は領有した地域、水色は活動が及んだ海域
ピンク色は領有権を主張した地域
黄色は貿易圏と勢力圏
緑色の丸は主な港
アフリカを取り囲む色は探検した地域
インド洋や東南アジアでの覇権を確立したポルトガル人だったが、東アジアでは拠点も築けないまま“根無し草”のように漂うほかなかった。当時の明王朝や海賊集団は強大であり、ポルトガル人が軍事力で拠点を構築するのは、極めて困難だったからだ。
東アジアで劣勢だったポルトガル人が、やっと確保できた小さな拠点がマカオだった。そこで今回は、ポルトガル人が東アジアにマカオという地盤を確保するまでの歴史を紹介する。
イベリア半島という小世界
ポルトガルはイベリア半島の西部に位置する小国だ。しかし、この国が大航海時代の先陣を切り、アフリカ、インド洋、アジア、南米などに植民地を建設。同じくイベリア半島に位置する隣国のスペインとともに、世界を二分するほどに勢力を拡大した。いわゆる“グローバル化”は、ポルトガルの海外進出によって始まったとも言える。
ポルトガルとスペインが位置するイベリア半島は、約430キロメートルにわたるピレネー山脈が北東部で東西に延び、その幅は約100キロメートルに及ぶ。ピレネー山脈は古代から自然境界線として機能し、イベリア半島と他の欧州地域を分断した。
一方、イベリア半島の南端に位置するジブラルタル海峡は、狭いところでアフリカ大陸まで約14キロメートルしかない。このため、先史時代よりアフリカからの人口流入が盛んだった。
イベリア半島は欧州と陸続きの部分に比べ、海岸線が長いことから、交通などの面では孤島に近く、外界と緩やかに隔絶された“小世界”だ。一説によると、ブルボン朝フランス王国のルイ16世は、“欧州と呼べるのはピレネー山脈まで”と認識していたようだ。また、ナポレオン1世は“ピレネー山脈の向こうはアフリカだ”と語ったという。これらの言葉は、他の欧州諸国が“異世界”のイベリア半島に対し、ある種の優越感を抱いていたことを物語る。
イベリア半島の民族興亡
この連載の第六十一回では、大陸から突き出た大きな半島が、多民族・多言語地域となる傾向が強いと説明した。三方を大海に囲まれた半島は、民族移動の終着点となるからだ。イベリア半島も同じような歴史をたどった。
アルタミラ洞窟の壁画(ユネスコ世界遺産) イベリア半島には古くから人類が住んでいた。北部のアタプエルカにある洞窟遺跡からは、100万年以上前に道具を使う人類が生活していた証拠が見つかっている。また、同じく北部のアルタミラ洞窟には、有名な旧石器時代の壁画が残されている。
イベリア半島の先住民について、古代のギリシャ人やローマ人は、“イベリア人”(イベレス)と記録した。これは多くの民族の総称とみられる。海洋商業民族のフェニキア人やギリシャ人は船でイベリア半島の南東沿岸に到来し、イベリア人と貿易した。
イベリア半島の北部では紀元前1000年を過ぎたころから、ケルト人がピレネー山脈を越えて、この地に住むようになっていた。イベリア半島の中央部では、南東部のイベリア人と北部のケルト人が混合し、“ケルティベリア人”という民族集団に発展した。
フェニキア人が現在のチュニジアに建設した国家“カルタゴ”は、イベリア半島を勢力下に置いた。紀元前264年にカルタゴと共和政ローマの間で“ポエニ戦争”が勃発。すると、イベリア半島はカルタゴの重要な拠点となった。
紀元前201年に第二次ポエニ戦争が終結すると、イベリア半島は共和政ローマの支配下に入った。共和政ローマはケルティベリア人などの先住民族を征服し、イベリア半島を属州化。“ローマの平和”(パクス・ロマーナ)の下で、イベリア半島の先住民はラテン化が進んだ。
黒海の北岸に定住していたゲルマン人のゴート族は、375年に東方から到来したフン族に圧迫され、ローマ帝国への侵入を開始。こうして欧州は民族大移動の時代を迎えた。現在のドイツ北部にいたゲルマン人のスエビ族は、イベリア半島の北西部に移住し、410年にスエビ王国(ガリシア王国)を建国した。
黒海北岸を故地とするゲルマン人の西ゴート族もイベリア半島に侵入。415年に西ゴート王国(ビシゴート王国)を建て、半島の中央部や南東部を支配した。585年に西ゴート王国はスエビ王国を征服。さらに東ローマ帝国の勢力も駆逐し、620年代にイベリア半島を統一した。西ゴート王国はスエビ王国を滅ぼした直後にカトリックに改宗しており、イベリア半島のカトリック化が進んだ。
711年に最初のイスラム王朝であるウマイヤ朝が、北アフリカからジブラルタル海峡を渡り、西ゴート王国に侵攻した。西ゴート王国は王が戦死し、首都が陥落。西ゴート王国の残存勢力はその後も抵抗を続けたが、それも718年に滅亡した。
ウマイヤ朝はイベリア半島を“アンダルス”と呼んだ。これはイベリア半島の南部を一時支配していたゲルマン人のヴァンダル族に由来する言葉であり、現在の“アンダルシア地方”の語源となった。
ベルベル人の少年
北アフリカのコーカソイド系先住民
イベリア半島にはアラブ人のほか、ユダヤ人や北イタリアのベルベル人などが流入した。ウマイヤ朝はユダヤ教徒やキリスト教徒について、イスラム教徒と同じく旧約聖書を信じる“啓典の民”と位置づけ、ズィンミー(庇護民)として一定の制約の下で信仰の継続を許した。多種多様な言語が並存し、改宗や通婚も進み、再び民族の融合が進んだ。
一方、西ゴート王国の貴族だったペラーヨは、イベリア半島北部のアストゥリアス地方に逃亡し、ここで718年にアストゥリアス王国を建てた。これを機に、アストゥリアス王国などのキリスト教勢力は、イベリア半島の中南部を占めるイスラム王朝に対し、800年近くにわたるレコンキスタ(再征服運動)を繰り広げることになった。
イベリア半島の戦国時代
イベリア半島は北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム教勢力に二分された。さらに、その二大勢力も分裂し、相争うようになる。イベリア半島という小世界は、あたかも“戦国時代”という様相を呈するようになった。
アストゥリアス王国は910年に首都をオビエドからレオンに移し、これ以降は“レオン王国”と呼ばれるようになる。レオン王国をはじめとする北部のキリスト教勢力は、1000年代の前半にナバラ王国のサンチョ3世によって、ほぼ統一された。サンチョ3世は“ヒスパニア皇帝”を名乗った。
イベリア半島の北東部に位置するナバラ王国は、824年にイニゴ・アリスタが建国したバスク人の国家だ。バスク人はイベリア半島の先住民であるヴァスコン人を祖先とし、今日まで独自性を保持している民族。言語系統が不明のバスク語を話す。
このバスク人が建てたナバラ王国によって統一されたキリスト教勢力だが、1035年にサンチョ3世が死去すると、その領土は子どもたちに分割譲与された。こうしてキリスト教勢力は、ナバラ王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国などに分裂。バスク人のサンチョ3世の血統が、イベリア半島の王や貴族に拡散した。
一方、イベリア半島の中南部を支配したウマイヤ朝は、750年に滅亡。王族のアブド・アッラフマーン1世はイベリア半島に落ち延び、この地で756年に後ウマイヤ朝を建国した。1031年に後ウマイヤ朝が滅亡すると、“タイファ諸国”と呼ばれる小国群に分裂。イスラム勢力の弱体化が進んだ。
タイファ諸国は一時的にベルベル人が興した北アフリカのムラービト朝やムワッヒド朝に征服された時期もあったが、分裂時代が長く続き、しだいにキリスト教勢力に対し、劣勢となった。
アラゴン連合王国の版図
オレンジ色の濃い部分が王国本体、薄い部分は連合諸国
レオン王国は1230年にカスティーリャ王国に併合された。アラゴン王国は1137年にカタルーニャ君主国と連合。こうして誕生したアラゴン連合王国は、1237年にタイファ諸国の一つであるバレンシア王国を占領し、イタリア南部に至る地中海に勢力を拡大した。
イベリア半島のカトリック化
アラゴン王国の王子であり、シチリア王だったフェルナンド2世は、1469年にカスティーリャ王国の王女であるイサベルと結婚。イサベルが1474年にカスティーリャ王国の女王に即位すると、フェルナンド2世も夫として、その王位を手にした。
フェルナンド2世は1479年にアラゴン王国の王位を継承。こうしてカスティーリャとアラゴンの連合が発足し、スペイン王国が誕生した。スペイン王国は1492年にイスラム教勢力のナスル朝を滅ぼし、レコンキスタを完了させた。ちょうど、クリストファー・コロンブスが新大陸を発見した年だった。
カトリック両王 レコンキスタの偉業を讃えたローマ教皇は、1496年にイサベル女王とフェルナンド2世に、“カトリック両王”の称号を授けた。カトリック両王はレコンキスタの完了時から、イスラム教徒やユダヤ人にカトリックへの改宗を迫った。
しかし、カトリックへの改宗者に、ユダヤ教やイスラム教の信仰を密かに続ける者がいたことから、異端審問が始まった。これは異教に寛容なイスラム教との大きな違いだった。残酷な拷問や処刑で知られるスペイン異端審問は、反対勢力の弾圧や資産没収などが目的だったようだが、これを機に宗教的な均質化が進むことになった。
ポルトガル王国の誕生
こうした複雑なイベリア半島の歴史のなかで、1143年にポルトガル王国が誕生した。“ポルトガル”という名称は、“カレの港”を意味するラテン語の“ポルトゥス・カレ”に由来する。“ポルトゥス”は英語の“ポート”と同じであり、港の意味。カレの港は現在のポルトガル第二の都市“ポルト”に相当する。
“カレの港”であるポルトは、イスラム教勢力に占領され、その奪還を目指すアストゥリアス王国は、866年に現在のポルトガル北部に“ポルトゥカーレ伯領”を設置した。ポルトゥカーレ伯領はガリシア王国の南部に相当する。
スペインの北西端に位置するガリシア州とポルトゥカーレ伯領は、いずれもガリシア王国の版図に含まれ、一つの文化圏だった。このため、スペインのガリシア州で話されるガリシア語は、ポルトガル語に近い。
ガリシア州は複雑な海岸線で知られ、多くの入り江(リア)があることから、“リアス海岸”の語源となった。この連載ではリアス海岸やフィヨルドなどの複雑な海岸線が“航海の民”を生んだと何度か紹介したが、それはガリシア州でも同様だった。ガリシア州は漁業が盛んなことで知られる。
ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、レオン王国を継承したカスティーリャ王国に臣従していたが、1128年に反旗を翻す。ポルトゥカーレ“公爵”を名乗り、独立を推進した。
アフォンソ1世の像 アフォンソは1139年にイスラム勢力のムラービト朝に勝利し、“ポルトガル王”のアフォンソ1世を自称した。1143年にローマ教皇の仲介で、アフォンソ1世はカスティーリャ王国と和平条約を締結。正式にポルトガル王国の独立が承認された。
アフォンソ1世紀は第二回十字軍の力を借り、1147年にタイファ諸国の一つであるバダホス王国から、現在の首都であるリスボンを奪還。1249年にイベリア半島の南部もイスラム勢力から取り戻し、ポルトガル王国の領土が確定した。
これによりポルトガル王国のレコンキスタは、スペイン王国より2世紀半も早く完了した。1297年にはカスティーリャ王国との国境条約を締結。それは今日に至るまで続いており、ポルトガルとスペインの境界は“欧州最古の国境線”と呼ばれる。
ポルトガル王国の海外進出
リアス海岸で有名なガリシア地方を起源とするポルトガル王国は、航海技術に優れていた。14世紀の初頭は、“カレの港”であるポルトや良港に恵まれたリスボンを中心に、イングランド王国など北海地域との貿易を推進。しかし、地中海のイタリア商人に押され、北海地域との貿易は縮小した。
一方、ポルトガル王国はイスラム教勢力との貿易を禁止したが、実際には密貿易が活発だった。イスラム諸国の金貨や銀貨がポルトガル王国で流通していたという。
ジョアン1世の肖像画 14世紀の半ばに黒死病(ペスト)がポルトガル王国でも流行すると、総人口の3分の1が失われ、国内は不安定化した。1380年代に入ると、王位継承問題をめぐる内戦が勃発し、そこにカスティーリャ王国も介入。王室の血を引くジョアン1世がカスティーリャ王国の侵攻を退け、1385年に即位した。こうしてアヴィス朝ポルトガル王国が始まった。
新たなポルトガル王国は、カスティーリャ王国に対抗するため、1387年にイングランド王国とウィンザー条約を締結。これは“現存する世界最古の軍事同盟”と呼ばれ、今日でも両国の関係に影響を及ぼしている。
エンリケ航海王子の肖像画 当時の国際情勢を見わたせば、ポルトガル王国が勢力を拡大するには、ジブラルタル海峡を越え、アフリカに南進するほかなかった。ジョアン1世は1415年に王子のエンリケとともに、北アフリカのセウタを占領。黄金や香辛料を扱うイスラム商人の貿易を垣間見た。
イスラム商人を介することなく、黄金や香辛料を手に入れることを目論んだエンリケは、西アフリカ沿岸への探検航海を支援することに情熱を燃やした。伝説によると、エンリケはポルトガルの南部に航海術や地図作成の学校を創設したという。エンリケは1460年に死去したが、それまでにポルトガル王国は現在のシエラレオネに至るまでのアフリカ沿岸を踏破した。
大航海時代とポルトガル海上帝国
1375年に作成されたカタロニア地図(複製)の西半分
アフリカの中央付近に、金塊を持つマンサ・ムーサの姿
マリ帝国の皇帝マンサ・ムーサは、人類史上最高の資産を保有
アフリカ奥地の富は、エンリケ航海王子を魅了した
大航海時代とポルトガル海上帝国の始まりは、1415年のセウタ占領と言われる。エンリケの死去から28年後の1488年、バルトロメウ・ディアスが欧州人として初めてアフリカ南端の喜望峰に到達した。その10年後の1498年はヴァスコ・ダ・ガマがインド西南沿岸の貿易都市カリカット(現在のコーリコード)に到達し、インド航路を発見。香辛料をポルトガル王国に持ち帰った。
インド洋には15世紀の初頭に明王朝の鄭和が率いる大艦隊が到来したが、覇権を唱えるまでには至らなかった。しかし、ポルトガル王国は軍事力でインド洋の覇権を握り、インド諸王国との直接貿易を実現することになる。
このポルトガル王国のインド洋進出は、伝統的な欧州とアジアの交易ルートを覆す出来事だった。それまでのインドの物産は、北イタリアの商業都市による東方貿易(レヴァント貿易)によって欧州にもたらされていた。
東方貿易の恩恵が少なかったポルトガル王国だったが、インドとの直接貿易が実現したことで、膨大な富と海外領土を獲得。これに他の欧州各国が続き、貿易圏の拡大と植民地の獲得競争が始まった。
ポルトガルのアジア侵略
カンティノ図(1502年)
ポルトガル王国の地理的発見を示す世界地図
東洋はインド以東が不明確
アフォンソ・デ・アルブケルケ
(1453~1515年)
ポルトガル人はアジア支配を目論んだ。1506年に二代目の“インド提督”として、アフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガル王国を出航。アルブケルケは1510年1月にインド西南沿岸に到着し、カリカットの武力制圧を試みたが、失敗に終わった。
そこでカリカットの北に位置するビジャープル王国の貿易都市ゴアに狙いを変え、この年の12月までに占領。こうしてゴアはインドにおけるポルトガル王国の拠点となった。
アルブケルケは1511年にマレー半島の南端を支配していたマラッカ王国の占領にも成功。ここを東南アジアにおけるポルトガル王国の拠点とした。ポルトガル王国の艦隊が中国に到着するのは時間の問題だった。
ポルトガル王国のキャラック船
大砲の火力で、上陸部隊を支援した
ポルトガル人の中国到達
1513年にアルブケルケはジョルジ・アルヴァレスが率いる艦隊を中国に派遣。アルヴァレスは広東省の珠江デルタに到着し、上陸と貿易を求めた。だが、明王朝は外国との貿易を禁じる“海禁政策”を基本としていたことから、ポルトガル人の要求を認めなかった。
アルヴァレスが上陸を希望した場所は、“タマン”と呼ばれた。おそらく現在の香港の“屯門”(広東語:トゥンムン)を指すとみられ、珠江の河口東岸に位置する。アルヴァレスは明王朝に要求を拒絶されたものの、タマンへの上陸を強行し、貿易拠点の整備を始めた。アルヴァレスは中国との貿易を求めた初の欧州人と呼ばれる。
1517年にはフェルナン・ピレス・デ・アンドラーデが、タマンに派遣された。アンドラーデは中国の人々に“仏朗機”と呼ばれた。これは“フランキ”の音訳とみられる。
マカオのジョルジ・アルヴァレス像
1954年に区華利前地休憩区に建立
ゲルマン人のフランク族にちなみ、当時のイスラム教徒は欧州人を“フランキ”と呼んでおり、その当て字が“仏朗機”だった。中国の標準語である普通話で“ファーランジー”という。明王朝の官僚たちは、ポルトガル人を“仏朗機人”と呼ぶようになった。
アンドラーデに同行していたトメ・ピレスという人物は、ポルトガル王国の使者だった。1520年にピレスは明王朝第十一代皇帝の正徳帝に謁見することに成功。明王朝との貿易関係構築に向けて前進したかに思われたが、逆風が吹き始めた。
ポルトガル人の評判
この連載の第五十六回でも触れたように、ポルトガル王国が占領したマラッカ王国には、15世紀初頭に明王朝の大艦隊が到来していた。当時のマラッカ王国は、初代国王であるパラメスワラの統治下にあった。彼はスマトラ島南部のパレンバンにいたシュリーヴィジャヤ王国の王子で、戦乱を避けてマレー半島に逃れ、マラッカ王国を建国したと伝わる。
パラメスワラの建国には、シュリーヴィジャヤ王国や海上民からの支援があったほか、すでに東南アジアに進出していた中国人の協力もあったとみられる。そうしたこともあってか、パラメスワラは明王朝への朝貢に積極的で、1405年に使者を中国へ派遣。これに喜んだ明王朝第三代皇帝の永楽帝は、パラメスワラをマラッカ王として認めた。
1411年にパラメスワラは家族や家臣とともに明王朝の宮廷を訪問。その後の歴代マラッカ王も、自ら中国を訪れた。このようにマラッカ王国は、明王朝に忠実な朝貢国だった。
ポルトガル王国による侵略を受けたマラッカ王は、明王朝に助けを求めた。また、東南アジアの中国人からも、ポルトガル王国によるマラッカ王国占領の実態が伝わり、明王朝のポルトガル人に対する態度は硬化した。
また、アンドラーデには“シモン”という弟がいたが、悪名の高い人物だった。明王朝の役人に暴力を振るうばかりでなく、子どもを誘拐し、奴隷としてインドに売り飛ばしていた。
そうした話も明王朝の朝廷に届き、官僚たちはポルトガル人を警戒した。しかし、正徳帝はポルトガル人を気に入り、官僚たちも表立って批判することができなかった。
正徳帝の異常性
明王朝第十一代皇帝の正徳帝 1505年に14歳で即位した正徳帝は政治に興味がなく、淫楽の限りを尽くした皇帝として知られる。紫禁城の一角に“豹房”と呼ばれる別宮を建設し、そこに全国から美女を集めたほか、美少年にも触手を伸ばしたという。
正徳帝が豹房で放蕩三昧の生活を送ることで、劉瑾を筆頭とする八人の宦官が権勢を振るうようになった。この八人の宦官は“八虎”と呼ばれ、政務を牛耳り、収賄による蓄財に励んだ。また、正徳帝は軍人の江彬を義理の息子として寵愛。江彬は正徳帝の手足となって働き、民間から美女を集めては、豹房に送り込んだ。
正徳帝は好色なだけではなく、幼少期から聡明であり、特に異文化への関心が強い皇帝でもあった。イスラム教やチベット仏教など外国の宗教を学ぶため、遠方から高僧を宮廷に招き、教えを請うた。
また、正徳帝は外国語への興味が強く、モンゴル語、チベット語、ペルシャ語などを熱心に学んだ。外国語ができる人物は、正徳帝のお気に入りになる可能性が高く、それを江彬も心得ていた。
江彬が豹房に送り込んだ“馬姫”という女性は、ゴビ砂漠の西方から来た回族であり、さまざまな言語に通じていたことから、正徳帝の寵姫となった。馬姫は豹房に入った時、すでに妊娠していたが、正徳帝は意に介さなかったという。
正徳帝は政治に関心がなかったが、無能ではなかった。1513年に長江南岸の江南地域で税制改革を推進した。税源を広げるため、対外貿易の改革も進めた。1517年には江彬の勧めでモンゴルに親征し、大勝利を収めた。このように正徳帝は後世の評価が分かれる皇帝だった。
寧王の反乱
明王朝初代皇帝の洪武帝 正徳帝の時代、現在の江西省南昌市は寧王の支配地だった。歴代の寧王は、皇室に恨みを抱いていた。
明王朝は1368年に農民出身の朱元璋が打ち建てた王朝。洪武帝として即位した朱元璋は、応天府(現在の江蘇省南京市)を帝都に定め、子どもたちを王として各地に封じた。1398年に洪武帝が崩御すると、その孫が第二代皇帝の建文帝として即位した。
建文帝は大臣たちの意見を採用し、皇帝の権力基盤を固めるため、おじたちが支配する各地の王国を削減。周王、斉王、代王は庶民に身分を落とされ、湘王は焼身自殺に追い込まれた。これに危機感を抱いた燕王は1399年に決起。本拠地の燕京(現在の北京市)から南の応天府に向け、進撃を始めた。この内戦を“靖難の変”という。
1402年に燕王は帝都の応天府を陥落させた。建文帝は行方不明となり、歴史から姿を消した。こうして燕王が皇帝として即位し、第三代皇帝の永楽帝となった。永楽帝は建文帝を支えた大臣たちを粛清した一方、庶民に落とされた諸王の身分を回復した。
明王朝第三代皇帝の永楽帝 こうしたなか靖難の変で永楽帝に味方した寧王は、僻地の南昌に転封されることになった。永楽帝は靖難の変に際し、寧王に“ともに天下を分け合おう”と約束していたが、それは反故にされた。この裏切りの背景には、皇帝権力の強化があったとみられる。永楽帝は1421年に本拠地の燕京へ帝都を移し、ここを“順天府”に改めた。この遷都も皇帝の権力強化が急務だったことを伺わせる。
歴代の寧王が皇室に恨みを抱いた原因は、僻地への転封だった。その恨みは五代目の寧王にも受け継がれた。寧王は帝位を簒奪する計画を進め、1517年にはポルトガル人が使う仏朗機銃(フランキ砲)の密造を開始。1519年7月に寧王は決起し、副都の応天府に向けて進軍した。
明王朝時代の青銅製フランキ砲 ポルトガル人は1513年ごろから珠江の河口東岸に位置するタマンに拠点を築き、フランキ砲も配備していた。寧王が密造したフランキ砲は、それを模倣したものとみられる。なお、日本では大友宗麟が1576年にポルトガル人宣教師からフランキ砲を輸入したと言われ、その威力から“国崩し”と呼ばれた。中国ではそれよりも60年ほど前に、フランキ砲の製造が始まっていたことになる。
この寧王の反乱を鎮圧したのは、“陽明学”の祖として知られる王守仁(王陽明)だった。王守仁らの活躍で、寧王は生け捕りにされ、反乱はわずか43日間で平定された。だが、勝利の報告が帝都の順天府に届くには日数を要した。
寧王の乱を平定した王守仁
陽明学の開祖として知られる
正徳帝は寧王の反乱を聞くと、親征を決意。自ら軍を率い、南下を始めた。進軍からほどなくして、反乱鎮圧の報告が届いたが、戦意に燃える正徳帝は、構わず南進を続けた。佞臣の江彬などは、寧王をわざと逃がし、正徳帝に生け捕りさせるように勧めたという。
正徳帝はのんびり進軍し、副都の応天府に到着したのは、出発から4カ月後だった。ここで正徳帝は1年近くを過ごした。
ポルトガル人と正徳帝
トメ・ピレス
マカオの切手に描かれた
ポルトガル王国の使者であるピレスは、1520年に副都の応天府で正徳帝に謁見したとみられる。異文化や外国語への関心が強い正徳帝は、帝都の順天府で再び謁見することを約束。それは1521年1月に実現した。
ピレスには“火者阿三”と呼ばれる通訳が従っていた。彼はマラッカにいた中国人で、“火者”とは去勢した奴隷を意味する。“阿三”とは正式な名前ではなく、身分が低いゆえに、そう呼ばれたとみられる。
上海租界のインド人警察官
シク教徒であり、赤いターバンを巻いていた
上海人は“紅頭阿三”と呼んだ
ちなみに、上海租界ではインド人の警察官が、“紅頭阿三”(上海語:オンドゥアッセ)と呼ばれた。“紅頭”は赤いターバンを意味する。“阿三”については“Yes Sir”や“I see”という上官への返事に由来すると言われるが、上海語で“三”は侮蔑する言葉につけられることが多い。例えば、頭が悪い人を意味する“猪頭三”(上海語:ヅードゥセ)などがある。“火者阿三”も侮蔑の意味が強い名前と言えるだろう。
この火者阿三を通じ、ピレスは佞臣の江彬に接近。ポルトガル語を話す火者阿三を正徳帝は大変気に入った。正徳帝のお気に入りとなった火者阿三は、しだいに増長するようになり、大臣に無礼を働くようになる。そこで火者阿三に鞭打ったが、江彬は大臣を叱りつけ、正徳帝に訴えた。ほかの大臣たちが情状酌量を求め、この事件は“お咎めなし”となったが、火者阿三と江彬は、ますます宮廷内での恨みを買った。
屯門の海戦
火者阿三を正徳帝のもとへ送り込んだことで、ピレスの目論見は成功するかに見えたが、思わぬ事態が起きた。1521年4月に正徳帝が皇太子も立てぬまま、29歳という若さで崩御。正徳帝の母である慈寿皇太后は、即座に佞臣の江彬を捕らえ、処刑した。火者阿三は投獄され、そこで死亡した。
子がいなかった正徳帝の後を継いだのは、第九代皇帝である成化帝の孫にあたる嘉靖帝だった。1521年5月に即位した第十二代皇帝の嘉靖帝は、まだ13歳にすぎなかった。
年少の嘉靖帝を取り巻く大臣たちは、正徳帝という後ろ盾がいなくなったポルトガル人の駆逐を決定。1521年8月に名将の汪鋐をポルトガル人が占領しているタマンに派遣した。汪鋐は海賊集団である倭寇の討伐で名を馳せており、海戦に長けていた。
汪鋐はポルトガル人にタマンから退去するよう勧告したが、それは予想通りに無視された。タマンのポルトガル人は1,000人あまりとみられ、汪鋐の軍の4分の1程度にすぎなかった。しかし、ポルトガル人は武装船を有しているほか、フランキ砲も備えていた。
勧告が無視されたことで、汪鋐は武力行使を決定。自ら明軍を率いてタマンへの攻撃を試みたが、そこに2隻のポルトガル船が来援。明軍はフランキ砲による艦砲射撃を受け、初戦に敗れた。
汪鋐は明軍を再編し、火攻めを採用。漁船を含め、50隻あまりを準備した。油と藁を積んだ小舟に火を着け、ポルトガル船に突進。図体の大きなポルトガル船は回避できず、たちまち炎上した。さらに汪鋐は潜水部隊を使い、ポルトガル船の底に穴を開け、沈没させた。大混乱となったポルトガル船を明軍が強襲し、タマンのポルトガル人は残った船で逃亡するほかなかった。
この“屯門の海戦”に際し、汪鋐は情報収集に力を入れた。ポルトガル船に中国人の水夫がいることを知り、そこから造船、火薬製造、大砲鋳造などの概要を聞き出した。戦いに勝利した後は、鹵獲したフランキ砲やガレー船を研究し、模倣することに成功したという。
茜草湾の戦い
屯門の海戦を再現した展示
深圳博物館
“屯門の海戦”に敗北したポルトガル人だったが、中国での拠点構築を諦めなかった。1523年に現在の香港のランタオ島(大嶼山)に、ポルトガル王国の艦隊が出現した。艦隊を率いていたマルティン・アフォンソ・デ・メロ・コウチーニョは慎重な人物で、軍事衝突を避けつつ、明王朝との貿易を求めたが、それは即座に拒絶された。
すでにポルトガル人を討伐する命令が下されていたことから、明軍はコウチーニョの艦隊を追撃。屯門の海戦で勝利した明軍は、すでにフランキ砲とガレー船の配備に成功しており、コウチーニョの艦隊に大勝利した。
この戦いは“茜草湾の戦い”と呼ばれ、ランタオ島の北西に位置する紅粉海岸の近くで起きたと言われる。明軍はコウチーニョなど42人を捕虜とし、軍艦、マスケット銃、フランキ砲などを鹵獲。ポルトガル人35人が戦死した。なお、捕虜は全員処刑されたという。
なお、正徳帝に謁見したピレスは、1521年に捕らえられた。彼をめぐっては、1524年に広東省の広州で獄死したという説と1540年に江蘇省で死亡したという説がある。いずれにしても、故国から遠く離れた中国で、波乱の生涯を閉じたようだ。
欧米諸国は19世紀に中国を侵略し始めたが、その一方で“眠れる獅子”を起こさぬよう配慮していた。広大な中国の底力を恐れたからだ。そうした“眠れる獅子”のイメージが生まれた背景には、“屯門の海戦”や“茜草湾の戦い”で、明王朝がポルトガル人を打ち破ったという記憶があるのかも知れない。
1840年に英国がアヘン戦争を起こすまで、欧州諸国が中国と武力衝突することはなかった。約300年間にわたり中国が欧州諸国による侵略を免れたことを考えると、明王朝がポルトガル艦隊を打ち破った功績は大きかった。
密貿易ネットワークとポルトガル人
屯門の海戦と茜草湾の戦いに敗れたポルトガル人は、明王朝への貿易を要求せず、軍事衝突も避けるようになった。だが、東アジアへの関心がなくなったわけではない。ポルトガル人は広東省を避け、浙江省の寧波や舟山群島、古くから国際貿易港だった福建省の泉州などに出没し、密貿易を始めるようになった。
特に大きな拠点となったのが、寧波の沖合にある舟山群島の六横島。この島の双嶼港は、少なくとも1524年には海賊集団の根拠地となっていた。
この連載の第五十四回でも触れたが、双嶼港のすぐ近くに位置する寧波は、古代から海上交易の拠点だった。日本との関わりも深く、遣唐使は寧波を目指して出航した。明王朝の時代になると、寧波は日明貿易(勘合貿易)が許された唯一の港となった。
1523年には勘合貿易をめぐる“寧波の乱”が起きた。これは勘合貿易の利権をめぐる大内氏と細川氏の争い。寧波の港で大内氏が細川氏の遣明船を焼き払い、さらに収賄した明王朝の役人を殺害した外交事件だった。海賊の根拠地だった双嶼港の名が歴史に現れたのは、寧波の乱の翌年。この事件の影響で、双嶼港の密輸品が過剰になったという記録が残っている。
この連載の第五十六回では、リアス海岸が発達した福建省沿海に暮らす閩民系の人々を紹介した。閩民系の人々は“海のシルクロード”の担い手であると同時に、“閩南海商”と呼ばれる海賊集団でもあった。明王朝の時代に、閩民系の人々は東南アジアに大規模に進出。東南アジアと中国を跨ぐ密貿易ネットワークを築いた。
1539年に閩民系の海賊は、マレー半島の商人を双嶼港に手引きするようになる。双嶼港は密貿易ネットワークの重要拠点となり、やがてポルトガル人も姿を見せるようになった。ポルトガル人は双嶼港に住宅、教会、病院などを建設。少なくとも数百人は、ここで暮らしていたようだ。ポルトガル人は寧波(ニンポー)にちなみ、双嶼港を“リャンポー”と呼んだ。
王直と松浦党
この双嶼港を拠点とする密貿易ネットワークに、“倭寇”の頭目だった王直が加わった。徽州(現在の安徽省黄山市)出身の王直は、1540年ごろに広東省にわたり、日本、東南アジア、ポルトガル王国などとの密貿易を始めた。
この連載の第五十四回でも触れたが、明王朝の時代になると、各地の“商幇”が発展した。商幇とは地縁で結びついた中国各地の商人集団を意味し、なかでも徽州の“徽商幇”は一二を争うほど有名で、高校世界史の授業では“新安商人”(徽州商人)の呼び名で教わる。
徽州は貧しい山地であり、農業だけでは食い扶持を養うことができず、明王朝の時代になると、商業が発展。徽州人は全国的な商業ネットワークを築き、広東省や福建省に渡った者は、密貿易にも従事していた。王直もそうした徽州人の一人であり、最初は同郷の許棟を頭目とする海賊集団に加わっていた。
双嶼港を根拠地として活動した許棟の海賊集団は、ポルトガル人とも商売するようになった。やがて許棟が明軍に討伐されると、王直は自ら海賊集団を組織。東アジア随一の海賊集団に成長した。王直は中国人だが、その海賊集団も倭寇に分類される。
倭寇と呼ばれる海賊集団の歴史は、“前期倭寇”と“後期倭寇”に分けられる。前期倭寇は日本人が中心の海賊集団で、14世紀ごろに北部九州を中心に、朝鮮半島や黄海の沿岸で活動した。後期倭寇は閩民系の中国人を中心とした海賊集団で、16世紀ごろから東シナ海や南シナ海を中心に活動した。王直は後期倭寇に該当する。
いずれの倭寇も日本人や中国人だけではなく、朝鮮半島や東南アジア、さらに欧州の出身者すら内包する海賊集団だった。倭寇は民族や国家の垣根を越えた連帯集団だったとも言えるだろう。これを背景に、倭寇の起源だった日本の“松浦党”は、古くから密貿易ネットワークと深い関連があり、外国人との交流も盛んだった。
松浦党を戦国大名にのし上げた松浦隆信は、王直との親交が厚かった。王直は松浦隆信の招きを受け、1542年に肥前の平戸に逃れてからは、ここを拠点に密貿易を展開していた。
平戸松浦氏二十五代当主の松浦隆信
息子の鎮信は平戸藩の初代藩主に
この連載の第五十六回でも紹介したが、九州北西の松浦地方はリアス海岸が発達した地域であり、松浦党の故郷だ。松浦党とは別名“松浦四十八党”とも呼ばれる武士団の連合であり、平安時代後期の11~12世紀に肥前を治めた嵯峨源氏の渡辺久(松浦久)を祖とする。
なお、松浦久の曽祖父に当たる源綱(渡辺綱)は、摂津国の渡辺津に集まり、“渡辺党”と呼ばれる武士団を形成。瀬戸内海の水軍を統べる存在となった。こうしたことから、松浦党は渡辺党の分派とも言え、やはり水軍で名を馳せた。
ポルトガル人と日本人の接触
双嶼港が繁栄していた1543年8月、日本の大隅国に属する種子島に、1隻の外国船が漂着した。日本側の記録によると、漂着船を発見した地元民は、100人あまりの乗船者と会話を試みたが、誰とも言葉が通じなかった。
長崎県平戸市に建立された王直の銅像 しかし、乗船者の中に“五峯”という中国人がおり、彼との筆談を通じ、これが“南蛮”が乗った商船であることが判明。島主の種子島時堯は火縄銃2丁を購入した。いわゆる鉄砲伝来のエピソードだ。乗船していた南蛮は、ポルトガル人だった。
なお、乗船者の“五峯”という名は、平戸を拠点に活動していた王直の号(別名)であり、彼本人だった可能性もある。
一方、ポルトガルの記録によると、この漂着船は中国のジャンク船であり、タイのアユタヤ王朝を出航。乗船していたのはポルトガル船からの脱走者などで、双嶼港に向かっていたが、嵐に遭い、種子島に漂着。伝説の“ジパング”を発見したと記している。また、この出来事が起きたのは、1542年であると記録している。
このほか、“ホラ吹き”として有名なフェルナン・メンデス・ピントの記録によると、彼は航海の途中で嵐に遭遇し、日本の“タノシマ”に漂着。欧州人として初めて日本に入り、火縄銃を伝えたと主張している。この出来事は1544年だったと示唆している。
中高生が“銃、御予算で作ります”の語呂合わせで覚える1543年の鉄砲伝来だが、実はそれほど確かな情報ではない。いずれにせよ、鉄砲伝来のエピソードが1540年代の初頭に起きたのは確かなようで、これにより日本の位置がポルトガル人に知られることになった。
東アジアのリングワ・フランカ
漢字文化圏の各地域
それぞれの言語で“漢字文化圏”の概念を表現
種子島の日本人は、中国人の五峯と筆談することによって、漂着船の事情を知った。筆談に使った言語は、中国語の書き言葉である“文言”。いわゆる“漢文”だ。漢文は中国人にとっても、“話し言葉”から乖離しており、一定の教養がなければ、読み書きできない。
しかし、漢文は書物を通じ、日本、朝鮮半島、琉球諸島、ベトナムなどに普及しており、東アジアの外交や貿易で使われる“リングワ・フランカ”(共通語)だった。ちょうど欧州におけるラテン語のような役割を果たしていた。
ただ、簡単な中国の話し言葉は、日本にも普及したようだ。アニメの「一休さん」で有名な“そもさん!せっぱ!”という掛け声は、“什麼生!説破!”という宋王朝の時代の話し言葉だ。その意味については、“どうだ、答えられるかな!答えてやる!”という説明が多いが、“何を言おうかな!言いなさいよ!”の方が、本来の意味に近いと思う。
漢文に使う漢字は表意文字であり、ラテン語のような難しい活用規則を覚える必要もない。漢字の発音を無視しても、その意味さえ知って入れば、筆談による意思疎通は容易だった。しかし、教養がなければ、おかしな文章になる。
例えば、旧日本軍のある部隊が中国戦線に投入された際、士気を高めるため、“敵を見れば、必ずやぶる”という意味を込めて、鉢巻きに“見敵必敗”と書いたという話がある。それを見た中国の人々は、笑いをこらえたという。なぜなら、これは“敵に遭えば、必ず負ける”という意味だからだ。
また、水を求める日本の軍人が、“水をくれ”という意味で、“呉水”と書いた紙を中国人に見せたという話もある。昔の日本では“~してくれたまえ”という表現に、“~して呉れ給へ”という漢字を当てた。だが、これは日本独自の漢字使用であり、中国では通じない。中国人にとって“呉水”とは、“上海など呉地域の河川”という意味でしかない。
啓蒙思想家の西周
多くの西洋語から和製漢語を創出
獨協中学校・高等学校の初代校長
漢文は長期にわたり日本の知識人にとって必須の教養であり、公用語だった。戦前の仮名交じりの文章にも、漢文訓読的な文体が使われるなど、その影響は大きかった。現代では学校の授業以外で漢文を使う機会は少ないが、“携帯電話”など漢字を使った造語は多い。
幕末から明治にかけ、西周(にしあまね)や福沢諭吉などが西洋の知識を普及させるため、数多くの“和製漢語”を作った。例えば、“科学”や“哲学”なども、当時の造語だ。この時期の造語は、中国にも伝わり、“共産主義”もその一例だ。今日ではあまり目立たないが、漢文のリングワ・フランカとしての機能は、いまも息づいている。
中国の通貨圏にあった日本
永楽通宝
日本で広く流通した
種子島にポルトガル人が漂着した当時の日本には、独自の貨幣がなかった。例えば、織田信長の旗印に描かれた貨幣は、明王朝の“永楽通宝”だ。当時の日本は中国の貨幣が普及しており、現代に置き換えれば、“日本で人民元が流通しているような状況”だった。
乾元大宝
最後の皇朝十二銭
古代の日本でも独自の貨幣を発行する試みがあった。708年発行の“和同開珎”から958年発行の“乾元大宝”に至るまで、“皇朝十二銭”と呼ばれる12種類の銅銭を鋳造したことがあったものの、あまり普及しなかった。銅含有率の低下とともに、貨幣としての価値もなくなり、人々の信用を得ることができなかったからだ。乾元大宝の発行が963年に終了すると、日本経済は米や絹など“物品貨幣”が中心となった。
平安時代の末期になると、商品取引が活発となり、“金属貨幣”への需要も高まった。やがて博多を中心とした宋王朝との貿易にともない、いわゆる“宋銭”が日本に流入するようになる。中国との貿易において、貨幣は日本にとって重要な輸入品となり、元王朝の“元銭”、明王朝の“明銭”などが、日本で流通した。このうち最も多く流通したのが“永楽通宝”であり、織田家の旗印にも描かれた。
日本が独自貨幣の鋳造を再開したのは、江戸時代の1608年。“永楽通宝”の流通が禁止され、“慶長通宝”が発行された。ただ、その鋳造や流通をめぐっては、多くの説がある。また、この時点では京都を中心に、“京銭”(きんせん)と呼ばれた“鐚銭”(びた)が流通していた。
永楽通宝を模倣した鐚銭
永楽通宝から型を取って鋳造
本物との差は一目瞭然
1636年に鋳造された寛永通宝
今日でも“ビタ一文まけない”という言葉に残る“鐚銭”とは、粗悪な“私鋳銭”を意味する。私鋳銭とは中国や日本などで民間が勝手に鋳造した貨幣。粗悪な貨幣だったことから、 “慶長通宝”が発行された時点で、“京銭”(鐚銭)の価値は“永楽通宝”の4分の1だった。
統一的な日本の独自貨幣が誕生したのは、“寛永通宝”の鋳造が始まった1636年になってからだった。
織田信長の旗印
琉球王国の国際貿易
鉄砲伝来は嵐という“偶然”による出来事だったが、当時の東シナ海情勢を考えれば、ポルトガル人が日本に到着するのは時間の問題であり、“必然”だった。九州大学で教鞭を執る中島楽章氏の説によると、ポルトガル人を乗せたジャンク船は、鉄砲伝来よりも早い1542年に、琉球王国に漂着していたという。当時のアジア情勢を考えれば、あり得る話だ。
当時は琉球王国の人々も、国際貿易の主要な担い手だった。そこで、ポルトガル人も関心を示していた琉球王国について紹介する。
首里城の玉座
清王朝の康熙帝から下賜され“中山世土”の扁額
琉球国は“中山”が代々治める土地という意味
“扁額の日付は康熙二十一年秋八月”(1682年)
沖縄本島は14~15世紀にかけて、中山、北山、南山という三つの王国が鼎立する“三山時代”だった。中山王国の尚巴志王は、1429年に沖縄本島を初めて統一。琉球王国が誕生した。
琉球王国の母体となった中山王国は、14世紀の後半に明王朝の冊封体制に入っていた。“琉球国中山王”の王号のほか、明王朝との冊封関係や朝貢貿易も、琉球王国に引き継がれた。琉球王国では明王朝や清王朝の元号を使用し、それは1879年の“琉球処分”(琉球併合)まで続いた。
第二尚氏王統始祖の尚円王 1469年に尚徳王が崩御すると、前王の重臣だった金丸が王位に就き、尚円王を名乗った。この王統交代劇はクーデターだったというのが有力な説となっている。この尚円王に始まる王統は“第二尚氏”と呼ばれ、沖縄県が設置された1879年まで続いた。
明王朝が海禁政策を続けるなかで、朝貢貿易の対象国だった琉球王国は、合法的な貿易ができる数少ない国であり、中国とアジア諸国を結ぶ中継貿易の拠点として発展した。第二尚氏が始まったばかりの1472年には、福建省福州市に朝貢貿易の拠点である“進貢工柔遠駅”が建てられ、ここは“琉球館”と呼ばれた。福州市の琉球館も琉球王国が滅亡するまで続いた。
現在の“進貢工柔遠駅”(琉球館) 福建省を中心とした中国東南の沿海地域と琉球王国は、文化的な面でも結びつきが強かった。沖縄県に見られる“亀甲墓”は、福建省や広東省でみられる“亀殻墓”に酷似している。
沖縄県の亀甲墓(カーミナクーバカ) 福建省泉州市の亀殻墓
琉球王国は中継貿易の拠点として栄え、琉球人の活動領域は東南アジアにも広がっていた。正徳帝への謁見に成功したピレスは、1515年ごろまでに書き上げた「東方諸国記」という書物を残しており、東南アジアの情報を詳細に記録していた。このなかで紹介している“レケオス”という人々は、琉球人を指すと見られ、その活動がマラッカ王国にも達していたことを示唆している。
ポルトガル人は琉球人に興味を示したが、琉球王国の貿易は発展しなかった。その理由としては、中継貿易で活躍する琉球人が、ポルトガル人にとってライバルに近い存在だったからとも考えられる。あるいは、琉球王国が明王朝の朝貢国だったことから、近づきにくかったからかも知れない。もしくは、琉球王国がマラッカ王国の惨状を聞き、ポルトガル人に警戒した可能性もあるだろう。
未開の地だった台湾
台湾最高峰“玉山”の夕焼け 琉球王国と中国大陸の間には台湾がある。台湾は南のバシー海峡を経てフィリピンのルソン諸島にも近く、地政学的な要衝と言える。台湾の面積は概ね日本の九州と同じであり、十分な広さもある。最高峰の玉山は富士山を超える3,952メートルもあり、かつては日本の領土で最も高かったことから、“新高山”(にいたかやま)とも呼ばれた。
ポルトガル人は日本の鉄砲伝来と概ね同時期に台湾を発見し、その美しさから“イーリャ・フォルモザ”(美しい島)と呼んだ。これにちなみ、台湾には現在でも英語で“フォルモサ”という美称があり、中国語でも意訳の“美麗島”や音訳の“福爾摩沙”などの別称がある。
玉山周辺に暮らすツォウ族の狩人たち(1900年) 当時の台湾は漢民族が移住しておらず、“東蕃”と呼ばれる原住民が暮らしていた。彼らは多様な民族の集まりで、東南アジア、オセアニア、マダガスカルなど広範囲に広がるオーストロネシア語族の諸言語を話す。
ポルトガル人は台湾の原住民と小規模な交易をするだけにとどまり、植民地支配までは検討しなかった。台湾は未開の地であり、目立った物産もなかったことが影響したようだ。
オランダのホールンに17世紀から残るVOCの銘板
外部勢力の台湾進出
台湾に外部勢力が本格的に進出したのは、17世紀になってからだった。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)のオランダ東インド会社(VOC)は、1622年にポルトガル人が“ペスカドーレス”(漁師の島)と呼んだ澎湖諸島を占領した。
台湾から約50キロメートル西方に位置する澎湖諸島は、モンゴル人の元王朝が中国を支配していた13世紀末に、正式に中国の版図に加わった。明王朝による澎湖諸島の統治は不安定で、ここを管理する役所は14世紀末に一旦廃止された。しかし、澎湖諸島が倭寇の根拠地となったことから、16世紀の中ごろに役所が復活していた。
VOCが澎湖諸島を占領すると、1624年に明軍との戦闘が始まった。約8カ月の戦いを経て、和議が成立。VOCは澎湖諸島を放棄し、明王朝の版図に属さない台湾に移動することになった。
台湾の南部に移動したVOCは、1624年から現在の台南で城砦の建設を開始。台湾の南部沿岸に、オランダの統治地域が広がった。台南の城砦は1632年に最初の工事が完了し、“ゼーランディア城”と呼ばれ、オランダによる台湾支配の拠点となった。
オランダが台湾南部の支配を始めると、これに対抗してフィリピンのスペイン人が、1626年に台湾北部を占領し、城砦の建設を始めた。しかし、1642年にオランダ勢力がスペイン勢力を駆逐。こうして台湾の全域がオランダの支配下に入った。
1644年に描かれたゼーランディア城
だが、オランダの台湾支配は、長く続かなかった。清王朝の打倒と明王朝の復活を目指す鄭成功が、その拠点を確保するため、1661年からゼーランディア城への攻撃を開始。1662年にゼーランディア城は陥落し、台湾のオランダ勢力は駆逐された。こうして台湾に鄭氏政権が確立された。
台湾の鄭氏政権
この連載の第五十六回でも触れたが、鄭成功の父である鄭芝竜は、後期倭寇の流れをくむ“閩南海商”と呼ばれる海賊集団の頭目であり、松浦隆信の庇護を受け、平戸で暮らしていた。鄭芝竜は平戸藩士の娘である田川マツと結婚し、1624年に鄭成功が生まれた。くしくも、オランダの台湾支配が始まった年だった。
鄭成功は1631年に父の鄭芝竜とともに福建省に渡り、中国人として育った。1644年に副都の応天府にあった最高学府の“国子監”に進学。しかし、この年の3月に李自成の反乱軍が帝都の順天府を陥落させ、第十七代皇帝の崇禎帝を自殺に追い込んだ。
これを受け、この年の5月に弘光帝が副都の応天府で即位し、南明王朝が誕生した。一方、李自成の反乱軍は、明王朝の将軍だった呉三桂と満洲族の連合軍に敗北。李自成の軍団は北京の街を略奪し、撤退した。
鄭成功の肖像画
呉三桂と満洲族の連合軍は、6月に北京に入城。こうして満洲族の清王朝による中国統治と南明王朝の討伐が始まった。1645年6月に南明王朝の応天府が陥落し、弘光帝は敗走。これを機に、この年の8月に福建省福州で鄭芝竜らの推挙によって、南明王朝の第二代皇帝として隆武帝が即位した。
鄭成功は父の鄭芝竜を通じ、隆武帝に謁見。隆武帝は鄭成功を気に入り、皇室の姓である“朱”を賜った。これにちなみ、鄭成功は“国姓爺”(こくせんや)と呼ばれた。彼の活躍は日本にも伝わり、近松門左衛門は人形浄瑠璃「国姓爺合戦」を創作した。
清軍が1646年に福州に侵攻すると、鄭芝竜と鄭成功の関係が決裂した。鄭芝竜は清王朝に降伏したが、鄭成功は抵抗運動の継続を決意。中国南部を転々としつつ、清軍と戦ったが、挽回は困難だった。そこで勢力を建て直すため、1661年の台湾攻略に至った。
1662年に始まった台湾の鄭氏政権は、1683年まで三代続いた。これは台湾で初めての漢民族による政権。明王朝の復興は実現しなかったが、これを機に未開の地だった台湾の開発と中国化が進んだ。
東南アジアの日本人
東南アジアは閩民系を中心とした中国人が移民し、密貿易ネットワークを構築していた。“華僑”という言葉で知られるように、中国人の海外進出は昔から有名だ。一方で今日の日本人にはそうしたイメージはないが、昔は違った。タイのアユタヤには1300年代の中ごろから日本人が住むようになり、徐々に日本人町が形成された。
日本人の海外移住は、前期倭寇の活動が関係したとみられる。倭寇の始まりはアユタヤに日本人が住むようになった1300年代の中ごろであり、日本の南北朝時代に当たる。松浦党の根拠地がある九州の北西地域も、南北朝時代の動乱に巻き込まれた。こうした日本国内の情勢を背景に、松浦党が海賊化し、前期倭寇になったとみられる。
前期倭寇の活動とアユタヤ日本人町の始まりが同時期だったことを考えると、東南アジアへ続く貿易ネットワークにも、すでに日本人がアクセスしていたとみられる。1467年の応仁の乱を機に、日本が戦国時代に入ると、主君を失った浪人がアユタヤ日本人町に流れるようになった。特に安土桃山時代から江戸時代にかけて、その流れは加速。アユタヤ日本人町には1,000人を超える日本人が住むようになったとみられる。
アユタヤ王朝の日本人傭兵部隊 アユタヤ日本人町に集まったのは、実戦経験が豊富な浪人たちであり、彼らはアユタヤ王朝の傭兵として活躍した。なかでも17世紀にスペイン艦隊によるタイ侵略を二度も退けた山田長政の功績が有名。このように鎖国前の日本人は、民間レベルで海外との交流が盛んであり、いわゆる“日本人らしさ”も現在とはかなり違っていたことが伺える。
イエズス会のザビエル
“以後よく広まるキリスト教”の語呂合わせの通り、1549年にイエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが来日した。ザビエルは前述のナバラ王国で、1506年に生を受けた。つまり、ザビエルはバスク人だった。
1525年にパリ大学に留学したザビエルは、ここで後のイエズス会創設メンバーたちと知り合う。ザビエルを含む7人は1534年8月15日にパリ郊外のモンマルトルの丘にあるサン・ドニ大聖堂に集まった。この日は“聖母被昇天の祝日”であり、彼ら7人は生涯を神にささげる誓いを立て、イエズス会を創設した。これを“モンマルトルの誓い”という。
イエズス会の初代総長には、ザビエルと同じバスク人のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラが就任。軍人だったロヨラは、負傷療養の生活中に、聖人伝などを読み始め、異教徒をキリスト教に改宗させるという夢を持つようになった。
イエズス会を創設した際の“モンマルトルの誓い”は、エルサレム巡礼と宣教が主な内容であり、その願いが叶わぬ場合は、「ローマ教皇が望むところなら、どこにでも行く」としており、カトリックの世界布教を目指していた。
こうした誓いを立てていたイエズス会は、当初から世界各地での宣教活動をテーマとしていた。イエズス会はポルトガル王の依頼を受け、インドのゴアに宣教師を派遣することになり、最終的にザビエルに白羽の矢が当たった。
ゴアで宣教するフランシスコ・ザビエルを描いた絵画 1540年3月にローマを出発したザビエルは、1541年4月にポルトガル王国のリスボン港を出航。1542年5月にゴアに到着すると、ここを拠点にインド各地で宣教活動を展開した。1545年には東南アジアでの活動も始めた。
ヤジロウとの出会い
1547年12月にザビエルはマラッカで“ヤジロウ”という名の日本人に会った。彼は現在の鹿児島県の出身だったようで、人を殺めてしまったことから、1546年にポルトガル船で出国した。1540年代はポルトガル人を乗せたジャンク船やポルトガル船が、何度か鹿児島県に到着しており、ヤジロウの出国もそうしたなかで起きた出来事だった。なお、ヤジロウは海賊だったと、宣教師のルイス・フロイスは記録している。
フランシスコ・ザビエル(右)とヤジロウ(左)の像
マラッカのセント・フランシス・ザビエル教会
ヤジロウは殺人の罪を悔いており、船長の導きで、宣教師のザビエルに会うことにした。この時点で、ヤジロウは意思疎通できる程度のポルトガル語を身につけていたようだ。マラッカでザビエルとの面会に成功したヤジロウは、インドのゴアに渡り、そこで1548年に洗礼を受けた。記録に残る日本人初のキリスト教徒は、このヤジロウということになる。
ヤジロウはゴアで神学やポルトガル語を学び、ザビエルの通訳として日本に帰国することになった。1549年4月にゴアを出発したザビエルとヤジロウは、マラッカで中国のジャンク船に乗り、鹿児島を目指した。鹿児島に到着したのは、この年の8月15日であり、偶然にもイエズス会が創設された“聖母被昇天の日”だった。
ヤジロウはザビエルが日本を離れると、海賊業に戻り、中国の海で殺されたという記録がある。また、宗教的迫害を受け、出国を余儀なくされ、中国近海で海賊に殺害されたという話もある。出国の動機は断定できないが、いずれにしてもヤジロウは海賊と密接なかかわりがあったようだ。
南蛮貿易とザビエル
1549年9月に薩摩の島津隆久に謁見したザビエルは、宣教活動を許可された。しかし、仏教勢力からの反対が強くなり、ザビエルは1550年8月に松浦隆信が治める平戸に渡った。
松浦隆信は前述のように王直などの海賊とも親交がある人物だった。1550年6月にポルトガル船が初めて平戸に到着。ポルトガル船を平戸に招いたのは、王直の仲介があったと言われる。これを機に、日本人とポルトガル人の“南蛮貿易”が始まった。
ザビエルが平戸を目指したのは、ポルトガル船の到着を知ったからだと推測される。どのようにザビエルが情報を入手したのかは不明だが、ヤジロウが1546年に出国できたことを考えると、ポルトガル船は記録に残るよりも、かなり頻繁に日本に来ていたのかも知れない。あるいは、ヤジロウの出自が本当に海賊だったとすれば、そのネットワークを通じ、情報を得たことも考えられる。
南蛮屏風に描かれた外国製品 平戸に着いたザビエルは、ここでわずかに宣教活動した後、京都を目指した。1551年に京都に到着したザビエルだが、天皇や将軍への謁見は叶わず、平戸に舞い戻った。平戸には献上品にふさわしい外国製品があり、これを携えてザビエルは周防の大内義隆や豊後の大友義鎮を訪問し、宣教活動の許可を得た。ザビエルの活動において、外国製品が果たした役割は大きい。
双嶼港の壊滅
南蛮屏風に描かれたポルトガルのキャラック船 ポルトガル人が求めた明王朝との貿易は叶わなかったが、日本との南蛮貿易は、拡大の様相を呈していた。だが、ザビエルが日本に到着する直前に、ポルトガル人は東アジアにおける拠点を失っていた。
前述のように、密貿易の拠点として繁栄していた双嶼港には、ポルトガル人も住むようになっていた。中国大陸に足場がなかったポルトガル人にとって、双嶼港は東アジアにおける“隠れ家”だった。
しかし、1548年に明軍が双嶼港を攻撃し、ここは徹底的に破壊された。双嶼港にいたポルトガル人も数百人が殺害されたという。双嶼港が壊滅したことで、南蛮貿易のポルトガル船は、東南アジアのマラッカから日本に航海しなければならない。東アジアにおけるポルトガル人の拠点構築が急務となった。
なお、双嶼港が壊滅した後、王直は1552年に平戸で“徽王”と名乗り、国号を“宋”とした。舟山群島の瀝港に双嶼港のような拠点を築こうと試みたが、1553年に明軍の攻撃に遭い、平戸へ敗走した。王直は明王朝の策略にはまり、1558年に帰国したところ逮捕され、翌年に処刑された。
マカオの始まり
1639年に作成されたマカオ半島の地図 双嶼港が壊滅したことで、ポルトガル人は東アジアで“根無し草”のような状態になった。こうしたなか、ポルトガル人は1550年代に明王朝から居留地を確保することに成功した。場所は珠江の河口西岸に位置する広東省香山県の“濠鏡澳”であり、かつての“タマン”の対岸に当たる。具体的な年については諸説ある。
マカオという名称については諸説あり、航海や漁業の守護神である“媽祖”を祭った“媽閣”(広東語:マーゴッ)が濠鏡澳にあり、これに由来するという説が最も有名。漢字の表記は“澳門”であり、広東語で“オウムン”、中国の標準語である普通話では“アオメン”と発音する。このほかに“濠江”などの表記も広く使われる。
ポルトガル人がマカオへの居留を許された経緯にも諸説ある。中国の記録によると、ポルトガル人が水に濡れた船荷を乾かす場所が欲しいという口実で、現地の官僚である汪柏に賄賂を贈り、1553年に現在のマカオ半島に一時的な滞在を許されたという。
一方、ポルトガルの記録では、海賊退治に協力した褒美として、1557年にマカオでの居留が認められたとある。また、1535年にマカオに関税収入があったという記録があり、これをもって、すでにポルトガル人の居留地となっていたという説もあるが、これを支持する者は少ない。
1640年に聖ポール天主堂の跡地
1835年の火災で焼失し、ファサードだけが残る
日本から避難したキリシタンも建設に参加した
ポルトガル人のマカオ居留は、1550年代に始まったと考えるのが、妥当とみられる。1557年に明王朝はマカオに役所をもうけ、税金を徴収。ポルトガル人は毎年500両の銀貨を支払い、マカオの居留権を既成事実化したという。
こうしてマカオはポルトガル人の居留地となったが、植民地ではなかった。マカオが植民地となったのは1887年であり、居留地としての歴史は300年あまりも続いた。
ともかく、マカオはポルトガル人にとって、中国大陸における唯一の居留地となった。マカオと平戸を結ぶ定期航路が開設され、この小さな居留地は南蛮貿易の重要拠点として発展した。マカオはイエズス会と協力関係を結び、日本での宣教活動の拠点としても機能。南蛮貿易の収益の一部は、日本での宣教活動の財源となった。このようにマカオの始まりは、日本と深い関わりがあった。
次回はマカオの歴史を紹介する。